障害の重い子どもから人間行動の成り立ちの根本としての
新しい感じ方、運動の組み立て方、考え方、暮らし方、生き方を学ぶT
─平成4年8月の広島の大会のためのビデオから─
中 島 昭 美
えー、広島の皆さんこんにちは。今日は平成4年の8月10日月曜日です。広島の皆さんに大会の時のテレビのビデオ録画をすることになりましたけれども、ひとりでは寂しいので、奈苗さんにいろいろ聞いてもらって、それに、お答えするという形で録画をしたいと思います。ええと、題なんだっけ。題は非常に長いんですね。「障害の重い子どもから人間行動の成り立ちの根本としての新しい感じ方、運動の組み立て方、考え方、暮らし方、生き方を学ぶ」っていう題です。一応、1時から2時なので、1時間を限度にビデオ録画したいと思います。
それでは、奈苗さんが何か質問してください。
(柴田奈苗:こんにちは。よろしくお願いします。最初に具体的なことからお聞きしたいと思います。広島で3月に合宿をした時に、砂古貴之君が見せてくれた行動のことなんですけれども、これ、まずビデオでちょっとだけ映してからお聞きします。)
わかりました。じゃあ、まずビデオを見るわけですね。
(砂古君のビデオ)
(柴田:逆さに肩で立つという表現をしてみたんですけれども、そうではなくて、先生のお話の中で、私たちは頭の方を上に持ち上げて座るということが多いんですけれども、砂古君のこの行動は足の方から持ち上げて、言ってみれば肩で座るというような感じかもしれないと私が思ったんですけれども、その砂古君のことについて、先生のお考えをお聞きしたいと思います。)
わかりました。何か参議院選挙みたい。日本新党で、細川何とかというのと小池さんね。ええ、それでは私たちの政策は……なんてあまりふざけてないで。砂古さんは当日会場にいらっしゃるのでしょうか。
(柴田:お母さんはいらっしゃると思います。)
結局、そういうお子さんがする行動というのは、普通の人と違う場合が多いのですが、すぐ何か、奇妙だとか異常だとか決めつけて、病気でそういうことをするんじゃないかと考えています。一般的に、お母さん方に限らず、そういう考え方が非常に強いんじゃないでしょうか。
だから、砂古君の場合も、普通の人だったら上体を起こして見るのに、反対に、だんだんだんだん足を上げていって、そして、足だけでは足りないから、だんだんだんだん体と背筋をぐっとお尻から持ち上げて、下にこう頭があって、首がこういうふうな感じに押し曲げられてしまって、窮屈な感じになるんだけれども、下から見上げることになります。上から見てるんだったら、ただ、こういう感じで(あごをしめて下を見下ろすような姿勢で)、ただ、それが逆さまになっているから、不自然な感じなんだけど、砂古君はこの姿勢で見ようとしてるんじゃないかと思うんですね。触ろうとしてることもあるのかもしれないけれども、目で見ようとしてるんだと思うんですね。ただ、何を見ようとしてるのか、どういうふうに見ようとしてるのかということが問題だと思うんですね。そこに、実は私たちが気づいていない人間行動の成り立ちの根本にかかわる大事なことが隠されているのです。
仰向けで寝たきりの場合に、もちろん見えるわけですよね。だけどもそういう見え方と、体を起こして見る見え方と、明らかに目の高さや見る方向などが違うからね。全く見えるものや見え方が違うわけですね。高い所から見るというのは、見下ろすというぐらいで、独断に陥りやすく、あまり感心できないんですね。ところが、見る時は一目瞭然でわかりやすいということが非常に多いわけですね。だけども、それじゃあ初めからそういう意味で高い所から見下ろしてるのかというと、私たちはそういうわけじゃないんですね。いちばん最初は仰向けで、あるいは横向きで、見てたわけですね。うつぶせでも見えるわけ。だけど、仰向けだと上が見えるわけですね。これはもちろん体を起こしている時なら、見上げてるわけだけど。一般的に、天井とか、せいぜいまあ……。上というのは物がないから明るさの変化みたいなものが目立っちゃうんですね。だから、奥行きとか大きさとかそういうのより、明暗みたいなもの、それからばあっとした等質化された無限の広がりみたいなもの。そういうものがどうしても目立ってしまうんですね。
それで、そういう段階から横向きになって見ると、だいぶそういう意味でいろんな物が見えるから、その物と物との位置の関係だとか、そういう物の大きさだとかいうものが、だんだんだんだんその人自身に見えてきて。 今度大事なところはうつぶせなんですよね。うつぶせになると、何も見えなくなっちゃうでしょう。まあ見えても非常に狭い範囲の所ですね。それで、そっくり返るようにして見上げるわけですね。このそっくり返って見上げてるというところに、1つの見方というものが成立してるんじゃないかな。
だから、例えば、私たちがある意味で物を見る最初の見始めというのは、こう抱かれて、体をひねって、こういうふうにして見てるという場合。そういう場合には上体が起きてるわけね。だけども、抱かれているので、垂直の主軸を自分で作っているわけじゃないないんですね。
だから、もっと自発的に見てるという場合には、やっぱりうつぶせで、はいはいしてるか、つまり高ばいしてるか、ただ蛙みたいにあるいは平泳ぎみたいにやっているかは別にして、ともかく、首筋をより垂直にして顔を上げて前を見てるということが、積極的に見るための見始めみたいなものなんじゃないかと思うんですね。
そういう見方というものは、前を見て、前の方へその人自身の体が引きずられていくという状況が非常に多いんですね。だから、目の見えない人のはいはいというのは気をつけなければいけないのは、後ろへはいはいしちゃうんですね。だから前の方へ引きつけるような、例えば前の方で声かけをするとか、あるいは前の方へ触覚的に滑らせるような運動を起こすとかいうようなことをしないと、体が前の方へ動かない場合があるのです。つまり、前を見なければ、前へはいはいするよりあとずさりした方がより安定した動きなのです。普通の場合は見えるから、ことに顔を上げて、前の方を見れば、その人の視覚的世界というものが成立するから、それで、前の方へはいはいするわけですね。
もうちょっとすると、よく見ようとして、はいはいから自分で腰をひいて体を起こして、お座りをして、できるだけ上半身を垂直の主軸として、自分の体を動かさないで見るということ。これ、見る時に体を動かすと、視線がこう動くでしょう。だからとても見にくくなっちゃうわけです。だから、本当に見ようとする時には、はいはいをやめてお座りしてよく見て、それからまたはいはいをする。疲れるからやめるわけではないんですね。見ようとしてはいはいをやめてるわけ。そのくらい見るということは、背筋を伸ばして見るということなんですね。
それがだんだん体を起こしてくると、お座りして、自分の動きを止めて見るということになってくる。顔を上げて見上げるのでなく、垂直の軸ができて、その軸の上のところから見下ろすということになる。はいはいとお座りとでは視線の上下が逆なんですね。それに、目の位置も、いちばん最初はうんと下の方にあるんですよ。だから、見ることが初期になればなるほど下の方を見てるんですよね。だんだんだんだん視線を上げて、首筋を垂直軸として上の方を見る。いちばん最初に見上げた時には、こういうふうにそり返るようにして上の方を見るわけ。今度、体を起こして、背筋がピンと伸びて、垂直軸ができた時には、どっちかというと、目の位置が高くなって、視線を下げて、下の方を見下ろすわけね。
それで、砂古君の場合にはどっちかと言うと、まず下から見ているわけ。下から見てて、なおかつ首筋が窮屈なんだけど、こういうふうにやって見ているわけね。だから、そっくり返って上を見てるんじゃないわけ。まあ、もし、体が主軸が頭の方が上にあるとすれば、どっちかと言うと下を見てるわけ。それがちょうど逆になってる。ここは非常におもしろいところなんだけど、首筋を前屈して、しかも床に押しつけて下から、下半身が上にある自分の体の後ろ側を見るわけ。これは、砂古さんとしては、もう非常に大事なことなんで、やめられないようなことで、つまりこれをやめたら自分自身の独自の世界が消えちゃうという感じにおそらくなっちゃうんだと思うんですけれどもね。
だけど、どういうわけでそれを砂古君がやり出したのか、その辺は全然わからないけれども、にもかかわらず、たぶん、いずれにしてもこういうふうな見上げるような経験と、それから体を起こして前を見るような経験があったに違いないんですね。だけど、にもかかわらず、何らかの意味で、砂古さんの感じ方とその見えるということが合わなかったんじゃないか。いろいろ偶然の中の独自の工夫が重なり合って、それで、ついに、足をだんだんだんだん上げていって、そして、背筋が伸びるわけね。だから、ちょうど、何と言うかな、逆にすれば体が起きて、頭が上で、背筋が伸びて、目の位置が上にあって、見下ろすわけです。ただ、あなたがおっしゃるように、床についてるところがお尻じゃなくて肩なんですね。しかも、見てるところが体の前じゃなくて、その人の普通と逆の、頭を下にした体を通した後ろの方なんですね。だから、その人は、体を起こせば上から前の方が見えるし、足を上げて後ろに倒れるようにすれば下から後ろが見える。結局、それだって前を見たのと同じじゃないかと言うかもしれないけれども、体を通してのことから考えると後ろ側なんですよ。普通の状態では見えない後ろ側が見えるのです。それで、自分の前側を体を通さないで見下ろすのと、体を通して見える後ろ側を見上げるのとが、たぶん砂古君の中でどっちが自分の感じに合っているのかということだと思うんですね。結局は、体を起こして体を通さない前を見下ろすより、自分の体を通して後ろを見上げるように見た方が、自分の見え方に合ってるんだと思っているんじゃないでしょうか。
それは、非常に大事なことを意味しているんじゃないか。それは何かと言うと、見るということ。われわれが見るということは、自分の体の軸を通して見てないということなのね。自分の体の軸は、もちろんこういうふうに無理に見ようとすれば(あごを引きつけて下を向くように)、だいたい見えますね。せいぜい見えるのはこの(胸の)辺だけなんですね。もう脇になるととても見にくくなっちゃうし、いわんや背中は、これを見ようとしたら絶対に鏡を使わないと見えないというくらいに見えないわけですね。
ところが、例えば天の橋立というところに行ったことありますか? ずうっと岬みたいにして、こうずうっと出てて、松が、松かな、要するに木が植わってる。松だと防風林なんでしょうね。木が植わってるんです。だから、松だと思いますけど、僕もよくわかりませんけど。それで、こっちの方から見るんですけども、それは真っすぐに立って上から見下ろしては駄目だって。股を開いて、股の下からこうやって見ろって。知ってますか。そういうふうにすると何が見えるかわかりますか。自分の体が見えるんですよ。これが不思議なところなんですよ。自分の体が1つのほら穴みたいになって、それで見えるんです。これ、実に不思議なものですよ。で、その方がうんときれいだと言うんですけれど、きれいかどうかは別にして、やっぱりものすごく、僕たちの見方が形式化してるというか、上手というか。本当なら、逆さまに見えてもよさそうなのに、そういうふうには見えないけれどね。新しい見方が成立する。1つの事象に対して2つの見方ができて、相互に比較ができる。
だから、何かその人自身が、ある1つのものだけを見ようとした時に、例えば、今マイクがここにあるから、このマイクだけを見ようとしても、マイクと一緒に他の世界が見えてきてしまって、視線がどんどんどんどん動いちゃうから、そういう意味で見るという場合には、その人自身の中心、つまり、本当に見たいものだけ見るというわけにはいかないのです。どんどんどんどん動いていっちゃうから。だから、その人自身の中心みたいなものがなくなって、逆にその代わりに位置の関係というまとまりがものすごく出てきちゃって、逆にそういう関係から自分自身を規制しているわけです。その見方を、姿勢を逆にすることにより新しい見方を作って、より1つのものだけ実感として見ることが可能となるのです。これが見るということのとても不思議なところじゃないかと思うんですけどもね。
それで、この辺からちょっとごてごてごてごて始まるんだけど、要するに、垂直なんですね。みんな要するに垂直なんですよ。結局は、縦なんです。垂直軸を主軸とした、縦・横なんです。例えばこれ(1辺約5cmの正方形で厚さが約1cmの時計)なんか、寝てるんですね。寝てるにもかかわらず、ここにこう置いてあって、こういう(起きている)感じに見えてしまう。これは本当は寝てて、こういうふうに(実際に時計を机の上に立てる)なってればこれは起きているわけです。こういうふうになれば(再び時計を倒す)、これは寝てるわけなんですよ。ところがどういうわけかこれがちゃんと起きているように見えちゃう。みんな垂直に見えちゃう。
これ(湯のみ)なんかは、(湯のみを、底が左になるような向きに倒して)倒れているように見えるでしょう? だけども、倒れているように見えるんだけど、それは何が倒れているように見えるかと言うと、垂直軸がこうなっている(垂直に立てた手のひらを左右に倒しながら)ように見えるんですね。今度、これだとこうなっちゃう(湯のみを伏せる)。だから、いつも軸がこっちにある(手のひらを縦にして垂直を示しながら)。だから、これ(湯のみを左右に倒した状態)はおかしいということになる。これ(湯のみを伏せた状態)だと逆さまだと言われてしまう。これはおかしいんですよ。
いつも縦軸が主軸の上下の関係、しかも下から上へ立っているという1方向の垂直になってしまっている。下が底面で、どんなものでも底面から立っている固定空間となってしまっている。これがわれわれの見ていることの非常に大きな原則なんですね。本当に自由な3次元空間ではありません。これがいちばん困る点は、重力の状態に応じているということ。だから、ものすごく制限を受けているということ。そういう制限を受けているということを感じないで、自分は自由に見ているんだと思っているのなら、それは大変な思いちがいということになるわけです。自由に見てるんじゃないんですね。ある条件のもとにいつも制約されて見ている。
だから、本当に、この間も研究会の時に講演で話したんだけど、こう持って離すと落っこちゃうわけね。だけど、これは非常にある意味でまずいことなんですね。離したら落ちるのは当たり前だというかもしれないけれど、当たり前かもしれないけれど、困ったことなんですね。やっぱりそういう1つの条件が起こると、その条件に合うように、適応するように、自分の感じ方とか考え方とかを組み立てていかなければならない。そういう条件に合うように。そうすると、本当の自由な考え方、その人自身が自由な感じ方、ある一定の方向性にこだわらない考え方というものから、だんだん遠ざかっていってしまう。そんなことないんだ、必ず生きているということは天地自然に支配されていることだし、ある種の制約の中で生きているんだから、ある有限のことだし、ということになるんだけど、そういうことにしても、あまりに必然的というか、絶対的というか、もうどうにもならないような致命的な条件の中にはまり込んでしまう。
下に落ちるなんて単なる地球上のできごとにすぎないのに、いつの間にか絶対化してしまっている。だから、いつも上から下へ落っこちゃう。下から上へは絶対に落っこちないわけね。だから、本当に、左右にも前後にもいかない。下にいくのは当たり前のことなんだということになると、そういう当たり前のことを利用して、実は体を起こしているわけなんですよ。その当たり前のことを利用して、体を起こして立ち上がっている。なぜ、よつばいにならないか。いつまでもよつばいでいないか。それから、もっと言えばべたっと地面にはりついていないかということですね。なぜかと言うと、それは上から下へ落っこちるのが見えるからなんです。これが、困ったことなんです。
ニュートンがりんごが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したというけれども、私もそれなら言いたいのは、りんごが木から落ちるのを見て、人間がなぜ立ち上がったかがわかったわけ。これ、りんごが木から落ちるのを見たから立ち上がったんです。そうなんですよ。結局、人間の見方、考え方、生活の仕方がいつも上から下へという上下軸に対して方向性の固定した世界なんだということなんですね。持っていた物を手を離せば下に落ちる。上から下への1方向性で手を離したらどんどん上へ上がっていくなんて誰も思わないし、そんなことは決して起こりえないと信じている。それをもとに構成された3次元空間と言っても、垂直軸は方向性が固定化している限定された空間なんです。
それをいちばん正確に表しているのが、目で見る世界なんですよ。ニュートンが目が見えたからなんですよ。ニュートンが目が見えなかったらあんなこと言わなかったんですよ。もし、触ってたら、触った物があるだけの話で、離したらどこに行っちゃったかわからないですよ。そんな、上から下へ、木になっている実が下の地面へ落っこちたなんて、そんなふうに思わない。りんごに触った、次になくなったというだけの話なんです。そういうものなんですよ。目が見えるから上から下へ。そしたらそれぞれの物質は引き合うんだとかいうような。その辺までだったらいいんだけど、だんだんだんだん天体どうしが引き合っているんだとかいろんなことを言い出して、考えが合っているように思うんだけど、ある1つの方向性、しかもその方向性をほとんど絶対化した視覚的世界なんです。これはもう動かしがたい公理というか、単に地球上の人間のそれも、目の見える人間の、しかも視覚を優先することに慣れてしまった大人の世界のことにすぎないのに、人類不変のような、ここを変えたらその全体の理屈がぶち壊れてしまうという、そういうことにしてしまったわけです。
だから、結局、立ち上がるということが何なのかと言うと、接触の面積をだんだんだんだん減らしているということなんですよ。接触の面積を減らせば減らすほど倒れないんですよ。なぜか、これは、非常に簡単なことなんで、視覚的な世界というものを作り上げたからなんです。要するにある一定の方向に運動が起こっているんだという、その運動は他の方向には絶対に起こらないんだというそれを前提にして、そこはもう必ずまちがいないんだということを前提にして、そうして、その運動が直線性であるということを前提にして、3次元の空間というものを考えて、そして、そういう空間に時間というものを直線的に入れてしまったわけ。
だから、あなたは今ここで、こうしているけれど、13日には広島に行くでしょう? そして今度何日か知らないけれど、熊本行くでしょう? そして、ここは19日かな、今度19日に広島へ帰ってくるでしょう? これがまちがいのもとなんですよ。これがまちがいの大もとなんですよ。そんなこと絶対にないんですよ。そんな、今日が何月何日で、明日が何月何日で、明後日が何月何日でなんて、そんなことは、あなたが勝手に決めたことなんで、他の人たちもそれに同調しているだけの話なんで、1つも本当のことではないんですよ。つまり、あなたは今という段階から離れることはできないんだから、結局は、明日になれば明日のあなたなんですよね。
19日になれば、このビデオが放映されるけれども、19日のあなたなんです。じゃあ、ここにビデオがあって、これはちゃんと10日に撮ったんじゃないか、過去は動かしがたいんじゃないかと言うけれど、過去へも踏み出すことはできない。このビデオは撮ったものなんで、その撮った瞬間へ戻せと言ったってもう戻らない。未来にも踏み出すことはできないのと同じように過去へも後戻りすることはできないんですよ。ビデオに撮ってあるというんで錯覚を起こしているんですよ。そんな過去なんて、なかったかもしれないし、あったかもしれないし、あったと思う方が便利なだけの話ですね。ただここへ立っているというだけの話なんですよ。立っているというだけの話なんで、それを何か考えちがいしてしまって、過去から未来へ一方向性を持って直線的に流れるんだと思ってしまっているわけ。
空間もそうなんですよ。結局はそういう意味で3次元の空間を考えて、右とか左とか向こうとか言って、机の上に何があるとか言って。それは、勝手にその人が決めたものなんですよ。もっと具体的に言えば、そこへ手を伸ばしてここで物を持った、ただその持ったことですよ。だから、そういう物と物とがずっとつながっている。これもまた連続非連続の考え方で非常にごてごてごてごてしているところなんですけど、あくまでも、そこから抜け出すこともできないし、さか上ることもできないのと同じように、つまり、そこから動くこともできないんですよ。つまり、そこから次のところへ動いたわけではないんですよ。その次のところは、ここなんですよ、そこが。いつもここなんですよ。そこから次のところへ動いたと思うかもしれないけれど、ここなんですよ、また、そこが。いつも、ここなんですよ。だから、永遠の今であるとともに、どこまでもここなんですよ。あっ、何を言おうとしているんだっけ?
砂古君の話なんで、結局、砂古君はそう思っているんだと思うんですね。にもかかわらず、われわれが直線性を考えてきわめて限定された3次元空間を作って、その3次元空間のもとに時間を考えて、それで過去から未来とか言って、何月何日には何するんだとか言ってしまって、決めてしまっているんだと思うんですね。砂古君の場合は、もっと新しい考え方に立とうとしてるということなんですね。そのためにはいちばん大事なことは、垂直軸というものをどう考えるかということなんですよ。垂直軸というもののいちばんまずいところは、いつも上と下が決まっていて、頭が上で足が下だという考え方なんです。だから、逆に言うと、安定して歩いたり、いろんなことを決めたり見たり、見てすぐわかったり、いろいろするんですね。だけど、それはみんなその人自身が勝手に作ったことなんですよ。別のもっと新しい考え方とか感じ方だって、十分に成立するものなんです。絶対的にそれでなければ駄目だということはないんですね。だけど、にもかかわらず、どうしてもそれでなければ気がすまないというのが、われわれ人間の今の考え方の大きな欠点なんですよ。
だから、今度、宇宙旅行して無重力の時にも、どうしても立って歩かないと気がすまない。どうしてもその人たち自身は、言葉をしゃべらないと気がすまない。日常生活も地球と同じようにしないと気がすまない。だから、感じ方とか考え方とかいっさい変えようとしない。無重力のところにいるんだから、無重力の感じ方、考え方にならなければ駄目なんですよ。そのためには、立って歩くなんて下らないことだと思わなければ駄目なんですよ。頭使うなんて、そんなことやめた方がいいわけです。もっと素直に、もっと自由に、もっと本当に、その人自身が宙に浮いた自分を自分で感じることを、そのままゆったりと感じればいいわけです。そういう新しい環境に適応した新しい感じ方というのが大事なわけ。
砂古君の場合なんかもそうです。砂古君自身が、そういうふうに足を上げて後ろから見てるというそういう感じ方を作っているわけ。これは、同じ重力に支配されていても、発想が逆なわけ。発想が常に逆転しているわけですね。だから、今までの頭が下へ下がってしまうわけ。それと共に、目の位置が、上でなく下になる。それから、今までの視線が前でなくて後ろなわけ。下向きでなく上向きなわけ。そして、どっちかと言うと、手を安定させて、足を手にしているわけ。だから、砂古君は歩くなんてことは考えてないわけ。ここがまたすごいところなんですね。立って歩くなんてそんな下らないことは考えないわけ。
だから、不便だと言う人もいるわけ。世の中のことがわからないじゃないか、立って歩けないじゃないか、それから、言葉を教えたくても覚えないじゃないか。不便なことがいろいろたくさんあるんですね。にもかかわらず、それだけじゃないんですね。砂古さんは砂古さんとしての新しい独自の世界を構成しているわけです。確かに、立って歩けなければ不便かもしれない。だけど、手があるんだし、足も手みたいになっているんだから、手が4本あるんだから、すごく便利なのかもしれない。見てても役に立たないのかもしれないけれど、前ばかり見ている人よりも自分の体を通して後ろを見た方が世の中が本当に見えるのかもしれない。つまり、もう前ばかり行ってしまって、後ろへ戻れない。前へは必ず行けると思っているような人が多いわけです。
覆水盆に返らずと言って、1度したことは駄目だ、後戻りはできないと、その代わり、前の未来の方は直しがきくんだと、そういうまちがった考えの人が多いわけです。だけど、砂古君はひょっとしたら後ろが見えて、過去に向かって前進することができるのかもしれない。自分の後ろの方へ自分の体を持っていこう持っていこうとできるのかもしれない。われわれが、前の方へ持っていこう持っていこうというような意味でできるのかもしれない。
だから、そういう意味で立って歩けないし、足をつかないし、それから言葉があんまりないしというようなことから言えば、ずいぶん不便なこともたくさんあるのかもしれないけれど、その人自身の感じ方とか、考え方とか、独自の組み立てみたいなものとしては、やっぱりその人自身がどういうふうに感じているのか、そして、人間の存在の根源にかかわる大切なことが秘められているのではないかということですね。
どういうふうに感じているのかということの中でいちばん大事なことは、やっぱり、砂古君自身が触覚と見ることをどういうふうに合わせているかということが、非常に大きな問題なんだと思うんですね。もっと私たちがよく考えて、砂古君によく聞いてみないといけないことだと思うんですね。 さっきの熊本の話ではないけれども、やっぱりそういう姿勢がよくないんだとか、病気なんだとかいう決めつけをしないで、なぜそういうことを砂古君がするのか、そういうことをする砂古君の感じ方とか考え方とか、運動の組み立て方というのがどういうふうになっているのか。それで、私たちより、より深い、より新しい感じ方、考え方なんじゃないかということを中心にして、つきあっていかないとだめなんじゃないかというのが、結論ですね。
(柴田:視覚ということが、今、問題になってきて、まだ私たちが砂古君に問いかけてないので、また接した時に考えていきたいと思うんですけれども、研究所で他の方と接していて、今回、私もいずみさんのことでまとめてみたんですけれども、物を持ってすべらせていく時に、その動きというのを微妙に感じとっている姿というのがあって、その人がしないという場面も多くあって、手を引っこめて教材も離してしまうという時があるんですけれど、その時は教材をこうしたらいいんじゃないかとまだ考えやすいところがあるんですが、私の場合、どうしてそう何回も何回もやるのかということの方が謎というか、その人の深さなんだろうと思うのですけれども、それが謎なんです。ここからここまで動かしたらいいとか、円だからこう動かしたらいいとか、そういうものではない、触覚的な、それこそ、ここを動かしたらそれがその時の今だとおっしゃったんですけれども、そういう感じ方、考え方というのがそこにはあると思うんですけれども、その触覚の世界ということで何かお話し下さい。)
わかった、わかった。あなたがいずみさんに作っている教材で、それこそ私の自慢の教材で発表があって、この発表は今度は広島では発表しないわけですね。その作った教材でいちばん大事なところは、結局は直線か円か、直線だったら分岐点があるかないかという、そういうことですよね。それを、どっちかが入り口で、どっちかが出口で、入り口から入れて出口で外せるかということが全体の教材を通して言えることですよね。いずみさんとしては、けっこうおもしろがっているんですよね。あの教材はいずみさんは嫌ではないですよ。
それはなぜかというと、まず第一に、直線とか円というものの持っている1つの意味なんですね。ただ動かした時に、抵抗があればいいというものではないんですね。もうめちゃめちゃにこういうふうに蛇行しているのがいいとか、とんでもないいびつなものを作ったらいいというものではないんです。やっぱり、直線とか円とかいうものの、そういう溝の切り方の中で、どっかにつっかえるというところがいいわけです。そこのおもしろさなんですよ。入口と出口とがあってある方向性を持ったバランスのよい運動を持続し行ったっきりになる直線と、入口と出口とが同じで少しずつバランスの崩れた運動を持続することによりもとに戻る円とを、ちゃんと区別して動かしている高級な反応なんですよ。あれ、めちゃめちゃに作ったら全然興味を示さないですよ。ちゃんと直線になっているとか、二股になってどっちへ出るかということになっているとか、円になって入口に戻ってくるとかいうふうで、しかも、教材がうまくできていないので途中でどっかにひっかかるというところがおもしろいわけです。ひっかかるところがなかったらおもしろくないし、溝が直線か円でなければこれはまたおもしろくないわけです。曲線にしても簡単な曲線でなければ駄目ですね。なぜかと言うと、いずみさんがいちばん触覚的に大事にしている点は、その物を持った時の感じなんですね。それともう1つ物を動かした時の物の動きなんですね。
それで、一般的なことなんだけれど、外すとか、取るとかいうことは、例えばこういう棒に輪が入っていて、その輪を外すという時に、もうちょっとで外れる先っぽで止めているわけです。美生子さんじゃないけれど、はめ板を穴に入りそうな傾いたところで止めているわけ。区別が微妙でその運動の調整が高級なんですよ。
いずみさんも出口のところで止めているわけ。どうやってそこがわかるのか、むしろこちらが聞きたいぐらいなんで、見れば僕たちもすぐわかるんだけれど、いずみさんなんか触っただけで、触っただけと言っても本当にちょっとした触り方、あるいは動いたのかどうか見えないような動かし方で、運動量がものすごく少なくてもどこにあるかがわかるわけ。どうしてそんなによくわかるのかというくらいよくわかるんで、それで、しかも、ある種の抵抗感みたいなものがあって、もうちょっとで終わるというようなところで止めておくということ、これはやっぱり非常に大事なんですね。終わっては駄目なんですよ。そうかと言ってあんまり途中でも駄目なんですよ。これがむずかしいところです。だから、よく見ていると、実にうまいところでうまく止めて、じっくりと味わっているんですよ。時間がかかる。
何回もやって飽きないかどうかは別だけど、触覚的な物の触った感じ、それからその物の動きというものは、変化がなければ駄目なんですね。しかし、目に見えるような変化があっては駄目なんです。そこがむずかしいところなんです。変化がまさに起ころうとしているんだけど、まだ変化が起こらないという、ここなんですよ。これはもう非常に大事なことです。そういうところで本当の物の動きというものが出てくるわけです。動いたら駄目、動かなくても駄目なんです。まさに、瀬戸際というか。まさに崖っぷちというか。まさに風前の灯。それでなければ爆発寸前。今と言うよりは、永遠の今なのです。そこというより、どこまでもここなのです。
(柴田:私たちは日常生活の中ではそういうことを飛ばしてしまっているんですね。)
そう、本当は大変なことなのに、私たちは何も感じていない。飛ばしてしまうどころではなくて、全然感じていない。無視したり飛ばしてるんだったら少し頭の中にあるんだけども、初めからないわけです。だから、何やっているんだかわけがわからない。ただ、結果としてできるかできないかだけ。だから、結論はできているかできてないかそればかり。その間にどういう微妙な心のふれあいがあるとか、変化が起こっているとか、そういうことは無視している。
だから、1+1はいつでも2ですよ。1、今度、たああああああってなって、今度すううううううっとこうなって、それで1、今度、わああああああとこうなって、それで、今度いくつかとこうくるわけです。そういうのがないわけです。そんな悠長なことにつき合ってはいられない。子どもがまだ1+……までいっていないのに、先生の方は、この子は1+1もわからない、駄目だと言ってあきらめて、もういなくなってしまう。そのくらいみんな忙しいのですが、空回りでなければいいけれど。
(柴田:先ほど宇宙の話が出たんですけれども、それは地球上での常識的なことにとらわれないという意味もあってお話に出されるのかなと思うのですが。)
熊本の題ではないけれど、やっぱり新しい文化というものが必要になってくるというのは、そんなに遠い将来でもなくても必要になってくるのではないかな。障害の重い子どもたちに教わらなければならないことがたくさんあるんですね。結局、宇宙にステーション作ろうというような話もだんだんだんだん夢ではなくなってきているわけですね。そういう時代にきちんとしたものの考え方をしないと、やっぱりとんでもないことになってしまうのではないかな。宙に浮いた感じ、その感じをもとにして空間を構成しないと、新しい人類の感じ方、考え方、暮らし方、生き方が確立されない。新しい文化の構築が始まらない。今、残念だけど、大きく言えば、私たち人類が、他のことに忙しくていちばん大事な人類の未来について考えてないんじゃないかな。だから、例えば人間というと、字引を引くと、すぐ知能が高いとか道具を使うとか言葉を言うとか、それから2足歩行だとかそういうふうな条件ばかりどんどん出てきてしまうわけです。それで宇宙旅行というと、宙に浮きながら手足をバタバタ動かしているわけです。それで月に行って、結局ぴょんぴょんぴょんぴょん跳び上がったでしょう。あれは本当に月に重力があって、地球よりも3分の1とか何とか言うんだけど、でも、ここに重力があったというんでとてもうれしかったんじゃないのかな。やっぱり、そういう点で重力に慣れてしまっていて、重力のないという状態で、冗談ではなくて、もっとそういうところで新しい考え方に立たないといけない。
つまり、もっと言うと、われわれが空気のないところで生活できるかどうかとか、そういうことも考えていかなければならないと思うんですね。例えば空気のないところだったら肺だから駄目なんだと言うかもしれないけれど、やっぱりそこで人間の体自身がだんだんだんだん変わっていって、新しいエネルギーの代謝みたいなものを人間の体自身がだんだん考え出すというか作り出すというようなことも、いろんな意味で起こると思うんですね。だけども、僕はいちばん根本的な視覚と聴覚と触覚と味覚と嗅覚といういわゆる五感という感じ方そのものは、そんなに大きな変化を示さないんじゃないかと思うんですね。例えば、人間が水の中でだんだん暮らせるようになるとか、空気のないところでだんだん暮らせるようになるとか、人間がだんだんいろんなところで自分の体の構造を変えて。そうするとまあ人間じゃないというかもしれないけれどね。
だけど、何も今の人間の体だけが人間だとは僕は思わないんですね。やっぱり新しい条件では新しい体の適応をするというようなことが起こると思う。だけど、体の変化というものが起こっていくにもかかわらず、感じ方の基本的な条件というものは変わっていかないということなんですね。だから、そういう適応するような感じ方の体の部分の使い方とか、組み合わせというものが、あるいは、受容の様式というようなものは、新しくなっていろいろ変化していくんじゃないか。それで、今われわれが持っているようなある体の感じ方とか考え方とかいうのは、ある限定された条件なんで、そういう限定された条件なんだということを考えれば、新しいものもあるんじゃないか。そういう新しいものと今のものが組み合わさることによって、もっと新しい限定ができてくるんじゃないかという、そういう考え方に立たなければいけないんじゃないか。それは当然すぐに始まるであろう無重力の状態に、われわれがまず行かなければならない。そこで、お産して、子どもが生まれて育ってというような状態で人間というものが新しい文化というものを作っていかなければならないという、非常に差し迫った未来なんですね。そんな突拍子もない向こうではないんですね。
そういう未来に対応するために私たちが人間なんだから、2本の足で立って歩くんだとか、手で物を持つんだとか、目で見るんだとか、そういう1つの体の使い方の、ある部分の使い方を1つの機能として、それだけしかしないんだと、これが人間なんだというふうな、そういうある固定した絶対的な考え方というのを捨てて、もっと自由な新しい考え方というものを作るために、障害の重いお子さんのやっていることを変なことだとか病気のためにそうなってしまったんだとかいうふうに思わないで、もっとたくましく、独自の世界を構成して生きているんだと。存在の根本にかかわることなんだと。
そういう意味で、例えば10年以上も寝たきりだったら何もわからないというよりも、10年以上も寝たきりだったらわれわれ起きている人とは別の考え方で、別の感じ方を持っているんだということも当然考えられるわけですね。だからそういう人たちの組み立てている感じ方だとか考え方というものを十分に学ぶということは、当然のことだと思うんですね。視聴覚よりは触覚を中心にして、頭のてっぺんから足のつま先まで、あらゆる体の部分で本当に様々な触覚を大切にし、それをもとにして行動を組み立てている障害の重い子どもたちの素晴らしさを見きわめ、人間存在の根源を明らかにすることが重要なのです。
少なくとも、そういう障害の重い人たちが何もわからないとかごくつぶしとかではなくて、命の塊なんですね。魂の塊なんですよ。それはもう、当然のことなんですからね。その魂の塊だということを前提にしてふれあうということが大事なんじゃないか。自分だって魂の塊なんだから。自分だってそういう心の塊なんだから。つまり、人間であるということは何かと言うと、人間であるということは、立って歩くとか物を考えるとか、知恵があるとかいうことじゃないんですね。人間であるということは心だということなんです。人間だということはその人自身が魂だということなんだと僕は思うんですね。それをやっぱり前提にして障害の重い子どもとかかわるということが、ごく当然のことなんじゃないか。そんな特別にむずかしいことでもやさしいことでもなく、ごく当たり前のことなんじゃないかということをいちばん言いたいところですね。
じゃあ、広島の皆さん、大いに研究会で新しい考え方に沿って、ちゃんと5時半から懇親会もあるんで、こちらの方もどうぞご出席下さい。では、本日は、これで終わりということにいたしましょう。
(柴田:どうもありがとうございました。)
ごくろうさまでした。