障害の重い子供の輝きに感動して
─人間行動の成り立ちの本質を求めて─
東京都肢体不自由児協会総会講演
平成4年5月13日 於・都立光明養護学校
中島 昭美
私、ただ今、松山先生から紹介にあずかりました中島でございます。どうぞよろしくお願いいたします。総会をおうかがいしてて、たぶん長引くんじゃないかと思ってたんだけど、いきなり、3時40分までだと釘を刺されました。うまく3時40分で終わればいいけど、終わらなかったら、勝手にもう帰っちゃって下さい。遠慮することありませんから。
思い起こしますと昭和58年の、今から9年前ですけど、ここで1回講演したんです。やはりこのくらい先生方がいらっしゃった。近ごろ、あまり人数の多いところで話すことが少ないんで、さっきの議長さんじゃないけれども、ちょっとどきどきしちゃうんですけれども、その当時いらっしゃってた方がまたお聞きになっているということは、もうほとんどないんじゃないかと、思います。それでもその時光明にいらっしゃった先生で、一度新宿へ出られて、それでちょっとお体を悪くなすってまた光明へ戻られてる先生もいらっしゃるので、あるいは、2度聞く方もいらっしゃるかもしれません。いかに私の話が進歩してないかということを、ぜひ聞いていただきたいと思うんですけれどね。前、聞かなかった人はちょっとわからないですね。
こういうあれですから、まじめに聞くという方はごく少数なんですね。大半は、不まじめとは申しませんけども、興味本位というかな、中島というのはどういう男なのか、その顔でもまあ見に行こうかってな調子だと思いますね。中には、寝にきてる人もいるんです。ちょうど昼飯食べて、寝るのにちょうどいいからね。私の話を聞きながらゆっくり寝ようっていうね。でも考えてみると、私の話が寝るために役に立つんだったら、私はそのためにも話したいという気にもなってるわけですね。あの、冗談で面白かったら笑ってもらいたいんですけれど。下手な落語家がよくそう言うんですね。ところがあまり水大で講義しなくなったんで、そういう意味で、寝てる人を相手に講義することがなくなっちゃって。ここは、会場が机がないんで、机にこうがばっと伏せて寝ることができないんで寝にくいでしょうけども、後ろのマットの人は横になっちゃって、寝ちゃってかまいません。やっぱり横になって人の話を聞くというのは大事なことだと思うんですね。仰向けだとか横だとか、必ずしも体を起こしててきちんと聞いてたから、ちゃんと聞いているとは言えないと思うんですね。だから、そういう意味でいっこうどういう姿勢で聞かれてもかまいません。
本当は、私は今から5年くらい前に心筋梗塞でお亡くなりになっちゃって、今はいないはずなんです。今の会長の松山先生が水産大学へ1年間内地留学したんですけども、その年に広島で倒れて、私としては目を開いてみたら松山先生が上からこうのぞいているんですね。ああそうだ自分は棺桶の中にいるんだ、棺桶の外から松山さんのぞいてらあと思ったのに、ここでこうやってお話ができるんだから、やっぱり人の成り行きはどういうことで変化するかわかりませんね。で、松山先生が言うには、去年より今年の方がさらに元気だと、だからあなたは都肢研に来て講演なさいと、だからあまり元気に見えるのも考えもんなんです。だけど、その後が泣かせるんですね。やっぱり学者の先生は現場を知らないことが多い、現場をきちんと知っている先生に話をしてもらいたいと言われたんで、私はのこのこと出かけてきたわけです。
まあそういうようなわけで、これからごく短い時間なんですけども、障害児教育のことをお話したいと思います。ある学校の1年間の、これは肢体不自由対象じゃないんですけども、養護学校の記録というものが放映されて、そうすると、やっぱり持久力、忍耐力、集中力を養うというんですね。で、やることは廊下の雑巾がけとか、日常生活のしつけですね。さらには駆け足、体操だとかの体育、それから自立のための木工だとかパンの製造だとか、そういう実習。それからやっぱり1年間を通して子供が変わっていく様子を見せるわけなんですけれども、どうも甘やかされているんでわがままを直すとか、社会的に自立できるように育てるなどという考え方は、具体性を持ってて、特に自立して迷惑をかけないで生きるというようなことで、今の充実ということを無視して将来の心配ばかりしている人にとってとっつきやすくて、いい考え方ではあるんですね。ところが残念ながらそれが本当の意味で子供の理解を通してというかな、そういう子供の理解というのを基礎にして行われないで、表面的な思いつきで、じゃあこうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃないかというようなことでやられると、どうしても機械的な禁止や強制が多くなってしまう。それで、その無理強いしていると、やたらと子供の障害が重く見えるし、何かわからないできないことが多い。そしてどうもこう子供が悪く見えるという、そういう言い方はよくないんだけど、できが悪いような感じにだんだんだんだん、見えてきちゃう。そして、折角の可愛い子供が厄介者で、自分が重荷を背負っているような錯覚に陥ってしまうということが、やっぱりちょっと心配なわけですね。つまり、発想法としては自立とかわがままを直すとか忍耐力をつけるとかいうような発想法なんだけど、具体的にやっていることは機械的な押しつけだと。で、機械的な押しつけを繰り返すと子供が小さく見えてきちゃう。なぜなれば、自分の気持ちが小さくなってきちゃうということだと思うんですね。
この間も障害児のことで、裁判で国家賠償法の問題だけがクローズアップされる。それで、遺失利益がどうのこうのというのをさかんにやるんですね。何か見当外れなんです。で、そのどういうのか、やっぱりそれじゃあおまんまが食えないとか、将来が心配だとか、親が死んだらどうするんだということを言うんで、その点は具体的なわかりやすいことなんだけども、障害の重い子供の行動の意味というものが理解されていないんじゃないか。何か色眼鏡で一方的に見てるんじゃないかという気がしてならないわけです。ところが、そういう色眼鏡で一方的に見てるというのは、本当に大多数の意見ですからね。だから大多数の意見だからそれが当たり前のこと、それが当然のことというふうに見えちゃうんですね。よく固執的でわがままだというけれど、子供たちより私たちの方がよっぽど固執的でわがままなんじゃないか。そういうことを考えないで、こちら側を考えないで、自分を考えないで、人をいろんなふうに評価をして、こうすればいい、ああすればいいということをやって、だんだんだんだん押しつけていくというのは、やっぱり人と人とのつきあいではまずいやり方で、本当の意味で人間同士の心のふれあいというのが起こらないんじゃないか。やっぱりその人が生きて暮らして、それでその人自身がりっぱに、ある意味で本当に外界を受けとめているし、その受けとめ方の素晴らしさというのにどうして感動しないんだろう。というふうに僕は不思議でしょうがないわけですね。ところがこれが見方によると、どうしてこの子に感動するんだろうという逆にそういう見方になるんだと思うんですね。やっぱりそこでいちばん問題になってくるのは人間とは何か、人間行動の成り立ちのいちばんもとは何か。そういう問題を考えないでただ表面的な事象や、ある固執的な行動とかそういうふうなことだけを取り上げるということが、いちばん基本的に問題点なんじゃないか。
朝日新聞に急性のリンパ腺の白血病で7歳8か月で亡くなられたお子さんのおかあさんが自分の子供の記録を書いているんですね。で、表題で『死を見つめたまいちゃんの3年』というのかな。3年の間にその子供が死について考えて、死を見つめて、死を通して神様を知って、生きているということの大切さを深く味わったという記録らしいんですけど、その記録そのものは読んでおりませんけど、やっぱり親御さんがお子さんのひたむきな生き方というものに習っているわけです。
「☆ひたすらに神を見つめて生きし子よ 母も習いて今宵も祈らん」と歌っておられます。障害児の場合も全く事態は同じだと思うんですね。その子ができないとかわからないとか何とかしなくちゃならないということで、何とかしようとする前に、その子自身が何を感じ、何を考え、それで何を暮らしの基準にして、つまりその子自身の人生観というのは何なのかを理解しようとすること、言葉もわかりもしない障害の重い子供に人生観があるのか、というような子供のことを頭から否定するような発想をしないことが大切です。一日中忙しくて何が何だかわからないうちに暮らしている人にこそ人生観があるのかと。ゆっくりのんびりしっかり暮らさないで人生観があるのかと。実は私たちの方に人生観があるのかと問うべきなんで、何もわからないんだ、何もできないんだというふうな決めつけをして、もうその人には人生観なんてないんだというところからでは何も始まらないんじゃないか。やっぱり人を育てるということは、夢でありロマンであるわけです。そういう人と人とのより深い理解を基礎としたふれあいの中からもくもくとわいてくる感動をもとにして教育というものが始まる。つまり、教わるということを通して教えていく。よくそういうことをおっしゃる先生がいるんだけど、本当にその先生が子供に教わっていらっしゃるのかどうか、ものすごい疑問を感じるんですね。学校へ来て学校の悪口を言ってはいけませんけれども、学校があってそれで子供がいるということにどうしてもなっちゃう。
私、1月に1回病院に行くんですね。病院に行くとものすごく待たされるわけです。先月病院で待ってる方が、「老人ホームに向く方、向かない方」という特集の記事を読んでいるんですね。老人ホームがあってそれに向く老人と向かない老人がいて、幸い向く老人ならいいですよ、向かない老人だったらどうなっちゃうかということ。施設も学校もそうですね。やっぱり施設がある、学校がある。もっと言うと、社会があってそこへ子供が生まれてくるわけです。もっと言えば、日本語だとか、それからそういう文化があって、そこへ子供が生まれてくる。合わない子供はどうするのか。合わない子供はだめなのかということにだんだんなってくると思うんですね。そんな社会までぶち壊して一人の子供のために新しい社会作る必要ないじゃないか。そういうふうにおっしゃるかもしれない。しかし、今の社会が変革を求めている。だんだん変わっていかなければならない。そのためにはやっぱり新しい考え方というものを持って新しい考え方で改革していかなければならない。そういう新しい考え方というものを教えてくれる人は誰か。先生方の目の前にいるわけです。一人一人の子供たちですよ。先生が何もできない何もわからない、ただやっかいなお荷物だと考えているその子供たちなんです。いちばん最初の考え方として大事なところは、障害というものを考えていく時に、そういう障害が重ければ重いほど、ある種の透明性というかな、だんだんだんだん本当のことが理解できるんだということです。
例えば、私は視覚障害というところから始まったわけで、視覚障害と聴覚障害を合わせてもつ盲ろうというような方から、そういう方々とのふれあいというところから始めたわけですけれども、このあいだ、目の見えない人の、中途失明の人の記録ですね。どこかの社長さんらしいんだけど、やっぱり目が見えなくなって何もわからなくなると一瞬思ったらしい。で、病院でしばらく暮らしているうちに足音で人の区別がつく。だから、目で見るよりは早いわけです。そして、そっちの方を見なくていいから、面倒くさくもないわけです。で、そのうちに、だんだん看護婦さんが誰かというのがわかるだけじゃなくて、その看護婦さんが、非常にゆったりした気分か、いらいらしているか、それがわかるようになったというふうに、足音を聞いて、だんだん誰かだけじゃなくて、その人の心の動きまでだんだんわかるようになってきたということを中途失明の人が話してました。今までは社長として書類がいっぱいあって、とても面倒くさかったけど、今は全部頭で覚えてしまうから、その点非常に簡単になったって。面倒くさくもないというふうにおっしゃった。で、目の見えない人は普通の人といっしょに伍してやるよりは、普通の人を指導した方がいいって。まあ社長さんだからいろいろな意味で自信もおありになるんでしょうけど。やはり、人間が感覚を制限された時に、ただ単にわからなくなる、失うものが多い、だめだだけではない。制限された感覚の中でかえってわかるようになることがある。特にそれは人の心とか、ある種の人間存在の本質に迫るようなことがわかるようになってくる。
目が見えなくて、耳が聞こえない、そういうお子さんは、触覚だけです。これは何もわからないんじゃないかなというふうに思われるわけですね。で、現実に盲ろうの方というと、暗い音もしない闇夜にもそもそうごめいているというそんなふうな印象をもたれてしまうことも多いわけです。それから、盲ろう児をどうやって教育するのかと不思議がっている学校の先生もたくさんいらっしゃるわけですね。私たちが目とか耳とかを非常によく使うから、これを失ったらという気持ちが非常に強い。何もわからなくなってしまうんじゃないか。ところが、触覚の世界というのは実にすばらしい世界で、本当に人間存在の根本みたいなのを表している世界なんですね。
松本の盲学校の高等部まで、もう卒業された正規くんという方ですけど、盲ろうだけじゃなくて精薄だと言われた。だから点字の読み書きやコミュニケーションなんてできないと言われてたんだけど、中学部ぐらいからだんだん点字の読み書き、それから指文字が入ってきたわけですね。その意味で精薄だという考えが見直されて、今度精薄がかかっているというふうに言われたわけですけれども、この人が本当に勉強好きなんです。月に一回私の研究所にくるんですけれども、勉強に熱中すると、非常に食欲があって昼ご飯食べるの好きなんですけれども、勉強しますかお昼ご飯食べますかと聞くと、昼ご飯は後で、そろばんの勉強しますというわけです。
それで何をやっているかというと、点字の1というのに触って、そろばんに1を入れる。で、はらっておいて、点字の2を触ってそろばんに2を入れる。というふうにして1からだんだんやっていくうちにすごくご機嫌がよくなってきて。で、45、46というふうにだんだんやっていきます。ニコニコしだして愉快そうに吹きだす。心から笑うのでまわりの私達までニコニコしてしまう。これ、何が面白いのか。もちろん私にもわかりません。もちろん私にもわかりませんけれども、私たちが考えなければいけないことは、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10とこう覚えてしまうわけです。でも1の次がなぜ2なのか、2の次がなぜ3なのか、3の次がなぜ4なのか、これを全く考えないでいいものなのか。あるいは、機械的に1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と言っちゃっていいものなのか。たし算もそうなんだけど、かけ算なんかもっとひどいですね。しくさんじゅうろくなんて何が何だかわからないんだけどただ言っちゃうんですね。
やっぱり本当の数というものが何なのか。そして、その数を理解していくということはどういうことなのかということを、何か私たちに基本的に考え直すということを教えてくれている人たちがいるんじゃないか。ただ、いくら教えてもわからない、どうしてこんなことがわからないんだろう。ただ繰り返して熱心に教えていればそのうちわかるようになる。なぜわからないかということがわからなければだめなんじゃないでしょうか。つまり、先生が教えようとしているわかり方がわからないということは、その子供は別のもっとその子供自身のわかり方をしているから、教えようとしていることがわからないだけなのです。教えようとするわかり方も大切なのですが、その子供が創りだした考えもまた大切なのです。そもそも数なんていうのはそういう独創的なもので、その人一人一人が独創的に考え出すものなんじゃないでしょうか。だから現にたくさんのわかり方がある。今教えようとしているわかり方はそのうちの一つにすぎない。絶対にこのわかり方でなければ駄目、このわかり方以外は全部ペケというのでは話になりません。
それで、正規くんが、松本で卓球の選手権があったらしいんですね。どこへでも高等部の先生が連れていくのが好きで、その卓球の選手権へ連れていったんです。もちろんピンポンを見たこともないし、見えないからピンポンをやってることもよくわからない。音も聞こえない。ただ会場にいるだけです。ところが正規くんは非常に興味を持ったんです。何に興味を持ったかというと、何対何というスコアをものすごく気にするんです。それでふだん自発的なことをほとんどしないお子さんなんですけど、今、いくつ対いくつか、いくつ対いくつかということをしょっちゅう聞くそうです。しょっちゅう聞いたということまではみんな気がつくわけです。だけど正規くんが、なぜそういうことをしょっちゅう聞いたのか、ここに正規くんが何もわからないと思うところの問題点があるわけです。まあ正規くんの場合は盲ろうといっても、響きみたいなものは聞こえるわけです。それから盲ろうといっても完全に見えなくて完全に聞こえないという人は少ないんで、例えば、目が見えなくても明暗はわかるとか、目の前で手をちらちらさせればそれは手動というんですがそういうふうなのはわかるとか、形はわからないけれど、そういうふうな明暗とか手動みたいなところはわかるとかね。耳が聞こえなくてもある程度の響きみたいなのは聞こえるとかね。そういうことなんですね。だから、たぶんどっちかが勝って、どっちかが負けると、わあって場内がある種の興奮というかどよめきが起こるんでしょう。そして、そういう場内の雰囲気と数の進み具合との間の関係というものが成立するんでしょう。それが非常に透明な理解として、正規くんの中に入っていくわけです。
私たちが見てるとどっちかをすぐ応援しちゃって、まあ、例えば、今やたらにタイガースが強いですね。だから、ジャイアンツを好きな人としては頭にきてるだろうし。まあ昨日、押し出しで勝ったから、押し出しで勝った勝ったってジャイアンツの好きな人は言ってる。毒蝮三太夫というのがすごいジャイアンツファンで、押し出しで勝った勝ったってさかんに言ってました。トラキチっていってタイガースのきちがいがいてこれはまたいろんなことを覚えてて、うるさく言うんですね。ダンカンって人はすごいタイガースファンで、青田っていう人が大分前に言ったことをいちいち覚えていて、あなたあの時こう言ったでしょう、ああ言ったでしょうってぎゅうぎゅう言わせるわけです。つまり、われわれはその程度の理解なんですよ。僕を含めて。どっちが勝ったとかどっちが負けたとか、そんなことばっかり考えているんです。
もう少し、広い、大きな、深い理解というものが必要なんです。そういう感じ方、そういう考え方というものは、むしろ感覚的な制限を強く受けて、刺激が入ってこない方がそういう感じ方というものがより起こりやすいということは、これはもう確実な事実なんですね。運動の場合もそうです。運動の場合も極端に運動の制限を受けて、運動が起こらないということは何かといえば、それだけその人の運動の組み立てが小さいということ、それだけ緻密だということ、だからそれだけ表しているものは確実ででかいんだということ。まああれですね、日本の能ね。非常に大きく躍動するときもあるけれども、そういう躍動するときは一般的で、本当にその人自身の内面を表すときには、その人はほとんど動かない。動かないのだけど、見かけが動かないだけで、実はより確実にほんの少しずつ動いている。そうして、うんと細かくて、うんと小さくて、うんと微かな動きこそ、能で言えば、幽玄であり、外界をより深く、より大きく、より正確に写し、表しているわけです。
研究所の宣伝で申し訳ないけど、研究所の若い人が、「岩魂」というのを1年間に3冊出している。いつも締め切りがみんな間に合わなくて、もたもたもたもたやって、今度もやっとこすっとこ10号が出たわけです。たぶん、この岩魂をお読みになった人はいないと思います。どこに配っているのか全然わからないし、第2土曜日の勉強会というのが突拍子もない会だから、たぶん誰もお読みになったことがないと思います。10号まで出ているんですけど、誰も知らないと思います。でもね、こういうものが行き渡ってないだけじゃなくて、文部省の手引きもなかなか行き渡らないね。僕が一部担当して書いた「盲児の感覚と学習」という本が30年くらい前に文部省から出たんです。それで出版した年だから誰か読んでいるだろうと思って、栃木県の盲学校の講習会かな、夏の認定講習会があって、そこでその「盲児の感覚と学習」という本を知ってるかと聞いたら、4、50人いらっしゃった講習生の方が誰も知らない。だから、知らないということは大事なことなんで・・・。
それはどうでもいいんですけど、この岩魂の中に、康太くんの話が出ていて、その康太くんというのはだんだん退行して、動きがほとんどなくなっている状態なんです。その康太くんにメロディマットというのかな、それを敷いたところ、その康太くんがおしりでそのメロディマットを鳴らす。どういうふうに鳴らすのか書いてあるけれども、具体的には今晩ビデオで見ることができるんで、まだわかりませんけれど。けれども、康太くん自身の感じ方、考え方、暮らし方、その生き方というものが、ちょうど腰のわずかな動きの中に実に綿密に組み立てられているということなんです。そこがわからないと、私達は人間というものを理解できないんじゃないか。もし、動きの小さい子で、言葉もない子でわからないというのだったら、例えば、赤ちゃんなんか、全然わからないわけです。ところが、赤ちゃんにちょっと触っただけでも、いろんなことが伝わってくる。そこのところをやっぱり考えていただいて、退行して今まで出来たあれが出来なくなった、これが出来なくなったと、出来なくなったことばかり探さないで、わずかな動きの中に、充実した運動が実に綿密に組み込まれていることに気付いて、そのすばらしさに感動することが大切なんです。そのときの状況に応じた自由な、より意味の深い体の部分の使い方を康太くんからもっと教わって、夢とロマンに満ちた、魂を基底としたふれ合いを深く大きく拡げていかなければなりません。
もう一つこの中に貴之くんというのが肩を床につけて、我々が上体を起こすように、下半身を起こす話がでています。よく考えてみると、こういうふうに私達が今普通にやっているように体を起こして頭を上げると、前は見えるんですよ。だけど、自分の体は見えないわけ。ところが、肩を床につけて腰を上げて足を伸ばすと、今度は頭が下にあるので目は下から上を見るようになるけれど、自分の体が見えるわけ。さらに、自分の体の後ろが見えるわけ。これね、前が見えるんだったら、同じように後ろが見えるということは非常に重要な意味を持っているのです。じゃないと、前しか見えなくなっちゃうから。そして、自分の体とか、自分の体の動きとかが全然見えなくなってしまう。だから、外界を自分の体を通さないで見ちゃうわけ。しかも、前だけ一方的に見ちゃうわけ。そしてそれが自分を取り囲む外界だとつい錯覚してしまう。これはものすごく危険なことなんです。人間の目というのはそういう意味で体を起こして見ると、手の運動を調節したり、歩く時に便利だったり、いろんな意味で役立つことが多いというふうにお考えかもしれないけれど、いくつかの欠点があるわけです。
こんなことは世界中の人が誰もしゃべらないから、私だけだから、今ここで聞いていらっしゃる人もそれっきりのものだけれど、まあ100年早いかもしれない。あるいは300年早いかもしれない。人間が体を起こして立つというのは、それなりに欠点があるわけです。まずい点があるわけです。特に、顔を上げて上から見下ろすということは、まあここで私が皆さんをこう見ているということは、ものすごい欠点なんです。だから、やっぱりそこで考えなければだめです。私達は自分の体を見ていないんじゃないか、自分の後ろを見ていないんじゃないか。前だけ見ているんじゃないか。ということなんですね。
そういうふうに考えていくと、目は見るもの、耳は聞くもの、それから、口は食べるもの、それから、手は触ったり持ったりするもの、足は歩くものそういうふうに決めちゃっているんですね。人類というと、すぐに直立して2足歩行だと言われる。だけど、僕は2足っていうことは、足を2本地につけちゃって、移動は便利かもしれない。だけども、本当は4本手を使えるところを2本しか使えないのだから、ものすごく損をしているかもしれない。これを、肩を中心にして、逆にして背すじを伸ばせば、手と足とを使えるから、4つ手が使える。猫の手も借りたいというときに猫の手を借りなくても間に合うわけ。 大体宇宙旅行に出かけて無重力の状態になった時、人類は立って歩くかということです。2足歩行なんて、重力のあるところで人類が身につけた一つの適応なので絶対的なものでも固定的なものでもありません。足は立って歩くものという考えは、重力のある地球上でのことで、宇宙へ行ったら足は立って歩くためにでなく、手と協応して使い方を変えなければなりません。
みなさんね、私は、宗教家じゃないから、何も私の言うことを信じろとかね、そんなことを言っているのではないんです。人間がある枠組みに閉じ込められちゃって、その閉じ込められた枠組みから出られなくなって、その中だけで生活しているという時代はもう近いうちに終るんじゃないか。つまり、私達の文明は、みんな私達の暮らし方に便利なようにだんだんなってきちゃうわけです。私達の暮らし方に便利なようにだんだん文明をもっていくと、逆に私達の暮らし方が固定化しちゃうわけです。体の部分の使い方まで一方的に固定化している。それで、私達の暮らし方が固定化しちゃったことを、私達は最初はものすごく疑問に思っていたのに、だんだん疑問に思わなくなってきた。だから、立って歩くなんてあたりまえ、手で物を持つなんてあたりまえ、ひょっとするとこれは学習によって成立した人間行動じゃない、生得的というのかな、習ったものじゃなくて、生得的に本能でできるもんだというふうな勘違いまで起こってきているわけ。
前に手を伸ばすとか、そんなことは簡単にできることじゃないですよ。やっぱり、前に手を伸ばすという場合には、手というものを物を触ったりつかんだりするようなそういうことのために使うための、いくつかの条件、前段階というものがあるわけですね。そういう条件を一つずつこなしてだんだん起こってきたものです。だから、手というのは必ずしも前に手を伸ばすばかりのものではない。自分の体を触る、口をこうつっつく、それからもっと自傷するとかね、そういうために手っていうものを使っている。もっと言えば、体のバランス全体をとるためにも手っていうものを使っている。
まあ口なんかもそうですね。ある歯医者さんが、歯はかみ砕くものじゃないって。むしろ、感覚器だって言っていたけれども、私達が実行器だと思っているものは、たいていは感覚器。だとすると、感覚器だと思っているものも実行器としての役立ち方がずいぶんあるんじゃないか。特に目なんかはいかにも感覚器のようだけれども、何を見るか、どこを見るかということで、極めていろんな意味で制限を受けている。そういうコントロールというものがどこからきたのか。というふうに私達の人間の成り立ちというものの根本はどうで、どういうふうにして人間行動というのは成り立ったのか。
極めて初期のところでいいんです。そんな、言葉とか道具とかむつかしいことじゃない。むしろ、体を起こして、立つということぐらいまででいいんです。手を伸ばすというところぐらいまででいいんです。そのへんの人間行動というのがどうして成り立っているのか、というふうに考えると私達の体の部分というのは、決して固定化された機能じゃなくて、いくつかの機能を合わせもっていて、その時、その状態に応じて使っているんだということです。
私達の感じ方というのも同じ。それは、あらゆる刺激をたくさん受けているのかもしれない。しかし、全部感じているのではない。だから、その時その状態に応じて、体のどこで感じて、そういう感じ方で何を組み立てて、何を考えているのかというそのことを考えると、障害の重いお子さん、何もできない、何もわからなそうに見えるお子さん、先生方がわっ、始末に悪いな、重荷だなというふうにちょっと思っちゃいそうなお子さん、そういうお子さんが極めて立派な人間行動を組み立てているということ。そういう、すばらしい事実というものに気がついた時に、私達は初めて障害の重い子供とふれあうことができる。魂を基底とした人間同士の本当の心の通い合いです。
そして、そういう夢とロマンの語り合いを通して人間存在の根本というものを理解した時に、私達は改めて私達の社会というもの、私達の持っている文化というもの、そのことを見直していく重要な鍵をわれわれ障害の重い子供たちと共に暮らしている者が担っているんだと、他の人じゃだめだと、障害の重い子供とかかわりあっているわれわれだけが、その将来の新しい人類文化の構築の担い手なんだと、他の人たちはみんな後からついてくるんだというふうに考えれば、まことに気が大きくなって、そんなこうしなきゃいけないとか、ああしなきゃいけないとか、将来が心配だからこれがいいんだとかあれがいいんだとか、一生懸命やればやるほど、何かこう押し付けになって、むなしくなっちゃうようなことがだんだんなくなって、子供のすばらしさが見えてくる。自分の小ささ、みすぼらしさ、情けなさというものが、本当にしみじみと感じられる。ああもっと子供に教わらなくてはだめだと、そして、子供のもっているすばらしさというのを私達は少しでも見習って、そして、新しい考え方・・・。頭が固定して、いつも同じように考えている、そういうコチコチした頭から浮かぶ、くだらない考えはだめだと、ここから本当は話が始まるわけです。
ところが、ちょうど3時40分で時間になっちゃったんで残念ながらお話できませんけれども、ここから先は先生方が目の前にしている子供に聞いて下さい。私に聞くよりずっと丁寧に、ちょっと意地悪く、ばかにしながら、しっかりとゆっくりと教えてくださることでしょう。これをもって私の講演にかえたいと思います。どうもありがとうございました。