障害の重い子どもたちの存在者としての証

─子どもたちとの暮らしの中から見えてくる人間存在の本質的構造─
                    平成5年1月9日

甲府市東部市民センターにて

 ええ、話を始める前から手をたたいていただいてありがとうございました。甲府にも毎年お正月に来るようになって、今年で何回目でしょうか。私も心臓の手術が終わって少しずつ元気になってきて、まだこれからも来られると思うんだけれども、そのうちこの研究会の方がつぶれちゃうかもしれない。そしたら、喜んでますます来る気が起こります。ほんの少しの人に話をした方が楽しいのですね。
 間野さんの生まれる前から甲府には通ってたんですが、初狩あたりに笹一酒造というのが─初鹿野だったかな。えっ、笹一酒造知ってますか。初狩だよね。そう、汽車の窓から、山の中腹に@ABCという大きな看板があったのがよく見えたのですが、もうないですね。なくなってしまった。@ABCという看板が甲府盆地へ入るだいたいの目安だったのね。ないとやっぱり。懐かしいですね。あの親父さんが山梨県の知事だったんですね。もっとも初めはそこの小僧だった人らしいですね。今は、もうその人の息子が県知事らしい。親父は小太りで、背の小さい人だったんだけど、今の県知事は、ちょっと背が高くてスマートですね。
 そういうわけなので、間野さんがお生まれになる前から、甲府盆地はしばしば訪れたということです。従って、ここへ来るとどうも思い出話になってしまうんで、後でうちへ帰って女房に怒られるわけですけれど。野村耕司君が、先生は三十歳代の頃、つまり野村君耕司が今三十歳代だから、その頃お正月は先生はどうしてましたかと、暮れに聞かれたんですね。たいてい成子さんという人と元旦を迎えていて、従ってお正月を家族でとか一家でお祝いしたことはないですね。あっ、これは、僕の三十歳代ですよ。そして、今頃、正月も9日頃になると成子さんが帰ってしまって。成子さんが暮れに来ると急に忙しくなるんですね。それで、成子さんが帰ると急に暇になってしまって、ちょっとボーッとして、あれ、世の中はお正月だったんだなあと思うような状態でしたね。だからそういう意味では、だいたい冬休み春休みはわが家で成子さんといっしょに暮らしていたんじゃないかと思いますね。夏はこちらへ来て2、3週間合宿していたんです。33年、34年頃は軽井沢の私の別荘で楽しく合宿をしたけれど。ええっと、小和田雅子さんね。あの方が、僕たちの頃の皇太子の息子と、つまり今の皇太子と、ご婚約になったそうで、そのテレビを見ていたら、その人のお父さんが僕の後輩なんですね。僕が東大の教養で助手をしていた頃、その人のお父さんが東大にご入学になったんですね。だから、テレビなんか見ていると、だんだん、もういよいよ私は西の方へ近づいているんだなという感じがつくづくとします。昭和34年というと、今朝テレビに出ていましたが、ザ・ピーナッツの人気が衰えてきて、こまどり姉妹がデビューした頃だと思いますね。で、実に皇太子が、いや今の天皇が、軽井沢で、美智子さんとテニスをいっしょにしてたんですね。わが成子内親王と忠男殿下とは、その頃テニスコートの横を私と、お通りになるわけです。だから、そういう意味では今昔の感をいだきますね。
 僕は、その頃、成子さんや忠男さんのことを勇者と呼んでいたんですね。ところが、勇者と言っても誰も駄目なんですね。だいいちどういう字を書くのかわからないんですね。僕はその頃、阪急ブレーブスというプロ野球チームのファンだったから。今は違いますけれど。だからブレーブスを取って勇者っていうふうに呼んでいたのだけど、勇者だってみんなが言ってくれないのには、残念でしたね。
 僕はいちばんびっくりしたのは、合宿中に今はどうかわかりませんけれども、甲府盆地ってやたらに雷がなったんですね。どうもこの頃はあまり鳴らないんじゃないですか。どうですか。ある年の夏、ちょうど8月のお盆の頃、合宿の最中ですが、お盆だから保母さんなどみんな帰ってしまって、学校が静かになってしまい、本当に残り少ない人数になってしまった時に、ガラガラガラってすごい雷が来たんです。また雷だとたかをくくっていたら、盲学校の玄関の前の電柱に落っこちたんです。あれはびっくりしましたね。胆を潰しました。最初に甲府に来た時に雷がすごいなあって思ったんですがね。
 その頃の盲学校というのは、駅の北口のすぐ前なんです。今、話を聞いている人には全く見当がつかないかもしれないけれども、貯金局の向かい側が盲学校だったんです。だから、北口で降りて、降りたところが盲学校の正門だと思えばいいわけです。途中に、県の職員の官舎みたいなものがちょっとあって、それから盲学校だったんです。駅から一分という非常に便利ないいところに盲学校があったんです。
 それで、人っ子一人学校の中にいない。─そうですね、昭和30年代の山梨県立盲学校を知っている方はいらっしゃるかな。三木さんなんかは、いつ生まれましたか。(三木─昭和34年です。)野村さんぐらいか。でも、当時の盲学校を知っていらっしゃる方がいるかもしれないですね。駄目かな。それでは、僕がどんなでたらめを言ってもみんなわからないですね。残念ながら本当のことをいってても、それもわからなくなってしまっているわけです。盲学校は二階建てだったんです。それで、後ろに寄宿舎がくっついて、貯金局と向かい合わせのところがグランドで、その片隅に校長が住んでいたんです。そういうところで、そうですね、まだお昼過ぎだったと思いますけれど、門の前に落っこちてしまって、一瞬伏せてしまいました。それで、自分が警備員のつもりだったから、これは学校に何かあってはいけないと思って、その時は、寄宿舎の二階にいたんですけれども、ガラス戸が空いていて雨が吹き込んだり、物がすっ飛んでるといけないからと、寄宿舎の二階からずうっと学校中を見回ったんです。もちろん停電してしまったから。でも昼間だったからよかったのですが。寄宿舎を全部見てから、今度、─正面入って、右側が校長室で、その隣が盲聾の教室だったのですが、まず、二階から見回って、盲聾の教室へ行ったら、忠男さんという男の子が一人で机に向かって悠々と点字を打っているんです。そして時々にこにこっと笑うわけです。それから、寄宿舎へ帰って、成子さんがいないなと思ったら、成子さんがどこへいたかというと、自分の部屋の片隅のタンスの陰で、着物をずうっと一枚一枚出して触って、また一枚一枚出して触ってしまっていたのです。僕たちは着物いじりと言っていたんですが、それをしていたのです。これはびっくりしましたね。あれだけの、僕にとっては大事件なのに、成子さんも忠男さんも悠々と実に自分の人生を楽しんでいましたから。もう、すごいなあと思いました。だから目が見えたり耳が聞こえたりするばかりが本当は能ではないんですね。そういう意味で、僕は、勇者だというふうに思いました。勇者、勇者って言ったのですが、どうも残念だけど、学校で通じないし、流行語にならないし、とうとう駄目になってしまいました。
 まあ、ついでだから言いますけれど、当時、何が大変だったかというと、お金のかかることですね。これがいちばん大変だった。なんて、あんまり言うとさしさわりがあるかもしれないけれど、今と、今昔ですね。今は、障害者年金だとか、入学すると修学手当みたいなものまであるのかな。ともかく、いろんな意味で生活の保障とか福祉的なことが発達し充実してきたのですが、その頃は本当に何もないんですよね。盲聾を山梨の盲学校でやっているというのは、何かよけいなことをやっているという考えなんですよね。教育委員会は全然相手にしてくれないし、よくできたなあと思うんですけれども、特に、昭和20年代の後半というのはちょうど今と同じような不景気だったんですね。そして、朝鮮動乱というのが始まってやっと景気が回復してきたんです。そんな状況だったから、特に成子さんの場合なんだけれど、生活費だとか、寮母さんのお手当だとか、それはお金がかかったわけですね。僕は、だからその頃自分の給料を自分で使ったことはなかったですよ。全部、送っていました。それでも足りなかったですね。また、その当時の三上校長というのは金払いのいい人というのかな、人間もすごくいし、盲聾教育にも前向きで立派な方なんですけれども、まあ、いえば使い払いなんですね。それでX氏の基金があるから大丈夫だっていってやっているんです。でも、三上先生というのは大きなことを言うからあまりみんな信用していないです。だけども、そういう意味で、気持ちよくお使いいただいたという感じではありましたですね。
 お金の話なんて言うと、これもいろんな話があるんですけれども、科学研究費というものがあるんです。これは、梅津先生が代表で、ずいぶん長い間もらっていました。ところが、科学研究費には、備品と消耗品と旅費と謝金しかないんです。後はその他なんです。で、食費とか、つまり生活関連の日常生活の費用というものがないんですね。実におかしな制度だと思うんですけれどもね。だからその点ではそういう意味で、あまり大きな声では言えないけれど、備品はごまかせないけれど、消耗品はごまかせますからね。旅費は完全にごまかせる。どこかの市会議員さんが、尼崎市かな、旅費の空出張が問題になっていたけれど、僕たちの空出張というのは自分が出張して、旅費をいただかないわけです。だから、旅費はよかったんですけれど、謝金がまた困るんですよね。これは、東大の大学院の連中がその頃、マスターもドクターも院生がわりあい気持ちよく協力してくれて、はんこを押してくれたから何とかなったのですが、そういう点ではずいぶん無理をしましたね。いくらでもはんこを押してあげますと大学院の学生が言うんだけれど、あまり、押させるのもだんだん気が引けてきてしまうという気持ちが僕は非常に強かったですね。やっぱりもう少しそういう意味で、研究費というものを考え直さないと駄目だと思うんですけれども、そこのところ本当に仕事にお金を使うという当たり前のことが非常に難しいんだと思うんですね。
 いちばん早い話が、財団法人ですね。今、重複障害教育研究所は、財団法人なんですけれど、そういう点では僕は本当に情けないと思うんですね。世の中の財団でろくな財団がないんです。もう本当に、まともな財団なんて数えるほどしかないですね。やっぱり、だからどうしても人を疑って、人を見たら何か悪いことするのではないかと思って、法律や制度を作っていかなければならないということになるのですから。
 だんだんだんだんみんな静かになっていって申し訳ないけれど、いちばん科学研究費で困ったのは、発表をしないことなんですよ。これは、先生のご意向で。科学研究費の試験研究というのは、だいたい2年か3年が単位ですから、2年か3年で研究題目を切り替えて新しい題目でやっていくんですけれども、例えば、2回目、3回目というふうになると、6年、9年というふうになってしまいますからね、長い間研究費を続けてもらっていて、1回も学会で発表しないということ─これも考えようなんですけれども難しい問題ですね。その頃、私は東大の助手をしていて、助教授でうるさいのがいたんですよ。上の人にちゃんと言えばいいのですけれども、上の人に言えないから僕に言うわけです。何でお前たちは試験研究費をそんなに毎年もらっているのに発表を一つもしないんだと。だから、僕は、それは私に言って下さることではないですよというふうに言ったんですが、ねちっこく、言われ続けました。ところが、ついに昭和35年にチャンスがきたんです。というのは、東京大学で日本心理学会を引き受けたわけです。私その頃筆頭助手というか、助手やって10年のベテランだから、まあ事務的なことは全て一手に引き受けてきりもりやりましたので、これをチャンスにやっぱり盲聾のことをきちんと発表しようと思っていたら、先生がアメリカに行ってしまった。どうにも発表できないんですね。それで、これもちょっと困りましたけれど、幸いなことに、この試験研究のいちばん最後の3年間だけ水産大学で引き受けて、私が代表者をやったんです。その時に、東北大学で開催された教育心理学会で、一応私が勝手に発表しましたので、私としては世間に対してその辺でご勘弁いただきたいというふうに思うほかないんですね。
 ついでだから言えば、今の研究所の前なんですが、研究所の前は私の生まれたしもた屋風の家でした。門も玄関も開かなくなったので、裏の縁側からではいりしていた大きな家だったんです。そこで、春三月毎年合宿していたのですが、ある年のこと、4月に入っても、しかも10日過ぎても、甲府の盲学校から迎えに来ないんですよ。そして、電話がかかってきて、志村先生がアメリカに行ってしまってるので、今月いっぱい預かって下さいって平気で言うんですよね。だから、僕は折り返し電話をかけて、お預かりしますけれども、それでは預かって下さいという公文書を中島昭美個人宛に出しなさいと言うと、すぐ迎えに来た。盲ろう教育を打ち切るという県の方針でそのために新しい校長が赴任してきている時なんです。安直なかかわり方をした人の方がかえって大きな顔をしているということはよくあることかも知れませんが、ともかく、常識的でなかったし、無理に無理を重ねたともいえますね。当時の盲ろう教育は川手さん木対さんをはじめ、清水さん、宇野さんなとたくさんの方々の直向きな努力に支えられたものです。それぞれの方々が志をたてて真剣に新しい道をきりひらかれたのだと思うのです。まあ、忠男君のお父さんからは間尺に合わないと言われたし、多くの人から、あの人たちの道楽なんだと見られていましたが、一番嫌だったのは、「あなた方は実験しているんだ」とまともに露骨に言われたことで、これだけは忘れようとしても忘れられません。私としては何でもよいのですが、成子さんと忠男君がすばらしい方々であることを是非理解してほしいと願っています。
 こんな話ばかりしていると、それこそ首を締められそうだから、ええと、そうそう、『視覚障害』という雑誌があるんですが、これもみなさんご存じないでしょうね。この雑誌、ご存じのある方いらっしゃいますか。盲学校の三木先生だけかな。そうですか。わりあいと昔から出ていて、長い間続いて出ている雑誌なんです。視覚障害の雑誌だから、一般的にはあまりお読みになっていらっしゃらないと思いますけれども。
 すみませんけど、お茶を一杯下さいませんか。飴玉をなめていたら喉の中がカラカラになってきて。話が聞き取りにくくなってきたでしょうね…。
 それで、『今日から明日へ「動き」の指導を通して育つ、こころとからだ─重複視覚障害児のムーブメント教育指導』というんですね。ある県立の盲学校の視覚障害幼児発達研究グループの代表の方が長々とお書きになっているんですね。盲教育の中に、特に盲幼児の教育の中にムーブメント教育というのを取り入れてみようという考えですね。それで、出発点として3歳児を受け入れて、「入学式の時には、目を押さえたまま背中を丸めて床にうずくまっているY児。座りこんで楽器をたたき続けているC児。一日の日課の大半は眠り込んでしまうK児。どの幼児も発語はほとんどなく、尿意を伝えることもできず、食事等の身辺処理も全面介助。教師が遊びに誘っても、興味なしでうずくまったまま。始歩─初めて歩くことを始歩というらしいですけれども─特に始歩間もなくということもあって、足取りもおぼつかなく、移動をいやがったりブランコなどを恐れる。そういう体を動かす意欲が見られない。」というのがムーブメント教育を始めた年ですね。翌年入ってきた盲児は、もっと状態が、この人に言わせれば悪いらしいですね。「立てないT児。自分あるいは他人への傷害行為をコントロールできないS児。こだわりが強く目の前で物をひらひらさせる行動を繰り返すM児。」そういうような子どもたちを通して、「動機づくり、意欲づくり、言葉づくり、友だちづくり」というのをムーブメント教育によるかかわりあいの中でやろうというんですね。
 それで、ちゃんと「ムーブメント教育とは」と書いてありますね。「アメリカのフロスティッグが体系づけた教育方法で、身体運動経験が必要。」要するに、そういう身体運動経験を通して、「感覚、知覚の能力、概念形成、言語、社会性の発達」を促そうというのがムーブメント教育なんです。これはわりあいに肢体不自由教育に入り込んでいる方法だから、ムーブメント教育そのものは案外知られているのではないでしょうか。ご存じですね。それで、そういうことから、「課題の把握」、「指導の手順」。それから、「ムーブメント教育の位置づけ」。何か、集団教育の中でやるというんですね。「ムーブメント教育の実際」というんで、1番が「動きを育てる」。この「動きを育てる」がちょっと、長いんですね。それに対して、2番は「生活のリズムをつかませる」。3番が、「言葉を育てる」。4番が「社会性を育てる」。というふうに、身体的な運動経験というのを通して、感覚知覚とか、言語、社会というものを発達させるという、そういう考えですね。
 それで、なかなかいいことも書いてあって、子どもの満足感というものを重要視すること、それから子どもの主体的な運動というものを引き出すということをするというふうに書いてあるんですね。ところが、だんだん診断とプログラムになってしまって、例えば、線書きして遊ぼうということがあるんですね。だんだんだんだんどうも目が見える子どもに対するやり方みたいになっているんで、この辺はちょっと心配なことが多いんですね。でもその代わり、動きを育てるとか、生活のリズムをつかませるとか、言語を育てるとか、社会性を育てるとかいうことで、動きがスムースになり、日常生活が自立し、今までできなかったことがたくさん出来るようになり、大いに効果が上がったということです。
 そして、最後に親が非常に喜んでいるという感想文までくっついているわけですね。「歩けず、話せなかった子が、今では電車の中で座れなくても立っていますし、駅から乳母車を使っていましたが歩いてくれますし、駅の階段も昇り降りします。学校でのことを話してくれますが、だいたい意味がつかめます。ずいぶん成長したものだと感心するとともに、学校に入れてよかったと痛切に感じました。いつまでもこの調子が続くとは思いませんが、スランプがあろうとそれを乗り越えることのできる精神力や忍耐力等がついてくれればと思っています。それは、親も同じです。ですから、私も気長に育てていきたいと思います。」というので終わっているわけですね。要するに、効果が上がったということをいろいろ書いていただいてるわけです。
 どうも、それはそれで結構なんですけど、目押しだとか、自傷だとか、歩けないとか、言葉がないとか、生活が全面介助だとか、こだわりが強いということが、みんな悪いことになって、初めての出会いで子どもの悪いところばかり書いてあって教育によってよくするというのですね。で、直さなければいけないことになってしまているわけです。で、直す方法はどうするかということになってしまっているんです。だけど、やっぱりどうもそこのところで、何か、無理があるんじゃないかなあと僕は思うんですね。どういうことにだんだんなっていくかというと、診断してプログラムを組んで、その通り一生懸命教育するということになってしまう。だから、いつもあらかじめ、そして、いつも整然としているわけです。あらかじめでいつも整然としているという状態がよくないんだという考えが全くないわけなんですね。だいたい、そんなことを言ったら悪いんだけど、まず「ムーブメント教育とは」ってまず書き出しているわけですね。それで「フロスティッグ」─何もこんなところにアメリカのフロスティッグが出てこなくても僕はいいと思うんですね。だけど、どうも発表になるとこういう外国の人の名前のが出てくるんですね。外国の人が考え出したやり方なんです。一人一人の教師が一人一人の子どもと出会ってあれこれ考えたり工夫したりして苦労したその人のやり方ではないのです。そしてすぐ「診断」、それで「プログラム」。まだ、その子と出会ってないわけです。何もわかっていないわけです。ただ見た瞬間にあることをするというような、そんな調子のわけです。そしてかかわり合いの始まりは何かというと、いつも整然とあらかじめになっているわけです。それで、結局は、「ムーブメント教育の位置づけ」というようなことを言って、何かもっともらしいんだけど、適当にまとまっていて、格好がいいのだけれども、どうも眉唾じゃないかなという感じがしないこともないんですね。で、どうも、読んでいると、やり方が常に直接的なんですね。ここが駄目だから直す、あそこが駄目だから直すというふうに、全部直接的なんです。ここが駄目なのはどういうことか、意外なところに問題点があって、その辺からもう少し根本的に考えていったらいいんじゃないかというような間接的な、人間行動の成り立ちの土台となるようなものを組み立ててみようという考えは全くないわけです。駄目だから変える、発達していないから発達させる。もうそれが非常に直接的なんです。まあ、その方が親が喜ぶのかもしれないんですね。
 研究所に来て、親御さんがいちばんがっかりしてしまうのは、僕が、研究所に来ても子どもは何も変化しない、お母さんが喜ぶようなことはいっさい起こらない、そんなこと起こったら大変だというふうに、親の思いと違うような、よけいなことをぺらぺら言うから、よくないと言えばよくないんですけれども、だから、研究所がはやらないんですよ。考えれば困ったことなんだけども。
 でも、やっぱり、目を押すなんてことを何で嫌がるのか、どんな子どもだって目を押しますよ。そんな、うちの子は目を押したことないって言うのは、よく子どもの初期の行動を見てないからですよ。手というのは自分の体に触るというのが一つの大きな役割だから。自分の体というのはどこかと言えば、顔なんですよ。人間というのは顔なんですよ。だから、間野さんが去年作ったカレンダーに子どもたちが描いた人間というのは顔なんです。胴体なし。手と足がちょろっとついているだけ。これは人間そのものを表しているんですね。人間が自分自身というものに気がついて自分自身を表す最初のものは顔なんですよ。だから、顔に手を持っていくということは人間行動の本質であり、非常に大事なことなんですね。だから、赤ちゃんだけでなく、お母さんも赤ちゃんの頬をつついたり、唇をこんなにしたり、額をいじったり、髪の毛をいじったりしょっちゅう顔に触覚的な刺激を与えているわけです。何気なく、実に、顔によく触っているんです。
 独り障害を持ったお子さんだけが、長い間病院でほったらかされて、家庭に帰ってきて病人扱いをされてしまって、一定のリズムで一定のやり方でお世話をされてしまって、そういう気楽な、ゆとりのある、楽しみながら子どもとともにある人が誰もいなくなってしまう。はれものにさわるように完全に世話されたら刺激のない白い壁の中にいるのと同じなんですね。自発のもとになるような、やさしい刺激を奪われて、孤立して追いつめられてしまっているんです。顔に触ってくれないんです。だから、自分で触るのは当然だと思うんですね。そのうち、どこの場所をどんな風に押すかについて自分の受容に最も適するように工夫を重ねて細かく組み立ててしまうのです。
 そして、顔に触るということは人間行動の成り立ちにもとずいて考えついたんじゃないんです。お母さんが子どもと一緒にいる時、どうやったらその子どもがご満足か、どうしたらその子どもが納得できるかということがわかるから、つついたり触ったりするわけですよ。だから、目を押すなんてことは何もおかしなことではない。頬に触ったり、目に触ったり、額の生え際に触ったり、髪の毛に触ったり、頭の後ろ側に触ったり、口に触ったり、指しゃぶりをしたり、実にたくさんの体の部分と部分との出会いというものが、特に手を通して起こっているわけです。そういうごく当たり前のことをしているのに、それが異常だとか、病的だとか、つまり、この子は何もわからなくて意識が低いからその程度のことしかできないんだとか、それはちょっと言い過ぎなんじゃないか。もう少し、その子自身の、その子自身が自分で作り出したというか、編み出した、工夫した独自の世界というものを、私たちが、尊重するというか、前提としてかかわり合わなければ、かかわり合いとは言えないのではないかということを考えてもらいたいと思うわけです。自傷も然り、うずくまっているということも然りです。それから、楽器をたたき続けるというんだから、これは偉いんですよ。なかなかたたき続けて、まわりがうるさくて嫌になってもまだたたき続けているなんてできないですよ。たたくということは、人間の行動の中で非常に基本的で大事なことなんです。つまり、みんなが駄目だ駄目だと思っていることは、実は人間の基本として非常に大事なことなんだということなんです。だから、そこからちょっと私たちが考え直せば人間というものの理解が厚みを増すということなんです。手は物を持つものだとか、口はしゃべるものだとか、耳は聞くものだとか、目は見るものだとか、そんな薄っぺらい理解ではなくて、人間がなぜ外界がわかっていくのか、どういうふうにしてその人が外界とかかわっていくのか、外界を確立するためには、まず、自分で自分自身の存在に気づかなくてはなりません。そういう基本的なこと。だから、いわゆる言葉だとか、社会性だとか、道具を使うとか、友だちと遊ぶとか、そういうことは、みんなもっと基本的なところから積み重なっているんです。そして、いちばん基本的なところはいらない、ただでき上がったところだけあればいいというふうにはいかない。そして、必ずしも私たちと同じような体の部分を使ったり、感覚を使ったり、私たちと同じような運動の組み立て方をしていない。すぐ、動きがきわめて少ない。じっとしているというかもしれない。だけど、じっとしているということは、私たちがじっとしているのとは違うかもしれない。そのじっとしている中で、その人が細かな区別をしているかもしれない。それから、密やかな人に見えない動きをしているかもしれない。ただうずくまっている、何もしないというふうに言うかもしれないけれど、うずくまっているという中に、その人の感覚的な外界の刺激の受け入れ方、運動の起こし方というのが、立派に存在しているかもしれない。そこに気がつかないで、ただうずくまっているからうずくまっていたらいけないから、活発にみんなにわかりやすくやれって言っても、仮にそういうふうにやれるようになったとしても、いちばん大事なうずくまっているところの意味というものが明らかにされなければ、人間の本当の存在の仕方というものが出てこないんじゃないか。
 だから、多少親が喜ぶからと言ったって。親というのがある意味ではしょうがない存在なんですよ。例えば、この間ラジオで聞いたんだけど、子どもが試験で百点取ってきた。そしたらそのお父さんが自分が百点を取ったよりうれしいというんです。これは親になってみなければわからないんだということをそのお父さんが盛んに言っているわけです。だから、学校の先生なんて、考えてみると、ただ百点って書いてやればみんな親が喜ぶんだから、簡単だと言えば簡単な存在ですけれどもね。だけど、自分が百点を取ったよりうれしいというのは、どう考えても少しおかしいのではないか。子どもが灘高に入ったある奥様が、子どもの自慢ばかりしていたのだけれど、その子どもが灘高でぐれてしまった。そしたら、その奥様が子どものことを一言も言わなくなってしまった。というようなことは、やっぱりもう少し考えなければいけないのではないかしら。もっともある偉い人で、そういうことが馬鹿馬鹿しいことだ言っていて、自分に子どもができたらそういうことをぷっつり言わなくなった人もいるけれど。
 にもかかわらず、もう少し考え直さないといけないんじゃないか。つまり、子どもが成長するとか、そういう成長を通して親とか先生とかが自分自身を見直す土台とするということが、本当はどういうことなのかということをもうちょっと考えて、心と心が出会うということ。相手の成長を我がことのように喜ぶのはよいけれど、自分自身の存在の根本的見直しを迫られているので、決して安直なものではないということ。……。僕は、この視覚障害のムーブメント教育を盲学校へ取り入れて、いけないって言ってるわけではないですよ。でも、こんな杓子定規なやり方で、きちんとやったら、得るものもたくさんあるかもしれないけれど、見失ってしまうものもたくさんあるんじゃないか。いちばん大事な子どもの心を見失ってしまうんじゃないか。先生と子どもの心の出会いが起こらなくなるんじゃないか。子どもの魂の輝きというのが見えなくなるんじゃないか。子どもがただこういうふうに変化したとか、こういうふうに成長したとか、そんなことばかり言っている。その子どもが、魂が輝いているんだということがわかることが、私たちにとっていちばん大事なことなのではないか。そこに感動するということが私たちの教育の原点だと。よくたくさんの校長さんがそう言うんですよ。心が大切だと。でも口先だけなんです。もう、ちょっと話を聞いていると、どこがこの先生、心が大事だと言っているのかということになってしまうんです。
 ついでに、この『視覚障害』の前の方の写真を見て見ると、これは津布工さんもお出になったらしいけれど、「第13回全国盲重複障害者福祉施設職員研究大会」というのが10月21日から三日間、東京光の家、立川グランドホテルを会場として開催されています。今年のテーマは何かというと、「発達保障と社会参加」、そして、記念講演された人の演題が「障害者は今」。何でそんなに社会参加とか発達保障ばっかりするんでしょうか。つまり、それほど、手助けして、何かお助けしなければならない存在なんでしょうか。その人たちが私たちよりも、ずっと偉いんだと思ってほしいんだけれど。事実偉いんだから、そこまで思ってほしいんだけど、そこまで言わないにしても、少なくとも、私たちと同じなわけですよ。(ここで、かなちゃんの声が会場に大きく響いた。)かなちゃんが駄目だって言っています。この程度じゃあ。わかりました、わかりました。できない人をできるようにするとか、社会的自立というのは、これからも絶対忘れることのない永遠のテーマなんでしょうけれども、もうちょっと考え直してもらわないと、人間というものを。人間が存在者だということを。何か今日は存在者としての証しというところへ話を持っていかなければならなくて。
 そこへ行くと、午前中発表のわが窪田先生は、「ビデオを見ていくうちに、自分ははちゃめちゃなことを言って、やって、その上、ひつこく……」。しつこくなんだけど、どうして「ひつこく」なのかしれないけれど、相当しつこいから「ひつこい」になってしまうのかな。東京の人なのかな。あっ、これ「ひつこい」って言うのでしたか。僕が東京の人で、僕が間違いなのか。「その人(しと)」って言って、「その人(ひと)」とは言わないんです。それから「百(ひゃく)」とは言わないで「百(しゃく)」と言うんです。僕、茂子さんに笑われたことがあるんです。布団を敷きなさいというところを「フトンヲヒキナサイ」と点字で打って読ませてしまったんです。そしたら、「ヒク」、「ヒク」って指文字を出して、面白そうに笑うのです。引き算をちょうどやっていましたから。そんなことどうでもいいんですね。
 「政美君がどうして人を押すのかがわかってきました。」偉いですね。この方は。「ただ単に押しているのではなく、型はめをしているんじゃないかと思ったのです。そうして見たら、位置にうるさく、私より学校のことを知っていて、この人はどこの教室にいる人かを知っていて、そこまで押し入れたり、作業をサボっている人がいたら連れ戻したり、そして授業が始まって、教室にみんながいると入れなかったり、と政美君という人がだんだん見えてきました。」何言っているかわからないでしょう。これがいいんですよ。何言っているかわからないようなところがいいんですね。「また、見本合わせとか、しつこくしてしまったけれど、お料理の時、見本の盛り付け例を見て、自分でさらに盛り付けていたり、米作りをした時、稲を刈ったらうしにかけるということを誰にも言われなくてもやったりして、とても反省してしまいました。」ちょっと僕、これ、わからないところがあるんですが、まあ聞いてもしょうがないから。わからないところがいいんですね。「そして、状況判断も鋭くて、よく見て聞いているんだなあとわかってきました。だからこそ、しつこくて、はちゃめちゃなことをしている私につき合って学習してくれているのだなあと思いました。」こういう実感の記録が大事なんですよ。誰も相手にしてくれなくてもいいですよ。こういう実感を率直に言ってればいいんですよ。そのうち、その人の人生は終わりますから。僕と同じなんです。
 なおかつ、ちょっと申し上げたいことは、ビデオの終わりの方に見本合わせが出てくるんですね。それで、何でも重ねるのがまあちゃんは好きなんですね。それが、重ねる方がいいということを窪田先生も言っているわけです。ところがそれだけではなくて、まあちゃんがすごいことをやっていらっしゃるんです。時間がなくてビデオを最後まで映したかどうかわかりませんけれど、最後に、「くつ」という文字の字の組み立てをやっているんですけれど、こういうふうに縦の枠の中でくつとなっているわけです。これに対して別の縦の枠にくつと入れさせようとしているわけですね。ところがまあちゃんにとって、縦の枠にくつと入れるのは苦手なんですよ。字の一つ一つが横向きだとか逆さまだとかいうのは、これは嫌なんです。だから、まあちゃんは、字は、「く」はこういうふうに横に向いたり、逆さまになったり、こういういわゆる鏡文字になったりするのは嫌なんです。一字一字は、上下、左右が逆になると気がすまないわけです。ところが、二字つなげて上から下へ順序があるというのは苦手なんですよ。ところが、窪田先生の方は、くつに、上から下に一つの方向性をもった順序があるとは思っていないんですね。これは当たり前のことだと思って組み立てる経過を気にとめていないのです。だからこういうふうにあると、まあちゃんが仮にこういうふうに作ったとすると、駄目とおっしゃるんですね。いや、言わないんですね。嫌な顔をするんです。これは、だけど言うよりもっと悪いんですね。ところがまあちゃんにしてみれば、これとこれとどっちがどういうふうに違うかわからないわけです。しかも、こっちからこう作ったら(下に「く」を置いてから上に「つ」を置く)、これを駄目なんですよね。しかし、まあちゃんはどっちかと言うと、自分の机の位置から言って手前の方から作りたいんですね。だからまず「つ」を入れてから上の「く」を入れたいわけです。これも、どうしても上から下へ、まず、「く」それから「つ」と作らないと駄目というわけで、こういうふうに作らないと先生が嫌な顔をするわけです。ところが、いろいろやっているうちにまあちゃんが発見したわけです。これはこうすればいいと。要するに、ここ(「く」と「つ」の間)を一つ空けるわけです。で、「く」「□」「つ」とこうすればいいと。こういうふうにやったわけです。それがいかにもまた、まあちゃんらしくて、偶然やったように見せるんです。その次にやる時に、また、わざと空けるわけです。さらにまた、ここに「く」続けて「つ」と重ねたわけです。それだけ、しつこくやっていても、まあちゃんはただこだわってしつこくやっているんだとしか見られないわけです。なぜか。あまりにこの「くつ」と「つく」とでは違いすぎる状況だから。これが同じなんだということも一理あるということがわからないから。そして、ここへ一つ空けたということが何のために意味を持っているのかと言うと、この字を端と端にしたんですよ。「く」「□」「つ」というのは、端と端で、「く」が上の端で「つ」が下の端なんです。ここへ真ん中が入ってくつが成立するというふうな状況にすれば、上から下への方向をもった順序としてのこつとなるわけです。この上の端というのがまだ充分に効いてないんですね。だから、ここの辺に色が塗ってあって、スタート地点というのが明確にされていれば、まあちゃんにもっとよくわかるのかもしれない。だけど、ここのスタートに何もないから、上から作ろうと下から作ろうと同じではないかと考えてもそうおかしなことではないですね。それが、ここに一つあけると、上の橋と下の端が出て、上から下への方向性が非常にわかりやすい。
 僕も窪田先生と同じで、ビデオを見ていくうちにまあちゃんのやっていることがわかったわけです。なるほど、今度、僕も他の子に教える時に、ここに何か空けておいて、上と下と区別するようなことがはっきりするような状況を作るか、それじゃなければ、ここをしっかりさせておいて、ここから出発してある方向があるんだということを教えるか、何か考えればいいんだということが、わかったわけです。下から字を作る子というのはけっこういるんですよね。でも、下から字を作っているのではないんですね。自分の近い方から作るわけです。それだけの話なんです。大体横書きの時には、右から書くか左から書くか、看板や自動車のドアーに書いてある文字がどちらから書いてあるのかわからないことがあります。横書きが右から書いても左から書いてもいいのに、縦書きはどうして上から下にかくのでしょうか。いや書かなくてはいけないのでしょうか。一体誰がそんなことを勝手に決めたのでしょう。私たちはまあちゃんに実はもう少し根本的にきちんと考えて原則を正しく守りなさい。何でも常識だとか、みんながしているからとか、その時その時の考え方で安直にやってよいものではないとはっきり注意されているのを気づかないのです。もし、縦書きは右から、横書きは左からと固く信じるかそれが当たり前で疑う余地がないという方がいるなら、なぜ横書きが左からなら縦書きも左からでもよいのではないのでしょうか。反対の場合でも同じです。縦書きの時下から上へ書くということが余りに唐突だと思われる方もこのことはどうお考えでしょうか。
 一般的に、窪田先生の言う通りなんですね。お料理の時に見本を見て盛り付けられるのに、何で見本合わせができないのかと言われるかもしれないけれども、手続きがわからない。どういうことを要求されているかがわからないんです。どういうことを要求されているのかがわからないのを、わかるようにしろと相手の方が言っているのがこちらにわからないわけです。だいたい、見本合わせということは、もとをたどれば同じということなんですね。同じというのはどういうことかということを基本的に考えなければ駄目です。同じということがどういうことなのか。これを基本的にどういうふうに考えるかということが、非常に大事な点です。その同じということを考えることによって、どういうふうに操作的に外界を処理できるのかということを考えていくと、見本合わせというものの意味がだんだん出てくるわけです。それを考えないで、ただ要するに同じものを拾ってくればいいんだとか、同じように作れればいいんだとか、形をやって文字をやってそして文字と実物のマッチングをやればいいんだとか、そういうプログラムをいくら作ってみても、もっと基本的な問題として同じということがどういうことなのかということを、まあちゃんが見本合わせのやり方を通して、私たち自身に迫っているんだという切実感が出て来ないと、政美君という人が、だんだん見えて来なくなってしまうわけです。
 やっぱり僕たちが、そういう意味で、自分が単に子どもに学習させるとか、その子ができるとかできないとかいう問題ではなくて、自分自身の問題として、外界を人間が根本的にどういうふうに整理していくのかという問題として考えているんだということを考えないと見えて来ない。やっぱりそこのところに何気ないようだけれども、そういう子どもたちがきちんと教えてくれているんだから、僕たちも、ただやり方が固執的だとか、何もわからないからこんなことをするんだとかいうふうに簡単に決めつけないで、実はそこに大きな意味があるのではないかということを考えて、きちんとしていかないと駄目なのではないか。どういうわけか、普通の子どもよりも、精神遅滞があるとか、肢体不自由があるとか、目が見えないとかいう障害を持ったお子さんの方が、ずっときちんとわれわれに存在者としての明確化を迫っているんですよ。特に、行動的に異常だとか、教育しても社会的自立ができないんだから意味がないんじゃないかというようなお子さんは、もっと強く私たちに人間のそういう外界を区別する仕方のいちばん基本や本質というものを明らかにしているのです。その存在者としての意味の大きさに気がつかなければ、われわれは相当な馬鹿じゃないかというふうに考えないといけないのではないでしょうか。
 それで、話がちょっともとへ戻ってしまうけれども、ムーブメント教育にもなかなかいい点があるんですが、自分の体をたたかせるんですね。それはいいんですけれど、いきなり。─あれっもう4時ですか。大変だ。もう帰らなくちゃ。大変ですよ。今までは、今日の講演の原稿に書いてない前置きなんで、これからちゃんと書いてきてあるんで。それでは、あと6分で話しますけれど。40分までですか。そうですね、始まったのが少し遅かったからね。それではちょっとゆっくりして。じゃあ、今度お茶を飲みましょう。それで、自分の体に触る。このところをまた読むと面倒くさいですが、「身体像は、触覚や筋感覚や関節の感覚等を通して育っていきます。そこで自分の体を触覚を通して自覚するために、マッサージやタッピングを取り入れました。」何か言葉がごつごつして権威に満ちていますね。自分の体に触らせましたと言えばいいのに。「とんとんとん、おなかです・・・。歌に合わせながら教師がていねいにその部分をタッピングします。体に触れられるのを嫌がる幼児もいたのですが、歌につられて抵抗がなくなってきました。」というようなことでやるのですが、いきなりおなかをたたかせるわけです。こういう馬鹿なことをするわけですよ。手でおなかをたたくなんて、たぬきじゃないんだから。全然手というものがわかってないですよ。気の毒になってしまいますけれど、どうしてこんな馬鹿なことするのかなあって思ってしまいます。まあ、音をうまく利用するということですね。これもすぐ音楽なんです。これもちょっと幼稚でもっと考えたらよさそうなものにと思うのですが、ともかく、自分が自分であることに気がつくというのは、やっぱり、音とそういう触覚的な世界というのが非常に大事なんですよ。自分が自分であることに気づくということは、自分と外界との交渉のいちばん最初なんですよ。自己と外界とを区別する基礎として、自分で自分に気づくことが大切なのです。だから、目の前で手をちらちらさせるなんて、嫌がらないで、これは自分に気がついているんだと思えばいいんですよ。自分に気がついて、自分にいちばんいい刺激というのは自分でなければ出せないんだぞと。まわりにある刺激では駄目なんだ。自分がちょうどいい刺激を作らなければ駄目なんだ。それでだんだんだんだんそれが高じてくると頭をたたくとか、つつくとかいうことになるわけですよ。小和田雅子さんという方だって、こういうふうに触っているんですね。これは一種の自傷ですよ。あっ大変だ、あと3分しかない。
 おしっこというと、定時排泄が好きらしいから定時排泄なんだけれど、ある場所へいくこと、そこである動作をすること、それからある一定の姿勢になること、しかも自分の体に触ることというのを組み立てて、排泄の練習をするわけですね。考えはいいんです。考えはいいんだけど、やり方がおおざっぱで、直接的で、どうしていきなりそんなことをするのかと思うくらいめちゃくちゃなんですね。そういう点で、手と言うものを考えてみれば、どこに触らせればいいか、どこが触りやすいか。そんなことは、明らかに、胸から上なんですね。そしてさわり方とタイミングが問題なのです。小和田さんだってこうやっているんですから。まさか、こうやっておなかを触っている人なんていませんよ。おなかを触ってこうやって出てくる人なんかいないんですから。まずは、胸から上なんですよ。だから胸へ触るとか、唇に触るとか、髪の毛に触るとかいうのなら話はわかるんです。それからだんだん下に下がってきて、おなかに触るとか、足に触るとかいうのなら、これはわかりますよ。やっぱりそこに自ずから順序というものがあるわけですよ。それは、そういう子どもが自分でどういうふうに順序づけて、運動を起こしているか、外界の刺激を受け入れているかということから、だんだん探していかなければ駄目ですよ。そんな、学者が机の上で頭で考えてこういう順序だなんて言ったって、あるいは普通の子どもを育てて、お母さんが全部大事なことを忘れてしまって、その後で書きつけたものだけを合わせて、こうだなんて言っても、そういう通り一遍のものは、わかりやすい。常識的で、人に納得されやすいけれどもいんちきです。目茶苦茶です。もっと基本的な大事なところはみんな隠されてしまっているんです。そういうことがものすごく気になるんですね。そういうきめの細かさというものが重要なんです。そして、働きかけの順番というものをいつも考えて、その部分というのがどんな役割をしているのかということを考えていくわけです。
 だから、午前中の今村先生のビデオもそうなんですね。そういう意味では口とか足の裏、頭、手、目とこう来ているわけです。何気ないようだけれど、その人の中に子どもから教わった人間行動の成り立ちの初期の順番というものがあるんです。そういう順番というものをもとにして、考えて働きかける。それから、そういう順番をもとにして見ていると初めてわかるということもたくさんあるんですね。例えば、エレクトーンというのかな、何か音の出る卓上ピアノみたいなものをならしているんですね。どこでならしているかというと、肘よりちょっと上の方で押しているんです。人間が手を使うのに、どこから使うか。やっぱり肩から使うわけです。だからどういうふうにやっているかというと、小さな子どもがみんなこうやっていますよ。仰向けで寝ていても、仰向けで寝ている子どもがみんなこうやって体をゆすって左右の肩をかわりばんこに押しつけていますよ。肩というのは仰向けというものに対して、一つの運動の拠点になっているところなんです。背すじに対して、直行する左右の幅を作って、直線的な体を十字形にして面化する役割をもっている、意味の深いところなんですよ。ここをうまく使わないと、やがて、体を起こしてバランスをとることができないんです。そこのところは、また面倒くさい理窟になってくるから少し飛ばしてしまうとして。そういう同じ手を使うのでも、肩から使うとか、肘よりちょっと上を使う、肘を使う、手の甲を使う、脇っちょを使う、手首で押す、それからだんだん指先を使うという順番なわけですよ。同じ手でも手のどこの部分を使うかということ。そういう順番というものを考えていれば、子どもがただめちゃめちゃにやっているのでない。これは肘の上を使っているんだということが見えてくるわけですよ。そうすると、この子はなるほどこういうふうにして運動を起こしているのか。そうするとそういう運動を起こすもととしてのどういう感覚的な受け止め方をしているのかということが、今度また、だんだんだんだんわかってくるわけです。そこのところはまた前におこしていた運動、これからおこすであろう運動と関係して、問題がたくさんあるわけです。でも今、今村先生の発表だけから取れば、目というものがどういう役割をするか。じいっとしてるということについて今村先生が考えた。ただ、ぼんやりしているのではないと。だんだん考えると、何か物を見ているのではないか。見ているところに物がない。ないとすると床のつなぎ目だとか、じゅたんの縫い目だとか机の木目だとか、そういう物の部分を見ているのではないか。あるいは、そういう浮き上がったところを目で追っているんじゃないか。この子は目が見えるのに目を使わない使わないと言われているけれど、そんなことはないですよ。じっとしている時に実によく、目は使っているんですよ。私たちと同じ使い方をしていない使い方だということだけですよ。何も目を使って歩く必要もないし、目を使って手の運動の調節をする必要もないわけですよ。目は独立して目で見ていればそこに一つの大きな意味があるわけですよ。そういう意味で目というものがどういうものなのかということなんですね。この場合にはその子の自分の運動がよく止まるので、そういうところから目というものについて先生が考え出しているわけです。これをもとへ戻していくと、感覚と運動という問題が起きてくるわけですよ。つまり、運動と感覚というものは本来ばらばらなのかもしれないけれども、感覚というものが運動を止める場合もあるわけです。それから運動を解発して、運動を促進していく場合もあるわけです。そうして、今度、その起こった運動を感覚が乱す場合もあるし、その起こった運動を整然と調整する場合もあるわけです。そういう感覚と運動の問題として考えていった時に、初めて、その子が横目というか上目使いから少し目を下げてとろんとして斜め下を見ているその意味の深さというものが出てくるわけですよ。そして、感覚というものがどういう時に運動と関係がないのか、どういう時に運動を止めたり促進したりするのか。どういう時に運動を乱したり、運動を調整したりするのかという、そこのところです。ここのところがわかるということが非常に大事なんです。何もわかっていないのに心理学や医学の学者先生が、いいかげんなことばかり言っているんです。だから、人間存在の成り立ちの本質的構造をもっと深く正確に理解するために、障害の重いお子さんとともにあることによって、そこのところをもっと詳しく、もっときちんと積み重ねて、そして、教わっていくということが大切なんですね。だいたい人間の動きというものが何なのかということを、考えないと駄目なんですね。人間の感じ方というものは、単なる生理学的な感じ方とか機械的な外界の受け入れとか、物理的な刺激を受容器が受容するというようなそんなものではない。人間の感じというものはそんな簡単なものでは全然ない。もっと人間の感じというものはどういうことかということを、感ずるということが成り立つというのは何かと、そういうことから考えないと。目をつぶるとか、自分の額をたたくとか、ちらちらさせるとか、そういうことの本当の深い意味が出てこないわけです。それはみんな感ずるということの成り立ちの始まりなんですよ。そういう感ずるということが成り立つことをもとにして、動きというものを考えていくと、いったい動きというのは何か。
 最後に、非常に簡単に、お話しすれば、結んで、開いて、手を打って、結んで、また開いて、手を打って、その手を上にとこういうわけです。これは何気ないようだけれども、やっぱり長い歴史の中で人間が積み重ねた結果として人間行動の成り立ちの順序を明らかにしたものなんですよ。結んでというのが、自分の運動のある種の端を示しているわけですよ。握りこんじゃうわけですからこれ以上運動できないで、端で運動が停止した状態です。開いてというのもそうで、これもばっと開いてしまったから、これ以上開けないわけです。そういう運動の停止する端と端とをつなぐということが動きなんですよ。だから、結んで、開いてと。これは人間的なある意図的な動きの始まりなんですよ。そうして、手を打ってと来るでしょう。これは両手を合わせる。手と手が出会うということなんですよ。これは体の部分と体の部分がどういうふうに結びつくものなのかということを示しているわけですよ。それと同時に手と手とを合わせることによって、意図的に運動を静止した瞬間に音がでる、その音を聞くことにより、触覚的聴覚的に意図的な静止がより明確になるのです。今度、また開いてと来るわけですよ。ちょっとしつこいように見えるけれど、そこがおもしろいところなんですね。また開いて、今度は結ばないんですよ。ここが結ぶとおもしろくなくなってしまうわけです。また開いて、手を打って。開いたら手を打たないと気がすまない。それで、手を打ったら何をするかというと、次の段階の手の使い方として、手をこう上へ持ってくる。ということは、ここに手を打って、上へ持っていった時の、ここで新しい動きというものが始まるわけです。ここに手の三つの動きがあるわけです。結んで開いてというのは、自分の体の限界で、それぞれの止まるところでもって、端を決めているわけです。自分で運動を止めようとしなくても、ちから一杯運動すれば端で運動は止まるわけです。手を打ってというのは、そういう両手を合わせることによってそこで体の真ん中を決めているわけです。その体の真ん中で両手を合わせることによって意図的に運動を静止するわけです。運動を自分で止めようとして両手を使って体の真ん中で止めているわけです。バランスをもとにして運動を意図的に静止しているのです。そして手を上へ持っていった。これはある空間的な方向で端を決めているわけです。そうすると、その出発点と終点との二つの端を決めたということをその人自身がそれぞれ感じなければ駄目なんですよ。そして、そういう感じをもとにして、その人がどういう空間というのを組み立てていくかということが人間行動の始まりなんです。ここに、人間の持っている本当の感じとか動きというものが何なのかという基礎があるわけです。これがわからないと、障害の重いお子さんとかかわり合っても、全然おもしろくない。ところがこれがいったんわかり出すと、なるほど、私たちの作っている空間というのは、ごく一つのある典型的な空間であって、もっと他の自由なやさしい空間というのを私たちはたくさん持っていて、使わない、あるいはある時だけしか使わないけれど、まだたくさん持っている。で、私たちが主として使っている空間を全然使わないで、別の空間を主として使っている人たちもまたたくさんいるんだと。そういう人たちが、何もできない、発達遅滞で何もわからないような人ではなくて、人間行動のより本質的な、根本的なきわめて初期の状態というものを明らかにしている存在者としての深い意味をもった方だということがわかると、そこに、人間というものが本当に見えてくるのではないかと、思いますね。ちょっと10分ばかり超過したけれども、これから先は、研究所で来週水曜日に講義することにして、とっておくことにしましょう。仕方がないから。
 長い間聞いていただいて、どうもありがとうございました。