人としての感覚の成り立ちとそれに基づく意図的運動の組み立て

─柴田君の熊大での集中講義の合間に流したビデオから─


                         中 島 昭 美

 今日は平成5年の2月17日です。研究所で、家内と二人で録画しています。これ、自分で、ズームできます。広角にしていくとこういうふうになります。ここにみかんがあるのが見えます。これがモニターです。一応、この原稿みたいなのが見えます。これを望遠にしてずうっとズームしますと、原稿もみかんも消えて、私の顔がちょっとこの辺が、上、消えますけども、ちょうど私の顔が入る程度の大きさにします。もうちょっと、このぐらい。ということで、こちらは、シクラメンの花、姉の丹精で育てた花でございます。
 というわけで、熊本の皆さん、今日は。柴田君の集中講義が19日から始まるんで、これをたぶん20日か21日にテレビでご覧になると思いますから、もう柴田君の顔も見飽きたんで、この辺で彩りに私がちらっと顔をお見せするのも、まあ悪いことではないんじゃないかというわけで、一応、50分ということにしますか。50分経つとこのタイマーが鳴るようにいたします。 進さん、幅さん、加藤さん、寺本さん、伊藤さん、その他の先生方お元気ですか。熊本は寒いでしょうか。東京は2月の17日、今日は、いつもならだいたい雪の降る日なんですけれども、あまり寒くはありません。午前中はちょっと雨が降ったんですけれども、午後からはからっとしたいい天気になってしまいました。気温もそんなに低くありません。
 ところで何か話せというんで、話せといえばとりとめもなく話すということもありますけれども、人間がそもそも人間らしいということをどういうふうに考えるかということ。まあ、私たちが自分が人間だといつ気がつくのか。そして、そういう意味で、よく、集団に帰属するとか言葉を使うとか、いろんなことを言いますけれども、自分が自分であるということ、そして、自分が人間であり、生きているということに、その人なりにいったいいつ気がつくのか。
 例えば、お父さんとお母さんがいて自分が生まれたんだとか、他に兄弟がいるとか、さらに、親戚がいるとか、おばさんおじさんがいるとか、その前に、ひいおじいさんひいおばあさんがいるとかいうようなことから始まって、家だとか学校だとか、もう少し、隣組とか、地域社会とか、それから言わば国家とか世界とかいうようなことにだんだんなってくるんでしょうけれども、やっぱりいつ自分が自分だということに気がついたかということになると、これは相当まちまちなんで、人によっていろんな考え方があるんだと思うんですね。
 そういう自分が外界を知るようになった動機だとか、それから、そういう意味でだんだんだんだん日常生活が自立して、社会生活も自立して、学校も終わって社会へ出ていくというような段階で、自分自身がどういうふうに変化していくかというようなことは、相当ある意味では議論がさかんで、そして、そういうことから人間の外界の認知だとか、人間がどういうふうに発達を遂げるのかというようなことがいろいろ考えられているわけなんですね。例えば発達の本なんか見ると、いつ頃から手を使うかとか、立って歩くとか、それから言葉を言うとか道具を使うとか、それから人とか外界を認知するとか、集団に属するとか、遊びをいつ頃からするとかいうようなことが書かれているわけなんです。そういう意味で、そういう人としての発達とか、それからその人自身の自立というか、そういうようなことというのは、議論の対象になっているわけなんですね。
 ところが、自分が自分に気づくための、つまり自己の存在を確立するための自己刺激の持つ意味を深く考えようとしない。自己刺激、自傷さらには固執的な行動を病的な異常行動だと簡単に決めつけて、その自己自身の確立のための一つの大切な行動だと考えない。その人自身の存在の根源にかかわる重大な意味を持つ行動だということが明らかにされない。したがって、私たちは自分自身をどうやって確立し、その確立した自分自身をもとにしてどんなふうに外界を受け入れたのか、その過程がまるっきりわかっていない。
 そこでいちばん気になるのは、私たちが、感じてるということ、その感じというのが何なのかとか、私たちが自分で運動を組み立てて、自分で運動を自発していることが何なのかという、そういういちばん基本的な、どうやって自分が自分を確立したのか、自分に気がついたのか、あるいは自分と外界を区別することができるようになったのか、というような人間行動の成り立ちの根本的なところが意外と議論されていない。障害の重い子どもが自己刺激によって明らかにしている人間行動の根本を無視している。外界の刺激を受けて、自分がいろんな感じを抱いて、そういった感じをもとにして自分の運動を組み立てていくという、そういう人としての感覚、運動の成り立ちの過程を明確にすることが一つの大きな課題なのではないのか。つまり、私たちが外界の刺激を受け止めて外界がわかるようになった、これは非常に話が簡単なんですけれども、目で見てわかるというのは、外界に物理学的な刺激があって、それを光学的に伝えて、そして眼球が、水晶体というレンズみたいなものでこれを捕らえて、後は写真機のように写し出して、それを網膜像から中枢の方へ送って、中枢で非常にいろんな総合的な判断過程みたいなことが起こってということになる。耳は、今度、音を聞いて、録音機みたいなのがあって、またそれを中枢に送ってということになる。このように、何か外界の刺激があって、それを受け止める受容器みたいなのが生体の中にあって、そして、今度その受容器から中枢の方へ神経系で送られてというような話になってしまうんですね。
 だけど、私たちがそもそも外界というものを感じるというプロセスの中で、そもそも外界の刺激を受容器が受けてそれを感じているのかどうか、そういう一方通行的な受け身の状況で、私たちの感覚とか知覚とか認知とか言われているものが成立するものなのかどうかということを、ちょっと考えていかないといけないのではないかということなんですね。受容器があって外界の刺激を受け止めて感覚が生ずると言うと、物理学的生理学的で非常にわかりやすい考えなんです。だけども、外界に刺激があってそれを受け止めるという、一方的で受け身で受け止めるというようなものでは、私たちが外界を感ずるということはできないんじゃないか。いわんや、外界を認知するなんてことは、ますますできないんじゃないか。つまり、外界がすでにあって、そこに刺激がいっぱいあって、それを私たちが一方的に受け身として受け止めているという考え方が、非常に強いわけです。強いんだけど、この考え方はどうもおかしいんじゃないか。生理学でも心理学でもそういう考え方に立っているわけなんですね。いわゆる科学的常識として私たちの中に固定観念化してしまっているのです。
 ところが、本当は、私たちが自分で刺激を作って、その刺激を先ず受け止めることから始めるのではないのか。外界の刺激を受け止めるというのはその後のことではないのかということが、障害の重い子どもの自己刺激から学んだ大変重要な考え方なのです。私たちが外界を感じているというのは、もっと積極的に私たちが何らかの運動を起こしている。自分で刺激を作り、それを受容する自己刺激的受容の延長線上に外界の受容がある。だから、外界の受容と言っても、私たちが何らかの外界への働きかけをしていることが前提になっているんじゃないのか。そこで初めて感じるということが起こるんじゃないか。人が、生理学的でなく人間行動学的に感じるという時、自発を前提としない人としての感覚などは考えられないのではないのか。
 そんなことはない、じっとしてて全く動かない状態でいちばんよく感じるんだとおっしゃるかもしれないけれども、にもかかわらず、ちょうど、一つの神経細胞で、一本の神経繊維で、外界の物理学的な刺激と生理学的なある種の神経細胞や神経繊維の状態とが、一対一に対応して、その対応をもととして、ある経路をもって中枢に伝達されると。それが仮に感覚の生じる過程なんだと考えると、一見確かになるほどそうなんじゃないか、どうも考えてみれば外界に刺激があって、それを末梢が受けて、そのある情報が中枢へ伝達されるんだからそれでいいじゃないかというふうに思うんですけれども、もし、実際の場面で自分が全く動かないで、しかも、ある一つの物理的な刺激を一つの細胞だけでうまく受け止めて、そしてその一つの神経繊維だけでうまく伝達するなんていう、そんな芸当みたいなことができるのかどうか。ある生理学的な仮定として、そういう仮定は考えられるし、それからそういう仮定をもとにして、生理学的な組み立てということが、人間の生体の構造というものを明らかにしていくという接近の方法として一つの意味は持っているかもしれない。
 しかし、実際に私たちが外界の刺激を受けて感じるというような時に、絶対に自分が動かないで全く受け身で、そして外界の刺激をある刺激に対してある一つの感覚器官だけが働いて、そして中枢へうまく一つだけの経路でもって伝えるという、そういうようなことが起こるというようなことは考えられない。どんな刺激でもまず刺激自体がいくつかの属性を持っているわけですね。だからその属性というものがいくつかあるとすると、それだけでその一つの刺激がいくつかの感覚というものを生じるわけですね。仮に、ここにある花というものだって、触ればある意味の柔らかさみたいなもの、見れば色合い、形、そして、匂いも当然起こっているでしょうし、私たちの実物というものは、たった一つの実物で、たった一つの次元の中で一つだけの属性を持った刺激ではなくて、私たちにとっての外界の刺激は、どんなに単純化して実験室的に設定しても、なおかつ非常にたくさんの種類のものがいっぺんに伝わってくるというようなものであるわけですね。私たちがもしそういう意味で完全に受け身で、外界の刺激をうまく受け止めているんだとしたら、それはいろんな刺激の種類があって、しかも生体の中でいろんな感覚器官があって、それぞれ別種の刺激をたくさんいっぺんに受け止めるんだから、それこそ全く切りがないとめどもない状態になってきてしまう。外界の刺激なんていうものでなく、突然襲いかかってきた刺激の洪水で、私たち自身は押し流されてあっという間に溺れて水中に没してしまう。無限の中に吸い込まれてしまう。
 幸い目のようにまぶたを閉じれば、開いていれば刺激が入ってくるけれど、閉じれば完全に入ってこないということはないけれども、ある明るさみたいなものは当然わかるかもしれないけれども、それでもまぶたを閉じれば相当たくさんの刺激が消えてしまう。
 同じように手というものも引っこめて、内側へこういうふうに(胸の前に引きつけるように)してしまえば、これはそれなりに刺激というのを消せるわけです。盲聾の忠男君という方が、こういうふうに指文字を手掌で受けて、こちら側にも指文字で話すわけですね。聞きたくなければ、手をこう内側に引っこめちゃえば、もう相手の出した指文字の刺激というのは全く入ってこないわけです。
 ところが、耳はこうやってふさいでもなかなか聴力が落ちないし、それから外界の音の刺激をこうやって押さえただけではとてもふさぎきれないですね。耳栓をして、そして聴覚刺激を減衰するというか、減らすというのは非常に難しいんですね。
 それは、私が昭和24年に卒業論文を書いていた時に、盲人の歩行というので卒業論文を書いていたんで、盲人が歩いているうちに、前に障害物があると、その障害物に触らない前で、その障害物によってわかりやすいものとわかりにくいものとがありますけれども、非常にわかりやすいものだともう何メートルも前から障害物があることがわかっちゃうわけですね。それで、そういうのはセンス・オブ・オブスタクルズ、障害物感覚というんですけれども、盲人の方というのは、特に先天性の視覚障害の方は、この障害物感覚が優れている。つまり、同じ障害物でも後天的な視覚障害の方よりも、ずっと正確に、しかも遠くの方からおわかりになるわけですね。そういう障害物感覚の実験の中で、盲人の方に歩いてもらって、ついたてみたいなものがわかったら手を挙げてもらうというようにして、そのついたてがわかった地点とできるだけついたてに近づいた地点とを二つ採っていろいろ実験していた時に、その盲人の方に、なるべく、聴力を落として、耳が聞こえないようにして歩いてもらおうとしたわけですね。これはある程度聴力を落として聞こえなくすることはできるんですけれども、なかなか耳に何か詰めてその上にまたかぶせて、その上にまたおおってというふうに、三重ぐらいのおおいをしてもなかなか聴力そのものは私たちが考えるほど悪くはならないで、困った覚えがあるんですけれどもね。
 私どもも、夜寝る時に、何か音がして気になっちゃうと寝られない。耳栓っていうのが薬局などで売っているんですが、それを買ってきても案外耳栓なんかでは聞こえが悪くならないことが多いんですね。だから、そういう意味で確かに耳みたいなものは、目と違って、目は開閉器があって、手は引っこめればいい、足もまあ引っこめればいい。だけど、耳は、そういう意味で開きっぱなし。
 匂いもそうですね。匂いも開きっぱなし。鼻をつまむなんてよく言いますけど。口はそういう意味で、うんってつぐんでしまえば開閉器がついているというようなことで考えてもいいんじゃないかと思いますけれども。そういう意味で開閉器がついているかついていないかということは感覚器官の中の一つの大きな問題なんじゃないかと僕は思うんですけれども。
 そこの話はいずれまた後でゆっくりするとして、そういうわけで外界の刺激を閉じたり開いたりして受け止めたり受け止めなかったりするということも、それはやっぱりその人の能動的な積極的な過程なんですね。感じるということの前提には、その人がそういう刺激を区別してその刺激を拒絶したり受け入れたりする、そういう前提というものが一つ非常に大事なところなんじゃないかということですね。
 さらに、もう少し考えていくと、そういう刺激の中で、同じ刺激にも、その人の中で濃淡がついてくるということ。これがまた、刺激を区別して選択するというそういう過程の中で、刺激を受け入れるか受け入れないか。つまり拒否するんだったら完全に拒否する、受け入れるんだったら徹底的に受け入れるというようなことから、同じ受け入れにしても濃淡がつくということ。その刺激自身を自分が意識的に浮き出させるんじゃないか。
 例えば、いちばん問題点は、目だとか耳だとかいうのは感覚器官がある程度はっきりしていて、耳だと、外耳から始まって中耳、内耳、目玉の場合だったら、角膜だとか水晶体とか網膜とか、非常に特定された部位で、しかもよくわかるんですけれども、触覚となると、視覚とか聴覚と違って、どこが触覚なのか何が触覚なのか。まあ普通、物に触った感じということになるんでしょうけれども、いったいそれじゃ物に触った感じというのは何なのかということがあるわけです。
 物に触った感じというのが、冷たさとか暖かさ、堅さとか柔らかさ、ざらざらとかすべすべとかいうようなこと、それからあるいはちょっとある時に痛みみたいな感じ、さらには物を持った時の重さ。そういうものを実は含んでいるそういう触った感じなんですね。(シクラメンの花びらをそっと触りながら)本当の純粋の触った感じとはいったい何なのかということなんですね。そうなってくると、いったい純粋の触った感じというのを支えている例の受容器はどこにあって、どういうものなのかということにだんだんなってくると、目だとか耳だとかいうようには、はっきりしない。(両手を前で合わせながら)同じ触ってもそうっと、圧みたいに感じるものもある。(合わせた手を軽くすり合わせながら)それからもう少しそれを動かして摩擦が生じてそこへすべすべしてるとか冷たいというような。(テーブルの表面をなでながら)つるつるしてるというかな。(テーブルの縁をなでながら)あるいは端でもって、ちょっと確かに出っぱっているとか、それから端だから、そこに刺激の切れ目みたいなものが起こっている。あっちょっとこれ、ビデオカメラをワイドにして見ると、僕は何をしているかと言うと、僕はここ(テーブルの縁)を触っているわけですね。ここのところを触って端だとか端じゃないとか言っているわけです。そちら側からは白い線みたいに見えるでしょうけれども、実はこれこたつの上に載っている板の端っこの、麻雀のパイか何か引き寄せた時に、ここでぽっと止まるようにできているんだと思うんですね。そういうような感じというが何なのかということが問題になるわけですね。先っぽ、角、端などというものは、触覚的にやや強い、危なっかしい刺激なのです。そして、精密な弁別を基礎とした複雑で微妙なより安定したバランスの上に成り立つ、その人と外界との接点としての重要な意味を持つ感覚というよりは感じ方なのです。
 そうして考えてみると、やっぱり触覚なんていうものは、もう少し私たちがよく考えていかないと、ただある種の外界の物理学的な状況と、それを受け止めているところの受容器の生理学的な状態とで解決できるような問題ではない。なぜならば、そこに手を動かしている。手を動かしているところに触覚が生じているというところに一つの大きな意味がある。視聴覚に比べて触覚の人間行動の成り立ちに持つ大きな深い意味がまったく明らかにされていない。触覚とは何かということすらいいかげんで研究されていない。したがって人間行動に触覚がどんなに大切なものか誰も考えようとしていないのです。
 例えば、目で物を見るんだと言った時に、いかにも確かに目で物を見るわけですね。しかし、その時に、じっと物を見たとしても、その目は動いてそこへ来た目なんですね。どこかを動いて、ある意味で動きを止めた、そういう目なんですね、その目は。つまり、動きを止めたということが何なのかというと、偶然止まった場合ももちろんあるだろうけれども、その人が意図的に止めたので、その人の主体性なわけです。運動を意図的に静止して、視線を集中した自発的な動く目なのです。
 聞くというのもそうですね。今、この録音しているところでごく小さな音なんですけれども、この研究所全体に暖房が入っていて、その暖房の音が聞こえているかもしれません。これはまあ聞こえていないかもしれません。だけども、そういう聞こえているか聞こえていないかわかりませんけども、そういう音が全く聞こえていないというふうに考えると、まあ、これは録画してるから、このマイクを通して録画して、またそちらのテレビで出してるから、当然その間に雑音が入っているわけです。それで、その雑音が皆さんに聞こえているかどうかわかりませんけども、一応聞こえているはずなんです。それを仮に聞き取らないで、私の声だけが聞こえているんだというふうにお考えになるんだったら、やっぱりそこにその人の選択というか、主体性があるわけです。だから、その人が、あれっ、何か音がしたなと思って振り返るというようなことがあるとすれば、音なんてものは、方向性が非常に弱いものなんだけど、にもかかわらず、その人の動きの中で捕らえているものなのです。
 だから、見るということにしても、聞くということにしても、触るということにしても、実はその人の動きの中でその人の独自の捕らえ方をしているということを私たちがもう少しよく考えていかないと、人としての感覚というものがどういうふうにして成り立つのかというそこのいちばん大切なところが出てこないんじゃないか。障害の重い子どもたちが、外の庭の木のゆれや、物の影などの視覚的な濃淡や小さな動き、あるいは私たちが無視している遠くの小さな音や衣ずれの音、さらには厳しい寒さや5月のさわやかな風をとても大切にしていることに気づいて、人の感じ方の根本を考えることが重要なのです。
 どうも、そういう点で生理学は当然のことなんだけれども、心理学においても、すぐ感覚となると受容器の話になってしまって、後は、外界の刺激を受容器がどういうふうに受け止めて、中枢へどういうふうに伝えているかという話になってしまう。それから今度は知覚の話になってしまって、すぐ形がどうのこうのとか、それから色は意味がどうのこうの。例えば、信号を見て、赤だったら止まるし青だったら横断するというような、それぞれの刺激がそういう行動を止めたり促進したりするようなそういう意味あいを持ってくるというふなことになってしまう。そして、いちばん最初の外界刺激と生理学的な受容器の世界と認知の世界とが馬鹿にかけ離れている。間がつながらない。感覚は生理学、知覚は心理学となってしまう。そして、人としての感覚というのがどうして成り立っているのか、そういう主体性というものを入れるのは、科学的客観的な心理学としてはよくないというような考え方が一方においては非常に強いわけです。
 ところが、人間行動学的に考えてみた場合に、この感覚がどうして成立するのか。ただ外界刺激があって、受容器があって、その受容器から中枢へ伝われば感覚が成立するというようなものではないんだと。人間が外界を感じるというのは、そういう一方通行みたいなもので、とんとん拍子にある方向にまっしぐらにぱっと行って感じるようなものではないんだと。そこにその人自身の主体性というものがあるんだと。その人の独自の感じ方を作るもとがあるんだ。それから、拒否というものがある。それからある種の濃淡から集中というものがある。そして、その人自身の動きとその動きを止めるという運動の自発がある。自分にもっとも適した刺激を選び、作り出す。そういうものの中から初めて人としての感覚というものが組み立てられ、生まれてくる。ということを考えていかないと、私たちが障害の重い子どもたちの輝きを十分に見きれない。
 今、ちょとお飽きになったでしょうからこのズームを少し操作して私の顔をちょっと大きくしますけれども。
 やっぱり、寝たきりのお子さんが示している行動というものを私たちがよく見極めないと、本当の意味の人としての感じ方、特に人間の初期の行動の組み立て方というものがわからないのではないか。つまり、障害の重いお子さんは何もできないし、何もしないし、動きはないし、関心は示さないし、何かちょっとしても、お医者さんが言うにはもう病気ばかりで、病気の山だと、病気の宝庫だというふうなことになってきてしまって、また、そういう意味で、そのお子さんが今までどういう病気だったかというようなことを言えば、もう切りがないほど病気が重なっている。そして、今度、どういうふうな現在の状態かというと、もう本当に何もできないとか寝たきりだとか、それから手足がねじれているとか、あるいは寝返りがうてないで仰向けでずっと生活をしているとか、こちらが呼びかけても全く反応しないとか、大小便はたれ流しだとか日常生活は全面介助だとかいうような、そんな話ばかりなんですね。そして、最後は、もう少し親が困り出すと、今度はよだれがたくさん出るとか、自傷するとか、何か固執的な行動が多いとか、指しゃぶりをするとか、変な声を出すとかいうようなことばっかりなんですね。何かおかしいんじゃないか。
 そういう意味でそういう病気が重なり合ってしまって、脳細胞が変化してしまって、そしてそのために行動が全く遅滞してしまって何もできないんだという考え方はお医者さんに任せればいいと思うんです。それから、その子がどんなふうに行動が遅滞しているのか、未発達なのかというようなことは、もう心理学のお偉い先生方に任せればいいと思うんですね。そして、いつも、何もできないとか何もわからないから始まって、困ったこととか、異常な行動だとか、固執的だとか、そんなことばっかり言うのはもう止めにした方がいいと思う。もっとそういう寝たっきりのお子さんをちゃんと理解する、見極めるということ、そこのところをもっとうんと大事にして、私たちが改めて自分自身に自分の存在の根本を問い直すということが大事なんじゃないか。
 それは、確かに、私たちとは、全く使い方の違う感覚の使い方なんですね。感覚を使っている体の部分も違うし、その使い方も違う。私たちが普段使っている感覚みたいなものは障害の重いお子さんはほとんど使わない。だけども障害の重いお子さんは、その子なりにちゃんとした感覚を自分でうまく使っているわけです。ただ私たちから考えてみると、すごく突拍子もないような状況でそういうことが見えてくるから、何が何だかわけがわからなくなってしまうんだけど、その人自身は自分で自分の感じというものをちゃんと感じ取っていて、自分にもっともふさわしい外界刺激を大切にするとともに、自分でも積極的に作り出して、その延長線上に外界をその子なりに独自にうまく感じているわけ。
 そして、そういう感じをもとにして、その子自身の運動というものをちゃんと組み立てているわけ。この運動の起こし方も全然違うわけ。われわれだと運動を起こすと言うと、非常に陽気で、いつも目がぱっちりして、どんどん立ち上がってというような運動の起こし方なんだけれども、障害の重いお子さんの運動の起こし方と言ったら、本当に背中のちょっと肩を左右に振ったとか、腰をちょっと入れ換えてほんの少し腰の重心の位置を動かしたとか。でもそれが非常にその子にとって意味のある大事な運動。そういう意味のある運動というものは、実は私たちにとってもまた同じように意味が深い。確かに、使う体の部分も違うし、使い方も違うし、そういう意味で運動の起こし方とか起こす時期とか、そういうことも私たちとまるっきり違うかもしれない。でも、大事にしていることがお互いにまるっきり違うかもしれないけれども、その人がちゃんとそういう意味で外界を受け止めて、その子なりに運動を起こしているんだということを、まず私たちが私たちの立場、考え方、やり方を捨てた上で、相手の立場、考え方、やり方をきちんと理解していくということが大事なのではないか。そして、それ以外の病気の治療だとか問題行動の解決法などは、もうお医者さんだとか心理学者だとかいう方々に任せて、私たちはそういうその子の持っている本当のもの、いちばん本質的なところを見つめていく。
 そういうことを見つめていくと、人間というものは外界の刺激を直接は受け止めていない。あくまでも間接的だと。どういうふうに間接的なのかと言うと、まずは自分で刺激を作って自分で受け止めるというところから始まる。これは同時に、できる限り外界の刺激をシャットアウトするということを伴っている。そういう外界の刺激をできるだけシャットアウトして、そして自分で自分がもっとも受け止めやすい刺激というものを自分で作り出していく。
 これは音にしても、それから触覚的な刺激にしても、そして、目で見ることにおいても同じ。そして、自分の体に自分で触るということは、非常に大事なこと。特に顔に触ること。これはその人自身が自分に触ることによって何をしているのか。自分で自分が受け入れやすいもっともよい刺激を作り出している。同じように自分の呼吸音をよく聞く、さらに自分で自分を刺激するために呼吸を荒くするというのもそう、声を出すというのもそう。そういうことによって自分が聞きやすい、その時の自分がいちばんわかりやすい音というのを自分で作っている。視覚的な場合もそうですね。子どもがちょっと顔を振って動くというのは、実はその子自身がいちばん自分の受け入れやすいような明るさというようなものを調節している。目をちょっと細めたり開けたりするというのもそうですね。そういう意味でまぶたというものを使って、もちろん瞳孔の反射みたいなものが起こっているんでしょうけれども、それだけでは足りないんですね。まぶたみたいなものを使って、しかも眼球を動かしたり、眼球を動かさなければ自分の首を動かしたりなんかすることによって、自分の運動をもとにして明るさの調節をしているわけ。だから、音にしても、明るさにしても、触覚的な刺激にしても、全部自分で作っているわけです。一見、反射や自律機能と同じように見えるのですが、この自己刺激はあくまで意図的自発的なもので、人間行動の成り立ちの基礎となるものなのです。この意図的運動の自発を反射だとか単なる偶然だとか決めつけてしまったら、子どもの輝きは失われ、どんな素晴らしい人間の心も単なる生きている物体となってしまうのです。
 そのことをよく確かめることができたら、その子自身が実にうまく外界というものを利用しているということが、だんだんだんだんわかってくる。つまり、外界とその子の間に、自分の作った刺激をうまく入れているわけ。そういう自分の作った刺激をうまく入れることによって、今度、外界の刺激を取り入れる、ちょうどそこに間を作るわけ。そういう間としての役割というのは、舌とか唇とかそういう体の部分から始まって、手とか足とかいうものが、非常に役に立つわけです。
 まあ、その前に、もう少し大きな、体を揺するというようなこと、体を前後に動かすというようなこと、そういうことはみんな実は一つの大きな意味を持ってきているわけなんですね。そういうことを考えていくと、やっぱり、私たちが、私たち自身を考える時にいちばん大事なことは何かと言うと、体を起こすということなんですね。何のために体を起こすのか、どうやって体を起こすのか、そして、体を起こすことによってどこがどう変化するのか。そこのところを私たちが改めて考え直すことによって、今まで外界刺激と受容器との関係みたいにして感覚の成立というものをごく簡単に考えていたけれども、実は私たちの人としての感じというものが成立する過程というものは、もっとちゃんとした人間が体を起こしていく過程の中に組み込まれているものなんだと。どこの体の部分をどんなふうに使って、次のどんなふうな体の部分のどんな使い方に変えていくのか。あるいはまとめていくのかということを考えていくと、私たちが体を起こすということが一つの大きな意味を持っている。人間の成り立ちの根本が見えてくる。人間存在の本質は何かが見えてくるのです。
 人間というのが立って歩く、二足歩行なんだということ。これは確かにそうには違いないんだけれども、それでは、その体を起こすということが何なんだ。なぜ背骨を垂直に立てて、足を2本下にして、頭を上にのっけて、手をぶらんぶらんさせるのか。平らな底面に(ペンをテーブルの上に垂直に立てながら)こういうふうに立つのかということですね。何のために、横になっていればよさそうなものなのに、こう立つのか。今度これ離せば倒れてしまうけれどもなぜ人間は倒れないのか。何が支えているのか。ということを考えるためには、寝たきりの人が外界の刺激をどうやって受け止めているか、そして外界の刺激を受け止めるために、自分がどういうふうな運動を組み立てているのか、それをどういうふうに使って外界の刺激を受け止めているのかという、そこのところのいちばん最初の根本的なところがよくわかってこないと次の段階が出てこない。その次の段階が出てこなければ当然その次も出てこない。というふうにして、いちばん基礎になっているところの人間行動の成り立ちは、仰向けで寝たきりということなんですね。
 その仰向けで寝たきりというところに、人間が何をしているのかということを私たちによく教えて下さる方は、障害の重いお子さんのみなんですね。そういう障害の重いお子さんたちのそういう寝たきりの状態というものをよく私たちが考えて、それでその方を理解することによって、初めて私たちは新しい考え方、人間が感じるということが本来どういうことなのか。(タイマーが鳴る。)
 ちょうど50分になりましたので、ここで私の話を終わりにいたします。この続きはまた4月から毎週水曜日に講義をしますので、そこでいたしますけれども、底が浅い一般的で表面的なわかりやすい考え方、それでは駄目なんです。わかりにくい、どう考えてもおかしいというような、そういうところに本当に大切な意味があるんです。だから、私たちが子どもが輝いていると言った時に、ただ派手に積極的に輝いている、そんなもんじゃないんですね。もっと、どこまでも静かに、ひそやかに、奥深く、かすかに輝いているんです。私たちは、そういう微かな輝きの本当の意味というものを大事にしていかないと、派手なわかりやすい、そして次から次へ変化するような、飽きはしないかもしれないけれども、底の浅い、広さだけ広がっていくような安直な暮らし方というものに慣れてしまって、本当の人間存在の意味というものを忘れたら、それは本当の意味で、本末転倒ということになるのではないでしょうか。
 それでは、ここで私をワイドにいたしまして、私の話を終わりにいたします。プチン。