平成4年8月6日
重複障害教育研究会第20回全国大会講演
障害の重い子供たちから人間存在の本質としての魂の輝きについて学ぶ
中島 昭美
先ほどからシンポジウムの中で教材の話が出てたんで、やっぱり私もちょっと発言したいという感じになってきました。私の自慢の教材という話から始めたいと思います。
苦労して教材を作るということが非常に多いんです。苦労して作った教材というのはどうしても役に立たないと、とても残念な気がするもんなんですね。だけども、やっぱり、さっき松岡先生が言ったように、自慢の教材ではなくて、自慢の子供たちが本当の使い方を教えてくれる教材ということを考えれば、一生懸命作ったからどうしても使ってもらわなければいけないということはないんで、かえって一生懸命作るとだめなんじゃないかという感じがするんです。
どうも子供とのかかわり合いの中で、大変決めつけが多いんですね。特に個別的な学習というのを学校や施設などでいやがる傾向が非常に強いわけです。そんなことしても意味がないと。これはもうしょっちゅう言われるんで、耳にたこができるほど私は聞きあきているんですけども、そういう個別的な学習をことをするよりは、直接日常生活のしつけみたいなのをきちんとして、少しでも日常生活ができるようにしてあげたほうがいいんだというようなことなんですね。
どうもそういう意味でその子自身が基本的な体の動かし方というか、調整の仕方というのを自分自身で調整していく基本となるようなことというもの、そこを私たちが大事にしなければいけないんじゃないかというそういう気持ちで教材というものがどうしても必要なんじゃないかと私も幅さんと同じように思っていた時期があるわけです。で、教材というのをたくさん作った時期もあるんですね。初期の盲聾教育の教材というのはほとんど私が作ったんで、それこそ自慢の教材がたくさんあるんですね。
なかでも点字活字と言って、あれは本当はかまぼこの板の側面に釘をうっただけのごく素朴なものがいちばん最初なんですけどね。そのために甲府で合宿をしている時にかまぼこをたくさん食べた覚えがあるんです。それは、どうしても触覚的に指先を動かす時に、人差し指をまっすぐ縦に動かすというのが意外にむずかしいんですね。そんなこと何でもないだろうと思うかもしれないけれども、本当にできない場合は私達ふだん目を使って何気なくやってしまっていることが触覚だけだとこんなにまでわからないものかというほどものすごくできないわけです。
いちばんそういう点でこのかまぼこ教材を使ってもらいたいのは本当は中途失明者の人なんですよね。中途失明者の人が点字を読めない場合が非常に多いんです。で、むしろ手先が器用だったという人が、まあ糖尿病だとか薬害か何かで急に失明した時に、盲学校に入るんですけど、点字が読めないんですよ。いくら教えてもだめだと言って先生があきらめてしまうんです。だけど、先生自身が点字を読めるかというと、先生自身、点字をみんな目で読んじゃって、手でさわって読む人は一人もいないんです。それも目で読むから、ぼこっとした出っぱっている方が読みにくいから、逆に穴のあいている方から読んじゃうんですよね。先生自身が自分が目をつぶって読めないようなものを、急に、中途で失明した人でいくら器用だからといっていきなりさわって読めるものじゃないですよね。
で、その読めないということは何かというと、ただ人差し指の指先がまっすぐ縦に動かないというだけなんですよ。で、まずいことに点字というのは縦に2列あって、1列に3点ずつならんでいる6点の点字なんですけどね、2列あるんですよ。2列あるからまっすぐに動かさないとまがっちゃって、斜めに指を動かすとどちらの列に点があるのか、点の位置がわからなくなってしまうのです。つまり1の点と4の点、要するに6つある点の中の左の上の点と右の上の点ね。これがまあ両方あれば「う」という字なんですけど、これが1の点なのか4の点なのか、まっすぐたどれないと左側の点なのか右側の点なのか区別できないんです。ところがまっすぐたどるということは、目で見るとすごくわかりやすいんだけど、触覚的にはものすごくわかりにくいことなんですね。それで、かまぼこの板に釘をうって、それで今度かまぼこの板からはずれちゃったらだめだから、結局どうしてもかまぼこの板に沿って指先を動かすようなことが起こりやすいんで、それで、2列あって縦に3点づつ並んでいる6点の構成なんだということが触覚的にはっきりわかるわけ。
ある盲学校でどうしても点字が読めない、この人は失明する前は自動車の修理工でものすごく指先の器用な人。その人が、先生があきらめちゃってるからと言うんで、かまぼこの板でやったらすぐ読めるようになった。それこそ5分かからなかった。たった5分かからないのが、ひょっとしたらあきらめられちゃって、永久に読めない。ことに、今、音声言語みたいなものが、要するにテープレコーダーなんかが発達しちゃったから、ひょっとすると盲人の人でも特に中途失明者のかたのなかには触覚的に時計が読めないとか、点字を読むのが下手だとかいうかたが、結構いらっしゃるんですよ。で、話すことはうまいんだけど、いちばんそういう方が困っていらっしゃるのは、点字だけでなく例えば地図を出されたり、もっと空間的なことを触覚的に要求された時に、ものすごく困るわけです。
だからそういう意味でかまぼこの板を立てて、その側面へ釘をうっただけでも簡単にできるんです。で、それを盲学校の先生方の前でいくら話しても盲学校でそれを作って使ってくれるところはないですよ。それで、中途失明者の人は、点字読めない、点字読めないと今でも盲学校で言っています。おそろしい話ですよ。自分が目をつぶって指先で読めないものをいくら中途失明者で器用だからと言ったって、必要性に迫られていると言ったって、ほんのちょっとした指先の運動の問題をセルフ.コントロールする過程を自分で納得しなければならない、そこがわからなければ触覚そのものの成り立ちや役割の根本がわからないということがあるわけです。
それからそういう点ではもう一つ工夫したのは、畳をとめる鋲なんですよ。どうも点字の小ささというのがあるんで、もうちょっと大きくしようと思ってね。そうして、畳をとめる鋲を、脚が長いですから切っちゃって、それで、それを板の上にさして、6点の点字を拡大したものとして使う。そうすると、ものすごくわかりやすい。
いったんある段階で基本的な最も大切なことがわかると、そこからはとんとんびょうしなんですよ。だから、そこまでどういうふうにもっていくかということがいちばん大事なところなんですね。後はもうプログラムなんていうのは、本当はもう必要ないんですね。そこのいちばん最初のスタートみたいなところで、その人自身がどこにつまずいているのか、どうすればその人自身が納得出来るのかがわかることが非常に大きな問題なのです。そこにちょうどいい教材というものがあれば、子供がニコッと笑うんですよ。そして私達に何が一番大切な根本的な問題だったかをわかり易く教えてくれるのです。 成子さんの発声の時に使った酸素吸入のマスクだってそうなんですよ。ハーハーってわれわれは息を出せるわけですね。で、例えば、目が見えないだけの人だったら、音が聞こえるから自分で自分の呼吸音が聞こえてきて、呼吸音を聞きながら、ハーハーってこういうふうなフィードバックが起こりやすいわけ。それから耳の聞こえない人は目が見えるから、例えばハーハーってやればガラスがくもるとか、それからフーっと息を出せば、ろうそくが消えるとか、そういうことがあるから、そういう意味で息を出したことによる外界の変化ということがわかるわけ。ところが目が見えなくて耳が聞こえなくなると触覚的な状況だけで外界の変化がわかるということだから、フィードバックする可能性が極端に狭くなって、自分の呼吸が外界の変化としてわかりにくい。それで、酸素吸入のマスクを使って、それで浮袋をふくらませるようにした。そういうふうにしてぐっと浮袋がふくらんで、すごくうまくいったんですけど、これが、教材の持っている大きな役割じゃないか思うんですね。そういう意味では、やっぱりこの教材があったんでよかったなと思うようなことが過去にいくつかあって忘れられないんですね。
ところが、そういう自慢の教材が他の子供に通用するかといったらだいたい通用しないんですよ。その酸素吸入のマスクなんか、例えば一則君という次の盲聾の子なんか全然必要ない。要するにおなかに手をあてて、一則君の掌に息を吹きかけてやったら、一則君自身が自分の掌にハーってやって、何も他のことがいらないんです。ただここへあたった空気だけでできるわけです。教材なんか全くいらず一瞬にして学習が成立してしまうわけです。
だから、教材そのものがよかったわけではないんですよ。その教材をその子自身が使ったその使い方のところに非常に大きな意味があるわけ。その教材を使ったその瞬間にその教材にその子供の心が宿った、その宿った心の方が大事なんですね。そのために私達はさんざん苦労するけれども人間行動の成り立ちの根本の原理を学ぶことができるのです。人間が魂の存在であるという当然のことがよくわかり、魂のすばらしさに感動するのです。さわる、聞く、見るというような感覚が人間行動のなかでどう成り立ち、どんな役割をもっているのか、その一番はじまりを思い知らされるのです。教材そのものじゃないですよ。人間の成り立ちのなかに教材が浮かんでくるから、学習というのは非常に必要なもので、そのためにはできるだけ工夫して教材を作った方がいいという考えですね。
ところがこれがまたプログラム化するんですよ。さっき幅先生がおっしゃったようにね。プログラム化するということは、これは本当にどうしようもないことなんでね。どうしてもこれを使うとこれ、これを使うとこれ、また順序だてないと気持ちが悪い人がたくさんいるんですよ。それで、面白いことにそういう人は、順序だっていると安心しちゃうんです。これがまた突拍子もないところなんですね。
いちばん大事なところは順序が立ってないというところなんですよ。つまり人間の心というものは、順序が立ってないところに心が表れるわけ。さっき質問した方で、非常に論理的に質問した人はみんな面白くないんですね。たった一人、石川先生がわけのわからないことをおっしゃった。そしたらみんながドッと笑ったんだけど、実は、それが心を表してるわけ。そういうものなんですよ。
だから、教材を使っていちばん大事なところは、相手が、いくら使わせようとしてもその教材を使わない、その教材が役に立たない、その教材によって何の変化も起こらないというところがいちばん大事。その教材によって相手がどんどん変化してうまくいったなんていうのは、みんな思い出話としてはいいですよ。思い出話としてはいいんだけども、本当にその人が子供から教わるためには何の役にも立たない。自分がせっかく心をこめて作った教材が何にも役にも立たないというところに本当の教材の大事さがあるわけ。だから、この教材を使っても何もできることがない、何も子供が高まらなかったというところから本当の意味の教材というものが出てくるわけです。
そういう意味では私の自慢の子供たちが心を宿してくれる素材は、日常生活用品であろうと自然界の諸物質であろうとすべて教材であって、そして、そういう働きかけというものは、みんなあらかじめというのはだめ。偶然なんですよ。子供たちもものすごく偶然的に見せかけるわけです。これがまた子供たちの偉いところで、決して、はいはい、はいはいというふうに、こちらが予測した通りにきちんとはやってくれないわけ。ここが子供たちの偉いところなんで、いつもこちらがあらかじめと思っていることに応えない。そして、その子自身もいかにも必然性のない偶然的な積み重ねみたいなことでだんだん私達に考えて工夫する余地と学ぶ機会を与えてくれるし、苦労の本当の意味を教えてくれるわけ。そこが人間の心と心とのふれあいというものなんです。あらかじめなんていうものは、機械とか、科学だとか、偉い学者さんだとか、世の中の支配的な人が考えるもので、そういう意味できちんと決まっていて、設置の目的は何、事業の内容は何、それから1年間の活動は何、そして、どれだけの予算。そういうことを考える、お偉い立場なの。そういう支配的な経営的な、人のことを支配するような人たちのやること。そういうものは。人間の心は表さない。いわんや、人間の魂の宿るようなことがらというものはそこから出てこない。だから、何も感動しない。どんどんどんどんプログラムが進んでいって、表面的機械的な歯車の歯のような人間がたくさんできるけれども、ちょうどコピーみたいになっちゃって、全部機械化されてしまう。というようなことにならないようにするということが大事ですね。何かこれでもう話は終わり?少なくともそういう意味で、教材を通して、子供の独自の自分で組み立てた感じ方とか考え方とか運動の起こし方というものの中に、われわれが子供の心というものを見いだすことができたら、それはやっぱり子供から教わった自慢の教材ということになるんじゃないかと思いますけどね。
教材のことはこのくらいにして、話の本論は、同じことなんです。同じことなんだけど、北海道の先生から、できたばかりの養護学校。平成4年の5月の26日ですね。2か月ちょっと前に開校した小中高とある養護学校ですね。開校記念の要覧をいただいたわけです。校章もちゃんとあるんですね。校歌もきっとあるんじゃないかと思うんですけどね。それと職員一覧、それから学校の概要、運営組織、職員構成というふうなことがずらっと並んでいるんですね。教育課程もあるんですよ。
こういうのがないと安心しない人もいるし、こういうのを見ると気持ちが悪いなあ思う人もいるわけね。どっちが少数派かわかりませんけど、でも僕はいつも少数派なんで、なぜ少数派なのか不思議でしょうがないですね。でもそんなことはいただいた先生に申し上げちゃ悪いんで、ありがとうございました。
大変な歩みなんで、平成3年の7月の2日に校名の案をどうするかという委員会が開かれてから、平成4年の4月1日に初めての初代の校長が決まるまで。学部の目標として、小学部が、強い子、頑張る子、明るい子。中学部が、元気な生徒、努力する生徒、ふれ合う生徒。高等部が、生活する生徒、根気強い生徒、助け合う生徒。学校の教育目標が、児童生徒一人一人の生命を尊び、障害を克服させ、可能性を伸ばし、社会参加できる能力、態度、習慣を育てる、と。ああ、ちゃんとここに校歌もあります。朝日まぶしく輝いて・・・。あの、必要だったら差し上げます。
その中で、児童生徒の様子というのがあるんですよ。在籍数、通学の状況、それで、障害名。いいですか。CP、水頭症、小頭症、てんかん、巨大脳溝症、猫泣き症候群、硬膜化結腫後遺症、髄膜炎後遺症、ライ症候群、急性脳炎後遺症、ヘルペス脳炎後遺症、低酸素虚血性脳症、先天性脳髄膜りゅう、染色体異常、レット症候群、精神運動発達遅滞、筋ジストロフィー、ファーロー四徴症、無酸素脳症というふうに障害名が書いてある。読んでびっくりしちゃうわけですね。
だけど、だいたい子供の様子というとすぐ障害名つまり病名ですよ。そしてその次は日常生活の様子。ADLとか何とか言っちゃって。それで、それがだいたい食べること、寝ること、それから排泄することかな、呼吸することかな、その辺へはどうかな。で、言葉があるとかないとかいうようなことなんじゃないかな。そして、今度、できるとかできないとか言い出しちゃって、そして、おまけに乳幼児の発達テストで何か月だとか、社会性テストで何か月だとか、必ず書いてありますよ。書くなというわけじゃないし、それから別に病気があるのを病気がないと言い張るのもどうかと思うんだけど、でも、それでその子がわかっちゃったと思ったらそうとう大変じゃないかなというふうに思うんですよ。
だけど、障害は何ですか、日常生活は、社会性はどの程度ですかと言うんですね。それでまた都合の悪いことに、だいたい障害が重くて病気がいくつかあるんですよ。それで、日常生活はできないことばっかりなんですよね。それで、今度、乳幼児の発達テストなんてやると、わざと書いてあるのか何か知らないんだけれど、その子に合わないようなことばっかりなんですね。それから社会性テストなんてもうめちゃめちゃ。誰が考えたのか知らないけれど、よくまあああいうふうに人間というものを何て言うかな。その人は科学的に客観的に見てるなんておっしゃるんですね。で、もう言い張って聞かないわけ。それで、とどのつまりがそういう意味でお前のやっていることは客観的科学的根拠に乏しいというふうに、人のやっていることまでよけいなことを言うんですよ。
だから、ちょっと僕もだんだん言いたくなってくるんだけど、そんな子供をばかにするようなテスト、作らないでくれと。もう少しまじめにやれと。そういうふうに言いたいわけですね。どうしてその子供が持っている素晴らしいところをあげないのか。私がとてもまねできないというようなところをどうして言わないのか。魂の輝きをますようなテストが作れないのか。人間が初めて外界を感じた時の新鮮な感動をあらわすテストが作れないのか。ところが、そういうものはすぐ見て目立たないんですよ。何て言ったってすぐ目立つのが表面的なことばっかりなんですよ。だから、結局は、医学的な治療か、問題行動の処理か、あるいは発達遅滞を何とか少しでも食い止めるにはどうするか、そういうことになっちゃうわけですよ。いいんですよ、別にそれで。悪いとは言わない。悪いとは言わないけれど、それだけで人間というのを考えられるでしょうか。人間というのをいつも病人だとか発達遅滞だとか問題行動だとかそういうふうにばかり見ていていいのでしょうか。
例えば僕なんか確かに心臓病なんですよね。だから、本当にいつもお元気そうですねとか、お疲れになったでしょうと言われて困るんですけど。まあ、いずれにしても、病気と言えばみんな病気なんですよ。見かけ上病気ではないように見えるけど、どこか病気なんですよ。僕だったらみんな病名つけられる。一人一人見てね。ちょっと背の高い人は、のっぽ。横のは、でぶ。小さいのは、ちび。はげ。あまり変なこと言わない方がいいな。それから問題行動と言えば、貧乏ゆすりするとか、変な時に声を出すとか、いろんなことがあるんですよ。咳して痰はいたり、おならしたり、キイキイ声をあげたりする始末の悪い人がいっぱいいるんですよ。誰とは言いませんけどね。それで、そういうこと言い出したら本当に、別に反抗するわけではないけれど、きりがないですよ。
むしろそういう意味で私たちがやっぱりちょっとわかりにくいけれどその子自身が確かに持っているようなものがあるんじゃないか。ということを考えていかないとね。
例えば、中学部まで寝たきりだというふうに言うと、障害がうんと重くて、病気が重篤で、発達が遅滞していて、大小便たれ流しだし、食べることから日常生活全部全面介助だし、言葉はもちろんないし、大変だ、大変だとこうなっちゃうわけです。もちろんそうなんですよ。だけども、中学部と言ったらもう12か13ですよね。そこまで寝たきりで暮らしたということはそのことだけですごいことじゃないですか。そんな人いませんよ、なかなか。そんな10歳過ぎまで寝てる、もし普通の子供で10歳過ぎまでどうしても起こさないで押さえつけて寝かせておいたらどうなるかということも僕は絶対考えておいた方がいいと思うんですね。
やっぱり、何歳なら何歳まで寝たきりだということは、私たちが想像もつかないような世界というものを作り出してるんじゃないか。つまり、長い年月の間、その人自身が何もしないで暮らしてるということはありえない。やっぱり、それだけの年月を暮らした以上はその人の独自の感じ方とか運動の起こし方とか自発のし方、もっと言えば考え方とか暮らし方とか生き方みたいなものが整然とでき上がっているに違いないということです。
そんなものがあってもしょうがないじゃないかと言うんだけど、そんなこと言えば、起きてぴんぴんはねて、ぺらぺらしゃべって、下らないこといっぱいやって、オリンピックへ行って金メダル取ったってしょうがないじゃないかということなんですね。しょうがないと言えば何だってしょうがないですよ。
その人自身がちゃんと命というかな。その人自身が自分自身の魂の輝きを持っているということ、そのことはものすごく大事なことなんじゃないのか。その人自身が生きているんだということ。そして、そういう意味では、私たちが感じてないような感じ方というものを必ずしているに違いない。その子自身が独特の感じ方を編み出しているに違いない。それじゃなければ10何年寝たきりでいられないですよ。やっぱりその子自身の感じ方というのは、その子自身が言わないからわからないわけ。だけど少なくともわれわれの感じ方とはちょっと違う。そして、あかりがあれば明るさを感ずるというかもしれないけれど、同じ感じ方だって、浅さと深さがあるんじゃないかということですね。だから、むしろ、そういう感覚的な種類とか受容器みたいなものが制限されて、感覚的な制限を受けていれば受けているほど、感じ方の深さというのは、より深くより微妙で、確実なものなんじゃないか。私たちの感じ方とは一味ちがう別の体の部分で別の感じ方をしているのではないか。というふうに私たちが考えてもいいじゃないか。
その子が障害が重いから病気を治そう、これも結構ですよ。それからその子が日常生活ができないから何とか日常生活をできるように少しでもしつけよう、これも結構ですよ。その子が問題行動が多いから何とかその問題行動をやめさせよう、それも結構ですよ。その子が発達が遅滞しているから何とかその遅滞をくい止めよう、それも結構ですよ。
しかし、もう一つ、その子が私たちとは別の感じ方、外界の受け止め方というのをその子自身が独自で編み出しているんじゃないか。それがその子が生きているということなんじゃないか、そしてその子が独自に編み出した外界の感じ方は特殊な異常なものではなくて、実は人間の初めての外界の感じ方なのではないのか、普通の人はそんな初めての感じ方はあっという間に通り過ぎて自分が初めての時はそんな感じ方だったということすら忘れてしまっているのに、その子は10数年その感じ方をもち続けて暮らしている。それほどその感じ方は、その子にとっていつまでも新鮮で正確で輝いており、人間の存在の根本になくてはならない感じ方なのではないのか。私たちが忘れてしまったこの感じ方を教わろうというふうにして子供とかかわるということが必要なんじゃないか。何かいつも子供を突き放して、障害児だとか、発達遅滞児だとか、問題行動児だとか、そんなふうにレッテルを張っちゃって何か自分たちと違うんだということでかかわり合うということも仕方のないことかもしれないけども、そういう表面的な状況でかかわり合うことも仕方ないかもしれないけども、私たちが感じてると同じように、そういう子供たちも感じてるんじゃないか。私たちが感じてる感じ方、あるいは、感じている体の部分、そういうものと、その子供たちが感じている体の部分、あるいは感じ方、そういうものはもちろん違うかもしれない。しかし、感じているということにおいては同じだし、どっちが深いかということになったら、われわれの方がいつも表面的、機械的で、浅いんじゃないかということを考えながら子供とかかわり合うということは、やっぱり大事なんじゃないかということなんですね。
そういうことから、私たちが、もっと新しい感じ方とか考え方とか運動の起こし方とか暮らし方とか生き方とかいうものを、そういう子供たちから教わることによって、私たち自身を見直すことができて、もっと新しい生き方というものができるようになったら、私たちの心はもっと幅が広くなるんじゃないか。ということを考えていくと、どうしても、そういう点で障害の重い子供とのかかわり方というものをもう一度考え直してみる必要があるんじゃないか。
そういうことから、いちばん考えなけれなければいけないのは、午前中からずっと問題にされている触覚的ということなんですね。どうしても私たちは視聴覚的かな、聴覚よりもむしろ視覚的と言った方がいいのかもしれない。視覚的な考え方というものが非常に強いわけですね。で、これは非常にわかりやすい考え方なんだけど、そして、特に三次元の空間みたいなものを作って、時間と空間というものを整理する。で、そういう整理の上に外界をのっけるということによって、非常に、私たちの生活をまとめる便利な考え方なんだけれども、だけど、にもかかわらず、非常に大きな欠点がいくつかあるんじゃないか。というのは、私たちはそういう感じ方や考え方にあまりにも慣れすぎちゃって、そのためにいちばん大事なことを見失ってしまっているんじゃないか。自由で新鮮で正確でいつもキラキラ輝いている人間の本来の感じ方がなくなっている。本当にわかった喜びにあふれた感動が昔話になってしまっている。ということなんですね。
で、最近、宇宙旅行の話がだいぶ出てきて、今まで宇宙旅行の話はほとんど外部に出てこなかったんだけど、どういうことで宇宙旅行をするのかという話がいろいろ出てくるわけですね。で、その宇宙旅行の話の中でいちばん問題点は、私たちが主軸というものを持っていて、その主軸というのが上下なんですね。
だから、例えば時計を持っているとするでしょう。これ、手を離しちゃうとこれが落っこっちゃうんですよ。手を離すとこれが下へ落っこちゃうわけです。で、その感じ方考え方が、一種の絶対性を持っているような感じになっちゃっているわけなんです。ところが、もし宇宙に行って手を離しても別にこの時計は落ちないんですよ。ここに一つの問題点が出てきちゃうわけですね。つまり、いつも私たちは、頭が上で足が下なんですよね。だから、いつも下にひっぱられている。それで、だからこういう物を持って離したら落っこちるというのを当たり前のことで何とも思ってないんですよ。だけども、やっぱり、単なる私たちの一つの考え方で、ある種の絶対的なものでは決してないわけ。つまり、もう少し、水平みたいなところに、水平軸みたいなものがあるという考え方だって必要なわけですよ。つまり、こういうコップならコップを置いたら、これが左右にも前後にも動かないんですよね。ところが、離せば下へだけは動いちゃうわけです。下へだけは動いちゃって、だから、いつも下へひっぱられちゃうわけ。
だから、体を伸ばすと言っても、まっすぐ上に伸ばすというのも実は下にいつもひっぱられているからまっすぐこう背を垂直軸を中心として上に伸ばしていくわけですけれども。私たちの場合、垂直というようなことは、下にひっぱられているから起こることなんですね。だから、例えば宇宙旅行をして、頭を床にして、足を天井へ向けて寝たと言うんですね。逆さまの感覚がなかったというふうに書いてあるわけです。つまり、私たちは、いつも下にひっぱられているんで、下にひっぱられているのが当たり前だと思ってしまうわけ。
ところが、下にひっぱられているということをもとにして、強固な垂直な主軸ができあがって、外界を構成するというようなことが起こっている。人間が立つということは、そういうことなんだという、そういう考えなんです。で、人間は立つことによって手が解放されて、そして道具や何かを作って、言葉なんかを使うようになって、知的にものすごく発達したんだという考え方なんですね。
だけど、それはあくまでも地球上の重力があって、下にひっぱられていたから。もし、これが無重力のところだったら、そういう下にひっぱられるというようなことはないわけですね。だから、垂直に立つということ、これは、むしろ無重力のところだったら全然必要がないわけです。そういうことから、体を起こすとか、立つとか、2本の足で歩くとかいうこと、そういう世界からある種の三次元空間みたいなものを作って、視覚的な、見ることの優先された私たちの暮らし方があるということがあるのですね。これは、あくまでも、ある特定の限定された人間行動、重力のもとでの相対的なその人か作りあげた適応行動で、強固な枠組みではあるが、絶対的なものじゃない。つまり、そういう意味では必ずしもそういう人間行動が、今、暫定的に作ったもので、いちばんいいやり方かどうか。
特に、地球から外へ出て、無重力のところに入っちゃった時に、まだ、体を起こして立とうとするわけです。そして、私たちが重力の中で、上下軸を考えているような、垂直な主軸を構成しようと思っているわけ。だから、宇宙旅行の宇宙船というのは、実に奇妙な無駄な運動がたくさん起こっているわけですね。どうも話を読んでみると精神的に非常に疲れたというわけですね。で、何とか視覚的な世界というものをそこでも優先させようという考え方が非常に強くて、もう少しその人自身が立って歩くなんてことを、特に、体を垂直にするということが意味がないんだということ。まっすぐということ、そこをまだ宇宙船の中でも頑張ってそういうことをしようとしているわけです。
だけど、そういう運動の起こし方というのは、あくまでも重力をもとにして、そういう主軸というものを作って、そして視覚的な世界というものを優先させて、そこで初めて起こってることなんですね。私達が今作っている視覚的な三次元空間というものは重力をもとにした身体の垂直軸を中心にして初めて構成することができたのだということを無視してはいけないのです。だから、むしろ、そういう無重力のところへ行ったらもっと触覚的な世界というものを大事にしていかなければ。そういう意味で、上下の主軸を中心にした視覚的な世界から、もっとその人自身が、そういう2足歩行から離れたような、ある触覚的世界というものを考えていかないといけないんじゃないか。ここが、非常にこれからの大きな問題だし、障害の重い子供たちから学ばなければいけない非常に大きなところだと思うんですね。
どうしても、人間の定義として2足歩行である、知能が発達していて、道具や言葉を使うということになってしまう。だけど、それは全部、直立した条件の中で、重力をもとにした触覚・触運動の世界から視覚的な三次元空間の世界というものを構成するということを前提としているんですね。もう少し私たちが触覚的な世界というものをもとにして、初期の触覚的なことを重要視していけば、何も、立って歩けなくてもいい。知能が高いなんてことは、ただ悪知恵が発達してるというだけの話で、ほとんど意味がないんじゃないか。道具を使うというけれども、実は、作るということではなくて、作ることよりも作ることによって壊しちゃってることの方が多いんでね。そういうある種の常識的な考え方に対するこだわりみたいなものを捨ててみることが大事なんじゃないか。つまり、1+1=2なんだ、この字は「あ」って読むんだ。そういう社会の決めごとみたいなものがものすごく多いわけです。それを、覚えていくためにうんと時間がかかるし、うんと大変なわけです。で、例えば立って歩くなんていうこともそうなんですね。それから、はえば立て、立てば歩めなんて、1年もかかるわけです。そこへ日常生活のしつけみたいなものがまたかかってしまって、そこへ今度言葉のやりとりが入ってしまって、そして、道具を使うだとか、その辺までだったらまだいいんだけれど、今度は、数だとか読み書きだとか、そういうようなことまでするようになってきて、そういうことをするということ自体が、そんなに私たちにとって大事なことなのかということなんですね。そういうことは、社会の決めごとみたいなことは、ある種の相対的な約束ごとなんですよ。
ところがあまりにたくさん覚えすぎてしまって、逆にその考え方に制約されてしまって、自分の行動が、本当の自分らしさがなくなってしまうわけ。そして、その人自身がいちばん大切にしなくてはいけないところの、その人自身の心というものをその人自身が見失ってしまうわけ。やっぱりそこのところをもう少し私たちが、どういう感じ方をして、どういう運動の起こし方をするのかといういちばん最初の問題を考えていかないと、ちょっと重力がなくなった世界に行っただけで、もう適応ができない。どうしても立って歩かないと気がすまないとか、言葉をしゃべらないと気がすまないとか、道具を使わないと気がすまないとか、そういうことになってきてしまう。
そういうこだわりというのが、実は障害の重い子供が持っている本当の、その人自身が独自に編み出したその人自身の感じ方、その人自身の運動の起こし方、その人自身の考え方、その人自身の暮らし方、その人自身の生き方というものがちゃんとしているにもかかわらず、この子は何もできない子だ、この子は何もわからない子だとか、そういう決めつけしかない。私達のように重力をもとにして触覚・触運動を統制し、その統制された感覚・運動をもとにして整然とした三次元的な視空間を構成しているのではないけれども、その子自身がちゃんとしたその子なりの立派な世界というものをその子なりに構成して、素晴らしい世界を持っているんだというそこのところ。
どうも、だけど、そこのところがうそっぽく聞こえてしまうらしいんですね。事実、何もできないとか何もわからないということは、何か本当っぽく聞こえてしまうんです。でも、その子自身が私たちりよりもすぐれているなんて言ったらおそろしくうそっぽく聞こえてしまう。つまり、それは私たち自身が私達自身の考え方にこだわっているからですよ。どうしても立って歩かなければ気がすまない。それから言葉を言わなければ気がすまない。道具使わなければ気がすまない。いろんなことを考えなければ気がすまない。そういうふうになっちゃってる。だから障害の重い子供がもし本当に私達よりすぐれているのなら、なぜ歩かないんだ、なぜ言葉をしゃべらないんだ、なぜ日常生活を自分でしないんだ、そんなことが出来ない子供が私達よりすぐれているなんて、きちがいざただと、ののしられてしまうわけ。
だけども、もし、その人自身が視覚的な世界よりは触覚的な世界を、特に三次元の視空間の支配から脱して、初期の感じ方を大事にし始めたら、今の立って歩くということが意味を持つかどうか。いわんや、今の道具なんて本当に役に立つかどうか。言葉なんてものが本当に役に立つかどうか。言葉なんて、本当にそういう意味では、決まりきっていて、朝学校に行ったら先生に「おはよう」とあいさつしなさいって。で、何てあいさつするかということまで決まっている。こんなばかばかしいことは僕はないと思うんですね。 その人自身が、朝起きたら、何するとか、例えば、朝起きたら研究会に行かなければだめだとか。そういうの僕は絶対によくないと思う。今日、朝起きたら研究会。明日、朝起きたらまた研究会。そういうのは、絶対によくないと思う。だいたい今日とか明日と明後日とかそういうのないんですよ。勝手に作ったものです、人間が。ないんですよ。だって今しかないんですよ。時間というものは過去から未来へ流れているようだけど、いつも今なんですよ。今から一歩も外へ出ることはできないんです。永遠の今なんですよ。そんな時間だとか空間だとか、ある一定の約束ごとの中で、人間が勝手に決めたものなんで、将来が予測されてこうならなくては気がすまないと言うんだったら、それは本当にばかげてますよ。どうなるかわからないですよ。
だいたい予測なんてみんな外れますよね。僕なんか予測が当たったらいいなあと思う時があるんですけどね。もう、どうしてこう予測が外れるんだろうと思うぐらい気持ちよく予測が外れてしまう。というのは、結局は、天気予報にしたってそうですよね。たまに合うと当った合ったって言って喜んでるけれど。
そして、何となく予測したことが合っているように思うところは、自分が考え出したある種の枠組みの中で、本当はかりのものの時・空間のなかで、自分が錯覚を起こしてるだけなんです。だいたい、今、生きて、ここでこうやって私とみなさんが話をしているなんていうのは、これみんなうそなんですよ。これを本当だと思っている人はとても本当の障害の重い子供の新しい世界を学ぶことなんかできませんよ。今日が何月何日で、私は誰で、今どこにいて、明日何しなくてはいけないなんていうそんなばかなことを考えていたら、何もできませんよ。何も考えつかないですよ。
整然としていれば整然としているほどそれはうそっぽいんですよ。きちんとしていればしているほどそれはうそっぽいんですよ。どこかインチキなんですよ。だって、そんな、世の中にちゃんときちんとして整然として秩序のあるものなんてあるはずがないんですよ。もうこれ以上言うと、だんだんだんだん、中島昭美がほら吹いていると。
むしろ、本当は、ここから先に、もう少し自傷だとか問題行動だとか、みなさんが困ることは何もないんだというふうに。さらに、人間は発達しないに限るということを、これから、だんだんだんだん、くどくどと言いたいところなんですね。
だけども今すでにみなさん相当お眠いのに、これを言い出したらもう頭が変になるんじゃないかという気がするんですね。で、僕自身が話している間にだんだんだんだん眠くなって、何言っているかだんだんわからなくなってきてしまった。さっきの石川先生の話じゃないけど、自分で何を言っているかわからないというのがいちばんいい話なんですよ。自分が何を言っているかわかっている話なんていうのは、誰にでもできる下らない話なんですよ。本当にいい話というのは、自分が何を言っているかさっぱりわけがわからなくて終わる話なんですね。
それではこれで終わりにします。どうもご苦労さまでした。