第3回山梨重複障害教育研究会講演
紹介にあずかりました中島でございます。
今、樋川さんが研究紀要を読んでくれましたけど、昔そんな文章を書いたなんてすっかり忘れておりました。あの研究紀要はですね、一冊五百円で研究所で売っておりますので、よろしければお買い上げ下さい。それは冗談ですけども。
本当に久しぶりで甲府の地に来ました。私にとって甲府は大変思い出の深い地です。ちょうど今月の五日に梅津先生が突然お亡くなりになられまして、山梨盲学校で盲聾児の教育を始めて、そのお手伝いに参加した私が、こうやってここにいるということ、そのことが痛恨の思いです。どういうふうに語っていいのかわかりません。しかし、当時の盲聾教育に梅津先生だけでなくて、たくさんの人が参加しましたけど、こと学習に関しては梅津先生が何と言っても中心で、我が国の盲聾教育を切り拓かれた盲聾教育の父なのです。で、先生は大変実践的な方で、非常に几帳面な質の高い仕事を丹念に積み重ねられたのです。そういう丹念に積み重ねられたものというのは本当に揺るぎのないものであって、後の世までも必ず語り尽くされるということです。
私は、思い出といっても急にお話しできるようなことはありませんけれども、ともかく当時は甲府は非常に遠かったというのが、思い出です。東京から三時間半かかりました。会場にいらっしゃる方は、全くおわかりになりませんでしょうけれども、スイッチバックというのが三つあったんです。途中の駅の名前も今は特急なので立川、八王子、大月、甲府になっちゃうんですね。その間にある駅をたとえば上野原だとか四方津だとかとばされてしまっている。大月から今度すぐ甲府になっちゃうんですね。だから初狩とか初鹿野とか笹子というようなしゃれた名前の駅もみなさんになじみがなくなってしまったのではないでしょうか。みなさん、甲府からですね、東京まで駅の名前を全部言ってみろと言ったら言えないのではないでしょうか。ひょっとすると大月、八王子となっちゃうんじゃないでしょうか。私どもが来た時には、大変ゆっくりと一つ一つ停車したのでいつのまにか駅名を全部覚えてしまいました。その頃電化されていたのかいなかったのか、複線だったのか単線だったのか、ちょっとわかんないんですけど。ともかく笹子トンネルに入ると煤煙がひどくて、窓を閉めた思い出があるんです。だからそれから考えると、まだ汽車の時代であったのかなあっていうことなんですね。
甲府の盲学校っていうのは、駅の北口のすぐそばにあった。だから甲府の盲学校と駅は関係が深いんです。甲府の盲学校で夏合宿をしていると、夜、夜行列車が通る。それでですね、松本の方から来た列車が機関車をつけかえるらしくて汽笛がポーッとなるんです。この汽笛が鳴るのが、夜中に鳴るのが、非常に哀愁というかな、一種独特のことだったんで、今でも思い出します。当時はのんきなもので、盲学校に通行パスというのがあって、北口からこっちの平和通りまで通行パス見せると、通してくれた。顔がきく人は通行パスなんかいらない。忠男君は駅の中へ入って線路におりて貨物車にずうっと触るというようなことをしました。今だったら、駅員が飛んできてとんでもないことになるんでしょうが、その頃は、みなさんのんきな時代で、まあ気分がゆったりとしてたってことなんですね。夏は、下駄ばきで来たんです。それで、笹子トンネルに入ると眠くなっちゃうので、どうも笹子トンネルには睡魔がいるんじゃないかというようなことをさかんに話したことを覚えています。
私にとっては本当に甲府の盲学校の盲聾教育というのは印象が深いんですけれども、今いちばん印象が深いことを一つだけ言えと言われたらやっぱり成子さんが「アー」というきれいな声を発声したその瞬間なんですね。その瞬間が非常に僕にとっては印象が深いんですけれども。これは、TBSが作った『人間開発』の前半の終わりの部分に出て来るんです。ところがTBSの映画は作り物で、成子さんが「アー」ってきれいな発音した時はね、もちろん映画をとってたわけじゃないわけです。幸いなことにテープレコーダーを回してたんです。それだから成子さんが「アー」っていうきれいな声を出した時に、二つの驚きの声が入っているんです。一つが梅津先生の低い「ウオー」っていう声。それからもう一つが、僕の高い「アッ」ていう声。その二つの声が重なって入っているのです。TBSの『人間開発』の成子さんが発声したところをよく聞いてみると、直後に二つ声が入っているんですね。だから録音は実際の録音なんだけど、映像は後からとった成子さんの発声している場面をその録音へうまくはめ込んだものです。これがね、はめ込んだんだけどうまくできているんですよね。成子さんがああいうふうにして発声したんじゃないかって思うほどうまくできているんです。だからまあそういう意味では作られたっていうものではあっても、やっぱりその人が一生懸命作るとそういう感じがするんじゃないかなあとは思いますけど。
私は、やっぱり成子さんの発声を通して、今日ね、ずっと仕事が続けられたのだと思うんです。で、いったい何に感心したのかって言うと、成子さんの持っている素晴らしいね、力強い輝きなんですね。それに、感動しちゃって、そして、今日まで仕事をしてるわけです。で、そういうことを言うと、成子さんは、特別な人で、成子さんだから感動できたんじゃないかというふうに言われるかもしれませんけど、やはり、どんな子供でも、そういう意味で、大変力強い素晴らしいものを秘めている、輝いているということなんですね。そして、私たちがそれを見つけ出すというかな、その姿、本当にその人が持っている輝きに感動するということが、やっぱりとても大切なことなんじゃないかということですね。僕は、いったい何のために学習するのかとかね、学習させて何が面白いのか、無理矢理に勉強させて何が面白いのかということ、これはもう本当にそうだと思いますね。
やっぱりね、押しつけたり、無理矢理にやらせたりしたら、やらせになっちゃうわけですね。ところがその子の持っている本当の力を見せつけられたら、やっぱり私たちがそこでその人間の素晴らしさというものに、感動するわけです。そういう感動っていうものが私たちの教育の根本なんじゃないかということですね。
そういう意味で何もしなければ駄目だと思うのね。一生懸命やっぱり考えなければ駄目だ。工夫しなければ駄目だ。そしてやってみて駄目だからといって、そんな駄目なのは当たり前なんだから。そんなことにいちいち気をとられないこと。そしてやっぱり何といっても大切なのは常識的一般的な考え方にとらわれないということじゃないか。どうしても私たち自身が育って、周りの方々を見てても、人間というのはこういうふうなものなんだっていう一つの枠組みみたいなのができるんじゃないか。そしてそういう常識的な考え方というのは、自分で考えまいと思っても、もうすでにそう思っちゃう。ところが障害の重いお子さんたちというのは、そういう意味での常識的な考えにとらわれてると、その子の本当の姿が見えなくなってしまうんじゃないか、ということなんですね。
で、やっぱりそこから人間行動の成り立ちの根本的な原則みたいなものを少しずつ考えていくということが私たちのこれからの大きな仕事じゃないか。人間は立って歩く。二足歩行なんですね。二足歩行っていうのは水産大学の学生さんがレポートに書くのがすごく好きな言葉なんですよ。で、僕も二足歩行ってつい使っちゃうわけなんだけど。やっぱりね、人間は立って歩くんだというのは、一つの常識だと思うのね。しかし、一つの考え方にすぎない。まず第一になぜ人間は立って歩くようになったのか、立って歩くようになってからどういうことが起こったのか、っていうようなことを考えると、人間が立って歩くというようなことはね、これ常識を越えた大変なことなんですね。非常に簡単に見えるようなことなんだけれど、実は大変なこと。そして、われわれが、立って歩くようになるまでの経過をうんと見逃している。筋道だけを考えちゃって、本当の成り立ちの根本を見逃しているところがとてもたくさんあるんじゃないか。だから、やっぱりわかりきった当たり前だと思うようなことでも、実はもう一度新しく考え直して見逃さないで、人間行動を根本的にちゃんと考え直して見る必要があるんじゃないか。
言葉を話すということもそうですね。これも喃語からどんどんどんどんいつのまにか言葉を話すようになっちゃう。字を書くのもそうですね。だけど言葉を話すということは本来どういうことなのか、何から始まってどういうふうにして言葉を話すようになったのか、というようなことですね。まあ日常生活をするとか、道具を使うとか、学校を含めて集団生活をするとかね。あるいはものを考えるとか作り出すというようなこと。人間は万物の霊長だとか何とか言っちゃって、いちばん進化した段階だなんて言っちゃってるんだけど、人間行動がどういうふうに組み立てられてきたのかということはね、もう一度そういう一般的な常識的な考え方を捨てて、新しく考えてみる必要があるんじゃないか。
というのは、例えば障害の重いお子さんを見るのに、まず医学的な見方があって、病気だというわけですね。でその病気に対してどういうふうに治療するのかという考え方がある。それから教育心理学的な発達みたいなことを考えて、普通の子供だったらこういうふうに発達していくのにこの子はこういう発達しかしないから遅滞が起こってる。じゃあその遅滞を防ぐにはどうしたらいいかというような考え方があるわけですね。
で、その二つの考え方に、もう一つ。人間が自分でどうやって自分自身の行動を組み立てるのか、そういう人間行動の組み立てに関するその人独特のやり方みたいなものに関する考え方というのがあるんですね。この考え方がどうも非常に少ないんじゃないかということです。
だから、仰向けで寝たっきりというお子さんを見ると障害が重いということ、これはもうすぐわかるわけですね。それで、呼びかけに応じなかったり、運動をほとんど起こさなかったりするので、何もわからず何もできないんじゃないかとすぐ考えやすいわけです。けれども仰向けで寝たお子さんというのがそんな何もわからないとか何もできないということは決してないんですね。ちゃんとその子なりにその人自身の行動を組み立てているんです。ただ、どうも障害が重い、発達が遅滞している、何とか病気を治すとか、普通の人みたいに発達させたいとかという思いが非常に強く先に立ってしまう。これは当然のことだと思うんですね。そういう思いが強くなっちゃうと、やっぱりね、何でもいいから無理矢理でもいいから、普通の子供に少しでもよいから近づくように育てようということになる。だけど私たち自身でさえどうやって育ったかわかんないような状況のところで、その障害の重いお子さんが何をしてるのか、ひょっとすると私たち自身が全然わかってないんじゃないか、ということ。 だから、仰向けで寝たきりの子供の体を起こすということが本来どういうことなのかっていうことを、私たち自身はもう少しよく考え直さなければいけない。それと、人間の体の部分というのがどんな役立ち方をしているのかというようなことも考えていかないといけないんですね。
で、障害の重いお子さんといろいろかかわりを持っているうちにだんだんね、もちろん全部わかったわけじゃないのね。ほんの少しなんだけど、切り拓かれてきてるところが私なりにあるわけです。例えば人間の背中とか腰。こういうものがまさか教育の中に入るかどうかってことですね。教育する時に、目に見せる、手に持たせる、言って聞かせるとかいうようなことは教育の中に当然入ることなんです。しかし、背中とか腰みたいなものが教育の中に入るかどうかということなんですね。だけども、そういう背中とか腰みたいなところは、人間の体の部分の中で非常に重要な役目を持っているんですね。大事なところなんです。そして背中とか腰みたいなものを考えないで、ただ手だとか足だとか目だとか耳だとか口だとか、そういうところを考えても駄目なんじゃないか、ということをやっぱり近ごろつくづく感じてるわけです。そして人間の体の後ろ側というものを、私たちは、いつも子供たちとつきあう時に、深く関心を抱いたほうがいいんじゃないかと思います。
今日の二番目の発表の自傷の激しいお子さんがロッカーの中に入っちゃうのかな。そして後ろの方が非常に安定するというのをビデオでちょっと見せていただいた。完全に見てないんで見当外れのことを言うかもしれないけど、やっぱり後ろ側、腰ということを考えないと手とか目とかいうことは考えられない。そういうことを無視して手だとか目だとかやたらに考えているというのは、ちょっと話がとんじゃってるんじゃないかということですね。そうすると、背中とか腰というものが、人間行動の成り立ちにどういうふうな役立ち方をしてるのかというようなことを考えていかなきゃあいけないんですね。それで仰向けで寝たきりの子供たちを見ると、実に後ろ側というものによく反応している。大切にしている。それなのに私たちは目が前にある、手を前に出す、全部、体の前の方に外界があって反応しているということですね。後ろ見るわけじゃないし、手を後ろに回すといったって、背中をかくのがやっとですからね。後ろに歩くわけじゃない。まあ後ろに歩く競走も中にはありますけど、どうも前へ前へと行っちゃうわけです。だからね、すべて子供と向かい合って子供の前ばかり見るわけです。ところが、その子がもし、後ろを大事にしてる子だったら、やっぱり私たちはちょっと見当外れのことを考えちゃうんじゃないかという気がするんですね。
それから、口というと、食べる、呼吸をする、しゃべる、そういう感じなんですね。ですけど、初めからしゃべる子はいないんですね。やっぱりもうちょっと口というものが、ある役割を持っているんじゃないかというふうに考えると、口というものが人間行動の成り立ちの根本的なところで一つの大きな意味を持っているんじゃないか。というふうに考えると、口というものの意味が新しくなってくる。赤ちゃんが物を持つとみんな口に持っていくわけですね。ただこれを口唇期だとか、そのような簡単なことで言っていいのか。口だとか歯だとか舌だとかね、そういうものが何を感じて何を組み立てているのかっていうことを考えていかなきゃいけんいんじゃないか。口というのは手と目と非常に関係する。だから、口をこう触っている子は非常に多いですよ。口をとても大事にしているんですよ。それを、指しゃぶりはみっともないからやめさせるとかね。指しゃぶりをしてよく見る赤ちゃんというのがずいぶんいるんですね。見るために指しゃぶりをしなきゃならない状況というのは、ある時期、人間行動を組み立てる中で必ずある。その時に指しゃぶりはいけないからといってぱっと、しゃぶっている指を抜いちゃったら、目の前を手か何かでふさいで暗くしちゃったのと同じことになるということです。あの、これ話せば長いことで、みなさま方に全部話しきれないですから・・・。
きのう、美絵瑠ちゃんが研究所に来て、そして握ったものを缶の中に入れるということをやるわけ。ところが握ったら離さないわけです。よく、握った物をパーッと投げる子がいるんです。これね、握ったら、離さない、握ったら投げるというのは、結局は終わりを意味しているわけなんです。つまり、缶の中に入れなさいとか、例えばこの机の真ん中に置きなさいというのは、終わりを意味しないんですよ。パーッと投げるっていうのは終わりを意味するんです。それからいつまでも握っているのも終わりを意味している。始めもないかもしれないけど終わりもないっていう状態にしてある。それを缶の中に入れなさいというのは終わりだけを指示しているわけ。始めを示していないわけ。
で、その美絵瑠ちゃんに握ったものをちょっと口に当てて缶に手をおいたら、自分でポロッと離すわけ。それは見事なくらいきれいに離すのね。それで、口に持っていくと離す。やっぱり、出発点を決めて終点を決めないといけないんじゃないか。たったそれだけのことなんじゃないか。だけど口というのは、そういう意味でその人の出発点になりやすいんじゃないかということ。だから仮に口をつついている子がいれば出発点はわかっているけれど終点はわからないんじゃないかということが考えられるんですよ。
あのね、お話を大変よく聞いてくれてありがたいんですけど、すぐ学校へお帰りになってやってみて駄目だって言って、中島のやつ嘘ついたなって思わないでください。自分の考えがまだいたらないんだとか、やり方がへたなんだとか、そういうふうに思ってください(笑)。苦労があって、思いがけない出合いがあって、わかり合い、心が通じて感動するのです。
ともかく口っていうのが、その人自身の正面の外界の受容の原点になりやすい。非常にその点で中心化して出発点に使いやすいのです。だから、小さな赤ちゃんが口に持っていくでしょ。ただ口に持っていってんじゃないのね。しばらくするとちょっと離して見るんですよ。結局ね、口で物を触って、ちょっと離して見る。それは上手ですね。ただボーッと外界を見るのではない。手で持って、口で確かめて、その上でちょっと離して見る。やっぱりね、口を出発点にして、見ることを終点としている。口で触って確かめ、目で見て確かめる、二つの確かめの間を手でもってつないでいるわけ。本当に何気なくやってるんだけど、私たちもそうやってものを手にとって見るようになったのにちがいない。そういうふうに考えると、口もまだ私たちが考えてない人間行動の成り立ちの根本の役割を担う体の一部という気が強くするわけです。
いわんや手とか足なんていったら、全くわれわれが考えてないところなんじゃないか。手だってすぐに、手を伸ばして物をつかむ、触ると思われている。ところが、人間がいちばん先に手を出して握ったり触ったりしません。やっぱり手というのは自分の体を触るんですよ。それから、もうちょっと肘を上げたような時には、全体の体のバランスを保つんですよ。特に腰と背すじを中心とした上半身のバランスに深く関係している。そういうバランスのために手を使い、バランスのよい状態を作り出して初めて人間が手を伸ばして物を触ったり持ったりするように、だんだんなってくるんです。
さっきのかおりさんというお子さんの話で、自傷が少なくなってきたということなんだけど、手の使い方が少しずつ変わってるんじゃないのかと考られる。どういうふうに手を使い出しているのかということを解く大切な鍵を彼女が握っているわけですね。手なんてその役割は、ただ触って持つという簡単なものじゃないですよ。かおりさんはそのことを私たちに十分に教えてくれているのです。ビデオで見ると机の上に不安定な棒みたいなものを立てて、それをプッと吹いて転がるのを非常に喜んでいる学習の場面があるんですね。そこの学習だけは確かにかおりさんが喜んでいるんだけど、後はあんまり・・・(笑)いや、あのね、学習に上手下手なんてないですよ。みんな下手だから大丈夫ですよ。ただし、みんな下手なんだけど、将来上手にならないとね。最後まで下手だったらちょっと心細いんじゃないかというふうに思いますけどね。
で、たぶんプッて吹くのは、かおりさんにとって手を出すよりずっとすばらしいことだものね。つまり、手をそこに近づけるよりは体を近づけたほうがいい。手を伸ばして触るよりは、息でプッと吹き倒した方がいい。まあ、誕生日祝いにろうそくを消す時にプッて吹き消す。もっともそれは手で消したらやけどしちゃうけどね。やっぱりプッと消すというのは、その人自身の問題じゃなくて、人間行動の組み立ての根本の問題に関わっているいるんじゃないか。それはね、その子自身は手を別のことに使うので、棒をプッと吹き倒す。吹いて棒を倒すより、手で倒す方が簡単なのではないかと考えやすいのだが、人間行動を組み立てていく順序をバランスから考えると、かおりさんのほうが順序が合っていて、われわれのほうが逆なんじゃないかということをもう少し考えなければいけない。
まあ、足なんていうものは、本当に考えれば考えるほど切りがないほど難しいものなんですね。足首だとか膝なんていうのは、いくつかの役割があって段階的にまとまっていくものです。だから、いくら話しても切りがない。足は立って歩くものというたった一つの役割を固定的に決めつけてしまうのは、人間行動ができ上がった後の状態で言っているにすぎません。やっぱりね、上半身と下半身のバランスに足は非常に役に立っている。だからね、腰かけていたらたいてい足を浮かしますよ。本当に上手に浮かす。僕たちがこう足を浮かしてると疲れちゃいますよ。そのお子さんたちは上半身と下半身のバランスを非常にいつも考えているから、だから足を浮かしちゃうわけね。そして腰を中心にしてバランスを大事にしているわけ。
ということから始まって、足というのがいったい何なのかということを考えていくと、手と足とはどう違うか。少なくとも足は手より先に物に触ったり、けとばしたりして外界へ伸びていくのに、手は自分に触るため内側に縮んでいくのです。いちばん常識的で一般的で、しかも困った考え方は、人間は四つ足だったんだと言うんですね。前の方の足をこう上げてね。後ろの方が足になってね。で、上げた方が余ってこれが手になったって。この考え方は非常に根深いです。もう水産大学をやめたからほっとしたけど、学生にいくら言い聞かせてもこの考えは絶対にやめないです。要するに立ち上がったのは前から立ち上がった。前から立ち上がったということを僕はそんなに否定はしないけど、だけどいきなり前から熊や犬が芸をするように立ち上がるはずはないよね。やっぱり腰を中心にして背すじを伸ばして、それからぐうっと足の方に重心を移して、それで立ち上がったんですよ。そんな動物が立ち上がるように立ち上がるはずがないですよ。あのね、熊だとか犬だとか、そういう動物が立ち上がるのを見て、それで人間もああやって立ち上がったんだと言うんだとしたなら、熊だとか犬だって立って歩けばいいじゃないですか。ちゃんとみんな四つ足で移動していてね、立って歩かないですね。一人人間のみが立って歩いているというようなことが起こっているのは、あのね、誤解のもとは、はいはいなんですよ。はいはいが四つ足だと思っちゃったんですよ。だけどね、あれは明らかに四つ足ではないです。手は手の平をついているけど、足の方は膝をついているんですよね。もしはいはいが四つ足ならば、手で手の平をついて足で足の裏をつかなきゃおかしいですよ。どうして膝をつくのか。そして膝というものが人間行動の特に立って歩くということに関してどういう意味を持っているかということ、これを考えたらすごく意味が大きいですね。とても、いくら考えても考えきれないほど非常に大きな深い意味を持っている。もうみなさんいやになっちゃうかもしれない。あんまり考えることがたくさんできちゃって。本当にいやになっちゃうかもしれないけれど、これはまだほんの一端なんです。
目がある。ここでは耳は省略します。これがやっかいなの。目で見るということが何なのか。目っていうのはとっても便利なんですよ。で見ると何でもわかっちゃう。もし、この部屋全体を触ろうとしたら大変ですよ。でも、盲聾の子供だったらやっぱりずうっと歩いてみますよ。ずうっと一人一人触ってみますね。しかし天井などは触れない。ところがね、目っていうのはちらっと見てね、やっぱり先生の前の方は誰も座らないとか、いつも後ろの方にいる人はだいたい決まっているとかね。僕がもうちょっと長く話してると、今はみなさんまじめに聞いていらっしゃるけれど、少しずつみなさんの頭が揺れ出すとかね。いうようなことが本当に一瞬でわかるんですよ。
だから、利巧な馬だとか学者犬とか、あれみんな目で見るからなんです。目が見えて主人のちょっとした姿勢の変化に対応できるから。だから誰か答えがわかっている人の姿勢の変化に対応して全部答えを出しちゃうんですよ。もっとも学校でもそういうことはよくあるんでね。学校でも子供が問題見ないで先生の顔を見ててね。先生の方を見て答えを出している。そんなことまた引き合いに出すと悪いけど、かおりさんなんて、長さの弁別の時にだいぶ先生の方を見てね。便利って言えば便利なわけだけど。そして情報がすばやく、いつ受け取ったかわからないようでもピシッと受け止めている。というふうに便利なんだけど、そういうことがなぜできるようになったのかと考えるとわからないわけ。初めからできるってことはないんでね。そういう区別がだんだんつくようになったとか、そういう区別を利用するようになったとか、そういうようなことを考えると、目っていうのが人間行動の組み立ての根本に果たしている役割を明確にすることはまだまだ大変ですね。
ことに目と手の協応ってよく先生方がおっしゃるんですよ。これがまたとてもやっかいなんです。目と手が協応するような条件なんてないんですよ。仲が悪いんですよ。目というのは二つ前についてて、手というのは肩から横についている。まずそのつき方から言ったって協応しにくそうですね。それで手というのはいっぱいに伸ばしてもこれくらいしか運動できない。リーチのうんと長い人でも70センチくらいしか運動できない。目ときたらですね、あの山見てください。あの山のずーっと先まで見えちゃう。どこまででも見えちゃう。それにですね、手というのは触らなきゃわからない。目というのは視野の中へバーッと入ってきちゃうからね。情報量といい、刺激の種類といい、めちゃめちゃに違うんですよ。そんなめちゃめちゃに違うものが一緒になって協応できるわけないですよ。だから見た物に手を伸ばして取りなさいなんてね、夢のような話なんです。誰でもできるじゃないかって言うかもしれないけども、いいかげんな人だからできるんですよ。どんなふうに外界を受け止め理解できるようになったのか、それに対応してどうして運動が組み立てられるようになったのか、本当に真面目にきちんと考えたら、神経衰弱になっちゃう。
まあそのくらい体のどの部分を考えてみても、やっぱり私たちは常識的な一般的な考え方をちょっと横に置いといて、もう少し新しい人間行動の根本的な組み立てに必要なものを探していくというようなことが必要なんじゃないかということですね。そういう人間行動の根本的なところが少しずつ関係づくから学習の工夫が面白いのではないでしょうか。今まで気がつかなかった体の部分の役割っていうものがわかるから。特に障害の重い子供とか、非常に癖のある子供とか、あのまあ問題行動を持っている子供とか、そういうお子さんというのは障害が重いから何もわからない何もできないとか、問題行動だからこれをなんとかしなきゃいけないということも一つはあるんだけど、それと同時に、私たちに新しい新鮮な体の使い方というのを教えてくれているんじゃないか。つまり、その子自身がどこの体の部分を使って、どういうふうに外界を受け止めているのか、何のために外界に働きかけているのか、今まで私たちが気がつかなかったことを教えてくれるんじゃないかというふうに考えると、子供が持っている素晴らしい力を感じることがだんだんできるようになっていくんじゃないか。そのためには、まず子供がどういう姿勢だとか、どういう感覚を使っているのかとか、どういう行動の組み立てをしているのかとか、その子が体の部分のいちばんどこを大切にしているかというようなことを、よく私たちが一人一人の子供についてまず考えてみる。
よくかみつく子だとか、自傷が激しい子どもだとか、障害が重くて病気があるとか、そういう誰が見てもわかる決めつけをちょっとやめちゃって、その子自身が何を感じて、何を考えて、どんな暮らしかたをしているのか、それを私たち自身が少しずつ確かめていく。そのためにはやっぱり、どうしてもある意味で、その子自身に対する働きかけというのが必要である。その働きかけというのは、その子自身の持っている力を思わず引き出すようなふうに工夫して考えていかなきゃだめ。だけどもなかなか難しい。どうしても、問題行動などを、止めるか無理じいするかに気がとられちゃう。これは先生方に聞かしてるわけじゃない。僕自身に言い聞かせていることなんです。だけどもぜひ考えてほしいことは、ともかく精薄だからできないだとか、寝たきりの子供だから何もわからないだとか、ぜひ言わないでほしい。そして一人一人の子供がちゃんとその子なりに分解して組み立てているんだということ、自分自身で行動を分解して組み立てているんだということ。そんな分解したり組み立てたりする力はありっこないというふうに決めつけたら、それは私たちの少し思い過ごしなんじゃないか。どんな寝たきりの子供でもその子なりに自分自身の行動をコントロールして、そしてその子自身の考え方で組み立てている。もしそれがわかったら新鮮な感じがするんじゃないか。
ということで今日のかほさんからきみお君まで、私の考え方を簡単に述べますと、まずかほさんは机につっぷすっていうのは、ここのところもビデオを全部見てないんで、すごい感動的ないい場面を見てないんだと思いますけども、だけど仮に机につっぷしちゃった時に、つっぷした顔をいきなり持ちあげてもしょうがないですよ。まあ水産大学で僕が講義していると、前に座っている学生がこういうふうにつっぷして寝ている。気になるけれども、顔を上げてって口で言ってもこれは駄目なんですよ。なぜなら、そのつっぷしている理由があるんだから。僕の講義を聞くのが厭だってね。めんどくせえってわけです。ぐずぐずぐずぐず言うなっていっているのかもしれない。ところがそういう人が実はよく聞いていることがあるんですね。机につっぷせば目は見えなくなるが耳はふさいでないので私の声はよく聞こえる。ある時いつもつっぷしている学生がいてね、いやだなと思って、毎回毎回なので最後に注意しようかなと思っていたんだけど、とうとう我慢しちゃったの。そしたら、経営の方の先生が、中島先生がうらやましいって。水産大学でいろいろな講義を聞いたけど中島先生の講義だけだったって、素晴らしいのは。というのが一番前でこうやってつっぷしていた学生なんです。。だから、ちゃんと理由があるんですね。その人は尊敬する人の話をよく聞くためにつっぷしている。(笑)なんて、調子が出てきて何を言い出すかわかりませんけど、冗談ですから。
それで要するに無理に顔を持ち上げたり、顔を上げなさいと言ってもちょっとやっぱり工夫が足りないんじゃないか。その子自身が顔をつっぷしているということは、やっぱり、一つは後ろ側の問題じゃないか。こう前の方へ倒れかけているんだから、顔を起こそうとして前から力を加えてもその力に抵抗してよけい前の方に倒れちゃうんじゃないか。だから、こう顔を無理に持ち上げることは、前の方へ倒れなさいと私たちの意図とは逆の練習をしてるようなものなんじゃないか。だから、後ろの方をなぜるとか、首筋をなぜるとか、背中のどっかちょっと曲がってこう力が入っているようなところがあるんですね。こうずうっと触ってみて力が入っているところがね。そこを軽く押してみる。それじゃなかったら腰ね。腰をちょっとこう揺すってみる。左右じゃなければ前後も揺すってみる。まず後ろの方からやった方がいいんじゃないか。こういうふうにつっぷしているんだから後ろの方がやりやすいわけですよ。それを前の方から頭をあげさせようとするのは本当にばかばかしい。
そうなってくると、もっと間接的に体のほかの部分から考えた方がよいのではないか。前へもたれかかっているんですね。上半身の問題だから下半身を考えればいいんじゃないか。というふうに考えれば足なのね。足に突っ張りさえ出てくれば、自分でこう顔をあげて背すじを伸ばして体を起こしてくるんじゃないかということね。今度足を考えると、足の裏をよく触ってみるとか。足首、これね、足首とか足の裏とか触ってみるとわかるけどね、みょうに固い時があるんですよ。だからね、そういう固い時に触ってみて、どこか触るとひょっと柔らかくなる時があるのね。で、柔らかくなった時にぽんと床にこうつけてやればね。なるべくかかとの方をこうつけてやれば、ますます柔らかくなる可能性がある。そうするとベタッと、今まで浮いていた足がベタッと床につく可能性があるわけ。
それから、まあ、膝。この膝も膝の後ろ側。そうすると膝の後ろ側をうまくなぜると今まで突っ張っていたような膝が、こう少し軽く曲がるようなになる。そうしたら足の裏をよくつけてぐうっとその人の体の内側へ押しこんであげれば、やっぱり自然にそこへ踏み込む力が加わる。踏み込む力が加わってくれば上半身とのバランス上、体が持ち上がる可能性がある。
それからそれで駄目だったら肘。肘でぐっと支えてみたらどうか。これはただ支えているだけだったら駄目なのね。肘をこう締めるような感じ。脇を締めるような感じ。肘をこう締める感じで、ぐっと少し締めるようにして、ちょっとこう支えてあげる。持ち上げることはいらないのね。支えてむしろ上下に揺すった方がいいのね。ぐっと持ち上げるのは反対にこういう力(つっぷすような力)を呼んじゃうから、揺すった方がいいわけ。肘を締めてちょっと支えてみたらそこへ力が入ってくる。何かその人自身がふんばろうとした時にふんばるような抵抗みたいなものができるような状態を作ってあげればうまく肘でふんばって体を自分で持ち上げてくるかもしれない。
まあ、それで駄目だったら、ぐっと無理矢理起こしちゃうんだね。そうです。駄目だったらぱっと起こしちゃえばいいんです。だけど、私たちの考えがまだ足りないんじゃないか、大事なことを工夫してないんじゃないかと考えればいいんです。そんなに慌てることはないんですよ。要するに直接的にやるよりは間接的にやること。で、その人自身が運動を起こしやすいような土台を作ってあげること。無理矢理されることに慣らされて受け身にしないこと。そして、その人自身が分解して、自分自身で組み立てられるようにしてあげるために自由に柔らかな工夫開発すること。そのために、子供が体のどこをどんなふうに使っているのか、よく理解して働きかけをすることが大切です。
人間が体を起こして立ち上がるなんていうのは、重心の問題なんですよ。重心の問題というとすぐ三半器官だとか前庭とかそういうことになっちゃう。ところが、もちろん医学的生理学的な問題を無視するわけじゃないけれど、それと同時に大事なことは、その人自身が自分で重心を感じて、自分で重心を動かして、そして動かした重心を自分で組み立てるということなんですよ。そいうことが大切なわけ。そして、すごいそういう意味で、人間っていうのは素晴らしい力強い輝きを持って分解組み立てをしているんです。だから、それにひとたび触れたら、もう本当になるほどすごいなあと思ってもうこの教育から離れられなくなっちゃうわけ。
次にかおりさんの問題を言いますけども、かおりさんは、さっき話したように、いちばんうれしそうな勉強は机の上へ倒れそうな棒を立ててね。それで、吹くという。なんでかおりさんがあんなに喜ぶかということですね。これ、倒れる面白さなんですよ。だからお相撲なんかかおりさんに見せるときっといいのね。なぜ人間が転がったり物が倒れたりするのか。要するに縦と横の関係なんです。非常にそれがしっかりしている。ものすごくかおりさんはバランスがいい方なんですよ。縦と横の関係で、だから、立ってるものが横になるというのが実にその子にとってわかりやすいというか、大事なことなんです。
その点で、ビデオの中で四本の長さの違うはめ板をやっている。なかなかできないんです。よく見てないし、ひょっとすると先生の顔を見てパッパッとやってる。ところがその木の板を時折自分で机の端っこに置くんです。机から落ちそうで落ちないようにうまく置くわけ。これ、何やってるかというとバランスをもとにして長さを測っているんです。まあ、嘘だと思って聞いて下さい。長さを測っているんです。だとすれば、初めから長さを測るようなふうに置いてあげればいいんですよ。バランスの崩れそうなところに置いてあげればいいんです。そしたらずっと長さがよくわかるわけ。こっちにその板をはめる枠があって非常に遠くなってしまうかもしれないけど、机の端のこの辺でもいいわけです。そういうところに置いてあげればいい。そうすれば、ずっと今よりまずよく見るようになる。そして、そんなこと言っちゃおしまいかもしれないけど、かおりさんにとっては木の板を同じ長さの枠にはめるなんてことは、どうでもいいことなんですよね。それよりもバランスが大事なんです。
その点ですごく感心したのは、かおりさんがちょっと自己刺激的に音を出すんですね。何を手に持って音を出しているのかビデオではわからないんだけど、何か音を出すんですよね。で、危機的場面というかな先生が強制しそうな時に特によくやるんです。その音の出し方が右と左に交互にやる。実にうまいですよ。音がよくわからないんで、残念なんだけどね。手を左右交互の耳に近づけて同じ音を出すわけ。いかにかおりさんがバランスというものに対して集中的に考えているか。こんな集中的に考えている人、ほかにいませんよ、世界中。だから彼女は世界一偉い人です。ほかに、そんな何でもバランスに戻して、全部バランスに直して考えること、そんなことできる人、いませんよ。まさにかおりさんはそういう点で何でもバランスにするわけです。だから右の耳に聞かせたら左の耳でも同じように聞かせたらいいのではないか。そこに働きかけの工夫の土台があるし、人間行動の組み立ての根本的問題を解決する鍵があるのです。
というようなことを考えると、かおりさんの場合バランスはいいんだけど、こういう私たちが作り上げた前面の平面がないんですよ。この机の面なんて軽くみんなができるだろうと思うかもしれないけれど、もし自分の内側を中心としたバランスに非常に熱中しているかおりさんみたいな人は、こういう自分の正面の平面を作るのは大変なんです。なぜ大変かというと手をうまく使わなければいけない。なぜる、すべらせる、さらに一方の手を働き手として一方の手を支え手として協応させるなど、私たちが普通に使っているように手を使わなければならない。そんなふうに手を使ったら大事にしているバランスが崩れてしまう。つまり、かおりさんは自傷とともに手をバランスにばかり使っているんですよ。ほかのことに使わないですよ。それを、手で触って平面作れって言ったら、これはかおりさんにとって清水の舞台から飛び降りろというほど大変なことです。
だから、やっぱりやり方があるんですよ。これもうまくいかないからといって僕のせいにしないでくださいね。せっかく吹いて倒して喜ぶんだから、先生もやってたけど、四すみなんてことをやってたけど、立てて転がすってことはやっぱり基本に置いてあげた方がいいと思うわけね。かおりさんが自分で立てて自分で転がすようなことをどうやって学習の中に組み込むかという、この辺が一つの解決の方法なんですね。どこからどこまで転がすかということを吹いて解決する。その、吹いて転がした物をもう一度手で転がすということに直していく。というようにしていけば、吹くということ、そして倒れるということから、さらにある種の手を使った位置関係が出てきて、そして手をうまく参加させることができればしめたものと、そういう感じがするんですね。かおりさんが手でしていたバランスを上半身の他の部分、下半身特に足、さらに肘、そして目でコントロールできるように少しずつ役割を変えていくことが大切です。どうもビデオを見た範囲内では、かおりさんは、今まさにそういうことをしたがっているんですね。したがってるんですよ。非常にしたがってるんだけど、周りの人があんまり気づいてない。というふうに思うんですね。
こういうふうに交互に左右の耳のそばで音を出すというのは、非常に大事なことなんですね。人間歩くでしょう。そうすると、両足を交互に出して歩くわけですよ。これ、非常におかしな歩き方なんで、ピョンピョン足を揃えて跳ぶべきなのかもしれません。また、変なこと言い出すとおこられるかもしれないけど、交互に出すというのは、バランス上は非常に難しい。いったんバランスを崩した状態で、またもとへ戻さなきゃならない。また崩した状態でまたもとへ戻すというね。バランスが崩れそうになったり戻ったり、崩れそうになったり戻ったりするわけですね。だからピョンピョンピョンピョン両足を揃えて跳んだら、いつもバランスが安定していて本当はずっといいわけね。バランスの考え方なんだけど、本当にバランスがいいという状態をどういうふうに考えるかということによって違うんですけど、ともかくバランスを崩さないということから言えばピョンピョンね。にもかかわらず、人間がなぜ交互に足を踏み出すかというここのところを解決してくれる可能性をかおりさんは秘めているわけ。
ということを考えるとやっぱり、そういう意味から言って、こういう平面を作るってね。目が見えるとどうしても縦の面は非常に作られやすいんですよ。しかし、こういう水平面を作ることができない。こういう正面の水平面を土台にして、上下とか左右とか前後とかそういうものが出てきて、そして、位置だとか方向だとか順序だとかいうものが明確になって、形みたいなものがしっかりして、その人自身の行動が外界から規制されて統制された行動が組み立てられ、逆に外界をさらによく整理できるようになるというわけ。どうしてもこういう面を作らなければ、そういう意味では大事なところが作られないわけ。人間行動のもうちょっと高次の行動が作られないわけね。その意味で、かおりさんが三次元空間を作る土台みたいな水平面をどうやって手を少しずつ使って作っていくかということが一つの大きな問題なんじゃないかと思います。
最後にちょときみおさんの問題に触れたいと思いますけれども、これも分解・組み立てっていうことなんですね。だから、かおりさんの場合もかほさんの場合もきみおさんの場合もみんな同じなんですよ。分解・組み立てなんですね。で、ただ要するに、姿勢の中で分解・組み立てをするか、あるいは手を使って面上で分解・組み立てをするか、そういう文字みたいなものを使ってことばの分解・組み立てをするか、段階はいろいろあるかもしれない。だけども、人間行動の成り立ちの根源なんですよ。ただ、何でもかんでも分解できるわけではないんです。それから、めちゃめちゃに分解しても組み立たないわけですよ。だから、その人自身が納得できるような分解をするための枠組みというものが必要なわけ。これをどういうふうに私たちが考えていくか。そして、そういう枠組みをその子自身が利用できるようにするか。いちばん大事なことは、すでにその人自身がある種の枠組みを持っている。そして自分自身で自分なりに分解して組み立てている。それは、姿勢についても、そういう面上の三次元空間についても、もっといわゆる文字の読み書きについても、みんなその人自身の独特のやり方で作り上げている。ただ、非常に強固に作っちゃってそこから抜けられなくなっちゃってるとかね。それから、その子自身の組み立て自身が、こちらから、どうしても見えない。というようなことはあるかもしれない。だけど、そういうことがあるからこそ私たちが存在している意味がある。私たちは何もかもすぐお見通しのようにわかるわけじゃない。しかし、いろいろ工夫して働きかければ、あることに気がつく。そしてそういう気がついたことをもとにして、またさらに工夫する。そうすると今まで何もできない何もわからないっていうような子どもが、素晴らしい人間で、力強い人なんだというその子供の輝きに触れることができる。そして、輝きに触れるということをもとにして我々の教育というのがさらに進んでいくというのが非常に大事なところなんだと思うんですね。で、まだ人間の運動みたいなものとかね、それから区別するようなこととかね、少しずつ話したいと思うんだけど、来年も再来年もこの研究会があるんだから、あんまりいっぺんにわあわあ言っても最後にはもうやめてくれないかなあというふうに思うぐらいが関の山なんで。すでに言い過ぎたと思うのね。よく消化しきれないところもあるかもしれない。それから僕の舌たらずなところもあるかもしれない。だから、そんなに気にしないで、おりに触れて思い起こして下さればわざわざ山梨まで来たかいもあるというような気もしますけれど・・。みんなそれぞれいろいろ考えることがおありでしょうから、ともかくそれぞれの職場で頑張ってほしいというのが僕の願いですね。そういう意味でちゃんと、輝きに触れて感動して素晴らしい教育をしてほしい。ということですね。