障害の重い子どもの輝きの中から人間行動の成り立ちの本質を学ぶ

─「障害の重い人たちに学ぶ会」第1回研修会の講演─

                        平成5年4月4日

                         中 島 昭 美

 正確には何という名前の会館ですか。

(ここは「越谷中央市民会館」で、ここの部分は「障害者福祉センターこばと館」というものが中に組み込まれているんです。)

 ここは、越谷市立、越谷って入るんですか。越谷中央市民会館。どっちでも僕はいいんだけれど、皆さんは、ちゃんと覚えた方がいいんじゃないでしょうか。というところの、こばと館? それはまたどういうわけでこばと館なんですか。

(たぶん、市の鳥がしらこばとという鳥なので、それにちなんでるんではないかと。)

 ああ、そう。市の鳥だそうです。ここのところは、こばと館。座っていいですか。座ります。
 私は、越谷は初めてではございません。今、石田先生から言われましたけれども、昭和58年頃かなあ。もう10年経つのかもしれませんけれども。その頃から、越谷の、もうちょっとこの川を渡ってまっすぐ向こうへ行くとあけぼの学園という、今でもあるんですね、あけぼの学園? あるんですね? 内容はどうか知りませんけども、そこで、石田先生なんかが中心になってがんばっていた頃、おうかがいしたわけです。
 そもそも障害の重いお子さんと出会うことができたのは、ここに今日おいでになっているけれども、川島さんという老人ホームの先生をしていらっしゃる方が、青木久美さんを、その頃、青木久美さんは、同じあけぼの学園でも、梅田の、うめだあけぼの学園というところに通っていたのかな。通ってましたか?

(外来で通っていました。)

 そうですか。それで、青木久美さんといっしょに川島さんがいらした。それで、親しくさせていただくようになって。それからどうしてあけぼの学園なのかわかりませんけども、石田さんがくっついてきたんですね。それで、石田さんが今みたいに、とうとうと障害の重いお子さんを大事にしなきゃいけないと、どんなに障害の重いお子さんでも可能性があるんだと、がんばりなさい、と言われてました。それで、なるほどその通りだと思いまして、それで、ここへおうかがいし、その時に、柴田君がまだ大学院の学生だったんじゃないかな。まだ大学院の学生で、だけど、もうドクターコースだった?

(マスタ−の1年目です。)

 マスターの1年目か。じゃあまだ大学院に入ったばかりの頃なんだ。
 あの、お便所行きたい方は、便所に行ってらっしゃってください。その間に話しときますから。
 それで、懐かしいんですよ、いろいろ。でもそんなことをやっているとうちの家内から怒られるから。くだらないことばかり言っているって。何しろ、その頃、柴田さんが大酒飲みだとは全然知らなかった。あけぼの学園から帰る途中で、新宿で柴田君ちょっと飲んで行こうかと言ったんだけど、柴田さんが全然飲めないんじゃないかと心配して、それで何か悪いような気がしながら誘って飲んだのが柴田さんとのつきあいの始まりだもんね。だけど、あんなに酒飲む人だとは全然知らないで。今度、淑徳で森田君という、この人は千葉県の施設の方だけど、5月の2日に結婚するんですが、まあ、僕の最後の仲人だと思いますけれども、その方が、この間、婚姻届を出すので来て、柴田さんにお酒を教わりましたって僕に言ってましたけども。もうそういう話はやめましょう。
 真妃ちゃんのお母さんがあけぼの学園の父兄でいばってたんだ。こんなこと言っちゃ、怒られちゃうかな。だから、あけぼの学園は、何歳までなんだろう? そのころ真妃ちゃんは何歳でしたか? 今は越谷養護学校の高等部ですか? 中学部?

(中学部3年生です。)

 そうか。じゃあ何年たっているんですか。

(9年です。)

 9年ですか。そうか、僕にとっては、ちょっとまばたきしたぐらいの感じですね。でもこんな大きなりっぱな建物ができて、おめでたいのかどうかわかりませんけど、やっぱり越谷もだんだん発展して、新しい息吹みたいなものがだんだん感じられますけれど、それとともに、またくだらない考えもたくさん生まれるんではないかと心配していますけれどもね。建物ができるというのはあんまりいいことじゃないんじゃないかという気がして心配なんですね。
 そういうふうに考えていくと、もうじき高等部を卒業してしまうし、だんだんだんだん、お子さんは歳とっていくけれど、お父さんもお母さんも老齢化してしまうということになってしまうわけですね。そうすると、親としては、自分の子どもは自分が生きている間はいいけれども、自分が死んだ後どうなるか心配だっていう話を、よく聞くんですよ。だけども、どうでしょうかね。そういう考えはいい考えかしら。どうかしら。
 まあ皆さん、ちょっとお茶がないから、ここで本当ならお茶を一杯飲んで、僕はぜひそこのところを……。(お茶を入れるのに立った人がいたので)さようなら。あっ、帰るんじゃないの。どうでしょうか。
 ちょっとそれを聞いて、どうもあまりいい感じを受けないんですね。というのは、自分の子どもを、お母さんなりお父さんなりが、重荷に思ってるんじゃないのかな。だから、親だから世話はできるけれど、自分が死んだら誰もいなくなるからもう世話できないんじゃないかという、そういう考えなんじゃないかな。どうも、そこのところ、私、非常にひっかかるんですね。で、私がそういうふうに言うと、今度、ご父兄の方がひっかかるわけですね。だから……。
 (お茶が運ばれてきて)すみません、どうも。あのね、僕一人お茶飲んじゃいけないんだ。
 このことは、そんなに早く解決することではないし、それから、これからやっぱり老後ということが。私もね、一昨日か一昨昨日、とうとう66歳になったのね。それで、あと人生いくらもないのかもしれないと、自分でもつくづく思うわけですよ。ところが、やっぱり目黒区にも、ふれあい館というのができて、それでもってご老人のことをいろいろやるんですね。で、話を聞いていると、あっ、差し障りがあったら、怒らないで、もうあきらめてください。老人の言ったことだからね。結局、老人問題って何かと言うと、寝たっきり、ぼけですよ。それだけならいいんだけど、そのぼけを誰が介抱するか。それからお金をどうするか。そればっかり。どう考えてもちょっと話がおかしいんじゃないか。
 だって、長い人生の中に、生まれた時もあるし、それから皆さん方のように、本当に今、社会に出て、それで一生懸命社会のために尽くされている、そういう時期もあるでしょう。でも、やがて、私のようにもう歳をとってきて、あと余命いくばくもないという状態もあるわけです。まあ、生があれば必ず死があるのと同じように、やっぱりそういう全体が人間の存在なわけです。そんな威勢がよくて、お金稼いで、それでもって何でもみんなを養ってやってとか、あるいは指導力か何かもあって、どんと俺について来いというような、そういうところだけが人生じゃない。もっと人生というのは、幅の広い、大きなものなんです。だから、そういう意味で、ちゃんと老いとか、老人問題というものを、その幅の広い大きな人生の中に入れて考えなくていいのでしょうか。どうして、そういう問題を排除してしまって、どんどんどんどん隅に追いやってしまって、そして、その恵まれない老人が気の毒で、うろうろうろうろ歩きまわって手数がかかって、どうやってわれわれが管理するかって、そんな問題に直してしまうのでしょうか。僕は、ここのところ、非常に気になっているんですね。
 障害の重いお子さんの場合も、どうしても世話するのが大変だとか、何か変な癖があるとか、病気の治療でもって奔走するというようなことばっかりですね。それから、今、いろいろ発表があったから、反論するわけじゃないけれど、なかなかみんなとコミュニケーションがとれないとか、それからうろうろうろうろするとか、あっちこっちへ行ってしまうとか、そういうようなことを言い立てて、いったい何になるでしょうか。僕は、いちばん心配なのは、そういうことで、人間が見えなくなってしまう。人間そのものが見えなくなってしまう。
 つまり、私たちが、老人に対しても、障害の重い人に対しても、何を問われているかと言ったら、私たちが、人間って何だ、生きているということはどういうことなんだろう、私たち自身の存在というものがいったいどういうものを基盤にして成り立っているのか、そういう根源的な意味を問われている。そういう根源的な意味を問われていることをないがしろにして、ただ、誰が世話するか、お金をどうするか、自立がどうか、金が稼げなければ駄目だとか、そんなことを言いまくって、だんだんだんだん障害の重いお子さんを追いつめてしまっていいものかどうか。
 僕は、障害の重いお子さんの呼吸の中に、新しい息吹というものを感じるんですね。実に新鮮な息吹というものを感じるわけ。これは、寝たっきりの人でなければ持ってない、すごい呼吸の仕方なんですよ。それがわからない。起きて元気で働いて、ああでもないこうでもないって、わあわあ議論してわめいている人には、そういう小さな人間のひそやかな息づかいというものがわからない。まあ、いちばんわからないのが親ですね。親というものは本当にしょうがない。まあ、何か差し障りがあったら、老人のたわごとだと思って。障害を持ったお子さんの親というのは、本当に始末が悪いですよ。全然子どもを理解してないですよ。子どもの素晴らしさというものが全然見えないです。ただ世話するとか、ただ自立がどうのこうのとか、そんなことばっかり言ってるんですよ。素晴らしい人間なんだ、自分の子どもがすごいんだっていう、そういう素晴らしさというものに、目覚めてないですよ。
 もう、本当に障害の重いお子さんがどんなに素晴らしいかということを話せば、僕はいくらでも、明日の朝まででも話せます。途中でちょっとお茶飲んだり、晩飯も食いたいけれど、我慢するっていうんだったら我慢しても、本当にいつまででも話ができる。人間の存在の問題だから。根本的な問題だから。と言うと、あいつ哲学的なこと言って駄目だと、こうくるわけです。別に哲学でも心理学でも教育学でもないんですよ。人間の成り立ちそのものを私たちがもっと一生懸命考えないと駄目だという、そういうことなんです。
 だいたい、自傷なんてことをよく言うけれども、たたくなんてことをよく言うけれども、みんな、一生懸命考えてないですよ。体のどこの部分を、どこでたたくか。例えば、頭の額からこめかみというかな、あるいは後ろというか、耳か、それからあごか。あるいは、たたく方にしても、指先でつっつくのか、それから手の甲でこういうふうにこっちへこうたたくのか、あるいはもう少し関節を使ってやるのか。いろんなたたき方があるんで、たたき方がどういうふうにたたくのかすら分類していない。分類が好きな人がいるんですよ。何でもかんでも分類して、役に立たない分類する先生方というのはいっぱいいるんですよ。そういう先生方が、全く分類しないです。ただ自傷がある、それだけ。それで、今度自傷を止めるのをどうするか。すぐ、もうこうきてしまう。それも一生懸命考えないで、一生懸命見ないで、ただ止めるやり方だけどうするかって研究しようと言ったって、それは無理ですよ。
 自傷なんてものは、その人自身が非常に長い間苦労して作ったものなんで、そんなに簡単にできるものではないです。研究し出したら本当に奥の深い立派なものなんですよ。そんなこと言うと、お前はまたすぐ自傷を奨励するのかと、もし自傷してとうとうその人の生命の危険みたいなことが起こったらどうするんだと、そういうおっかないことを言い出すんですよ。だけども、ちゃんと考えて、ちゃんと見ていかないと駄目だということなんですね。
 それで、そういう意味で親を悪くするのは、まず周囲の人なんですよ。周囲の人がよけいなことを言うんですよ。何もわからないのに。それから、今度、学校の先生。それから、施設の人。みんなしてよけいなこと、悪いことばっかり言うんですよ。しかし、実は、人間の存在、私たち自身の問題、私自身の成り立ちの問題なんです。
 学校教育だってそうですよね。今、いじめの問題が、何か社会的に取り上げられているし、アメリカでも、日本の教育水準は高いけれども、いじめがあって駄目なんだと言うんですね。だけど、教育水準が高いか低いかではないんですね。教育というものは、人間の成り立ちの根源の問題なんです。人間とは何か。心とは何か。魂とは何か。そういう魂と魂が出会うということはどういうことかということを表すこと、そういうことが教育なんです。だから、今の学校の先生なんかみんな駄目ですよ。採用試験受けるんだから。採用試験に落っこちた人は偉い人。受かった人はみんな駄目な人。施設の職員になるのだって、この頃なかなか難しいんですよ。簡単に入れない。今に施設も何かいろいろやり出して。何か、社会福祉士とか、何とか主事だとか、わけがわからないような資格を問題にして。
 そんな肩書だとか、筋書きだとかがいくらあっても駄目ですよ。心がなければ。その人自身が、自分自身に対する厳しさがなければ駄目です。本当に優しいということは、自分自身に本当は厳しいことなんです。だから、本当に優しくなるんです。もっとも、人に厳しくて、自分にも優しくするのは、これがいちばんいけませんよね。だけど、人に優しいけれども自分に優しくてもあまりよくないですよ。やっぱり人に優しいけれども自分に厳しいということを前提にして、人に優しいということが非常に大事なことです。
 そういうことから考えていくと、障害の重い子どもに私たちは出会って、そして、私たちの考え方が一変して、なるほど人間というものはこういうものなんだと、人間が生きている本当の意味というのはこうなんだということを、障害の重い子どもからまざまざと見せつけられた時に、そういう時に、子どもとの本当の魂と魂の出会いというものが起こって、そして、感動というものが起こるんです。そういう感動というものをもとにして、私たちは生きているんですよ。そういう感動というものをもとにしない生き方なんて、みんな死んでいるのと同じ。そんなこと言っちゃ悪いけれど、だいたい皆さん生きる屍ですよ。本当に生きているなんてことはありえないんです。感動していないから。それは、本当は、障害のあるなしにかかわらず、お年寄りか、中年か、それともお子さんか、乳幼児か、そういうことにかかわらない。人と人との出会いにおいて通じ合うことなんですよ。障害の重いお子さんとか、老人とかいう方々を通して、私たち自身のまちがった考え方というものを直すということが、とても大切なことなのです。 今までの発表を見ると、非常にその点がよくわかるわけ。つまり、発表でどこがよくわかるかと言うと、人間というものが何なのかということなんです。人間というものは、これは自発の塊なんです。ものすごい自発の塊なんです。これが人間のいちばんの原点なんです。だから、人間が自発しているんだということを、いちばん最初に考えていかなければいけない。そして、その自発する可能性というのは何なのかと言うと、自分の体を、2か所を別々に使うことなんです。つまり、同じ向きに、同じ方向で、同じ体の部分を使わないわけ。
 例えば、なぜおなかと背中があるかわかりますか。これは、人間の成り立ちにとっていちばん大事なところなんです。おなかと背中のそれぞれの使い方の違う部分が裏表として合わさったところから人間行動が始まっているんです。2つの違った役割、機能というかな、感じ方というかな、あるいは運動の起こし方、そういう違った体の部分というものが、2つあって、それをそのままくっつけて使わないで、間を置いて、離して使うというところに、人間の初めての行動の原点というものがあるわけです。だから、おなかに触ったのと背中に触ったのでは、機械的に完全に同じ触刺激であっても、その人の感じ方はまるで反対。ここが人間のおもしろいところなんですよ。
 だから、人間が人間たることって何かと言えば、いちばん大事なところは、自分で自分の体を使って刺激を起こして、その起こした刺激を自分の体の特定の部分で受け止めるわけです。今、お子さんが声を出しましたね。あの声は自分の声を自分の耳で受け止めているわけです。研究所へ通ってくるお子さんで、日曜日に来たお母さんが、夜中にその子がキュッキュッキュッキュッて歯ぎしりをする。また、実にうまいんですよ。どこで鳴らすのか知らないけれど、奥歯の方の噛み合わせで、ちょうど貝殻をこういうふうにこすり合わせたようにうまく鳴らすんですよ。僕は、そのことだけを考えても素晴らしい才能だと思うんですね。だって真似しようと思ってもできませんよ。口の奥の方だけど、どこでやっているのか、わからない。その子は、ごく自然にキュッキュッキュッ、キュッキュッキュッてこう鳴らす。
 ところが、そのお母さん、朝の4時頃からやられるからうるさいって言うんです。それで、タオルを口に入れてしまう。とんでもない考え違いです。(達樹君の「ウーッ」という声がする。)あの人も怒っている。偉い。朝の4時ぐらいにちょっと歯ぎしりをしたからと言って。それでうるさいからシーッて言うと、その音に反応して、そのお子さんが思わず笑うんですって。これがまた、本当に親は子を思わないけれど、子は親を思っているんですよ。本当に。どっちがどっちか涙なくして聞くことはできないですね、この話は。
 これは非常に長い話になるから、もうやめておきます。というのは、4時までしかやってはいけないのに、もう4時を5分過ぎているから。

(「4時半までなんですけれど。」)

 4時半で終わりませんよ。だって、まだまだこれからずっと話すんだから。歯ぎしりのこと話したら、歯ぎしりのことをずっと話して、今度、久美さんがこう手を口いっぱいにつっこむとか、次々にいろんな話が出てきます。そうしたら、これ切りがない。
 今の発表なんかを聞いていると、そのお子さんは、手というものを非常に大事にしています。そのために見るということは、体の他の部分の働きと関係なく孤立してしまう。なぜ手と目がバラバラかは、そこのところが、ちょっとおわかりにならないと、今ビデオで拝見したようなお子さんの行動っていうか、何でそんなことをするのかという、そこのところがおわかりにならないんだと思います。これは、手というものは、ある意味では物を持つことすらよくないことなんです。その人の、物を持つということは、手の本来の微妙な触覚というものを乱すことになってしまう。まあ、みんなそういうふうに鉛筆なんか持っているし、そういう意味で例えば、こういうお茶碗なんかこう持って、あっおいしいね、このお茶。こういうふうにお茶碗なんか持つなんていうことは、手を大事にしている人にとっては一大事なんですよ。手の中に、本当に触覚的な細かな状況というものが起こってきたら、それはもう、われわれが手を使うというような意味では手は全く使わなくなってしまう。その代わり手からは刺激を受けてますよ。ものすごくたくさん手から刺激を受けている。そして、また、刺激の受け方がものすごく上手です。非常に細かくて、刺激がない時はちゃんと自分で作り出すし。
 ただ、手に代表しているだけで、その人がその人自身の体全体の触覚というものをものすごく大事にしている。そして、外界の人や事物に対応して、それぞれの体の部分をうまく使って、実に巧みな触覚的受容をしている。そのことは視覚優先で、触覚の受容の本当の意味を忘れてしまった私たちにはわからない。そこがよく見えてこないと、今出てきたビデオの子どもの本当の意味はわからない。
 2月の厳しい冷たい風や、5月のさわやかなそよ風など、触覚の実感を大切にしている子どもたちは、目は使わない。物を持つ時に、手を出す時に、目で先に見たなんて言ったら、もう手に対して失礼だから。そんなことで目を使ったら大変ですよ。そういうことで目を使ったら手の触覚的な受容がくずれてしまうからね。だからなるべく目はうつろにして、そして、どっちかと言えばなるべく遠くの方を見たり、なるべく見ないようにするというそういう状況を作っておかないと駄目なんです。
 で、ちょっと、言葉の問題も出てきたけれども、もう1つさかのぼれば、ものすごく音を大事にしているんです。これもこの間、ある子どもが来て、食事している時に焼きいもやさんが来るのがいちばん困るってお母さんが言うんです。なぜかと言うと、その子が焼きいもやさんの声を聞くと食事をぱたっとしなくなってしまうから。なぜかと言うと、そのお母さんに言わせると、本来、焼きいもやさんの「石焼きいも」って言うのが音として嫌なんだって。だから、その音が本当に近づいてきたら、これ、また音というのが近づいたり遠ざかったりするような遠近感というものがどうしても出てきてしまうんですね。だから、近づいてくるなら近づいてくるなりに、その人がますます体を固くしてしまうわけ。そして、今度、遠くの方へ行ってしまえば遠くの方へ行ってしまったで、これはまた気になってしまうわけです。完全に聞こえないというところまで食べないわけ。ぴたっと。これがそのお母さんわからないわけ。何で食べないのか。
 おなかが、これまた幼稚なんですよ。食べないとすぐおなかがすいてないだとか、嫌いなんだとか、要するに、そういう一次的な欲求に結びつけてしまう。それならまだいいんだけれども、わがままだとか、ひどいんですよね。もう突拍子もないこと言い出して、思わず笑っちゃいますよ。あんまり馬鹿馬鹿しいんで。本当に、わがままだとか、我が強くて忍耐力がないとか、本当に困るんだな。必ず言うんだ。頭がおかしいんじゃないかと思うんですね。だって、言ってる先生の方がずっとわがままなんだもの。忍耐力もないし、まあ同じことを繰り返すのが好きだというのは、確かにそうかもしれない。その程度です。何も見ないし、何も考えない。音なんていうものがそれほどその子にとって大事だということに気がつかないんですよ。
 ちょっとした、本当に、これまた、おもしろいんで、遠い音に反応するんです。その焼きいもやさんが目の前にいて、「石焼きいも」って言ったら、全然関係ない。救急車の音も嫌だって。救急車の音もいったんし出したら、ぱっと止まってしまうって。音っていうものを非常に大事にしている。そして、そういうある感じというものが起こったら、その感じというものが非常に大事になるわけです。それで、他のことをすれば、その感じが乱れるからね。その感じがいいかげんな感じならいいんですよ。だから乱れてもかまわないという、いくら乱れてもかまわないといういいかげんな感じならいいんですよ。だけど、そういう人にとっては非常に大事な感じですね。
 例えば、今、この部屋が火事だとするんですよ。それで、食事をしてるとするんですね。火事だからみんな逃げちゃうでしょう。だけど逃げちゃいけないんです。ここで食事しなさいと。だけど、そう言ったってみんな逃げちゃう。それと同じなんですよ。その人は焼きいもって言うのが、その人にとってものすごく大事な感じなんですよ。それで、いっぱいになっちゃう。胸がつまってしまうんですよ。これが、明るさにもあるわけですよ。風にもあるわけ。だからちょっとした明るさとか風というものも、ものすごく関係してるんですよ。
 何でそんなことが起こってしまうのかということなんですよ。これは、人間だからなんです。まさに人間というものの根源というか、原点というものを示しているんです。人間そのもののありのままなのです。ごまかさないところの本当の人間というものを示しているわけです。
 つまり、まず、いけないのは、医学ですよ。これが本当にしょうがないです。僕も5年前に心臓を手術して、そのおかげでこうやって生きて、わあわあ言っているんだから、医学の悪口は言えませんよね。だけども、医者は病気を治していれば、それでいいんですよ。よけいなことに口を出す必要はないんです。それを、よけいなことに口を出すわけです。よけいなことに口を出すだけならいいんだけれども、すごい自信を持って言うわけです。そう言われると、お父さんもお母さんも本気になってそう思うわけです。だけど、ただ、本に書いてあったとか、全然その人を知らないでね。だいたい、薬というものがよくない。これも、ここに医者がいたら、老人が言っているんだと。薬のいちばん悪いところは効かないと強くするんですよ。これ、切りがないですよ。最後まで。どっかで考えないと。
 で、人間というものは何かというと、人間というものは、一人で呼吸して、一人で摂食というか食事を食べてね、一人で排泄して、やがて一人で体を起こして、一人で立ち上がるものなんですよ。それをみんな止めていくわけ。ちょと呼吸がおかしい。気管切開。そうしたらもう他力の呼吸になってしまう。ちょと喉がつまる。そうしたら胃の中に直接入れてしまう。ちょっと痰が出る。すぐ痰を吸い取る。それでどういうことが起こってしまうかというと、自力でもって呼吸できない、自力でもって痰を出すことができない、自力でもって食べることができないということになってしまう。
 だから、医学でお医者さんがある権威を持って一生懸命考えてやるんだから、それは仕方がない。まあ一歩譲ります。だけど、今度、家庭で、お父さんお母さんが真似するわけです。今度施設でもそう。ひょっとすると学校でもそう。どんどんどんどん、その人の持っている自力を壊してしまうわけ。そういうふうにしてどんどんどんどん自力を壊される。しかも病院の生活が長くて、その子が抱っこだとかそういうことをしてもらったことがない。必要な時だけちょろちょろちょろちょろ白い女の人が出入りして、そうして、ぱっといなくなってしまう。そういう孤独に耐えて、そして、今度家庭に帰ったら、腫れ物に触るようになってしまって。
 しかも何をするか。全面介助ですよ。全面介助。これは本当に全面介助というのは、その人が自分が噛むことをしたいのに噛むな、飲み込むことをしたいのに飲み込むな、手を使いたいのに使うな、その人が体を動かしたいのに動かすな、呼吸したいのにするなと言っているのと同じなんですよ。手早いお母さんがよけいいけないんですよ。ボーッとしているお母さんはまだいいけれども、何につけても手早くて、何でもかんでもちゃっちゃっちゃっちゃっやっているお母さんは、本当にもう子どものこと全面介助ですよ。何もしちゃいけない、最後には呼吸もするなと言われたら、どうしますか。本当に僕は胸が痛いですよ。そこまで言われたら。僕は何も極端なことを言っているんじゃないんですよ。ごく今まで見たり聞いたりした普通の私の体験を、ごく普通に申し上げているんですよ。それは、もう、これじゃあ駄目だ。これは何とかしてほしい。
 あの、お茶、どうぞ、ゆっくり飲んでください。あと10分ありますから。やあ、本当に、もう、そういう点では、これをお母さんやお父さんがやっているだけならいいけれど、学校が受け継いでいるわけ。そして今度施設が受け継ぐわけですよ。
 ところが、どっこい生きているわけですよ。そういうふうに何もするな、何もしちゃあいけないって言われたら、人間何をするか。非常に細かなことをし出すんです。そして、まずいちばん大事なことは外界と関係をつけないことをし出すわけです。外界と関係をつけないように育てておいて、コミュニケーションが起こらないとか何とか言っても、そもそも無理なんですよ。外界と接触するなとさんざん言い聞かせておいて。お前は何もしちゃいけない、言われた通りにきちんと完全な受け身になりなさいと言い聞かせておいて、そしたら、その子は、もう運動を小さくしてなるべく感じないようにして、なるべく固くなって、なるべくじっとしているというそういう状態になってしまう。そこへ外界と関係をつけろなんて急に言って、無理も無理なんですね。
 だけど、そこが人間だからちゃんと生きているから、何をするかって言えば、自分で刺激を作るんです。だから、さっきの歯ぎしりもそうなんです。ちゃんと自分で工夫して作ったものなのです。それはもう嘘偽りない、こうですああですってちゃんと理屈を持って、皆さんに説明できるわけです。その子自身が一生懸命必死になって考えた自発なんです。人間だから、自発しないわけにはいかないんです。
 だから、そういう点で、自発して、外界と関係がなく、自分で刺激を作るためにいちばん大事なことが何かと言うと、感覚を閉じていくことなんですよ。閉じるのもまた、やむにやまれぬ自発なのです。だから、ここを見なさいと言ったら、目をつぶってしまうわけです。何でもかんでも拒否していくわけです。こうしなさいと言われたら必ず拒否するわけです。それは、その人自身が自分で刺激を作りたいということを言っているわけです。人間の自発の原点に立ち返っているわけです。それが見えない。そのいちばん大事なところが見えてないわけ。で、この子は、ただ外界を拒否すると。最後は、明るさだって拒否してしまうわけです。だから、みんなが寝静まって静かになった時に、その子自身は、自分で自分が一生懸命工夫した刺激というものを作っていくわけです。そして、うんとその子自身が自発するわけです。そして、自発すればごきげんがいい。従って、シーッという音でも思わず笑っちゃう。そういうちゃんとした理屈があるわけです。
 まさに人間だから、魂の塊だからこそ、もうやむをえずそこまで追いつめられた人としての極限の状態だからこそ、初めてできることなんです。あなたがただったら全然できませんよ。やれと言ったって。まあ、そんなに長い間寝たきりもできないだろうし。
 まあ、これ、本当に、ビデオ見たから言いたいことはたくさんあるんだけれど、膝立ちで歩いて立ち上がらないお子さん。あの子を見たらはっきりわかりますよ。目は歩くためには使いません。なぜ、目を使わなくても膝立ちで歩いて、目を使わなければ立って歩けないかということは、僕が、これから、4月から毎週水曜日1回、夜、徐々に明らかにしていくことなんですね。目というのは、本当に、ある意味では勘違いしているものなんですよ。目というものが、見えるか見えないかということはもちろんあるでしょうけれども、見えるとすれば、すぐ何でも外界を見分けて、わかっちゃうというわけにはいかないんです。目というものはどういう段階で見方が変化しているか、どういう物を初めに見て、どういう物からだんだん見ていくのかとか。
 それから、触るということと見るということはどういうふうに関係するのか。あるいは、もう少し、触覚的な、例えば唇の触覚と見るということがどういうふうに関係するのか。目というものは本当に大事なものではあるんだけれども、本当に見当違いになってしまうおそれがたくさんあるんです。手を大事にしてて、目を使わないというふうに見てしまうかもしれないけれども、手を大事にしているように、目も大事にしているわけです。ただ、手と目とは合わせないわけ。合わせたら目の方が優位になってしまって、手というものが邪魔になってくるから。その人の手の感じ、手そのものは邪魔にならないけれども、手の感じというものが邪魔になってくる。どちらかと言えば、音だとか触覚だとかを主にしたい人にとっては、どうしても目というものは独立させて、こういうふうにしておかないと、自分の日常生活の中へ、行動の中へ織り込んでいかないようにしないと、大事なものが崩れてしまうから。
 そういうふうな崩れ方をしないように、必死になって、その人自身ががんばっているにもかかわらず、まわりの人は、変なことをするとか、物を持たないとか、目で見ないとか、きわめて簡単ないちばん表面的なところでしか考えない。実際のかかわり合いの中でどうするのかと言うと、やり方がきわめて直接的で、使わないものなら使うまで、根気よく使わせてやろうと、そういう直接的、強制的なことになってくる。そうすると、ますます事態が受け身になってしまって、ますますその人自身が外界を拒絶してしまって、自分で刺激を作るそういう原動力になってしまう。そして、今度、自分が外界で自分で刺激を作るということまでだんだん止められていくわけ。
 ところがそこはうまいんですね。歯ぎしりというのは、今度歯ぎしりを止められたらどうするかという、そこですよ。そこがあるわけですよ。不退転。宮沢の政治改革と同じ。そんなことでくじけないですよ。今度はもっと小さなもっと動きの少ないことをするわけですよ。だから、いちばんもっとも少ないものは、もう完全に自分をうつろにすることなんですよ。空。空にしちゃうわけです。完全に空。でもそこまでは行かないけれども、きわめてそこに近い状況というのは私は見たことがある。思わず、なるほど人間というものは、ここまで到達できるものかということをつくづく考えましたけれどもね。
 それでも、別におかしなことではないと思うんですね。何か、インドの山の方へ行ってみると、こういうふうにわざわざ岩か何かを削って、そこへじっと座っている人がいるんだって。僕は見たことがないけれども、いるんだっていう話です。僕は、その人は相当程度まで外界の感じ方を止めて、自分の運動を制限して、そして自分の自己刺激というものをほんのちょっと作って、そして、そこで循環させているんだと思います。これが考えるということの根本なんです。
 だから、人間というものは、追いつめられて、どうにもならなくなってもう駄目なんじゃないかと思うかもしれないけれども、そこに、その人自身が、本当のその人自身が表れるし、その人自身の本当の感じ方というものができるし、考え方ができるし、その人自身の本当の運動の組み立てというものができるし、その人自身の本当の生き方、暮らし方というものができるわけです。だから、少しも心配はいらないんです。
 心配なのは皆さんの方なんです。皆さんはこれからどこへ行ってしまうのか。僕はそっちの方がずっと心配です。障害の重いお子さんのことを心配しないで下さい。ただひたすらに教わって下さい。その本当に人間の根源の状態というものがなるほどこういうものなんだと。ただ、むやみに外界を拒否したり、ただむやみに自己刺激したり、むやみに自傷したりしてるんじゃないんだと。そこにその人のちゃんとしたやり方、感じ方、考え方というものがあって、それをもとにしてやっているんだということ。それは私たち自身の問題。私自身の根本の問題。だから、そこから私自身が自分の考え違いというものをもう一度考え直して、その子どもたちと共に生きたら、素晴らしい世界が展開する。
 何だか僕もだんだん教祖的になってきたな。それではこれで私の拙いお話を終わりにします。どうもありがとうございました。