平成3年5月17日


   人としての感覚のなりたち(エルピザの里での講演)

     ─洋子さんから教わったことを中心として─


 水産大学やめて、ほっとしているところなんです。先生の近くは絶対学生が来ないのね。今日はそんなに遠くに離れてないから、そういう点は話をするのに楽です。もし後ろの人で聞こえなかったら、もっと大きな声を出しますから言って下さい。
 どういうことを話そうかと思ったんだけど、どうも差し障りが起こると思うので、差し障りがあるような話でしたら、それは聞いてないで、聞かなかったことにして下さい。
 群馬のある子供の家の報告書の中で、子供に文字や数を教えて何になるのかという先生が多いと書いてあります。その先生が書いているんで、僕が言ってるんじゃないから、誤解のないようにして下さいね。作業学習とか生活学習という言葉があるんですよ。それ一辺倒なんですね。その先生は小学部の担任らしいんで、そのくせ高等部に入学試験があって、入学試験の時に文字の読み書きとか数の問題が出るというんです。そういうことをしながら、文字とか数を教えてもしょうがないといって教えようとしないというのは、ちょっと矛盾しているんじゃないのかってその先生は書いているのです。その報告書を読んで、確かに僕もそういう点は長い間困惑を感じていることなのですね。
 福井県に光道園という施設があるんです。そこは中道先生という方が作った施設なのです。中道先生は障害を持っているお子さんを持っている方ではなくて、自分自身が障害者で、目が見えないんです。中途失明ですけれども、ちょうど専門学校を卒業して、お魚屋さんかな、魚の買い付けをする今でいう商社に入社したころ、目が悪くなっちゃって、それから福井の盲学校に入り直してマッサージの勉強をして開業したんだけど、マッサージをしているんじゃ・・と思って、何か世の中の役に立ちたいっていうので光道園を作ろうと思って作り始めたのがもとなんです。それで、日本自転車振興会から実にそこに6億という金をつぎこんだんだけど、つぎこむだけの価値はある十分な成果を僕は上げ得たと言うふうに思っているわけです。
 決して競輪してくれとは言いませんけど、千葉にもちゃんと競輪場があるんです。おいでになったことはないでしょうけどね。駅降りて左側に公園があって、その奥に千葉の競輪場があるんです。よろしかったら一度行っていただければ。だいたい、僕が競輪を始めた動機は、さっき桑田先生にお話したんだけど、東大に入って学校に行こうと思っても授業が面白くないから、つい後楽園に行って、競輪をやっている。何だろうと思ってちょっとのぞいたのが運のつきなんですよね。それからすっかり競輪ファンになっちゃって。それで学校に行かないで、競輪やってたんです。野球も見ましたけれども。それで、長い間競輪のファンなわけ。
 いちばん困るのはそういうギャンブルの収益金だからっていうんで、あぶく銭だと思われる方が非常に多いんですよ。どうせあぶく銭だから何に使ってもいいんだって考えて使われてはたまりません。ちゃんと福祉のために出しても有効に使っていただけないことが多いんで、僕はファンとしてものすごく心配しているんですね。だから、できるだけこのエルピザの里のようないい施設に是非使っていただきたいと思うんです。私は今車輛審議会という競輪の審議会の委員をしているんです。
 何でそういうふうになったかというと、美濃部さんという人が出て来て後楽園をつぶしちゃったんですよ。で、後楽園競輪が廃止になったんです。私はそのために競輪ですらなくなってよかったのです。ギャンブルは公営ギャンブルっていって、4種類あるんですよ。そんな公営ギャンブルの話なんかしてもしょうがないですね。そうだなあ4種類ご存じでしょうか。(競馬)あ、競馬は、中央競馬は公営ギャンブルの中では特別なんです。だから地方競馬なんです。それから・(モーターボート)・・ああああ偉い。すごい。競馬と自転車とモーターボートと。(あと一つなんでしょう。)これが案外有名じゃないんだな。わかる方いらっしゃいますか。(オートバイ)あ、船橋におすまいですか。オートバイのレースがあるんです。これ、いちばん面白いんですけど、日本に5場しかないんです。5つしかやってるところがない。いちばん小さな公営ギャンブルなんです。4つある公営ギャンブルのうち競輪だけが特に悪者視されて、それでもって売上がものすごく落っこちちゃったんですよ。それで僕のところに頼みにきたんですよ。それから、結局、なるべく簡単に競輪の売上が伸びるような方法を3つ考えてあげてそれがことごとくうまく当たって、相当盛り返したんですよ。
(「補足しますとね、先ほどの光道園の補助金も先生が尽力されたんですよ。自転車振興会の委員をしていらっしゃるそんな関係でうちの作業棟も補助金をもらえることになったんです。」)
 ここを作る時、競輪から補助金を出したげるっていっているのに桑田さんは全然信用しない。で、今度やっと信用してもらったんですよ。ところが悪いことに今年の6月28日でその車輛審議会の委員をやめるんです。4期8年やったからね。それで売上が伸びたですし、だからもうお払い箱なんです。
 それと1つ大きく対立している問題があるんですよ。というのは、後楽園の競輪を再開しなきゃいけないというのが僕の現在の強い主張なんですよ。ところがそれをものすごく怖がっているんですよ。でね、さっき中央競馬の話がでましたけれどもね、競輪の場合には政治が非常に絡みやすいんです。なぜかっていうと、主催するのがだいたい都道府県なんですよ。都道府県というのは何かっていうと、都会議員だとか県会議員だとか、そういう政治家ががんばっているところなんです。経済同友会なんかでとっと本当のことを発言してすぐあやまらなきゃなんない政治家がいちばん口を出すところなんです。だから怖がっちゃって後楽園の競輪の再開を言い出さないのですよ。僕は、後楽園の競輪を再開しろ、始めるのでなく一度中止したものを再開しなさい。その代わり競輪の収益金は福祉に重点的に使って「福祉の競輪」ということを競輪の旗印にしなさいと主張しているのです。
 来年度も増設の計画があってまた補助金をもらわなければならないのですが、私は6月28日で委員をやめてしまいますので、うまくいくかどうかわかりません。うまくいかなかったら勘弁してください。いずれにしても、その点で、ぼくはせっかくの益金なんで、いい施設できちんと使ってもらいたいということなの。今日も理事会を開いていろいろお伺いしたら、特別会計できちんとおやりになるようだから、非常にしっかりしたお考えだから、とても結構だと思っています。僕がただ口をきいてあげただけで、本当はエルピザの里の活動が社会的に認められているということだと思っています。
 えっと、でもそういうギャンブルの話ばかりしているとね・・・でもそういう話だけ頭に残るんですよね。これから肝腎の話をしようと思うんだけれどみんな忘れちゃうのね。しかたないです。
 話はもとにもどりますが、子供に文字を教えないとか数を教えないなんて、当然いけないことなのにもかかわらず、平気で言うんです。光道園でもそうなんです。そこは視覚障害を中心とした人を集めているから文字じゃなくて点字なんですけどね。私たちが盛んに行っていた時代に、点字を教えているにもかかわらず、職員の人が字なんか教えて何になるのかって言うんですよ。隠れて言うんですよ。面と向かって言う人はあまりいないんだけどね。学習なんかより少しでも手に職を与えた方がいいっていう。それがもっともらしく聞こえちゃってどうにもならないですね。
 ところが、実際に点字を基礎的に位置とか方向とか形とかそういうごく基礎的なところ、もっと基礎的なところもあるんですけども、できるだけ基礎的なところから学習していくと、とても子供が喜ぶんです。でね、何で点字を覚えたいかって言うと、親と手紙のやり取りをしたいんですよ。それが、自分で口でしゃべって寮母さんが書いて出す、来た手紙を寮母さんが読んで、聞いてる。何か物足りない。ちょうどこう靴をはいて足の裏を書くような、そういう感じなのね。だから、点字を覚えて点字で手紙を書いて、そして向こうから点字をもらって、それで親からもらった点字の手紙を自分で読みたいの。その欲求が非常に強いです。だから僕たちが行くと、ものすごく人気があってやたらに勉強したものなの。それにもかかわらず、ここは学校でなく施設なんだし、それに一生光道園で過ごすような人に勉強を教えて何になるのかって、繰り返し言われているし、たぶん今でもそう思っている人が多いと思うんですね。
 日本の社会がそういう意味でGNPみたいなものが大きくなっちゃったしね。それから経済的な機構っていうのが巨大化して、組織化して固定化してきたからね、身動きができないわけですね。そんな中でみんな歯車になっちゃってるわけですよ。だからそういう人たちから見るとそういう歯車でない人は社会に役に立たないんだっていう考えなんですね。社会に役に立たないっていうことは、非常に僕は大事なことで、そういうくだらない社会に役に立つ人ほど反対に無駄なことをもっともらしくしている人じゃないかと、僕は思うんだけどね。だってそういう人たちが自分自身のことを考えたら、いくらいばっている人だってやがては老人になっちゃうしね。ボケたり、寝たっきりだけの、輝いた存在となりえない逆の人生を歩むこととなってしまう。
 この間ちょっとあるお医者さんの話を読んだら、老人は結局、骨粗鬆症という難しいのと、失禁ね、それとボケだって。この3つが老人。この問題は医学的に全く解決していないって。だから、われわれなんかももっとも考えないといけない問題なんですね。だけど、そういう意味で奢れるもの久しからずでね、人の事を穀潰しで役立たずのようなことを言うけれど、言った人が実は本当の穀潰しなんだからね、自分がいちばんの穀潰しであることがわかんないで言ってるんだから本当にばかだなあって思うんだけど、そのばかっていうのがいくらいい聞かせてもわかんないですよ。
 それで、そんなこと言うとまた差し障りがあるけど、父兄にも責任があるんです。父兄も自分の子供を普通の子供と比較したがるんですよ。これはもうしょうがないことかもしれないんですけど、だけどなんで他の子供と比較したがるのか。自分の子供は自分の子供なんだからね、と思うんだけど、どうしても比較するんですね。でね、比較して結構ですよ、だけど、悪いことばかり見つけ出すんですよ。普通比較というのは客観的にやるものなんで、悪いところといいところと、同時に言わなきゃいけないですよ。それをですね、悪いところばっかり。でね、それに輪をかけて、そのご父兄のご兄弟だとかお隣りさんだとか、それから近所の人だとか、変なこと言うんですよ。この子は施設に入れた方が良いですよってね、そんな余計なお世話ですよ。あ、施設でこんなこといっちゃあね。
 いやいや、本当そうなんですよ。うちの家内の古い友だちでれんちゃんという人がいるんだけど、そのれんちゃんのお友だちの子供が自閉症なんですよね。そのれんちゃんがああいう子は施設に入れた方がいいってうちの家内に言うんですよ。そんな他人の子供のことまでね、言われた方はどんな気持ちがするかっていうねことを考えないでただやたらに言う、これもよくないけど、でも考えてみると父兄もあまりよくないですよ。やっぱり、比較するんだったら自分の子供はこういうふうにいいんだって言えばいいんですよ。
 そりゃあ、できないことはたくさんありますね。それから教えてもわからないことはたくさんあります。だけどもいいところもたくさんあるんだから。だからいいところも言っていただかないで、困ったとか、教えてもわからないとかそういうことばっかり言っていたらきりがないと思うのね。そんなこと言っていたら誰だってしょうがない人間ですよ。
 だから僕はそういう点でね、やっぱりどうも世の中の理屈が通っていないと思うな。なんか、いかにも常識的に聞こえて、もっともらしくてわかりやすいんだけど、実は間違っているんじゃないかと思われるようなことがとてもたくさんあるんですよ。だからもう少し私たちが、どこがどういうふうに間違っているのかっていうことを、きちんと説明できるように、そして説明してあげられるようにしないといけないんじゃないかなあ。ただ、自分の子供ができないなんて嘆いたり、あるいは人に施設に入れなさいって言われて怒ったり、ただそんなことをしているだけじゃなくて、自分の子供がどういうふうに偉い人間なのかということをちゃんと説明できるということが大事なんじゃないかしら。
 そこのところはこれからの障害者の問題の、あるいは障害児を育てる時の大きな問題点だと、僕は思いますね。親もそういうふうに思う、学校の先生もそういうふうに思う、施設に入ってもそういうふうに思うっていただかないと、立つ瀬がないですよ。やっぱりその子自身のもっている素晴らしさというものをちゃんと探して、ということはちゃんと深く付き合って、心と心とが心からかかわってということが、僕は大事なんじゃないかということなんですね。
 ここにいるお母さん方にだってひとりひとり聞いてみると自分のお子さんの悪いところならいくらだってあげられますよ、本当。歩き方が下手だとか、奇声を出すとかね、これ素晴らしいことなんですよ。本当は。だけど、それみんな、困ったこと、自他の区別がつかないとか、それはいいことじゃないですか。誰だって皆、自他の区別なんかついていませんよ。本当の意味ではね。要するにそういうふうに、みんなしてそんな悪いことばっかり言っていたら、きりがない。
 ところが、これ僕が言い出したらきりがないのね、あしたまででも言ってないといいつくせないほど言い分があるんですよ。言い分があるんだけど、そんなことあしたの朝まで言っていたら、少しずつお帰りになっちゃうだろうしね、それから、とても体がもたないと思うんで、いちばん大事なところだけちょっとお話しします。
 人間は外界の刺激を体全体で受け止めているのですがその受け止めに使う主たる体の部分が違うんです。それからそういう刺激の受け止め方も違うんです。今の心理学で、例えば感覚なんて簡単にいっていんなわかったような顔をしている。だけど感覚なんていったら、目で見たり、耳で聞いたり、こういうところへ触ったりなんかしてるからね、人間は外界をめちゃめちゃに受け入れているんですよ。それは本当にいろんなものを無数に限りなく受け入れているんですよ。感覚というものを考えたら、きりがないほど感じているわけなんですよ。無限に感じているのに、僕の話だけを聞いているという人がいたら、どうして無限ともいうべき感覚が生じているのに話だけ聞けるのか不思議に思うのが当然です。やっぱり、感覚というものをもう少し考え直してみないとね。何でそんなにめちゃめちゃに感じているのに、僕の話だけをその中から選び出して聞いておわかりになるかはわかりません。いろんなものも見えるし、いろんな触覚的な感じもたくさんするわけですね。そういうめちゃめちゃにたくさんの感覚が生じているんだから、これ大変なんですよ。そんな落ち着いてゆっくりしている場合じゃないですね、本当は。それを、どうしてみんなが落ち着いているのか。
 これは感覚の中では非常に大きな問題だけど、心理学者にこんなこといったら誰も相手にしてくれないですよ。なぜそういうことが起こるのかわからないのに、順応だとか、閾値だとか、構えだとかで説明がつくと思っている。そういうことをもっと感覚のなりたちの根本から考え直すということが大事だっていうことがわからないんです。そういういちばん大事なことを考えないで、感覚ということを適当に納得しても駄目だっていうことがわからないですよ。
 だから、例えば僕たちがやたらに目で見ていろいろなものを感じたり、考えたり、判断したり、それによって行動を起こしたりするようなそういうようなことに僕たちが偏っていたとするわけ。ところが、そういうことがあんまり必要でないと思っている人がいるんですよ。そういう視覚的なことに重きを置かないで、つまり、目で見てということよりは、耳で聞くことに重点を置いていらっしゃる方もいらっしゃるんですよ。
 「百聞は一見にしかず」なんてね、あんなのは世間一般の人のいいかげんなことわざなんですよ。「百見は一聞にしかず」っていう人だっているんですよ。どっちが正しいとかどっちが間違っているとかそういう問題じゃないのね。その人自身が何を大事にしているか、どこの体の部分を主として使ってどんなふうに外界刺激を受け入れているのかという問題なんです。そういう意味で変な言葉もたくさんあるんですね。「見ると聞くとは大違い」とかね。そのくせ触るのが好きで宝物みたいなのがあると、「さわらないでください」ってみんな書いてあるのね。いざとなると私たちも非常に触りたくなるんですよ、いざとなるとね。
 ところが、そういう意味で、見るということがあまりお好きでないか、あるいはお上手でないか、あるいは非常に初期の段階にとどまっている方もいらっしゃるわけ。その代わり、その方は聞くっていうことに関しては、非常に強い関心を抱いていて、私たちが全く考えつかないようなことを理解していらっしゃるわけ。いわんや触るなんてことは触覚的な問題で、触覚というのはいちばん明確にしがたい、しかも人間行動のなりたちの根本にいつもかかわっている人間の感覚なんでね、全身にあるんですよ。
 これがまた、心理学者にいくら言ってやってもわからないんだけどね。本当にね、心理学というのはくだらない学問でね、あんなものしないで競輪しててよかったなあって、僕、今つくづく思っているんですけどね。心理学でそういう大事なことをなぜ問題にしないんでしょうかね。
 だから、触覚っていったら、手で触ることだと、こう思っているんですよ。だけど、手なんか使うっていうのは、随分後のことなのね。しかも、手を使うっていうことは自分の体を触ることなんですよ。これがいちばん最初なんです。そんな、外を触るっていうことはないですよ。だから、そういう意味で、その人がどういう体の部分を使って、どういう感覚(例えば触覚)をどんなふうに受け入れているのかということを、まず考えることが非常に大事なことなんです。
 そういうことを考えないで、人を育てようと思っても育ちませんよ、結局は。もう1つついでだから言っておきますけど、実感というのを非常に大事にするんです。われわれは関係というものをものすごく大事にするんですよ。だから、人を見ると名前聞きたくなったり、あるいは年齢聞きたくなったり、兄弟とかね、そんなのどうでもいいようなことなんですよね。そういう関係ということに関して、すごい敏感なんですよ。その人の名前を聞いて、会ってみて、何かわかったような気になってしまう。錯覚なんですね。そのかわり、実感というものが非常に薄れているわけ。だから新聞なんか読むんですよね。新聞なんか、字が書いてあるだけですから、何の実感もないですよ。
 あの安部さんが死んだっていってね、癌で死んだらしいんだけどね。死ぬ時、どのくらい苦しかったのか、どんなふうに死んだのか。死んだということ、これはわかりますよ。だけど、どんなふうにお亡くなりになったのか全然わからないですよ。見てたわけじゃないし、触ったわけじゃないし、だけど、新聞読むとみんなそういうのがわかるんですよ。
 そういうのを大事にする人は一方にいるけど、実感を非常に大事にしている人もいるわけ。特に触覚的な実感を大事にしている人が一方にいるわけですよ。ただ困ったことに一方の関係を大事にして、何でも見たことで判断しちゃうような人がものすごく数が多いですよ。それに対して、触覚的な、あるいは音で聞きわけたり、音を聞いていろいろ考えたりする、そういう実感を重んじている人が非常に少数派なんですよ。
 だから民族紛争と同じなんですよ。少数民族で押し込められちゃって。ところが、私たちも始めは少数民族だったんですよ。そしてやがてはまた少数民族に戻っていくわけですよ。いちばん大事なことは私たち多数民族は、実は、そういう少数民族の組み合わせの中から育っているわけ。だから、その根本の原則というものを私たちに教えて下さる人はそういう少数民族なんですよ。私たちが何で目で見て判断できるようになったのかとか、すぐ関係を考えるようになったのかというような、そういうことの基はどのように起こったのかということを教えて下さる人がいるんですよ、目の前に。そういう人から教わらないで、ただ便々とそういう立派な人と生きてても僕はしょうがないと思うのね。だからそういう人から十分に教わりましょうというのが私の意見です。ところが、これがまた少数派だからね、あまりだめなんですね。
 それであまり長く話をしていても怒られるから、ここでビデオをちょっと見て、それでちょっと締めくくって終わりにします。もうすぐ止めますからね。ビデオ、これ見えますかな。この画面、遠くで見えますか。見える。じゃ、やってください。
 これね、16ミリからビデオに直したんで、とても見にくいんです。「中島昭美編集。『洋子さんとの出会い』」って書いてある。これは一則くんという盲聾の人です。これはぶたですからね。(中島先生が映っている。)ここが実は今の重複障害教育研究所。このせっかく古いうちをみんな壊しちゃってね、研究所を建てちゃったの。この木もみんな抜いちゃったから今はありません。洋子さんが、一則くんに無理矢理ラジオ体操させられてんの。一則君だってむしろの上に寝ていたんです。あー、終わりか、早いんだ、これで、おしまいなんだ。
 洋子ちゃんのフィルムは相当撮ってあるんですけどね、16ミリのフィルムで撮ったからね。今は16ミリも8ミリも映画のフィルムを作っていないですよ。でね、撮影機も映写機も作っていない、みんなビデオになっちゃったから。だから、わが国がいかに無駄をしているかっていうことがよくわかるんだけどね。あれだけ作った16ミリ8ミリの撮影機、映写機、フィルムなどみんなどうしてしまったのでしょうかね。それほど日本は徹底した国なんで、こんな変なビデオになってしまいました。本当はもっときちんとした映画なんですけどね。
 この間、5月の5日に私のところで役員会をして、桑田さんご夫妻に役員になってもらっているもんですから、お出ましいただいたんだけど、そのときに健太郎くんといって、横浜訓盲院に通っている子供なんだけど。その子が椅子に少し体を前にたおすようによりかかるようにしながら、僕がその椅子を前から引いたら、自分で歩いて、ぐるっと会議室を一周したのね。お父さんが「こんなに長く歩いたことはない。」って言って、ともかく喜んだわけ。だけど、そういうことは実はみんな洋子さんから教わったんで、だから考えてみると、洋子さんから教わったことを、今、健太郎くんに生かして考えているんだなあって、そのときつくづく思ったんです。
 それじゃあね、いったいどんなことを教わったのかなっていうと、まず、口ね。それから、口の周りの触覚的な刺激というものが人間にとって重要な意味をもっているということね。どんなふうに重要かっていうと、人間は自分に合った刺激を作り出すことを好んでする。だから外界に適当な刺激がなければ自分でよい刺激を作り出す。このことは、外界の刺激を自分の都合のよいように受け入れる、さらに自分の都合のよいように外界の刺激を作り直してしまうということにつながる。弁別とか選択とか言っているけれども、自分が受け入れやすいように、区別する、選び出す、さらに外界刺激を作り直そうと働きかける、その人間行動のなりたちの根本の問題が口にあるということを教わりました。これ、切りがないほど話さなきゃなんないんで、省略しますけど。それからもう一つは、かむことなんです。
 洋子ちゃんは本当にかまないこと、ものすごかったのね。ひょっとすると、夜、食べて、朝、口の中にそのまま食べたものが入っていたことがあるの。これは驚きましたね。天才的な子だなあって思った。飲み込まないし、そうかといってつかえちゃって、気管にはいっちゃうわけでもないしね。要するに晩に食べたものをそのままの形で朝まで口の中に保存しとくわけ。ちょっとわれわれにできないんじゃないのかな。そうとう偉い人じゃないとできないと思いますけどね。
 でね、つくづく考えたのは、かむっていうのは非常に自発的なことで、また困ったことは、普通の子供は、あぐあぐしなさいとか、口、開きなさいとか言うと、口を開いてかみだすんですよね。それだから、あぐあぐしなさいとか、口、開きなさいと言えば、すぐかむことができるのが当たり前だと思ってるんです。ところがそんなことないですよ。普通の子供は決して食物なんかはかみませんよ。普通の子供で食物をかむ子なんてまずいないですよ。いちばん最初にかむものは人間の膚です。それは人間の膚というのは、柔らかさっていうかな、暖かさっていうかな、あるいは弾力性っていうかな、そういうかみやすさっていうのを持っているんですね。お母さんをかむのがかむことの始まりなんです。別にお母さんを困らせようとか愛情の表現ではないので、かむことによる外界刺激の確かめなんです。
 だいたい、歯っていうのはかむんだけど、かむっていうのは運動することのように思うけどね、歯は、運動器じゃなくて感覚器なんですよ。かむっていうことは確かめることなんだね。そういう歯というものをどういうふうに考えるかっていうことは、人間の行動の成り立ちの重要な根本の問題なんですよ。なぜ人間がかむのか、かめるようになるのか、歯医者さんに聞いても、全然わからないのね。人間行動のなりたちの根本の原理を考える新しい人間行動学の樹立が必要です。そのために洋子さんから教わらないければならないことがまだまだたくさんあるのです。
 あ、もう45分過ぎたんだ。これ30分で終わりにするんですね。でもいつまでたっても終わりませんね。本当にいつまでたっても終わらない話をしているんですね。
 でもとっても大事な問題なんです。後世の人がきっとだんだん理解できると思う。今のところ理解できないんじゃないかと思う。子供育ててる時に、何でもすぐ子供がいつのまにかできるようになる、すぐわかるようになるように見えちゃうんです。で、一生懸命かむ練習をしたってことをみんな忘れちゃってるんですよ。それで、あぐあぐって言えばいいんだとか、いざとなったら口の中に入れといて、こういうふうにこう下顎押してあげればいいんだとか、めちゃめちゃなこと言うんです。
 だから、そういうかむということは、非常に大事なことだから、本当にかむということを教えるんだったら、やっぱりかみやすい物っていうことを考えなければだめですよ。かみやすいものが何かというと、やっぱり人の体です。それから柔らかい物じゃないですよ。固い物なんですよ。それからかみ切れる物じゃなくてかみ切れない物なんですよ。だから、赤ちゃんがみんなさじをかんでるんですよ。カチカチカチカチ音させてさじをかんでるんですよね。あれ、固いからかんでるんですよ。柔らかかったら絶対かみませんよ。それからかみ切れないということが非常に大事なことなんだということは、洋子さんの場合本当につくづく教えられました。ある時期、かみ切れないからかむんですよ。
 そうなんですよ。はじめから上手にかんだり飲み込んだりできる子供はいないのです。注意深くいろんなことを考えながら一生懸命工夫して、つまり赤ちゃんに教わりながら育てているのです。とても手数をかけて苦労して、この子はできないとかわからないとかなんてちょっとも考えないで、自然にちゃんと子供を育てているんです。みんな。だけど、自分が子供を育てる時は根本の原理にかなうことをちゃんとやってるのに、苦労して育てた無意識のすばらしい工夫を忘れてしまうのです。ただ要するにかむなんて誰でもできること、それで、食物をいちばん先にかみ出すんだ。だから食物さえ与えればかむようになるんだ。
 かむことだけ考えてちゃだめなんですよ。かむためにはその人自身が自分で口へ持っていくっていうのが大事なんですよ。自分で口へ持っていくから初めてかむんですよね。あるいはもっと言うと見て持っていくからますますかむんですよ。あるいは聞いたりなんかして持ってくる。何か、そういうふうに見たり聞いたりしてもわからないから自分で確かめてみようと思ってかむんですよ。だから食べ物じゃない物をかむんですよ。そんなことはきわめて常識的なことなのにもかかわらず、かまない人には食物を与えてあぐあぐって言えばいいんだとか、下顎を押せばいいんだとかそういうわけわからないことを言い出して、それでそのこどもができるようにならないと、この子供が悪いんだと子供のせいにして自分たちのやり方が悪いんだと少しも反省しないのです。だいいち体全体を動かすこととかむことも関係しているわけ。少なくとも、見ること、聞くこと、手でさわること、さわったものをつかんで口へ持っていくことはみんなかむことと関係しているのです。これまた言い出すと切りがないんで、飛ばしますけどね。
 ともかく、そういうかまない子に対して何をし出すかというと、なるべく清潔にしておきたいっていうね。今度、養うようになっちゃうからね。清潔にしておきたいということにしちゃってね。なるべくかませないような状況ばかり作るわけ。スプーンなんか入れてもパッと出しちゃうんですよね。せっかくその子がスプーンをかもうとしてるのに、パッと出しちゃう。で、口の周りについたら全部ふいちゃうわけ。で、ひょっとすると仰向けに寝かせて足でもって押さえつけて口の中へつっこんじゃう。いや、ひどいんですよ。その子が何だろうと思っても触らせないんですよ。まだ、抱いて食べさせるなんてことして下さるところなんかいいんだけど、自分のまたぐらの中に顔をつっこんじゃって、それでもってぐんぐんぐんぐんつっこんじゃう。それで、子供が食物にさわろうとして手を出すと、今度足でふんづけちゃう。まあそれほどひどい人もいないけど、清潔だとか無理矢理だとか。
 物を口へ持っていくのに食物だと持たないし、口に入れることを拒む子供がいるんですよね。例えば飲ませようとすると口をむっと閉じちゃう子供がいる。で、そういう子供をの口をあけさせようとする時に鼻つまむんですよ。それで、口あけさせてぐっと飲物を入れちゃうんですよ。やり方がものすごく乱暴なんです。長い間、養われてた子供は口の周りが汚れるとすぐにふいてしまう。清潔でよいのですが、極端に口のまわりを汚さないと今度は口の周りが汚れるのを嫌がるようになってしまう。だから手をつかえるようになっても食事の時は養ってくれる人の近くに行って顔を上げて、口を大きくあけて、唇にさわらないようにして食物や飲物を入れてもらうようになってしまう。自分で食べるのが嫌なのではなくて、口の周りが汚れるのが嫌なのです。そのことさえわかれば少しずつ解決する方法があり、やがて自分で食べたり飲んだりできるようになります。 だいたい、食事の場所だからゆったりした気持ちにしなきゃだめですよ。緊張させちゃあ。われわれだって緊張したところで、今日、理事会で飯食ってもうまくないですよ。ゆっくり落ち着いて食べたいですよ。
 障害が重くてそういうことができなければできないほど、ますますできない要素をたくさん作ってしまう。そうしたら受け身になって何もしなくなっちゃうのは当たり前なんですよ。それで言うことがいいのね。この子は何もできません。もう、そうですね、3分の2ぐらいはそういう意味で、その人たちがそういうふうにしちゃったんじゃないでしょうか。
 この間来た子が、下の子を連れてきたのね。それで、その赤ちゃんを抱いてるのね。で、その障害を持った子供が勉強してたわけ。その子がいきなり奈苗さんのだんなさんに抱きついたの。今までそんな勉強中に抱きつくなんてことなかったわけ。それで、そのお母さんに聞いてみたのね。憲ちゃんっていうんだけど、子供の時に憲ちゃん抱いたことあるかって聞いたら、お母さんがそういえばないっていうの。2か月入院してて、そして今度目の手術3回したから生まれてから1年以上抱いたことないって。それで、そういう障害を持っていると今度逆に怖がるんですよね。だから普通の子みたいに育ててもくれないんですよ。はれものにさわるように大事に育てる。普通の子が最低限受けるようなそういうような経験すら与えてもらえないんですよ。だから僕はそういう意味でずいぶん不公平だなと思うんですけどね。
 だけど、そういう意味でかむこととそれからもう一つ立って歩くことね。これは、やっぱり僕はみんな洋子さんから教わった。で、そういう意味で洋子さんに刺激されて研究所も作ったし、このエルピザの里もできあがったわけ。だから、洋子ちゃんがお父さんやお母さんを刺激して施設を作らせた。それで皆さんみたいな方々が集まってきて、大いに賛同されて、これからこの施設がだんだんだんだん成長していくと、いうことになればよろしいんですけどね。その辺をよくお考えの上、子供とおつき合いいただきたいと思うんですね。
 ともかく、実感を大事にするとか、そういう感覚的な受け入れ方、体の部分の使い方が違うんだとかいうことは、最低限こちら側から理解してあげなければいけないことなんですよ。そしてそういうことから人間行動の成り立ちの基本的なことをもしわれわれが教わることができれば、私たちが初めて私たちの常識がまちがっているんだということがわかるわけね。そうするとどういうことが起こるかというと今みたいなめちゃめちゃなこういうGNPの盛んな社会から老齢化へ向かっている日本の社会をどっちに向ければいいかということが見当がついてくるんじゃないかな。と思いますよ。
 僕はだからそういう意味ではわれわれの持っている使命は大きいものだというふうに思います。そして、まされる宝、子にしかめやもなんでね、ぜひ自分のお子さんなんだから自慢していただきたい。それであの人はああいうふうに言って負け惜しみを言ってるんだって言われるくらいに自慢していただきたい。何も、自分が正しいこと言ってるんで、悪いことない。ただ、疎外されるだけですよ。僕なんかもう心理学会から全然相手にされないもん。いかに僕の説がすぐれているかわかるわけですよ。
 というわけで、これからもまた話したいんだけど、あまり話すと切りがなくなるから。本当は30分ぐらいっていうのを、1時間ぐらい話してしまいました。それで、これで止めないともうまた1時間ぐらい話すから、この辺で止めて。それで、何か父兄の方が質問するって言うけど、質問するとまた長くなりますから、これで終わりにします。もしよろしかったら研究所へ見学に来て下さい。土日ですけど。あの、中学校に入った子が二人いますよ。養護学校の高等部に入った子が一人いますよ。この4月に進学した子が。3人ともまだ寝返りもうてません。どんなかわいそうな子かと思うでしょう。実に立派な子供ですよ。そして何でもよくわかりますよ。それでもう僕の大親友です。じゃあ、終わりにします。どうもどうもありがとうございます。
 一つおまけにお話ししておきますけどね。研究所へ5日に洋子さんが来たのね。お母さんが僕のところへ連れてきたのね。洋子ちゃんがこう机をたたきながら近づいてきたわけ。それで、僕とお互いにおじぎをして、そして座ったのね。そしたら洋子ちゃんがここにあった天ぷらをつけるおつゆをいきなりがぼっと飲んじゃったの。どうしてわかったんだかわからない。だけど臭いっていうのはそういうふうに直線的に定位できないものだというふうに言われているんですね。全体的に臭いがしてきちゃうから。例えば、火事なんかでいちばん困るのはどこが要するに臭いもとかがわからないわけ。臭いというのは立ちこめちゃって、非常にそういう位置の方向の定位ができないものだと言われているんです。だからちょっとそこのところはよく考えないといけないのね。それで、僕、考えたの。たたいているというのは、たたいている机の上に何があるかっていうことを、音の変化でよくわかるのでたたくのではないか。そういうことを考えていくと、全然、私たちが子供を知らないということがすぐわかるんですよ。どうしていきなりぱっと飲んじゃったのかわからないんですよ。臭いだけだったらちょっとだめだと思う。いくら何でも。さわらないで、直線的な手を延ばして持って飲むことはできない。こうやって机をたたいているのは、ただ音を楽しんでいるのではないなあ。そういうふうにして考えていると、すごい人だということがわかる。
「すごいですよ。私もいつも思うんですけど、洋子ちゃんのお母さまが声出さないんですよ。足音でわかっちゃうんですよ。そして私の手をぱっと離して、あれっと思ったらお母さまが近づいていらして、私びっくりしたのね。」親の発言。)

 それはね、洋子ちゃんだけじゃないですよ。皆さんのお子さんもそうです。ただ皆さんのお子さんがもう見慣れちゃって、この子はたぶんああするんじゃないかとかこうするんじゃないかと、勝手に親が決めてしまっているけれども実は子供が一生懸命している行動にはもっと深い大きな意味が必ずあるのです。それを勝手におなかがすけばああするとか、親の常識とか都合だけで考えちゃうから、本当にその子供がやっているすばらしい輝きが見えてこないんですよ。実に微妙な変化を感じとって、実に微妙に工夫して反応していますよ。だから、ようく考えて下さいよ。それ考えなかったら育てられませんよ。で、現に、僕も後から気がつくんですよ。(洋子さんがたたきながらやってくる。)こんなことやってくるからね。ただ、たたいて音を楽しんでるんだなあとちょっと思うと、さにあらず。
 (チャイムが鳴る。)あっもう帰れって、あれだ。本当にありがとうございました。お元気で。