「講演」

              区別と自発

        於第4回山梨重複障害教育研究会(H4.1.12)


                           中島昭美


 私、重複障害教育研究所という財団法人の理事長の中島です。どうぞよろしくお願いいたします。昨年に引き続いて、今年も東部市民センターまで来られて講演ができるというのはたいへんありがたいと思っています。

 思い起こすと1昨年の1月は、水産大学の卒業生で黒川君というのが─この話をうちの家内が去年したって言うんだけど、していないですよね。した? 同じ話を2度してはいけないって言うんです。むずかしいんだ。すみませんけど、もし聞いた人は、少しぼけたんだと思って聞き流していただきたいと思いますけれど。

 その黒川君というのはとても学校の先生になりたがっていた人なんですね。ところがあらゆる試験に落っこちてしまってね。面白い人なんでね。横浜国大に1年間の臨時養成課程があって、そこの試験も落っこちてしまったんです。珍しいんですよね。で、偉いやつだなあと思って見てたんです。そしたら、いなくなってしまって。それで、つい最近連絡があって、ドイツへ行っていたんですね。ドイツの航空会社に就職していて、何とかいうドイツの会社なんですけれど。その会社は、黒川君が入ったおかげで全員日本語が上手になったそうです。つまり、黒川君と話をするのに、黒川君、自分はドイツ語が上手だと思っているらしいんだけど、全然通じないんですね。で、とうとう、ドイツの方がみんな日本語しゃべるようになって、非常に喜ばれたという話を自分でしていましたけれど。

 同じデュッセルドルフに日本航空の出張所があって、そこに望月さんという女の人がいて、その人と結婚するということで、僕に紹介すると言ってきたんです。そしたら、その望月さんという人のおじさんが甲府の県知事だった。あれ、甲府の県知事、天野っていうんじゃないのと言ったら、望月っていうんだって。で、望月幸明っていう人が甲府の県知事だということをおととし知ったんですね。その人のお兄さんの娘さんじゃないのかな。それが、平成2年、つまりおととしの1月です。(この講演の後で黒川君からはがきがきて、昨年、つまり平成3年12月16日に三つ児(男子2人、女子1人)が生まれたとのことです。おめでとうございます!!!。)

 で、去年、来て見たら、(「第四回山梨重複障害教育研究大会」と書いた張り紙が突然剥がれる)もうやめろって言うんだ。ああいうことして脅かすの昔好きでしたね。よく入り口に黒板ふきを置いといて、戸を開けるとこうパッと。いちばん悪いのは、目の悪い先生がいて、チョークの絵をここ(机の上)へ、チョークで書いておくわけです。そうすると、それをお取りになろうと一生懸命なさるわけ。で、隣の組でやったから、もうこっちの組でやってもだめだと言うんですね。それが大丈夫だというのと分かれてしまって、やりましたけれど。よけいなこと言うとまた怒られますからね。

 去年来た時には、県知事選をやってたんですね。それで天野っていう人が県知事に出てたんです。おかしいな、もう天野久というのは死んでしまったはずだけどと思って。何で県知事に出るのかなあと思ったんです。そうしたら、その人の息子で石和の町長だということで。それが、今、県知事してるんです。皆さんよくご存じでしょうけれどね。だから、おととし望月さんだったのに、どうして天野さんになったのか、その辺よくわかりませんけれども。今年は、じゃあそういうことが起こったのかと思ったら何も起こらないんです。金丸信が副総裁になったくらいですね。来年、私が来る時には、甲府と石和の間がどういうふうに変化しているのか。

 というようなことで、考えてみると、天野久さんという人をもう知っている人いないでしょうね。見たことある人いますか。あっ、いるんだ。あなた、じゃあお話したことある? 何か、甲府に博物館みたいなのがあって、そこで昼寝しているような人が天野久さんそっくりだっていう話を聞きましたけど、本当ですか。僕は、直接お話したことないけれど、甲府の盲学校にお見えになったから、背が低くてちょこまかちょこまかした人で、お見かけはしました。盲聾の教育を見に来て下さったんだけど、こんな子供教育して何するんだと言ってお帰りになってしまいました。

 そういうようなことを話してると切りがないんで、でも、甲府に来たから、その辺を思い出すわけでもないんだけど、創価大学という大学があるんです。創価学会がつくっていて、わりあいに大きな大学らしいですね。そこの学生さんが12月に二人研究所に訪ねて来たんです。それで盲聾教育について聞きたいって言うんですね。

 どういうわけか、盲聾教育について聞きたいと言って僕を訪ねてくる人がいるんです。それで、それがまたふるってるんですね。僕の盲聾教育を聞きたいんじゃなくて、まるまる先生の盲聾教育を聞きたいとか、その当時の盲聾教育を聞きたいとか言って、僕の盲聾教育を聞きたいわけじゃないんです。これ、非常に困るんですね。人が何をしたか、その時どういうふうに考えておやりなったのかというのを僕が説明すると、僕なりの考えになってしまいますからね。非常にむずかしいわけです。ところが、その時、あの先生は、こういうふうに考えて、こういうふうなことをおっしゃって、こういうふうになさったんだと言うと感心するわけです。で、私が盲聾教育をこう思うと言い出すと、おまえの言っているようなことを聞きにきたわけじゃないというような顔をして、プイと横を向いてしまうわけです。ずいぶん考えてみると失礼な話だなあと思っているんですけど、どういうわけか盲聾教育に関して、そういうふうになってるような状況なんですね。

 本当のことを言えば、当時の盲聾教育を知りたければ、山梨の盲学校に行けばいいんですよね。山梨の盲学校でちゃんとやってたんですから。ところが山梨の盲学校へ誰も行かないもの。行かないどころじゃなくて、山梨の盲学校の人が盲聾教育なんてやってたということを知ってる人がもう2、3人。その人はもう定年でやめてしまうから、いよいよいなくなってしまう。で、もっとよく考えてみれば、当時の成子さんや忠男さんが、今、講演聞きにきていただいた施設にいらっしゃるんだから、直接お会いになれば、その方がずっと私に聞くよりもいいんじゃないかと思って、それとなくお勧めするんだけど、どういうわけか、そういうことなさらない。みんなが盲聾教育、聞きたい聞きたいと言って、次々に訪ねてご覧なさいよ。山梨盲学校だってたまりかねて、何かしなきゃいけないということになりますよ。誰も行かないからあれでいいんじゃないかと、そうなってしまうんじゃないかと思って。

 それで、僕のところへ来て、僕をばかにするようなことをおっしゃってプイと帰っちゃうっていうことをなさってるのはもういいかげんにやめにしてほしいなと、ここで言っても何の役にも立ちませんね。創価大学の学生さんたちはそういうことなかったからよかったけども。

 ところが、ヘレンケラーの話になって、ヘレンケラーはうちが金持ちだったからあれだけになったんだと言うんですよ。金持ちでちゃんと家庭教師をつけられたから、そういう裕福な家庭だったから、ヘレンケラーは育ったんだとこういうわけ。こういうような質問というのを成子さんや忠男さんにも言われるわけなんですね。つまり全国で何千か何万か知りませんけども、その盲聾の中の子の、二人か三人の特別恵まれた子供なんだと。ほかの子供は全く教育受けてないんだと。というのがそういう方の言い分なんです。

 それで、ものすごい大きな勘違いだと僕は思うんだけど、まず第一に、ヘレンケラーがサリバンに教育されたということは僕はないという説なんですね。いわんやあんなに格闘して、無理矢理にやって、あげくの果てにウォーターってわかったんだって。そしたら今度どんどんどんどん言葉がバーっと出てきたというんだって。まあそういう夢みたいな話で、話としては面白いわけです。だから非常に一般的に通用して、みんなワーっとそういうふうな気持ちになるわけ。だけども、ヘレンケラーという人はすごく偉い人なんです。ところが、一方、サリバンという人は、これは、ひねくれ者。本当。もうパーキンス盲学校で困ってしまったわけです。

 まあ、もっともそういうふうに学校の中で体制からはみ出す人は偉い人には違いないですね。偉い人には違いないけれども、ひねくれ者。それで、ヘレンケラーのうちから誰か家庭教師に下さいって言うんで、得たりやおうとパーキンス盲学校の校長がサリバンを追い出すようにして家庭教師に向かわせたわけです。そういうことで出会った二人がどちらが教えられたか。僕はヘレンケラーのすばらしさというものにサリバンがものすごく教えられたんだと思う。だから、サリバンというのはヘレンケラーがなかったら今日のサリバンはなかったんじゃないか。ヘレンケラーの方は別にサリバンがいなくてもほかにルスバン(留守番)だとかフロバン(風呂番)だとか、そういう人がいれば十分に恵まれた天与の才能を発揮してすばらしい人間になったんだから。それをどうも世の中の人は、家庭教師がサリバンで格闘でヘレンケラーを教育したんだと。思い違いをしてるんじゃないかなあと僕は思うんだ。

 成子さんや忠男さんの場合もそうです。本当に私たちは恵まれて教わったことはたくさんあったけど、そういう意味では何一つ成子さんや忠男さんに教わった分だけお返ししてあるかどうか。僕はそれを考えると非常に寂しい気持ちが強いですね。本当に自分自身が情けないなあと思って。やっぱりもう少し自分自身が偉ければ、もうちょっと成子さんや忠男さんにお礼することが、できるのになあと常々思っています。

 僕はどうもそういう点で教育というのはそういうものなんじゃないか。だいたいにおいて教育していると思っている人は教わっているんだと、そういうふうに思ったらまちがいがないんじゃないか。例えば、親が子供を育てている。私は子供を庇護のもとにこういうふうに立派にしました。そんなこと絶対にないですよ。子供のためにどのくらい親が助けられているか。救われているか。本当に何一つ教えていないですよ。そのかわりたくさん教わっていますよ。学校の先生もそうです。この子は障害児だとか、この子はこういう問題行動があるとか、この子はこういう癖があるとか、こういうふうに集中心がないとか、ペロッとおっしゃるけど、問題を持っているのは先生です。集中心のないのは先生ですよ。いいかげんな思いつきばかりやっているのは先生の方ですよ。いや笑いごとじゃないですよ。本当のこと言っているんですよ。

 ただし、学校に帰って、今日中島からそう言われたから本当だなあと言ったら誰も賛成してくれませんよ。教師の集団なんて恐ろしいものだから。突拍子もないんだから。何言い出すかわからないですからね。本当に、もう。またまた変なこと言うといけないけれども、施設もそうです。施設も子供たちが立派なんだということをぜひ世の中に訴えてほしい。そして、こういうふうにすばらしいお子さんなんだということをいろいろちゃんと明らかにしてほしい。そういうちゃんとした使命を持っていると僕は思うんですね。だから、親にしても、学校にしても、施設においても、みんなそういうふうに障害を持ったお子さんがすばらしい、本当にすぐれた、ものすごく偉い人間なんだということ。そして、そういう人と心をふれあわせることによって、初めて魂の感動というものが起こるんだということを、当然のことなんだから、言ってほしい。そして、そういう考えでやってほしい。

 ところが親は親、おれは保護者だってそういう考えなんです。学校の先生は学校の先生、おれは学校の先生だとこうくるわけです。施設の職員は施設の職員、預かってやってるんだ。やってるんだなんてそういうことを言う。まるで、考えが反対なわけです。僕は、そこのところもうそろそろそういう考えを転換する時期じゃないか。何か問題行動を見つけようとしたり、どうやって治すかという方法を考えようとしたり、そんなことばかりやっていたら、いつまでたってもどうどうめぐりになってしまって、結局空回りしてしまう。

 心と心がふれあうということが大事なんじゃないか。感動するということが大事なんじゃないか。おまえ毎日感動していていいのかと、すぐこうくるわけです。結構ですよ。朝から晩まで感動してなさいよ。何の心配もいらないですよ。感動することに何の遠慮もいらないですよ。朝から晩まで感動して、みんなに感動した感動したって言いふらしていくんですよ。そのうち誰も寄ってこなくなりますよ。いいんですよ、一人で感動していれば。今度は静かに感動していればいいんです。まあそのうちお亡くなりになっちゃうでしょうけれど、今度、亡くなったら死後感動してればいいんですよ。あんまり言い過ぎるといけませんけど、やっぱり、なぜ僕がそういうことを言いたいかというと、子供と対面している時にあまりにすれちがっているから。

 去年の12月のことなんですが、毎月1回病院に行くわけですよ。トロンボ値だとか心電図とか血圧とかいろいろやらされるわけです。ところが病院というところはすごく面白いところで、めちゃんこ待たせるわけですよ。本当にすごいですよ。2時間とか3時間待つということは、平気なんですね。それで患者さんが言ってるわけ。こんな状態だったら病気がみんな悪くなってしまうって。本当にそうなんです。第一、お医者さんもそう言っているわけ。外来のお医者さんはさすがにそう言わないけど、入院の方のお医者さんが外来へ通ってあんなことしてたらみんな病気が悪くなっちゃうよってね。お医者さんがそう言ってるんですからね。始末が悪い。ところが、これがまたよくしたもので、患者さん同士がいろいろな話し合いをしたり、いろんなことをやってうまくやるわけだけど。で、心臓病もお子さんの心臓病というのがわりあい多いんですね。川崎病も含めてなんでしょうけれども。東京女子医大も、一時期うんといたけど、だんだん今は他のところでやれるらしくて、減ってきているけども、それでも親子で待っているということがあるわけです。

 で、去年の12月、親子で待っている人がいたんです。患者さんはそのお子さんじゃないわけね。3歳ぐらいのお子さんと親がやりとりしているわけ。何をやりとりしているかというと、数を親が教えているんです。それも、3歳ぐらいの子に足し算を教えているわけです。もう、何でああいうことするのかと思ってゲッとなってしまいますけどね。でも仕方ないですね。もうそういうことやってるんだから。

 3+1とか3+2とか、2+3とかいろんなことを言うんです。すると子供がある時はパッと答えるし、ある時はなかなか答えないし、ある時はまちがえるわけです。ところがお母さんは、子供が何をしてるかということにほとんど興味がない。自分が出した問題にいくつと答えるかということなんです。それが合ってるかまちがってるかということなんです。しかも合ってたら即座に次の問題を出す。例えば3+2と言ったらすぐに5って答えろというわけです。

 今、何か、みんな5って答えるのやってますね。あれよく考えたなあと思いますね。みんな5って答えるんですからね。だから 1000−995かな。5って。僕、あの猿も偉いなあと思ってつくづく見てるんですけどね。今年、さるどしだから猿かわいそうですよ。人間と猿と、行動的な違いが全くはっきりしているのに、何かある場面だけものすごく同じに取り扱われてしまうわけです。で、猿に言葉とか、数だとかわかりっこないとそう思っているのに、教えるわけです。それは、まあ猿と人間との場合なんだけど、この場合は、親と自分の子供となんですね。

 何でも問題出して、すぐ答え出させるんです。で、答えが出たらすぐまた問題出すわけです。そうするとまたすぐ答える時がある。例えば、「4+1」、「5」ってすぐ答えるわけ。「3+2」、「5」ってすぐ答えるわけ。今度「3+3」って言うと答えられないんですね。「4+1」って言うと「5」だから、今度「5+1」って言うと、だめなんです。あれっと思ったら、その子供、指を使っているんですね。で、何をやってるのかと言ったら、左手の指を右手で指しているわけです。だから、「4+1」って言ったら、4というのはこの(左手の)薬指なんです。で、たす1というのは、その子はもう動かさないからどういうふうにするのかわからないけど、動かさないでこういうふうにやって(右手の人差し指で左手の薬指を指して)、「5」って言うわけです。3+2というのも、3はこの(左手の)中指、で、たす2は動かさない。で、「5」って言うわけです。2+2の場合も、2はここ(左手の人差し指)ですからね。「2+2」と言うと「4」と言うわけです。「4+1」、「5」でしょう。「5+1」となるとこれは困っちゃうのね。

 これ、その子がものすごく研究したんだと思うんですね。指を使っちゃいけないとかいうけど、片方の指をもう一方の指で指すというのは、ものすごい研究の成果ですよ。しかも「4」って言ったらすぐ薬指ですもんね。驚いてしまいます。すぐだから。

 普通だったら(右手の人差し指で左手の指を親指から順に数えながら)1、2、3、4ですから。ゆっくりしてる人なら、4というの(薬指)は、1、2、3、4ね。5から数えると1つ手前。2から数えると今度2つ目だとかね。3から数えると1つ目だとかね。いろんなことをやっているわけですよ。そのうちに問題がわからなくなっちゃってね。4というここ(薬指)に達するまでにいろんなことやっているから、あと何するんだかわからなくなってしまうわけ。

 だけども、その子はそんなことみんな飛ばしてしまって、「4」と言ったらパッと薬指、「3」って言ったら中指、「2」って言ったらこういうふうにパッと人差し指ね。

 こういうことをみなさん何かばかにしてるかもしれないけどね。これは人間が道具を使っていくということの始まりなんですよ。人間というものは、いきなり道具を使えないんですよ。自分の手を道具化するというのが道具の始まりなんですよ。いいこと教えてあげたな。今日はこれだけ覚えて帰るだけで、ここの会費がいくらかわかりませんけど十分ですね。人間がなぜ道具を使うかということを根本的に考えるという場合には、両手というものが必要になる。手というものを右と左とに分けて、右手で左手を指すということが何かというと、左手を右手に対して道具化してるということなんですよ。これはすごいことなんですよ。思わずびっくりするような仰天するような事実なんですね。

 ところが、このお母さん全然驚かないんです。知ってや知らずか、知らずや知ってか、どっちだかわからないけど、相変わらず速射砲のように問題を出して。だから、足して5以上になるとできないんだということがわからないわけです。めちゃめちゃに問題を出しているから。せめて、1+1、2+1、3+1ってずっとやっていけば、4+1までできて、5+1ができなくなってしまいますからね。順番に問題を出していけばすぐわかると思うんだけど、足して5以上になるとできないんだということがわからない。

 それで、また面白いんですね。子供がわからない答えの時、フッと親の気をそらしてしまう。これがまた非常にうまい。先ほどの、みんなもご覧になったかもしれないけど、女のお子さんの場合だって、「ウタ、ウタ・・・・」っていきなり女のお子さんがおっしゃるんだけど。ちょっと気をそらすわけです。その先生の場合はがんばっているから気がそれないけど、親の場合は子供がうるさくてしかたないという感じを持っているから、自分の目の前にいるんだけど、気がそれたら、フッと安心するわけです。だから、子供が答えないとかえって親は安心しているわけですね。第一、できてもできなくてもそのうちできるようになるという、そういう考えなんです。だからむしろそういう点ではうまく子供が気をそらすから、けんかにならないわけ。お互いにあれほど意見が違うのに、やってることが違うのに、けんかにならないわけ。子供さんがそういう点で、うまいっていえばうまいんですね。

 そういうことを考えてみても、私たちが教えようと思っている時は、どうもいつも直接的で、性急に答えを要求している。答えが合っているか間違っているかということですね。ところが、答えはいつ出てくるかわからないわけですね。例えば黒川君だって、あらゆる試験に落っこちて、ドイツに行って、ドイツ人に日本語をうまくさせたっていうことなんだから、これは全くどこで答えが出ているかわからない。それを、この答えじゃなきゃいけないんだとこう決めてくる。それ以外の答えはもういけないんだと決めてくるわけです。そうしたら、人間というものは十人十色なんだから、全部答え方はばらばらですね。それを、同じ答えにするというのはちょっと話がそもそも無理なんじゃないかという感じがするわけなんですね。

 そういうことから少し研究会のことに入りますけど。一応、三木先生から、資料を送っていただいて、まだ全体をあまり読んでないんですけど、ビデオは、甲府養護学校の恭子さんのビデオを見せていただいたんです。とてもすごくいいビデオなんでびっくりしましたけれども。本当に、その先生が、初めにも終わりにも、恭子さんのすばらしさっていうものを書いていらっしゃるんで、非常に感心したんです。にもかかわらず、人間が体を起こすということ、座るっていうことは何なのかっていうことを、先生が自分自身に問いかけているんです。

 一つは、腰をちょっと高くするとかえって上半身の背すじが伸びて体が起きるっていうんですね。そのことはどこに書いてあるのかな。3ページ目あたりに書いてあるのかな。座布団使用っていうのは、お尻に5cmほどの高さの座布団をしき、お尻と足の高さを変えるというわけです。この時に、なぜお尻を高くした方がいいのかということなんですけど、どうも、座るということに関して、私たちが非常に簡単に考えていることは、腰を中心にして、上半身を起こしてるんだと思っているんですよ、結局は。ところが、そんな座り方というのはない。つまり、上半身が起きているということは、下半身が必ずあるわけですね。この先生も気がついているんだけど、今一つしっかりしないところは、結局、腰を中心にして腰が接点になってきて、上半身と下半身とがバランスがとれるわけです。つまり、体を起こすということは、ただその人が体を起こしたんだったら、単に腰を支点として上半身を棒のように床面に垂直に立てているのなら、何の支えもないんだから、どっかでひっくり返ってしまいますよ。だから、この場合だったら腰を中心として下半身と上半身とのバランスの上で起きているわけです。それでも、ちょっと後ろをさわってやったらバッと後ろにひっくり返るというわけですね。

 これは、立っている赤ちゃんでもそうですね。近頃は家庭用のビデオというのが非常に進んだから、家庭でもって赤ちゃんの行動を撮って、面白い場面をテレビ局へ送って、テレビ局で編集して出すという番組が増えていますね。その番組の中で、「人生のお荷物」という題で、ちょうど歩けるようになったお子さんに、リュックサックだけど中に何も入っていないから全く軽いものなんですね。リュックサックを背負わせると、みんな後ろへひっくり返ってしまうわけです。これは、典型的によく撮れている。これは、後ろの触刺激に対して反応しているわけです。で、その同じ番組なんだけど、別の場面で、今度、ちょっと赤ちゃんが持てないような重い物を持たせるんです。すると、当然持てなくてバランスを崩して転ぶだろうと思うと、さにあらず。よいしょよいしょと持って歩いていくわけです。要するに、上半身と下半身というものが必ずあるから、上半身だけで体を起こすということはできないわけです。下半身というのはそれに対抗したある力というものを持っているわけです。

 したがって、ここに座布団でもってちょっとでも上げてあげれば、今まであぐらでべったりとお尻がついていた状態に、傾斜がつきますからね。傾斜がつく以上、前傾をちょっとすればよけいふんばるようになって、上半身を伸ばして自分で体を起こして、この前傾を支える下半身とのバランスがよくなるわけです。だから、腰を5cmほどって言うけど、5cm上げたら、それはもう断然支点というものが、べたっとしたのじゃなくて、きちんと支点化するし、上半身と下半身との接点の役割も明確になる。下半身がちょと下がるからものすごく使いやすくなるわけです。そうすると下半身が使いやすくなるから、したがって上半身が伸びるわけですね。

 で、この後ろをさわるとひっくり返るというのは、ひっくり返るということで、これが反射かどうかと言ってごてごてごてごて議論しているんですけど、僕は反射でも何でもかまわないんですが、その人自身が意図的に運動を起こしているということを言いたいわけです。後ろの触刺激に対して、後ろへのけぞる運動を意図的に起こすわけですよ。これは人間の体を起こすことの中で、自分自身を支えるために非常に重要なことなんですね。

 つまり、さっきお話したけど、猿ですね。どうも人間というとすぐに猿と比較するんです。何で猿と比較するんだろうと、僕、不思議でしょうがないですね。で、今年特にさるどしだから、本当に猿がいい迷惑だと思うんだけど、そもそも、人間が体を起こすということを考えた時に、仰向けで寝ているということを考えないとだめなんですね。仰向けの姿勢が人間が立って歩くために必要なんです。だからお猿さんを仰向けで寝かせなければだめなんです。話はそこから始めなければだめなんですよ。僕は、東大の助手をしていた時に、科学研究費でゴリラを買おうということを言って、先生方に一笑に付せられて、全然僕がいくら一生懸命に言ってもだめだったけどね。僕は、絶対にいちばん大事なことは、後ろに仰向けに寝かせることだと思うんですね。これをどうやってするかということ、これがいちばんむずかしい。

 やたらに言葉を教えて言葉が話せるようになったんだとか、こういう道具が使えるんだとか、そんなの意味がないんです。人間の行動の成り立ちの中でいちばん重要なことは、仰向けの姿勢なんですよ。ひっくり返って仰向けで寝ていることなんですよ。これは当たり前のことではない。すばらしい、人間としてのものすごい重要なことなんですよ。ところが、これが全然わからない。いくら水産大学でこの講義をしても学生がどうしてもわからない。まじめに聞いている学生ほどだめ。もうレポートを書かせると、すぐ、四つ足でもって、前から立ち上がったんだって、そればっかり。それで手が浮いたんで手が使えるようになったんだって。どういわけか神話化してしまってね。

 だけど、子供を見れば絶対にそんなことないですよ。いくら出生率が落ちたっていっても、わが国でも1年に百二、三十万の子供が生まれているわけですよ。だから百二十万もの子供を育ててるわけですよ。それなのに、何で仰向けの姿勢が人間行動の成り立ちの基本だということがわからないんでしょうか。僕は、ちょっとこれはいいかげんなことではすまされないと思いますよ。そしてこれは、医者や心理学者やそういう連中に責任とってもらわないとね。こんなところで言ってもしょうがないけれど。ちゃんとした責任とってもらわないとね。

 何でそういうふうに四つ足と人間のはいはいとをいっしょにするんだ。これも困ったものなんですよ。動物が四つ足で移動してる。人間がはいはいしてる。おんなじだとこうくるわけですよ。全然違いますよ。人間は、四つ足で移動していないですよ。足は使ってないですよ。膝を使ってるんです。手は手のひらを使っているんです。そんな、四つ足でなんか移動してないですよ。はいはいと四つ足の移動の区別くらいなぜつかないのか。僕は本当に動物学や比較行動学や心理学に文句を言いたいです。何でそんな簡単なことがわからないのか。わからないはずですよ。障害の重い子を全然相手にしないから。どこが病気なんだ。なんとかなんとか病で、で、何歳の頃何して、こんなふうに発達が遅れてしまったとか、そういうことばかり言っている。

 だから、午前中にどういうビデオをご覧になったかわかりませんけども、この甲府養護学校のこのお子さんのビデオの何がすばらしいかといったら、体を起こしているところですよ。毅然としているでしょう。なぜ毅然としているか。理屈にあっているからです。人間行動の成り立ちの理屈をビシャッと実行しているからです。いいかげんなことをしてないからです。そこのところが私たちにひしひしと感じられるというところに、この障害の重いお子さんの示す行動の深い意味というものがあるんです。そういうお子さん見てたら、やっぱり、猿なんか見て思いつき程度に人間行動の成り立ちを考えてはだめだということが、はっきりわかりますよ。私たちに誰が本当のことを教えてくれるのかということが、はっきりわかってくるわけですよ。そんな動物学だとか比較行動学なんていうのは、でたらめきわまりない。よくあんなでたらめが言えると思うくらいいいかげんなんです。

 だから、誰に聞くこともいらないですよ。目の前にいるお子さんに教わること。これが非常に大事なことです。でないと、猿が迷惑しますよ。本当に今年はさるどしだからかわいそうでしょうがない。もし、猿が仰向けだったら背中に毛がないですよ。こうやって仰向けでこすりつけるから、毛がみなすり切れてしまいますよ。寝たきりの子供見てご覧なさいよ。すぐわかりますよ。頭の後ろがはげてますよ。すぐわかる。ああこれは、古く長くお休みになってお暮らしになってらっしゃるということが、すぐわかりますよ。人間行動のいちばん最初の段階で深く沈静されているということがすぐわかりますよ。

 それは、猿なんかをいきなり立たせようとかね。いいですよ、別に猿が立ってもね。それから猿が芸をしてもいっこうかまわないですよ。手を上げてもね。何してもかまわないですよ。それから、言葉使ってもかまわないですよ。だけども、それは演芸なんだから。

 人間行動の成り立ちというのを私たち自身はもっと深く考えていかないとね。自分が自分を見失ってしまうから。現実にみんな見失ってしまっているんですよ。自分を。見えてないんですよ。見えてないから突拍子もないことなさるわけ。もっとちゃんと自分が見えてくれば、それはとんでもない考え違いだったということがわかってくるわけですよ。

 だから、この甲府の方もそうですよね。結局は、腰を上げるとなぜ上半身が安定するのか。背中をさわるとなぜ後ろへひっくり返るのか。ところがある状況で背中をさわっても後ろへなぜひっくり返らないのか。そういうことから、いったい体を起こすということがどういうことなのかということを、やっぱりしみじみと考え直す。つまり、そういうことを通して、人間の成り立ちの根本を見つめる。ああそうか、人間っていうのは、こうやって体を起こしてるのか。だけどこれがまた不思議なことで、体を起こすことぐらい何なんだっていうことになってしまう。立って歩くぐらい何なんだって。立って歩くことは、三半器官や前庭の仕事で、大脳の中枢の問題ではないとこうくるわけ。だけど、この先生も、仰向けで寝たきり、横向き、体を起こしたそれぞれの姿勢で、目の使い方とか手の動かし方が全然変わってくると書いてある。

 つまり、私たちが何で姿勢を変えるのか。1日に同じ姿勢でいないで、ある時は座って、ある時は立って、ある時は歩いて、ある時は寝転んで。同じ座っていても、いくつかの座り方があるし、同じ立っていても、これもいくつかの立ち方がある。歩き方もそうね。まあ大体において、人間の姿勢をいくつに分類するかと言ったら、大体24通りくらいに分類するのが僕は適当じゃないかと思っていますけどね。これはまあいくつに分類するかということは、それぞれの人の考え方で、いろいろ考えなければならないかもしれませんけどもね。

 だけどいずれにしても、そういうことを通して、人間が組み立てていく。つまり新しい組み立てということが起こってくる。で、そういう新しい組み立てというものが起こっていくというところに、人間の持っている非常に人間らしい行動というか、深さというものがそこから出てくるわけ。そういう組み立ての中から、だんだん、例えば、直接的だったものを間接化するだとか、全然関係をつけなかったものをだんだん関係をつけていくとかね。それからそういう意味から言うと、その人自身が自分でいろんな意味で状況に応じて新しく組み立てていく。だからいつもその人にとってはものすごく新しいんですよ。体を起こしたこともその人にとってはものすごく新しい。座ったことも新しい。立ち上がったことも新しい。歩いたことも新しいんですよ。

 そういう新しい新鮮な感動に満ちた世界というもの、そういうものの中にいるわけです。で、もし私たちがそういうことの世界の中からちょっとでも外れているとすれば、それは私たち自身に問題があるんじゃないかということなんですね。

 で、そういう自発みたいなものを考えていくと・・・、あと17分しかないんですね。あと2、3時間かかるんだけど。困ったな。だんだんみんな寝てしまって、僕だけが一人話しているということになるのかな。 体を起こして歩くなんて意味がないんだ、当たり前のことなんだ、誰でもできることなんだ。それで、それは反射なんだというふうに考えるとすれば、それは根本的に考え違いなんじゃないか。つまり、そういう姿勢の変化の中に、実は、言葉の問題とか、道具を使う問題とか、それから集団で生活する問題とか、全部、人間が自発的な状態で世界を作っていくそういう状態というものは、そこを土台としているんじゃないか。つまり、人間が体を起こして立って歩くというところに集約されているんではないか。だからそういうところを無視して、道具だとか言葉だとかそういうものをいくら考えてもだめなんじゃないかということが、僕が力説したいところなんですね。

 何か言葉というとすぐに音声言語だとか、文字言語だとか、発信だとか受信だとか、そんなことばっかりで、なぜ言葉を使うのか、その子にとって言葉を使う意味があるのかどうか。これは、たぶんここにいらっしゃる方は、言葉を獲得するのに本当は苦労したんだけど、にもかかわらず、今、苦労した覚えがないわけですね。例えば、長い間字の読み書きができないで、困ったという経験がみなさんないんですよ。だから、そういう人が言葉を使っても言葉の本当の意味というのがわからないですよ。

 僕は、一則君という人のお母さんが非常にいろんなことに達者な人だったんだけど、目に一丁字もないね。昔は小学校も出なかった人がずいぶんいたんですよ。だからとんちはあるし、話はうまいんだけど字の読み書きは全然できないという人がいたんですね。たぶんお母さんがそうなんじゃないかなあと思ってたんだけど、そういう人にいきなり変なこというとその人の自尊心を傷つけるからと思っているうちに、向こうから、先生、字を教えてくれって言ってきた。それから、得たりやおうとそのお母さんと一則君の合宿の時、一緒に勉強したことがあるんです。ところがもうすごい勉強熱心で。一則君は勉強ぎらい。だけどお母さんはものすごく勉強する。だからもうまたたくうちに字が読めるようになりました。

 で、そのお母さん字が読めるようになって、いちばん最初に何したか。家が柏から初石というところへいく電車なんですけれど。東武野田線なんだけど。上野から常磐線へ乗って柏へ行く時に、それこそ本当にちょこんとお子さんが座るように、窓の方向へ座って、それで停まるたびに、「みなみせんじゅ」、「きたせんじゅ」、「あやせ」、「かめあり」、「かなまち」、「まつど」と、停まるたびに駅の名前をきちんと読んでいる。僕は本当に感激した。なるほど言葉というのはこういうものなんだなあと。

 この話には後日譚があります。字が読めるようになって何がわかったのか。御主人のへそくりのかくし場所や浮気などが手にとるようにわかってきた。しかし、一則君のお母さんは御主人に自分が字が読めるようになったことを言わなかった。相変わらず字が読めないふりをしていた。それで、もうこれ以上主人のへそくりや浮気がないという時点まで我慢して、一網打尽にしてしまった。女はこわい。特に奥様はこわい。

 ただ、言葉を知ってるだけではだめなんですね。言葉を知ってるとろくなことないですよ。だから、言葉は知らない方がいいわけ。だから相手が覚えたくもないのに教えるのはやめた方がいいわけ。というとまたちょっと・・・。あのね、僕の言っているのは極端な意見ですからね。だけど正論なんだ。正論なんですよね。正論というのは常に極端になってしまうんです。

 だけど本当に言葉を教えるか教えないかというのは非常に大きな問題で、その子が言葉を知っているというだけではだめなんですね。その子自身が自分で組み立てるということがなければだめ。自分で分解し組み立てる、そのために区別をするということです。

 いよいよ話があと10分しかないから、ここのY・Yの学習指導という15歳の女の方の指導のことなんですが、字は読めるわけです。ことに漢字なんかは結構読めるわけです。ところが、書くことはいろんな意味で問題点があるわけです。先生は書くことをいろいろ教えようとしているわけ。ここでいちばん大きな問題点は、その子は読むという段階においては、わりあいに文字としてまあ仕方がないという考え方なんですね。ところが、書くということになったら、これはかたちというものを無視できないわけです。

 いちばん典型的に出ているところは、目というのと月というものなんですね。先生は何月とこう書かせたいわけ(「月」と板書)。ところが、子供は「月」と書かせようとしてもどうしても「目」と書く。それで、わりあいに先生に譲る子なんだけど、ここだけはどうしても譲らない。これは、その子にとっては譲れないんですよ。なぜ譲れないかというと、これは、かたち上、譲れないわけ。それは、線というものは引いた以上、お互いに関係しだすわけ。

 それで、どちらかというとまず囲いが心配なわけです。それで、全部囲ってあるということは本当は非常に大事なことなんです。こういうふうに(「月」の下の部分のように)ぬけているというのは、これはよくないことなんです。ここに(「月」の右下に)はねるなんて付いているのは、実はそういう考えなんですね。これは何気なく付いているように見えるかもしれないけれど、実はここに線がありますよというものなんですね。そうでなければこの線はもっと他のところへ続きますよという考え。終わってませんよという考え。そういう考えなんです、このはねるというのは。だから昔は書き取りの時は、はねるというのはものすごくやかましくて、できたと思ってもどうしてまちがっているかわからないんですね。ところがそれがちょっとこうはねて・・・、もう昔の話はよそう。大変だ。ますます時間が足りなくなってきた。

 それで、かたち上、問題点は、つまりこの子はこっち(左の縦線)から書いて、こう(右の縦線)書いたわけ。そしたらこう上にふたするでしょう。そしたら、どうしても下もふたしなければ具合が悪いわけですね。仮に、下にふたをしないで、もう一本この中に線を入れるのだったらどこに線を入れるか。できるだけふたしたこれ(上の横線)に近く入れなければだめ(「月」の3画目)。そうすると、もう一本、線を入れなさいというわけです。そこで問題になってしまっているわけです。もう一本線を入れるというと、ここ(「月」の4画目のところ)に入れるんだったら、ここ(下の空いているところ)に線を引かなければだめですよということを言っている。で、もうこの子はどうしても聞かないわけです。別にわけのわからないことでワーワー騒いでパニックを起こしているわけではない。先生の方はそれだと「目」になってしまうから、子供の引いた下の線を消してしまって、「月」にしてしまって断固譲らないわけです。それぞれ言い分があるんですよ。

 要するに文字としてとらえるか、かたちとしてとらえるかなんですよ。よく漢字が好きな子がいて、字を書く時に、閉合性・左右対称性などのかたちの要因や一筆書きに厳密な字を書く子がいるんですよ。非常にかたちにこだわっている子なんですよ。何か、すごい印で押したような固い字みたいに思われるかもしれないけれど、その子自身がかたちの組み立てというものを非常に考えているわけ。で、何といっても外側というものが非常に大事。それから、何か書けば書いたものに影響されているということ。つまり、ただ一つの線というのは引けないということ。ただ一つの線を引いたら、必ずその引いた線に対して何かないとバランスが取れないから。だから、つまりかたちというものをどうして人間が考え出したかというそういう問題になるわけです。もっと言うと、直線ということの問題になってくるわけです。

 この直線ということが、何でまっすぐなのかということです。よく学校では2点間を結ぶということが非常に好きなんですね。こういうふう(左の1点から右の1点へ線を引く)にね。ところが2点間を結ぶというのは非常にむずかしいんです。どうしてむずかしいかというと、ここ(左の1点)が出発点だとすると、ここ(右の1点)がゴールでしょう。すると、ここ(左の1点)が運動を始める始点なんですね。ところがここ(右の1点)は運動を止める終点なんです。だから、せっかく右なら右の方向に始めた運動をここ(右の1点)で止めなければいけないわけです。そうすると、少なくともこの真ん中あたりで、運動の内容が変わってしまう。もし変わらなかったら、ポーンってこうなってしまう(そのまま大きくそれていく)わけです。左右の二つの点が同じ点ですか。左の点は運動を始めるための点、右の点は運動を止めるための点と、全く異なった意味をもつのです。

 この子は音に敏感で先生がキュッキュッて言う音が好きなんですね。キュッキュッという音に反応するわけです。ところがキュッというのは始める合図だから、止められなくなってしまう。だから、ここにも例題が出てますけども、止まってないんですね。7ページ目ですね。6ページ目もそうですね。止まってないんですよ。これ、どっちかというとよく書けてる方なんだけど。角というのが出るのは止めて、あと方向を変換するんだから、これはまたちょっとややこしくなってくるわけなんだけど。

 だけども、いずれにしても直線というのは二つの間をつなぐ関係化なんですね。それで、しかもいちばん能率のいい方法で、エネルギーを少なくすることを考えているわけです。そして、なおかつ、だんだんだんだん線を引かなくても引いたつもりになるように微少化するわけです。だから、その子にその子なりの関係化、省略化、微少化というものが起こっているわけです。ただ、起こっているんだけど、にもかかわらず、その子自身が、あるところを強調してしまったり、それから、どうしても、もう一つ頼りにするところに基づいて次の行動を起こすという寄りどころとするようなところが隠れていたりした時に、そこがわからなくなってしまうわけです。

 だけど、かたちというものがそもそも何なのか、直線というのがいったい何なのかというそこのところを考えていくと、で、これはいったい何のためにこういうことが起こるのかというと、結局は最後はバランスの問題なんです。結局は、体を起こして、背すじをぐうっとこういうふうにしたことと同じなんです。で、そういうふうにぐうっとしたことというのが何なのかというと、一つの力で棒みたいになるわけじゃない。ある力が加わればそれに対抗して力が加わって、それに対抗して力が加わってバランスがとれ、次第にバランスがよくなっていくというふうになってくるわけです。

 それで、もう一つ大事なことはここでねじるということなんですね。ここに、最初のお子さんの場合に、湾曲とか足のねじれみたいなものを心配されているんだけど、それは心配は心配なんだけど、にもかかわらず、人間の体というものがねじりというものを基本にしているんだということ。もしねじりというものがないと、人間は体を起こすことはできない。実にそこはうまく首だとか腰だとか足首だとかに全部ねじれがあるわけですよ。で、こっちにねじれば、こっちにねじり返すというようにね。そして、こういうバランスとねじれのバランスと両方あるわけです。ここに垂直に体を起こす、立つというものが出てくるわけです。直線なんていうものは棒じゃないんですよ。いくつかの棒が重なり合ってまっすぐになるんですよ。

 ついにとうとう4時になってしまったから、続きは、22日の水曜日に研究所で話しますので、よろしければ、研究所にいらしていただければここから先の話は・・・というのは嘘です。間野さんに毎週ビデオを送っているから、ビデオを見ればここから先はわかるわけです。

 時間になってしまったから、本当はもっと細かなことが大事なんだけど、にもかかわらず、他に間野さんや津布工さんのご研究もおありになるんで、言い出せばきりがないんだけど、にもかかわらず、子供たちに教わるためにいちばん大事なのは、親だったら親らしくなく、学校の先生だったら学校の先生らしくなく、施設の職員の方だったら施設の職員の方らしくなく、もっと気楽に心の底からお子さんとつき合って、子供の魂のすばらしさにめったやたらに感動すること。そうすると、子供がしてることが何でもすごいように見えてくる。それで、新しい新鮮な力が湧いてくるんですね。

 そういう単純な何でもないようなことの中から、よく考えて深く内面化していくと、本当の意味の人間というものが浮かび上がってくるわけです。やたらに複雑なように見えるようなものはみんなそういう意味でだめなんですね。単純で何気ないないようなものの中に、まあ自然というようなものもそうですね。そういうものの中に、深い内面化できるようなものがあるわけです。

 終わります。どうもご苦労様でした。