平成4年8月7日
重複障害教育研究会第20回全国大会まとめ

                             中島昭美


 水産逍遥歌まで聞かされて、もう研究会は終わってるんで、よけいな話というのはこれからの私のまとめのことを言うんだと思ってがまんして聞いて下さい。やっぱり水産大学の学生さんの話、正確にいうと今は水大をとっくに卒業して障害児教育の現場で働いておられる先生方の研究発表と協議とを聞いていると、懐かしい感じもするんですね。ここにもちょっと書いたけれども、錯覚なんだけど、当時自分では、東大を追い出されて水産大学へ行ったような気がしてるんですね。
 その当時何をやっていたかというと、やっぱり盲聾教育一点張りだったような気がするんです。で、どこの大学へ行くという気持ちも全然なかったし、だいたい大学の先生なんてよくないなと思ってた。口先ばっかりで、理屈ばかり、下らないことばかり言っていて、ろくな人いないと思っていて。だから大学の先生なんて本当にいやだなと思ってたんですね。水大もそのつもりでいやな感じで行ったんだけど、当時の教養科の科長さんが、教授会で僕のことを紹介してくれて、中島先生は独身だけれど、お子さんが3人いらっしゃる。そのお子さんはいずれも目も見えないし、耳も聞こえない、そういう方なんだという紹介の仕方をしてくれたんですね。そしたら教授会がシーンとして白けちゃって、でも、僕はそういう紹介の仕方をされて非常にうれしかった思い出がありますけれども。
 ともかく、山梨の先生がさっきちょっとおっしゃったけど、盲聾教育というのは甲府の盲学校で始まったんですね。県立の山梨盲学校でね。その頃どういう雰囲気だったかというと、盲聾児の教育なんてよけいなことをするという考えがみんなの考えだったんですね。まあせいぜい道楽でやっているんだというくらいだったらいいほうなんですね。いちばん困るのは学者だから実験的にやっているんだとこうこられるわけ。これがいちばん私としては、非常にいやだったことですね。
 学校全体の雰囲気が、盲学校だから、盲聾児というものに対して全然理解がないんですね。それで、盲人は人間だけど、盲聾児は野生児だ、動物だと思っているんですね。盲人の生徒が盲聾児は自分より下だと思い込んでいるのです。そういう雰囲気の中で仕事が始まったんですね。だから先生方も、盲人の生徒さんも、当時の盲聾児の方を人間扱いしていなかった。そんなこと言うと今だったら本当に考えられないかもしれないけれど、そういうことだったんですね。
 で、父兄はどうかというと、父兄はいないんですね。いないというより、もちろんお父さんお母さんがいて、そのお子さんができたんだけれど、お父さんお母さんは全然・・・。片一方の方は横浜の方だからね。それで、今だからもう何を言ってもかまわないのかもしれないけれども、その家へ行ったら、だんだん成子さんというのが有名になってきたから、いくらいくらで買ってくれというわけ。露骨におっしゃるんですね。僕はいきなりのことで何を言っているのか、どういう意味だか全然わからなかったんだけど、そういうことなんですね。
 それから、もう片一方の男の方のご父兄の方は、床屋さんなんで、お父さんは山梨の方だから時々いらっしゃるんです。特に夏、合宿をしていると来るんですね。そして、必ず言われることは、間尺に合わないと。もっともこれは昔の職人さんの言葉なんだけれど、どういう言葉で言い直したらいいのかわからないけれど、何だったら国語辞典でも引いていただきたいと思いますけれど、まさに間尺に合わないというふうに考えられていたんですね。
 そういうことで、決して仕事そのものが初めから評価が高かったわけではないんですね。ところがどういうわけか、途中からえらく評価が高くなっちゃって、盲聾教育の先駆者だとか、盲聾教育の大家だというのが出てきちゃって、僕はこれに対してもちょっとすっきりしないところがあるんだけど、やっぱり、僕はいまだにいちばんすっきりしないのは、『人間開発』という映画なんですね。開発という言葉も抵抗があります。宇宙開発なんて安直に使われていますが、人間を開発するというのはどういうことでしょう。あの映画はTBSが作ったんだけど、いちばん大事なところがフィクションなんですよね。いかにももっともらしく見えるんだけど、いちばん大事なところが物語りなんですよ。
 そこが僕が『人間開発』のいやな点なんだけど、人間開発を映して、非常に興味を持った人が、それでは今成子さんや忠男さんはどうしてるんですかって、そういうふうに聞かれるわけ。成子さんや忠男さんは、青い鳥学園という施設で生活されてますと言うと、何かふに落ちないようながっかりしたような顔をされるわけです。それで、山口県の松岡先生じゃないけども、山口に盲聾がいるという松岡先生の話で長門というところまで盲聾の方に会いに行ったことがあるんですね。そしたらその盲聾の方が言うには、成子さんという人が青い鳥学園に入ってポーッとした生活してますと、そう僕たちに言うんですね。だから、その長門の浦まで津々浦々そういう話が伝わっているのかなあって思うんで、何か真実というものが伝わっていない。今でもそうだと思うんですね。
 僕は、どうしてもこれだけは言いたいのは、成子さんとか忠男さんは、素晴らしい方なんです。どこにいてどんな生活をされていようと、すごい方なんですよ。それはもう、成子さんの物の触り方なんて見たら、本当にもう、感動するどころではないですよ。世の中にこれだけ上手に物に触れる人がいるかって思うほど上手ですよ。それほど実は物に触るということはむずかしいことなんですよ。忠男君の自分の生活を律してきちんとしていることなんて言ったら、本当にすごいところなんですよ。盲聾の方が触覚を使って自分の世界を構成しているそのすごさというものが、われわれにわからないんですよ。現代社会の垢にあまり染まらないで、独自の触覚的世界を構成しているその新鮮さ、緻密さ、微妙さ、正確さ、深さが見えてこない。ただそれだけなんですよ。
 それで、教育を受けたんだけど、その教育が役に立ってないとか、それから今施設でボーッとして暮らしているとか、そういう表面的なところだけが、どういうわけか世の中に伝わってしまう。僕は本当に残念でしょうがない。僕は何も盲聾教育に関係したと思われなくてもいいし、盲聾教育をお手伝いしたというようなことを言わなくてもいい。そして僕が盲聾教育と何の関係もなくてもいいんだけども、にもかかわらず成子さんと忠男さんが本当に素晴らしい人なんだということは、是非認めてもらいたい。そして、盲聾教育がどんなに素晴らしい教育か何か知らないけれども、いちばん素晴らしいのは成子さん、忠男さんの存在そのものなんですよ。そして、私たちは、そういう意味で成子さんや忠男さんからもっとたくさんのことを教わらなければいけないのに、世の中の人は教わらない。盲聾教育に興味を持ってくれる人も誰も教わらないということなんだね。一人私のみ、まだ教えていただきたりないけれども、たくさんのことを教えていただいたのに、それだけのお返しをしてないから本当に残念で、相済まないなあという気持ちがつくづく今しているんですね。
 だけど、これは、私たちが障害の重いお子さんに対する思いのすべてだと思うんです。何も成子さん忠男さんに限らない。障害の重いお子さんに対する私の本当の思いです。素晴らしいものを素晴らしいと言って何が悪いんでしょうか。素晴らしいものを素晴らしいとして認めてもらえないということは、本当に僕は残念なことだと思うんです。障害の重い子供はただ便々として病気がちで暮らし、寝たきりで何もわからないんだ、何もできない、ごくつぶしみたいな存在で、社会の重荷だとか、ご父兄の重荷だとか、そんなことばかり言っていらっしゃる。そういう状況というものが本当に私としては残念で残念で仕方がない。何で素晴らしい人を素晴らしいと認めてもらえないのか、ということなんですね。
 そういうことを話すと、いくら話してもきりがないし・・・。一杯、水を飲ませてくださいね。あまり興奮するといけないから。昨日、話の途中で眠くなっちゃったんですね。で、自分で何を話しているかわからなくなっちゃったんです。最後だけ話がよかったって、上田君というのが言って帰っていったけれど、途中で眠くなって自分で何言ってたんだかわからないんだからどうしようもないんだけど。
 そこで僕が言いたかったことは、物を持つということなんですね。物を持つということは、大事なことなんで、もっと私たちがよく考えてみなくてはだめなんですね。ことに、どういうわけか昨日重複研の人たちの発表が、全部、物を持って動かす、特に、水平面でその物を動かすという話がずっと続いてたわけです。課題の解決のために物を動かす時もその物を持った実感を大切にしている方の話です。動かした時のその物が周りに当たった感じだとか、ちょっと動きにくいように溝が切ってあって、その物が動きにくい感じだとか、そういう物を持って、目的のためにその物を動かすことと、その持った物を動かす時の感じというものを区別して、私たちよりもっと感じを大事にしている人のやり方に気付いて、その意味をより深く解明していかなければいけないという発表が続いたわけですね。すぐ輪をはずしたり板をはめないで、学習の途中でガチャガチャしたり、もう少しのところで止めたり、戻したりして、見かけ上ただ遊んでいるのは、実は無駄なことではなく、ものすごく意味のあることだという発表です。
 これは本当は、非常に大きな意味があって、物を持った時にわれわれがいちばんいけないことは、その物の重さを感じてしまうことなんです。もっといけないことは、その前に、その物の重さがどのくらいかということを予想して持ってしまうことなんですね。だから、必ず何気なくその物の重さに対応したような力で物を持ち上げているわけです。さらに、あらかじめ目的をもって物を持つわけです。したがって、その重さの予想や目的がしっかりしていればいる程、その物を持った時に起こるその物の触覚的感じを無視してしまうのです。これは非常にある意味ではまずいことなんです。物を操作的に扱うので目的とする行動は能率よく達成されるのですが、その時触った物の実感、その物を動かした実感(触覚的のみならず聴覚的にも)は無視されてしまうのです。みんなが何気なくしてしまっているから、どうにもしょうがないことだと言えばどうにもしょうがないことなんだけど、にもかかわらず、非常にまずいことなんです。なぜならば、その物の重さというものを感じてしまったら、目的に気をとられすぎていたら、その物を持った時感じるその物の感じそのものがなくなってしまうわけです。そして、その物を持ってその物を動かして、その物の動きというか傾きというかあるいは抵抗というか、その物の動きによって起こってくる触覚的な微妙な変化や音の感じというものが感じられなくなってしまうのです。
 ニュートンがりんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したというけれど、これ、非常にまずいことなんです。例えば、物を持って離すと落ちるから危ないというんです。離さないんです。だけど、どうして物を持って手を離すとその物が落ちるのか。どうして落ちるのか。これは、まずいことなんですよ。単に地球上だから起こっていることを、あたかも持った物を手を離せば落ちるのは当たり前だと絶対化してしまうのは、まちがっているのではないのか。一見、当たり前のことに思うかもしれないけれど、ある地球上の、ある瞬間のできごとなんですよ。だから、今度無重力の状態へ行ったら、手を離しても落ちない。広い宇宙では私の考えが正解だと思うんです。なぜならば、物というものが必ず運動方向が一定に定められるということは、その物の物たる状態を失ってることなんですよ。
 これ、話がむずかしいんです。だから話がむずかしいからわけがわからなくていいんですよ。わからなくていいんです。わかろうと思うとよけいにわからないですから。ただボーッとして聞いて、ただボーッとしてお帰りになればそれでいいんです。
 だけども、物に重さがあって、そして、離すと落っこっちてしまうということは絶対化され易く、私達が自由に物を考えようとするとき、本当に困ったことなんですよ。ある運動方向が固定されていることなんです。だから、どういうことが起こってしまうかと言うと、上と下というのができてしまうんです。上と下というのができてしまうと上から下への方向性というものが出て、それをもとに枠組みが強固にできてしまうんです。
 宇宙船の中で、どういう日常生活をしているのか、どういう感じ方暮らし方考え方なのかということがどうも出てこないわけです。NASAがどういう訓練しているのかということが何かいつも同じ場面ばかり見せられて、秘密めかしているんですね。本当のことが出てこないわけです。
 だけども、時々、出てくるんで、それは「眠る」という朝日の日曜版に出た特集記事なんだけど、「眠る場所は操縦室の下の二重デッキと呼ばれる居住空間。無重力なのでどんな格好でも寝ることができる。アイマスクをつけて寝袋に入り、頭を床、足を天井に向けて寝た。逆さまの感じはなかった。」ここなんです。当たり前のことなんですよ。天井とか床というものがあってはだめなんですよ。だって、そうでしょう。この物がもし仮に机の上に置いて動かないんだったら、右とか左とか前後とか、そういう水平の平面の空間で動かないだけで、下へは動いてしまうんですよ。ほうっておけば。下には落っこちる。前後左右には動かない。実に理屈に合わないわけです。動かないんだったら、三次元のどういう次元の方向にも動かないということが大事なことなんです。
 ある三次元の中の一次元の方向性だけが、定められてしまって、他の次元に関しては自由だという状況は、非常に束縛された固定された一定の作られた条件なんです。そういう作られた条件の中でわれわれは生活しているわけです。だから、われわれは体を起こして上下軸の主軸というものを作るわけです。そして上下軸の主軸というものを作ることによって、今度例えば体を起こして、腰、背すじ、肩、顔などの身体の部分がだんだんだんだん床面から上がってくるとか、前に机みたいなのを置いて、前面の平面というものを主として手によって作って、いくつかの水平面の層が、床から分離していくわけです。それはどうやってやるのかと言うと、実は下の方から上の方へ上げているわけです。下の方から上へ底面を前面の平面として持ち上げているわけです。つまり、そこに上下の主軸というものがあくまでも一本通っているわけです。そこから前面の平面というものが出てくるわけです。そしてその平面というものが出てきて、その平面から、今度、上下の一方向性の垂直を主軸とした視覚的な三次元空間が構成されるわけです。つまり、私達の視覚的三次元空間は、重力をもとにして、体を起こして作られた上下軸を主軸として構成されたものなのです。このことは、障害の重い子供が体を起こしてゆくにつれて見方が変わっていく様子からも明らかです。そして、宇宙では重力がないので地球上で構成した視覚的な三次元空間をそのままもちこんで、運動の調整をすれば、おかしなことになってしまうのです。見方を変えなければ駄目です。どう変えるかが問題です。
 だから、この人は頭を床にして足を天井にして寝たんですね。ところが逆さまの感じはなかった。つまり重力のないところに一方向性の垂直軸は形成されない。そしてそれを軸とした感じ方もまた起こらないのです。ところが目で見た逆さまの感じは起こっているんです。ここなんです。つまり、視覚によって、われわれの人間行動、つまり意図的な運動がどういうふうにして調整されているか、逆に言うと制限されているか。そういうことを考えると、それはまさにその上下の主軸というものができあがって、その主軸に対して前面の平面というものを手で作って、そして、手で作った平面から垂直を主軸とする三次元空間を目で作って、目で作った三次元の空間に対して、今度自分の体、特に運動を調節している、そういう状況に自分を持ってきている。これは、ある地球上のごく限られた条件の中で一つの人間の構成した適応行動なんですよ。ところがどういうわけか、人間は立って歩くんだ、二足歩行なんだ、もっと言うと、知能が発達している、道具を使って言葉を言うんだと、こうくるわけです。ところがこれみんな何のことはない、そういう上下の主軸からできあがった視覚的な三次元空間をもとにして、できあがった時間と空間との制約の中で作り上げた、一つのまとめ方のルールなんです。ある文化圏の中で、ある重力の条件の中ででき上がった一つのルールにすぎないんですよ。どこでもいつでも通用する絶対的な事実ではないんです。中にはそれでも持っている物を手を離したら下に落ちるとつぶやく方がいるかも知れませんね。
 だから他のところへ行ったら適応できないんですよ。無重力のところへ行ったら適応できないんですよ。その適応できないということをどうしてNASAがわからないのかということが僕は非常に不思議なところなんですね。だから、無重力の状態でも、宇宙船の中でも、まだ体を起こそうとして、背すじを伸ばそうとして、垂直にしよう垂直にしようとして、ヨロヨロしたり、つんのめったりしている。無重力の空間では、立って歩くなんて不適応行動だということを示している。それから、結局、何か物を持つというのは持ち上げるというようなそんな感じで持っている。これも明らかに不適応行動です。そこで、筋力が非常に弱るということが起こる。で、ここに書いてあるんですね。「どんな格好をしていても寝られる」と書いてあるんです。それなのに板に張りつくようにして、体を伸ばして寝ようというです。もう明らかにまちがっている。そんな無重力の状態に、重力の状態から、その姿勢とか感じ方とかそういうものをそのまま持ちこんだら無理が起こるに決まっているんです。
 宇宙では、もっと新しい感じ方、新しい運動の組み立て、新しい人間の姿勢というものを、そしてその姿勢をもとにした新しい人間の意図的な自発というものが必要なんです。特に三次元空間で成立した見方とその見方による運動調整を捨てて新しい見方、新しい運動調整を作りだすことが急務です。せっかく無重力を体験しているのに、なぜわからないのか。障害の重い子供と一生懸命共に生きて、その子のひたむきな姿に感動しないからです。障害の重い子供をばかにしているから。そこのところに気がつけば、私たちが、視覚的にいつも三次元空間を構成して自分の運動を調節しているというのが、えらいことではない、一つのある単なる適応にすぎないんだ、この地球上にだってまだ別の適応だってたくさんあるんだということを私たちがもう少し考えることができるんです。
 だから、宇宙旅行にわれわれの背すじを伸ばすとか、あくまでも立って歩こうとするとか、物を持とうとするとか、もっと言えば、目を使って・・・。結局は、目を使って宇宙旅行をしようとしている。だけども、その人は重力がないんだから、今までの身体感覚や触覚的な感じがなくなっているわけ。そんなところで目だけ使ってもだめですね。もっと新しい触覚的な感じを自分で取り入れることを、だから、体が浮いている、その浮いていることを防ぐのにいちばんいいのはちょっと自分の体を自分の手で触ることですね。ちょっと触ると非常に存在感が出てくる。そんなことは、障害の重い子供とかかわり合いを持っていればすぐわかる自明の理です。だけど、本当は浮いた感じを防ぐ必要なんか全くないわけです。要するに背すじを伸ばすより、丸まったようになっていた方が楽なんです。立って歩くより、宇宙遊泳というけれどまだ泳いだような方が楽なんです。だから、むしろその地球上の、地上にいるということを考えるよりまだ水の中にいるということを考えた方が宇宙旅行の無重力の状態には近いんです。
 さらに言えば、自分で自分に触る。手で自分の体に触ることの本当の意味など自己刺激的な刺激を無重力の中でどう大切にするのか、背中、腰、首、足の裏から舌や唇をどう使うか、少なくとも舌を出すこと、下の唇を前に突き出すことなどから、新しい外界の感じる部分と感じ方を見直すことが必要です。それで、もっと新しい感じ方、運動の組み立てが、新しくできるんです。そういう新しいものができない限りは宇宙ステーションなんてものはとてもできないですよ。仮に、コンクリートのビルを建てるようなつもりで、地球の外へ作ったら、もう本当にそれこそ無用の長物がたくさんできあがってしまって。
 だいたい人間が二足歩行だとか。二足歩行なんて危なっかしいことのもとなんですよ。それから知能が高いっていうけど、これは悪知恵のもとなんですよ。それから、言葉とか道具を使うというけれど、これみんな物を壊してしまうもとなんですよ。道具なんか使って何か作っているというけれど、みんな壊してしまっているんです。言葉なんか何かと言うとレッテルを貼ってただ決めつけているだけなんです。ある制限の中でルールを使う操作的状況にすぎない。便利かもしれないけれど、自由を見失っているんです。
 だいたい、1+1=2だっていうけど、なぜ1+1=2なのか。例えば、「は」という字を書いて、どうして〃ハ〃と読むのか。われわれもわからないんですよ。みんな鵜呑みにしてしまって、これは1+1=2なんだ。白墨1本持ってきて、こっちに1本持ってきて、1本と1本をこういうふうに近つけると2本だ。だから1+1=2なんだって、何の説明にもなってませんよね。それがそんなことで結局は、納得されているわけです。1+1=2だとかこの字は〃ハ〃と読むんだとかいうことを鵜呑みにしてしまって、どんどんどんどん教えてしまっているから、さっきのではないけれど、いったいどうやって基準を作ったのか。自分が納得して基準を作ったのでないんだから、人にどうやって基準を教えていいかわかりっこない。だから、基準の作り方というものがどういうものかということをまずそこを教わらなければだめなんです。そういうことを教われば、もっと自分で納得して基準を作ることの大事さというものがだんだんだんだん出てくるわけです。
 それを一方的にどうしてもわれわれは立って歩かなければいけないんだ、それから言葉をしゃべらなければいけないんだということを言い出す。だけどもやっぱり生活者の中には、本当はそんな人いないんだけど普通の人もいるかもしれない。しかし、目の見えない方もいらっしゃるわけです。耳の聞こえない方もいらっしゃる。目が見えなくて耳の聞こえない方もいらっしゃる。体の不自由な方もいらっしゃる。老人もいらっしゃる。いろんな方がいろんな生活をされているわけです。そして、その一人一人の生活者の中に、その人自身の新しい感じ方と運動の組み立てというものが必ずある。人に教わって鵜呑みにした、自分で何が何だかわからないけれどただ便利だから使っているというようなものではなくて、自分で感じて自分で考えて自分で組み立てた生きたものがあるんです。
 そういうものを私たちは、障害の重いお子さんから教わって、そして組み立てていかないと、新しいもっと幅の広い、自由な、のびのびした文化というものができてこない。新しい人類の適応の状態に対応するような、新しい姿勢とか新しい感じ方とか新しい考え方とかが生まれてこない。ここのところをぜひみなさんに考えていただきたい。これを考えないと、危ない危ない、手を離してはいけない。そればかりになってしまう。物を持つと重さばかり感じるようになる。物を持ったところに漂っている、手の内側に漂っているところのこの感じというのが、物を動かした時に、その動かした物が傾いたりつまずいたりするその物自身の動きの実感がある。ただ、これはこういう形でこういう色でこういう重さだというのは、客観的公共的でわかりやすいのかもしれないけれど、表面的機械的で、その人の実感とはかけ離れているような、ただ頭の中で作り上げたようなものだけになっちゃって、今度それが巨大化してしまって、それが本当のことだと思ってしまう。本当は、それは作り上げた幻想にもかかわらず、本当のことだというふうに結局なってしまう。
 だから、よだれを流すとか自傷するとかいうようなことで非常にみなさん、悩んだり、重荷に感じたり、何とかしようと思われるかもしれない。だけど、そういう時にそのお子さんの感じ方というものを考えていただきたい。そうすれば、そのお子さんが軽く頬をたたいていたり、それから髪の毛をちょっといじっていたり、胸をこういうふうに押さえていたり、何か自分の体に触刺激をうまく与えている状況が多いんです。特に、音楽を聞きながら体に触刺激を与えるというようなこと。あるいは何か見ながら体に触刺激を与えている。これが、どういう意味を持っているのか。これがどういう触覚的な意味を持っているのかということを考えれば、私たちは、障害の重いお子さんがやっている一見奇妙に見えるようなことが、人間行動の成り立ちの原点において非常に大切な大きな意味を持っているんじゃないかということがわかる。
 だから、一つヒントをあげますけれども、みなさんがいやで、ぜひ止めたいと、例えばこの子はいつもよだれを流していていやだと、何とか止めたいと、あるいは指しゃぶりをしているから何とか止めたいと、あるいは、手を振って目をチラチラさせていていやだから何とか止めたいと、あるいは自傷ばかりしていやだから何とか止めたいと思ったら、止めるということはやめて、何かその子に刺激を追加してあげればいい。特に、触覚的なあるいは聴覚的な刺激を追加してあげればいい。だから、背中をさすってあげるのもいいですよ。背すじをのばすように背中をさすってあげる、腰を持って軽くゆする方が効果的かもしれない。足の裏のどこかの場所を触れば身体を動かす表情が変化する、そのために口元がひきしまるのです。それから、音を聞かせてあげるのもいいですよ。それから、例えばあかりをつけたり消したりするのもいいです。要するに、そのことをそのお子さんにやめてもらいたいと思ったら、むしろ、刺激を追加してあげればいい。そこのところが大事なんです。
 そのことをやめさせたいと思って、その人が大事にしている刺激を取り上げてしまったら、それは考えちがいじゃないか。これを止めて、これをやりなさいでは、あまりにも一方的な押しつけではないのか。禁止と強制のくりかえしになってしまうのではないのか。だけど、刺激を追加したんだったら、そんなに罪は重くないんじゃないか。できるだけ軽やかな、微妙な変化をもたらすやさしい静かな刺激を、その子供が受け入れやすい体の部分に、受け入れやすいタイミングを見計らって追加しても、あまりその子供の行動を邪魔することにはならないんじゃないか。いちばんいいのは、なぜそんなにその子がその行動を大事にしているのか、そしてそういう大事にしているということが、私たちの根本的な人間行動の成り立ちにどうかかわり合うのか。そこのところが、人間と人間とのふれあいの中で心の底から湧き出してくる魂のあたたかさが、よくわかるように、そこのところを追及していくように、そこのところがわかるということが、もっとも私たちにとって大事なんだと。だから自傷をもってしても、問題行動をもってしても、私たちは教わることがたくさんあるんだというふうに、ぜひ考えて、新しい気持ちになって、また今年一年がんばっていただきたい。
 5分ばかり時間が過ぎてしまったけれど、台風が来ているので、みんなが帰る方向にだいたい台風が来つつあるので、必ずぶつかると思いますので、どうぞ気をつけてお帰り下さい。これで終わります。どうもありがとうございました。