人間行動の初期の意味の大切さを障害の重い子どもたちから学ぶ

─重複障害教育研究会第8回山口大会のテレビ講演から─


                         中 島 昭 美


 山口の皆さん今日は。今日は3月16日の火曜日ですが、このビデオが映るのは3月20日の土曜日の夕方じゃないかと思います。昨日、松岡先生から心配して電話がかかってきて、まだ録画してなかったので、明日研究所で録画するつもりですからというふうに申し上げてご納得いただきました。 山口の大会は、今度第8回目ですけれど、第1回から第7回の間で私が6回講演しているんです。病気で1回抜けているわけです。その講演をまとめたものが、山口重複障害教育研究会の皆さんのご努力によって1冊の本になりました。というわけで、この本ができあがったわけです。確か、300部以上お刷りになったんで、たぶん売れないで残っていて、困ってるんじゃないかと昨日おうかがいしたら、一応何とかはけそうだと言うんで。もう少し売れないはずなんですけれどね。もっとも、売れたからってみんなが読むわけじゃないんで、ただ買って置いておくというだけかもしれません。そうそう松岡先生が勝手に写真をお載せになっちゃって、変な写真が載っておりますので、私は非常にがっかりしております。たぶん、今度8回から、あと6回やると14回かな。また、もう1冊本ができるのではないかと思いますね。だから、平成の12年に、この続きの本ができるのではないかと思います。これは、講演してしゃべった原稿を、その通りにワープロで打ち出していただいたもので、「やっぱり」とか「すなわち」とか「つまり」という言葉が非常に多いのと、強調することを先に言ってしまって、あとから説明的なことを言っている、話言葉みたいなものが非常に多いので、話を聞いているぶんにはわかりやすいのですが、活字に直して本として読むと、読みにくいんですね。そのために、私、大幅に訂正して、3回手を入れ直して、実はやっとできあがったわけなんです。だから、平成12年かな、今度またそのことをやるのかと思うと、少し、それを考えて今からうんざりしているんです。やっぱり、話は話として聞くのに意味があるんで、どうも活字にしてしまうと、そういうおもしろさが消えてしまうような気がしますね。そういう活字にしたものを読むと、眠くなりますね。松岡先生が送って下さったので、さっそく読み返そうと思って読もうと思っても、2、3ページ読むと眠くなってしまって。私、実はほんの20ページぐらいしか読んでないんで、直す時は3回読んだんだけど、今度読もうと思ったら全然読みきれなくて、たぶん、もしお買いになった人は、買ったはいいけど、読めなくてお困りになっているのではないかと思います。書いた人が読みきれないんだから。ぜひ、眠い時に、特に疲れて床の中に入ったような時に、この本をお読みになるといいんじゃないかというふうに思いますね。催眠剤を飲まないでこの本をお読みになった方が、よく眠れると思います。そういう馬鹿馬鹿しいお話をしていると、切りがないんで、一応1時間しかテープを用意しませんでしたので、1時間で終わりということになるわけです。
 何のお話をするかということなんですけれども、いろんな研究発表が続いているので、もう皆さん相当お疲れだと思います。私としては、野村耕司君から、研究発表をするんで読んでくれと言われて、彼の書いたものを途中まで読んだのですけど、そのあと、ちょっとお客さんが来て、全部読みきれていないんです。野村耕司君が、一生懸命考えて発表したことと思いますが、それを受けて少し話を進めてみたいと思います。
 野村耕司君の発表にもさかんに出てくるけれども、どうも私たちは、そういうお子さんとかかわり合う時に、勝手にいろんな決めつけをしてしまって、その子が何をやっているのかということを、自分の物差しというか、自分の考え方というか、あるいは自分と比較してというか、ともかく自分の考え方で相手の行動をわりきってしまうわけですね。例えば、何か持っていた物を相手に持ってくれと渡そうとしたら、確かにその物を自分が持ちたくないから、持ってくれという合図ではあるが、何のために持ってくれと言っているのか、その意味がわかることが大切なのです。その子自身が手を離して持ってくれって言っているのは、私たちがよく決めつけるように、その子自身がさぼりたいからだとか、あるいは、自分が動かすより人が動かした方が上手に動かせるからとか、あるいは、甘えてやっているということではないのです。つまり、物を持つということは、私たちは何気なくやってしまって、何でもなく持っています。けれども、もし、その人が本当にある特定の刺激を、自分で十分に実感として感じようというような気持ちがあった時に、物を持っていると、その持った感じが邪魔するわけなんですね。
 ちょっと、これ(加湿器)、湯気が出過ぎているんじゃないかな。映りますか、この湯気。映らない? いかにもこれ出過ぎて。じゃあ、ちょっとこちらに向けて。このくらいの方がいいかな。いくらなんでも。そうか、湯気なんていうものは映らないものなんですね。全然映りませんか、そこ(モニター)へ。
 例えば、僕はこの湯気が非常によく見えたわけですね。だけども、その画面には全然湯気が映っていないって奈苗さんがおっしゃるから、皆さんがこのビデオ見てもこの湯気がどこから出ているのか、僕はそれを見て湯気が出過ぎていると思うんだけれども、このビデオを見ている人は、その湯気が見えないから、まさかそこに湯気が出てるなんて全然思わないんですね。
 つまり、その物を持っているということが、その人自身がある特定の外界の刺激を受け止めるためには、邪魔なんだということ。だから、単に持つのが面倒くさいんだとか、ちょっとした甘えなんだとか、そんな簡単なことではないのです。
 つまり、私たちが何気なく物を持って何気なくやっているということは、ごく当たり前のことになってしまっていて、持っているという感じがその人自身の中に深く入りこんでいるというか、そういう状況がもう消えているわけなんですね。だから、そういう持っているという感じ、特に指先の刺激というものを大事にしている人というのは、この指先に刺激があるかないかということは、いつも非常に大事なことなんですね。よく、この子は物を持たない物を持たないとおっしゃるお母さんだとか先生だとか、そういう方がたくさんいらっしゃるんですね。だけど、そういう物を持たない子というのは、実は触るのはものすごく上手なんですね。だから、相手に触ったり、物に触ったりすることは、ものすごく上手です。そして、その子自身は指先というものを非常に大事にしているのです。
 例えば、外科の医者で一生懸命手術しようとしている人は、指先を非常に大事にしているわけですね。だから、重たい物を持ったり、土を掘ったり、それから、物を運んだり、そういう意味で手の先をたくさん使って手の先の皮膚が厚く固くなることを極端に恐れているのです。もちろんお医者さんの中にはいろんなお医者さんがいるから、それこそ力があってハンマーみたいなすごい指先の外科のお医者さんもいるけど、やっぱり、指先を大事にしている人の手を触ってみると、ぶちょっとしているんですね。そういう人は、ものすごく自分の指先を大事にしている。だから、物を持たない、物を持つのを嫌がると言うかもしれないけど、なぜ持たないか、なぜ持とうとしないのか。それが、外科のお医者さんだったら、僕は手術を大事にしていて、手術するためには指先が非常に大切なんだと。まあ、今はむしろ、どっちかって言うと目の方が大事な要素になっているし、お医者さんによって違うかもしれないけれども、ともかく指先を大事にしている人で、物を持たない人の指先に触ってみるとぶちょっとしてるのです。だけど、その人はそういうわけで、指先を大事にして手術のためにやってるんだからと言って、それで通っちゃうわけです。
 ところが、もっと指先を大事にしている人が、たくさんいるんですよ。そういう人に関しては、なぜ指先を大事にしているかって言うと、そういう指先を通してその人が感じている独自の触覚的世界が、崩れるといけないから、だから物を持たないわけです。触るのはいいんですよ。だから、その人は触るのはよく触るわけ。だけど、持たないわけです。特に持って物を移動させたり、道具の使用っていうか、外界への操作的な働きかけという時には、手を使うかも知れないけれども、手に外界の物が触れた時の感じというものが、ある意味で起こらないように、あるいは無視してやっていくということなんじゃないか。そのことを考えていくと、話が突拍子もないかもしれないけれども、それを突拍子もないと思うことの方がちょっと突拍子もないんじゃないかなとも言えると思うんですね。つまり、ただ持たない、それから、何かできそうなのにやらないと、こちらで勝手に決めつけて、子どもたちにやたらに持たせようとするわけ。そして、持たないとどなったり、それからもういざとなったら最後にその物をその人の手の中にぐっと入れたりなんかして、握らせようとするわけです。だけど、なぜその人がそのことをしないのかということを考えないと、やっぱりそのいちばん大事なところが出てこないんじゃないのか。そういうことから考えていくと、いちばん大事な初期の段階というのは、そういう点で触覚的な意味の深さというものを持っているわけですね。
 だから、まわりにいる人が見ると、何かおかしなことをするとか、何かこだわりが強いとか、それから、周囲に関係なくばばっとやっちゃうとか、そういうふうにおっしゃるんです。だけど、もし、その子が非常にそういう点で弁別が細かくて、そういう細かい弁別というのをものすごく大事にして、厳密に考えて、そして、無駄ということをしない状況になってくると、あまり愛想がよかったり、お互いにコミュニケーションというようなものがうまくついて、その人自身が何にもこだわらないというようなわけにはいかないんじゃないのか。むしろ、周囲に無関心で、そういうこだわりが強いように見えるのは、実はその人自身が弁別が細かくて、非常に大事にしているものがあって、その大事にしている物に関して無駄なことはしていないという、そういう考え方から出てくるんじゃないのか。なぜと言うと、人間行動の成り立ちの一番初期の大事な感覚の使い方というのが、そこにあるんじゃないのか。そういうものを、私たちがよく考えていかないと、ただ子どものさぼりぐせだとか、わがままだとか、いいかげんなことを言ったり、したりするとか、周囲の状況に的はずれだとか、周りの人に関心がないとか。初期の感覚を大切にしている子どもたちにとっては、そんな、人間関係がうまくて、あたりさわりがなくて、誰とでもうまく付き合うというわけにはいかないんじゃないのか。やっぱり、その人が本当に大事にしているものがあったら、そう簡単に誰とでも仲良くするというわけには、なかなかいかないんじゃないのかということです。
 もっと言えば、周囲に関心がないんじゃなくて、その人自身が自分がしたいことがあって、無駄なことはしないという、むしろそういうことなのです。こだわりが強いと言うかもしれないけど、やっぱり何か世の中で偉いと言われている人は、だいたいみんな、こだわりが強くて周囲に関心がなくて、自分が考えていることだけ勝手にペラペラしゃべっていて、他の人が口をはさもうと思っても、その人がどんどんどんどん言っちゃって、みんな巻き込まれてしまうというふうになってしまうのです。そういう人がもし偉いんだとすれば、人に影響力を与えなくても、もっと、自分の中できっちりと自分を組み立てて、そして、自分が本当にしたいことを大事にしてきちんとやってるという人のことも、少し考えてあげないと駄目なんじゃないか、ということですね。
 ただ、この子は何ができないからこうふうにしなきゃいけないとか、どこの発達が悪いからこうしなきゃいけないとか、どこの筋肉が弱いからこうしなきゃいけないとか、そういう指導や訓練のことばかり言ってても、もう少し根本的にその人自身が、何をしたいのか、何をしているのか、どういう外界の受け止め方をして、どういう感じ方で、どういう運動を組み立てて外界に働きかけているのか、そこにどういう意味があるのか、ということを考えていくと、やっぱり私たちは大きな考え違いをしているんじゃないのか、ただ、自分の目で相手の子どもを見て、しかもその行動のレベルが低いようなところとか、それから、病気がありそうなところとか、何か普通の人がしないようなことだとか、そのようなことだけたくさん探してしまって、それで、表面に現れてきたようなものをたくさん探してしまって、そればかり問題にして、困った、始末に悪い子どもだ、どうしようと言ってても話が始まらないのです。それよりも、その子自身が本当に大事にしていることを、私たち自身がもう少しきちんと考えないと、子どもの素晴らしさが見えなくなって、私たち自身も困るんだというような、そういうことを考えていかないといけないんじゃないか。
 そういうふうに考えてみると、初期の感覚の使い方としての触覚、手の使い方もそうでしょうけれども、あごの使い方みたいなのも、前の発表で議論されているんだと思います。それから、音に対する反応の場合もあるだろうし、それから、目というもの。目というものを、その人が見えることによって、その目自身をどういうふうにその人の生活の中、行動の中に組み込んでいるかということを、もう少し基本的にきちんと考えて、見ることを通して、人間行動の成り立ちの初期の大事な原則というものを、私たちがもう少し明らかにしていけば、そういう障害の重い子どもたちとかかわるときのかかわり方というのが、もうちょっと変わってくるんじゃないのか。そういう子どもたちの見方というものが、要するに病気がちだとか、頭がおかしいとか、脳細胞が壊れているんだとか、それから、発達が悪いんだとか、ただそういうふうなことばかり言わないようになるんじゃないか、ということなんですね。そういう弁別が非常に細かくて、鋭くて、厳密で、そして、順序正しくて、無駄が非常に少ないような人というのは、周囲から見ると、こだわりが強くて、われわれの働きかけに無関心で、場面に応じないで、突拍子もないことをするというように、どうしても見られがちなんですね。だけども、その子自身は実に輝いて一生懸命にしているわけです。
 この間も、野村さんがビデオを見てくれと言ってきた。野村さんの子どもは、穴に指を突っ込むのが好きなんですね。だけども、その子の好きだっていうのは、ただ単に好きだっていうふうにかたづけられないのです。つまり、野村さんの発表にもあるように、どの穴の大きさに対してはどの指を突っ込むかということを考えているわけです。そして、穴とさし込む指の関係でちょうどうまく入ったという、そういう感じがその子にとって非常に大事なわけです。ただ、穴が空いてるんだからそこに指を突っ込んだというんじゃないんですね。同じ指ばかり突っ込まないし、その指を突っ込んだ時に起こってくるある触覚的なピタッと一致したような、そういう感じ。触覚というのは本来そういう意味で、非常に微妙な細かな変化に対応する、繊細な感覚なんですね。決して、そんな貧弱にして粗雑な感覚じゃないんです。ものすごく繊細な細やかな鋭い感覚なんです。だから、人間というものは、触覚というものを中心にして初期の人間行動を組み立てていくわけなんです。
 もちろん、聴覚も、ある意味で非常にそういう点では弁別の細かさや鋭さはあるわけですね。それから、目だって、そんなにひどくはないんだけど、ただ、目の使い方が上手になってくればくるほど、どうしてもおおざっぱになってきてしまうわけです。そして、関係的な理解というものは進んでしまうんだけど、実感というものは乏しくなってしまうのです。そのために、字を読むとか、見てすぐ形の区別をするとか、それを基礎とした物の区別だとか人の区別とか、方向とか位置とか、そういう空間的な区別とか、そういうことに関して、自由自在にいろんな区別がたくさんできるというそういう点では、もちろんすぐれたところもたくさんあるわけですね。だけど、そういうすぐれたところもあるんだけど、にもかかわらず、いちばん大事な、いちばん基礎的な、感じるということを大事にする、そこのところのいちばんの基礎が、ものすごくおおざっぱになってしまって、ものすごく乏しくなってしまう。だから、視覚優先の世界の人は、そういう意味で、実感というものが乏しいような、そういうような生活の中で、たくさんのことができるんだけれども、本当のその人自身の実感というものがない。だから、生活はしているんだけれども、たくさんのことはしているんだけども、うわっ滑りでスーッと、どんどんどんどんつっ走ってしまうのですね。そういうような状況というものを、目というものはもたらしてしまう恐れが非常に強いんですね。
 それに対して触覚的なものは、そういう点で、あんまり能率もよくないし、それから、細かな弁別はよくつくんだけど、どうしてもいっぺんに全体的にバッとこう、一目瞭然というかな、特に、個々の構成要素より、それぞれの構造的なまとまりをもとにしたまとまり同士の弁別は、触覚的には起こらないですね。やっぱり、区別して、その区別がより細かくなってきてしまって、それらをまとめて組み立てて、わかっていくのには時間がかかるんです。あるいは、体験がなかなかつながらなくて、なかなかわからないというようなことは、触覚的にはたくさんあるわけですね。そういう意味で、触覚というのは、非常に、どっちかっていうと、ゆっくりで、確かにのろまで、しかも部分的なところにこだわってしまう。弁別が細かいのはかまわないんだけど、小さなところに弁別が集中してしまう。1つ1つが孤立してばらばらになってしまう。
 例えば、昔、盲聾のお子さんで成子さんというお子さんに数の学習をしていた時に、タイルを使っていたんですね。お風呂場なんかに貼るタイルなんですけれどね。タイルを1つ2つというふうに枠に入れていくんですね。すると、見た目では、タイルが1つ2つ3つと入っていくわけなんで



すね。ところが、成子さんはこれを触って……。黒板映しますか。もうちょっと経ったら黒板使いますね。このタイルをわれわれが
見ると、1、2、3とずっと並んでいるんだけど、タイルの裏側をご覧になると……。せっかくだから黒板を映すかな。タイルは表側はすべすべしているんですね。映りますか。じゃあ裏側はどうなっているかと言うと、波形にでこぼこになっているんです。絵が下手だから、ちょっとよくおわかりにならないでしょうけれども。そうですね、こういうふうにちょっと線を濃くしたところが浮き上がっていて、間がへこんでいるところなんです。すべすべした表側で見るとこれで1、2と重ねていくんですけれども、触ってタイルを入れるとすると、この裏側の浮き出したところが、こっち側に縦になっていても横になっていても、表面を見た目は変わらないんです。ところが、成子さんはどうしても裏側を触るから、全部縦なら縦になっていないと気がすまないんです。だから、われわれが見ると何でもないようなところをいちいち検査して、全部直すわけです。表には方向がないんだけど、後ろ側には、触ってみるとよくわかるんですけれど、真四角のタイルに方向があるわけです。だんだんだんだん触覚的区別が細かくなって、ここ(タイルの縁など)がちょっと欠けてたりしているとそのタイルを除き出す。これが際限もなく厳密になってきて、切りがないんですね。どこが欠けているかと調べ出すと切りがないわけです。そして、1枚1枚やり出しているんじゃなくて、1枚の中でどの部分がどの程度かということをやり出すわけです。触覚というのは、そういう点でだんだんだんだん話が細かくなって、そして、初めは、ただ裏側のタイルの目というのかな、それの縦横だけなんだけど、そのうち欠けてる部分だとか、それからでこぼこの具合だとか、それから、今度は、このへこんでいるところの幅が違ったりなんかいろいろするんですね。だから、そういうところをいちいち触っていくと、どこが違っているのか、調べ出すとだんだん調べる項目が増えて、これがまた切りがないわけ。だから、1、2、3なんてどっちでもよくなってきて、ある1枚のタイルの裏側のほんの小さな部分のわずかな差が大切になってくるわけです。それでいつまで経っても、こうずうっとよく飽きないなと思うほど丹念に触っているわけです。
 ここがおもしろいところなんですね。だからって急ぐことはないんですね。その方はそうやってゆっくり触っていらっしゃるんだから、あわてないで、ゆっくりしっかりやっていらっしゃるのだから、これは非常に大事なこと。1、2、3、4、5なんて誰でもいつでもわかることなんですね。だけど、その方が触っていらっしゃる以上は、触覚的に何か納得できないことがあるわけです。だから、納得するまで、気がすむまでやった方がいい。たぶん、一生かかるわけです。触覚なんて、自己独自の深くて緻密な触覚的世界を組み立て出して、そのためにちょっと調べ、納得しようと思ったら、それだけで一生かかるわけです。だから、その人がお亡くなりになってしまうわけ。でも、納得できないから、次に生まれてきた時にもう一度それをやればいい。それで、納得できなかったらまた生まれ変わってやればいい。というほど、触覚的な状況というものは、奥が深いわけです。感じ出したら切りがないわけです。そういう外界の受け止め方というものが持っている、ある種の切りのなさみたいなものは、とめどもないような状況であって、それは必ずしもそのことがいいとか悪いとかいうことではないんですね。だけども、どんなスケジュールの詰まったせかせかした人でも、ある程度はゆっくりと悠長に、のんびりとやらなければ駄目なのです。 どういう方でもそういう時期を通り越して、初めてその人自身がだんだん変化し確立していくので、そういう触覚的な時期に納得するまで触覚的なものの区別をきちんとやらなかった人というのはいないわけです。ただ、その程度の問題で、非常に強く、あるいは長く、あるいはいつまでもという方と、いいかげんで、その辺でごまかしてしまって、そして、他のことをたくさんやり出される方がいらっしゃるだけの話です。初期の触覚の感覚としての使い方というか、その持っている本当の意味、大事さというのは、鋭くて細かくて、部分的でその中で非常にきちんしている奥の深いものなんです。そして、納得するまで非常に時間がかかることなんです。
 だから、それを途中で止めたり、それを急がせたりするというのがいいことかどうかということです。だから、数の勉強をしてても、相手が何か学習と別のように見えることをし出したら、その子自身が何に納得できないのかをよく考えないと、そして、納得できるまでこっちも十分ゆっくり構えてないといけない。ただああしなさい、こうしなさい、こうなってああなればそれでいいというふうな、お互いに受け渡しになってしまったら、直接的、機械的、一方的なぎすぎすしたものになってしまう。そして、でき上がったものはたくさん能率が上がっていいかもしれないけれど、ただぎすぎすして通り過ぎただけで、子どものためにはもちろん何にもならないし、先生だって疲れてしまうばかりで、本当の意味ではただやったという、ただ自分は務めを果たしたというただそれぐらいのことしかなくて、自分が本当に子どもを通してなるほどという、人間の存在の奥の深さというようなものに、実感として自分自身が触れ合ったという感じが全然ない。そういうふうになると、いくら能率がよくて、いくらその人が上手であって、いくらその人がてきぱきして、きちんとしたことをしたとしても、いちばん肝心なその人自身が自分自身で納得できない。その人自身の存在の根本的な見直しができない。本当に大事な人間の存在の奥というものが消えてしまっているという恐れが非常に強いんじゃないか。
 そういう点ではそういう子どもたちというのは、触覚というものを使っている。特に指先の触覚、あごの触覚、それから、唇の触覚、髪のはえ際の触覚、それから、やがては今度裏側の背中とか、それから腰とか、足の裏とか、そういうところの触覚を、その子自身がどういうふうに使っているのかということを、考えていくと、やっぱりその子自身が一生懸命きちんとしたことをしているんだと、そして、無駄なことは決してしていないというようなことが、だんだんわかってくるんじゃないかということなんですね。
 そういう点でこの野村さんの論文の終わりに捨てるという話が出てくるようなんですけど、電話でちょっと野村さんと話をして、その後よく読んでないのでよくわからないんですけれども、やっぱりその人自身が自分自身というものに気がつくっていうこと、そこをよく考えていかないと駄目なんですね。そういう自分自身に気がつくっていうことが何なのかというと、それはやっぱり自分と外界とが区別がついていくということなんですね。


 自分と外界との区別がついていくということのいちばん基本にあるのは、ここに自己があって、ここに外界があって(図T参照)。自分自身に自分が気がつくということは、自分が2つに割れることなんですよね。自分というのはそもそも1つなんだけど、その1つのものが2つに分かれることなんですね(図U参照)。そして、自分自身にいちばん近い外界として、自分の体を使うわけですね。そして、自分の体を使って、自分と自分の体、どっちも自分の体なんですけど、仮に、こっちが自分の体1とすると、こっちが自分の体2になるわけです。そして、自分の体を1と2に分けて、自分にこういうふうな刺激を与える、という行って来いの関係になるんです。そういうこと。だから、自分の体を自分から切り離すということ、これが、自分に気がつくいちばん最初のものなんですね。つまり、外界というもののいちばん近いものは自分の体なんですね。外界からの直接的な刺激を拒否して、自己刺激することから、だんだんだんだん外界というものが出てくるわけです。また、ここで考えなければいけないことは、1つのものを2つに分ける。2つに分けるということは、全体は1つなんですよ、だけど、この2つに分けて、そして、それを1つにするわけです。ここに、外界と区別された自己を自分で確定するということの大事なところがあるんですね。


 今(図V参照)、野村さんの考え方によると、手だとか目だとか足だとかいうふうに、分けて考えているわけですね。結局は、それが自分から切り離されるわけです。自分から切り離されて自分に返ってくるわけです。そして、自分自身を確定することに役に立つわけですね。だけど、ただ要するに自分を2つに分けて、お互いに交渉すればいいじゃないかと言うと、例えば、自分の1を主たる体にして、自分の2を仮に手だとするわけですね。ただ、手だけ切り離してしまって、ぽんと向こうに置けばそれですむというものではないんですね。つまり、この手というものを自分から切り離して外に置くということは、この手を今度自分に向かわせるということを前提にして、そして外に置くわけです。つまり、この手というのは、ただめちゃめちゃに自分から切り離されたのではなくて、初めから自分を刺激するように手というものを置くわけです。つまり、2つに分けるんだけど、2つに分けるというのは何かと言うと、自分を自分で制限することなんですね。自分で自分の体のどこかの部分を制限するわけです。その制限するということを通して自分を刺激し、その刺激を受け止めて自己を確立するわけです。ただ切り離したのではなくて、その人自身がその人自身を、要するに自分を刺激しようと思って切り離すという、そういう主体的な自己の確立のための切り離し方なのです。自分で自分に気が付くというときに、例えば、手で体を触るとか、ほっぺたをたたくとか、あるいは、声を「あー」と出して聞くとかいうようなことなんですね。2つに分けることはかまわないんですけど、2つに分けるものっていうのは、自分の体の1は主たる自分なんですね。もう1つの2の方は、それに対して、主たる自分を刺激するために制限された体の部分なのですね。制限された体の部分を使って、主たる自分を刺激しているわけです。これが主体的な自己の確立の過程であり、人間の成立の根源なのです。だから、自己刺激というのは実に大きな意味を持っているのです。
 ちょっとだんだんみなさんが眠くなっちゃうから、あまり話してもしょうがないかもしれないけれども、実は、外界というものはそういう延長線上にだんだんだんだん整理されてくるわけです(図Vの中に描かれた直線を参照)。だから、手の延長線上、目の延長線上、足の延長線上にどういうふうに外界が整理されるのかという、そこを考えてくると、初めて、今、野村さんが発表しているところの意味というものが出てくるわけです。つまり、感覚と運動というものは、本来同じものなのですよ。というのは、運動すれば必ず感じが起こるし、ある感じが起こるということは、運動したことなんですね。だから、感覚と運動というのは、必ず同じものなんだっていうことです(図W参照)。



 あら、後何分ありますか。まだある? もう、ちょっと心細いという気がするんだな。まだあることはあるんだ。で、なければ、パッパッパッパッてカメラのライトがつくんだ。じゃあ、あるところまでお話するけれども。 そして、そこは非常におもしろいんだけれども、この主たる自分というのはいつまでも1つなんだけど、ところが、自分の体の部分として制限されて、自分を刺激する自分というものは、刺激する自分と受け止める自分とに、自己としては1つなんだけど、2つに分かれるわけ。これが2つに分かれて、その人独自の外界というものを構成しようとする時、いつも2つになる。つまり1つにまとまっているということは何かって言うと、感覚と運動というのは本来1つのものなんですね。1つのものなんだけど、実はこれ2つなんですね。2つのものがどうして1つにまとまるかっていうと、感覚と運動とは、1つのものの表側と裏側なんですね。つまり、重なり合っていて、あるいは向き合っていて、バラバラじゃない。相拮抗しているというか、反発し合っているというか、あるいは、こっちがあれば必ずこっちがあるという、バランス上で釣り合いがとれているとかいうことです。例えば、自動車にアクセルとブレーキがあるようなものなのです。自動車でアクセルとブレーキがあって初めて自動車が動くわけなのです。つまり、感覚をふかすと、運動がブレーキになっちゃう。そして、運動をふかすとすると、感覚がブレーキになっちゃうわけです。そういうふうなこと、それが、制限ということです、結局は。だから、主たる自分の体から出て来たところの、自分を刺激しようとする主たる自分から分かれたもう1つの自分の体の1つの部分というものは、2つの機能というより本来1つのものが2つの意味合いを持っているというわけです。それは何かというと、相互に制限され限定されているわけです。どういうような意味合いかっていうと、一方においてアクセルで、一方においてブレーキなんです。そういう意味を持つことによって、初めて主たる自分を刺激できる体の部分としての役割を持つわけです。
 だから、そこであごを使うとか、手を使うとか、足を使うとかいうことの意味というものが出てくるわけ。特に初期の段階で自分を刺激するという意味がそこにあるのです。人間の体というものはそういうふうに初期の主体的に自己を確立する段階で大きな役割を持っているんだというふうに考えていかないと駄目なんじゃないか。だから、逆にそういうふうな役割として果たして手とか足とかあごとか目というものが、どういうふうな意味を持っているのか、さらに言えば、鼻とか口とかそれから額だとか、ともかく顔ね、これはどういうふうな意味を持っているのか。もう少し頭の後ろ側とか首とか背中とか肩とか腰も含めて後ろ側はどんな意味を持っているのか。「背に腹は代えられぬ」というけれども、これは人間の体というものが本来そういうふうに裏と表が2つくっついているものということなんですね。なんで「背に腹は代えられぬ」って言うのかというと、1つの体が裏と表で異なった役割をして、そして重なり合っているということなのです。ひいては、大切なことのためには他のことなどかまっていられないとなるわけです。そこに、自分の存在に自分が気づくという意味合いがあるわけ。つまり、自分の体の一部分が主たる自分から離れて、そして、制限された体の部分として自分を刺激するということは、それ自身が2つの役割を持った体の部分として主たる自分を刺激するような制限を加えられた体の部分として、自分自身を確立することに役立つわけです。
 わかりませんよね。言ってる方が何を言っているのかわからないんだから、聞いてる方がますますわからなくなるかもしれないけれども。自分の体が1と2に分かれて、外界を拒絶し、外界から独立して自己刺激をすることによって確立された自己が、自分の体の2の延長線上に外界を置くことにより、自分というものが、結局1つで、今度だんだん外界が2つになっていくわけ。つまり、自分の体の1と対面して自己刺激をしていた自分の体の2が自己と外界とが対面するその間をつなぐ役割をするようになるのです。例えば自傷する手は自己刺激の手であり、外界の事物を唇に持っていく手は自己と外界との仲だちの手なのです。そしてそういうことが積み重なっていくと、今度、自分が制限された状態で外界を制限するんだけど、今度外界が制限されることによって、制限された外界によって自分が制限されるという、自分と外界との制限することの繰り返しみたいなものが始まってくるわけです。それによって、初めて人間行動というのが、単なる感覚とか運動とかいう段階からもうちょっと高次の段階へ進んでいくわけですね。まそういうわけで、人間行動の成り立ちというものがどういうものであるかというと、それは1つのものが2つに分かれて、その2つに分かれた1つがまた2つに分かれて、そしてですね、2つに分かれたものが1つに分かれたものを含めて1つになって、そしてですね、その1つになったものが、また2つに分かれるという、そういう繰り返しなんですよ。
 ここが、自己が主体的に確定して外界というものがだんだん形成されていく、その非常に大切なところなのです。そこに、人間行動の成り立ちの触覚のいちばん基礎の、本質的な役割があって、障害の重いお子さんたちが、その辺を非常によく、私たちに教えてくれているわけです。せっかくそういうふうに教えてくれているんだから、私たちはそういう教えというものを学ばなければ損なわけです。ただ、その人に何かしてあげて、その人をよくしなければ気が済まないなんて、そんなふうに考えて、かえってその人と格闘し合うような状態になって、その人も困らせるし、自分自身も何の意味もないことで、ただ無為に過ごすという状況が生じたとすればつまらないのです。だから、そこのところはよく考えて、もう少し基礎的ないちばん大事なところは何かということを考えて、人間行動の成り立ちの基本というものを考えていくと、だんだん、そういうお子さんたちは本当の意味で何をしているのか、背に腹は代えられず一生懸命に何を大事にして、なんでこんなに生命を輝かしているのかということが、だんだん見えてくるということだと思うわけですね。