園生の素晴らしさを語りあかす

─中道先生の墓参後、光道園においての講演のビデオから─

                         中 島 昭 美


 淵辺さんから電話がかかってきて、今日、中道園長さんのお墓参りに来るのだから、帰りに光道園に寄れって言うので、寄るのはいいけれど、話すのは面倒くさいからって言ったら、4、5人でごく座談的にやるとかいう話だったけれど、ちょっと4、5人という感じじゃないんで、たくさんいらっしゃっていただいたんで、「わざわざお集まりいただき、ありがとうございました」とお礼を申し上げた方がいいんですね。淵辺さんは、にもかかわらず4、5人のつもりで気楽にやって下さいということでした。わかりました。今日は会議があって忙しいらしんだけど、淵辺さんは最後までいてくれて、その後また会議に出るらしいんで、大変らしいんだけど。本当はいてくれなくてもいいんだけど。
 お集まりいただいた方々の半分ぐらいの人は中道園長さんのことを知らないらしいですね。僕もそんなに園長さんと長くつき合ったのではなくて、特に、園長さんの晩年になるのかな、光道園が鯖江のこの地に建物を建て始めてからですね。だから、福井で園長さんが仕事をしてた頃は、全然お知り合いじゃなくて。昭和40年の仮に初めぐらいだとすると、園長さんが53年に亡くなられたんだから、晩年の10年間ぐらいしか本当はおつき合いしていないんですね。だけど、その間、大変、光道園が大きくなっていったのですね。入所されている人も増えたし、それから建物もたくさん建ったし、それから働く方々もずっと多くなって、いろんな今の光道園の基礎が、その10年間にだいたいでき上がったんじゃないかと思うんですね。勲章をもらって、それで祝賀会で何か小浜の方に行って、帰ってきて玄関で死んでしまった。そんなこと言うと差し障りがあるのかもしれないけれどね、あまりそういうもの、もらわない方がいいんじゃないかなあと僕は思うんですけどもね。
 この光道園の長い間に培われた伝統の1つは、園長さんも常にそう言っていたけども、園生が先頭なんだと。そして、園長始め職員の人は、その園生の後からくっついていけばいいというふうに、彼はよく言っていましたけれどね。やっぱり、大変味のある言葉ですね。だから、こういうふうに光道園が大きく発展して、日本でも有数の施設になって、そして、園長さんの確たる業績で園長さんが偉いと言っては、よくないんですね。やっぱり本当に偉い人は園長さんじゃなくて、ここに入所している園生の方々が本当に偉いわけ。だから、園長さんはその次に偉いんじゃないかということだと思うんですね。
 どうも、子どもと向き合っていて、そして子どものことを上手に育てると、その上手に育てた人が偉いようになっちゃって、子どもが偉いということが出てこない。これ、テレビなんか見てても、いつも障害児の問題なんかで出てくるのは、そういうことが多い。先生がうんと努力して。先生が工夫に工夫を重ねて、そのおかげで子どもがやっとこすっとこ伸びて。えらいのは子どもでなく先生だというふうになっちゃうわけ。これは、先生ばかりじゃない。施設の方でも、それから、父兄でもそうですね。うんと努力して頑張ったのは障害を持つ子どもの親だとか。それから、一生をそういうことに捧げたのは福祉の職員だとか。そんなことでは、とても、子どもたちとのかかわりの基本的な考え方ができ上がってこないんじゃないか。その素晴らしさというものが、子どもたちが見せる本当になるほどなあというそういう素晴らしさであって、親はもちろんのこと、学校の先生だとか、職員の方とか、そういう方が努力したそのことは大したことではないんじゃないかというふうに思うんですね。
 先々週かな、旭川の養護学校の先生がうちの研究所を見学に来た。で、僕たちがあるお子さんとかかわり合った場面を見たわけです。お母さんが連れてきた時に、この子がものすごく自傷が激しくて、それこそ自傷をするとすぐ手を使ってはいけないということになって、手を押さえられてしまうわけですね。そんな時にろくでもないいろんな工夫がなされるのです。この場合には、床屋さんがかけるタオルのようなものがまいてあって、何のことはない、手を使ってはいけないということなんですね。本当は押さえつけているのに、どうやって、かっこうよく見せるかだけの話なんですね。非常に下らないわけ。で、うちへ来た時に、手を使っちゃいけないように、こういうふうに。で、すきあらばつつくわけですね。こういうふうにちょちょっと。そしたら、もちろんたこができたり、血が出たりいろんなことが起こるわけです。
 しばらくやっているうちに、そうだな、30分ぐらいかかったかもしれませんけども、その自傷がピタリッと止まったわけ。それで、その子がものすごく表情が豊かになって笑い出したわけです。全く一転してしまった。それを旭川養護学校の先生が見てて、すっかり感心したんです。先生の、先生って僕ですよ、先生のやり方は素晴らしいって。みごとに自傷が消えたというんですね。これが間違いのもとなんですよ。それは、素晴らしいところは、みごとに自傷を止めたそのお子さんのその状況なんですよ。私が何をしたかではないんですよ。そのお子さんがそういうふうにある種の存在感みたいなものをもって迫り来て、それからまた新しい展開を示すそういう素晴らしさなんですよ。そういう素晴らしさをわからないで、ただやり方がよかったとか、先生が努力して工夫したのがよかったとかいうようなことを言ってても、僕はどうしようもないというふうに思いますね。誰が偉いかと言えば、それはもう明らかに私たちのお相手をしている障害の重いお子さんの方がずっと偉いですよ。それはたちうちできない。私たちが本当に枝葉末節の下らないところで、多少努力したり、多少工夫したりしたって、そんなこと、実は本当に大したことじゃないですよ。私たちは、とても大切なことをまだほんのちょっとしかわかっていない。大いに反省すべき事例なんですね。
 やっぱり中道園長が入所者が先頭なんだと、私たちは後からついていけばいいんだというようなことを当時さかんに言っていたのは、そこのところを1つ考えてのことことじゃないかと思うわけですね。中道園長は非常に自慢好きだから、この部屋にこんなのを作ったり、玄関の入口に銅像なんか建っているけれど、いっこうに皆さんが相手にしないで、大したことないやというふうに思っていればそれは非常にいいことなんですね。やっぱり先頭に立っている園生を見て、その後ろにぴょこぴょこ歩いてくっついているような人に教わる必要は全然ないわけです。
 そういうことを考えていくと、今日の、私たちがそういう障害の重い子どもとのかかわり合いというものが、もうちょっときちんと考えてしっかりしなければいけないなあというようなことがたくさんあるんじゃないか。今ちょっと自傷の話が出たんで、この間も10月に来て自傷の話をしましたけれども、自傷の話から話が始まってしまいますけれどね、確かに自傷をするとあっちこっちが血だらけになったり、たこだらけになったり、それから、ぽんぽんぽんぽんたたいたり、つついたりするからいかにも痛そうだし、止めたいということはわかりますけれど。やめさせたいということはわかる。ところが、やめさせたい、止めたいだけになってしまう。だけど、自傷しているのは子どもなんだ、その子自身が自傷しているんだという、自傷してる背後の人間というものが見えないわけ。ただ、自傷をやめれば、それから、今度、自傷が止まればいいと、そうなってしまうんですね。だから、いつも自傷のところだけで、勝負することになってしまって、自傷が止まればいいし、止まらなければどうやって止めるかということばかり考えるということになってしまうわけ。
 どうも、人間の手というのが、本来どういう使い方があるのかというようなことから考えていかないと。そして、手の問題は、目の問題と深くかかわり合っているのです。今、お子さんが、こんこんたたいていて、たたいている時に、人間の手の使い方は、見ることとどう関係しているのかなんて考えたら、ちょっと遠回りかもしれない。ちょっと遠回りかもしれないけれども、にもかかわらず、いつも自傷みたいな問題に直接的にかかわり合ってしまって、そこで何とかしよう何とかしようとしたら、これは、お互いに力の出し合い、無駄なことのし合いになってしまって、お互いに根本的な理解というものが起こってこないのではないか。だから、これは少し遠回りでも、もう少し基本的にきちんと人間行動の成り立ちの根源の問題として考えていかなければならないということなんですね。
 そうすると、やっぱり自傷というのは人間の手の使い方の1つなんだなあということなんですよ。手と目、手と口、手と足など、手をどんなふうに使うかによって、体のどこの部分とどう関係して手を使うかということです。人間の手というのがどこにあるのかということがわからないということが、手の使い方のおもしろいところなんですね。今、例えば、前の方にあるかと思うと、今度は下の方に行ったり、それから上の方へ上がったり。自分の体の周りというものから考えると、人間の手というのがどこにあるのがいいのか。例えば、気をつけという時は、こういうふうに手をそろえて下げなさいというふうに言うわけですね。そういうふうに、ある一定の条件の時に、例えば祈る時に手を合わせる、そういうある一定の条件の時に、ある姿勢の時における手の位置というのは、まあだいたい決まっているわけです。だけど、それは、その時のことであって、必ずしも、じゃあ手は本来どこに位置するものなのかがはっきりしない。常に動くから。 目というのは顔の中にあって動かない。もっとも、義眼だと、ぎゅっとやるとぱっと飛び出してあっちこっちへ転がるから、必ずしも動かないかどうかはわからないけれども、一応目というものは、なかなか目玉が動くだけで、それ自身は顔を動かさない限り、動かないものなんですね。自分の体というのは、自分の体が動くと全体が動いてしまうわけ。
 ところが、手というものは、自分の体が動かなくても自由に動く。だから、本来どこに位置して、どこからどこに移動するものなどというそういう制限のないものなんですね。ここが手のおもしろさなんです。だから手は自分の体の主軸の内側と思われているのですが、主軸の外側にあるんです。しかし自己に対する外界にあるものかと思うと、自分の肩にくっついているもの。手というのは、自分のものだと皆さんはそう思うでしょうけれども、にもかかわらず、自分のものであり、自分のものとはちょっと異質の外側に近いものという、さらに自己に対する外界に近いものというふうに考えないと、人間の、特に体を起こして直立した時の人間の手というものの持っている意味というものが出てこない。手によって作られる胸の辺りの平面の意味が出てこないわけ。
 そして、そういうものになってくると、手というものは何をするものかというと、大体は宙に浮いているものだと考えればいいわけ。宙に浮いているもので、何のために宙に浮いているかというと、直立している主軸を助けるものなんですね。だから、直立している主軸を助けるために手というものは非常によく使われているわけです。小さなお子さんが初めて歩く時というのは、必ず手を上に上げるわけ。これは、その子の垂直の主軸のバランスを手を上に上げてよくするわけ。初めて歩き出したという時は、必ず手でバランスをとっているわけ。まあ、もっと歩調をとれとか何とか言って、手を振ってバランスをとるというようなことが起こるけれども、それはまあ手が歩くことと非常にうまくいくようになったことなんで、手というのはそういう意味で自分の体と他の部分と関係して垂直主軸のバランスと非常に関係しているわけ。そういう意味で人間が体を起こした時の姿勢というものとその人の手というものは、ものすごく関係しているわけ。これが1つ非常に大きな手の役割ですね。
 それから、もう1つ手のおもしろいところは、外側から自分の体に触ることなんです。小さいお子さんを見ててごらんなさい。実によく自分の体に触っていますから。お母さんとか周りの人に小さいお子さんが手を伸ばして触っているのは気がつくんだけど、その前はよく自分の体に触っているんです。特に顔によく触るわけ。ここのところに人間行動の、人間としての非常に大事な意味があるわけ。自分の体に自分で触るということ、これが自分で自分を確かめることなんです。自分というものが自分であるということの確かめというものは、非常にむずかしいんです。
 話が、ものすごくある意味ではむずかしい話になってきてしまうんだけど、その人自身がその人自身であるということを、その人自身が確かに気がつくということは、これはむずかしいことなんですね。実は、それは手というものによっていちばん基礎的なところが確立されてくるんだということを、今誰も気がついていない。それは、世界中の人が気がついていない。手というものが自分に触るのが何の意味を持っているのかという、そこがわからない。ところが、自分が自分に気がつかない限り、自分が外界と対面するということは起こらない。
 そういう点は、世の中の人は非常に簡単なんで、ただここに人間がいて外界があれば、その人が外界を受け止めて、いろんな刺激を受け止めて、いろんな感情を持って、どんどん外界に反応していくんだと。すごく単純なんです。これは、生理学の先生から心理学の先生から、もうあらゆる方がものすごく単純なんですよ。ただ、外界があってその人自身がいれば、その人自身に別に感覚器官とか運動器官とか、あるいは脳の障害が全然起こっていなければ、必ず外界の刺激をいつの間にか受け止めて、そして、その受け止めたものをもとにして中枢である感じが起きて、それで反応していくんだというそういう仕組なんです。中学校の教科書の体の仕組というところを見てごらんなさい。そういうでたらめが書いてあるわけ。もう本当に、そういうことがうそだということに、ふざけているんだということに気がつかない。
 だから、今の学校教育なんていうのは、知識を競っているわけ。知識の量を競っているわけ。何でもかんでも知っていればいいと。知らないということが大事なんですよね。知っているということなんて何と言うこともないですよ。なぜなれば、知っていれば、それだけ知らないことが増えるわけです。だから、知れば知るほど知らないというわけです。ちょっと話がだんだん横道にそれていってしまったけれど、知識の量だけを切り外して作り上げると、でき上がったものはしっかりしている。ところが、根がない。そういうものがものすごくしっかりしているけれども、実は、根が生えていないから何もわからない。
 今の日本の社会なんていうのは、本当にそういう意味で基礎がしっかりして、いろんな意味で巨大化して、何でもかんでもうまくいっているように見えるけれども、芯がない。何にもならない。ますますもってみんなが考える力が落っこちていて、そしておかしいなということに気がついているんだけれども、どこがおかしいのかわからないで、そういういちばん大切な心のないまま、社会の体制の中で、ますます一生懸命になってしまっている。ますますみんなが一生懸命になるから、ますます社会が巨大化して、しっかりしてきてしまう。いちばん大事なものを捨ててしまっているから、いちばん大事なものが何なのかわからない。表面的形式的で、いつもつじつまはあっているが、味気ない社会になってしまっている。
 だから、学校の教科書なんかに書いてあるものが、いかにももっともらしく通用するわけ。何もそんな馬鹿な話はないですよ。そんな人間がオギャーッて言って、外界があって外界をすぐ受け止めて感じてというようなわけにはいかない。初めは外界と関係がつかない。その人はその人。外界は外界。全然関係がつかない別々のもの。どうやって関係がつくかというと直接的には関係がつかないわけ。
 この手ですよ。手というものが自分を刺激するわけです。それで、手と自分とが向かい合わせになる。これが自分で自分に気がつくということの非常に大事なことなんです。だから、手で自分の体をたたくなんていうのは、これは本当にすごいことなんですよ。ものすごい意味を持っていること。そして、赤ちゃんが必ずしていることなんです。
 手が、それが非常に進んできて、独立化して、他の役割をいっさい担わなくなって、言わば自閉的というかな、そのことだけになってくるということはなかなか起こりえないわけですね。だけど、なかなか起こりえないことであるけれども、そういうことがたまたま起こるような可能性もなきにもしもあらずなんです。ということは、人間の自発というものをことごとく止めるような、その人が、例えば、息をしようと思っても息してはいけない。物を食べようと思っても物を食べてはいけない。何か出そうと思っても吐き出してはいけない。というふうに、自発に対して極端な制限を受ける場合がごくたまにあるのです。
 うちに通っている子で、お母さんがちょっと施設に入れて、その施設が医療の濃い施設だから、すぐ呼吸の状態なんか調べて、呼吸の力が弱いから酸素が足りないと言って、すぐ酸素の管を入れて、それから、その子は今まで食べていたのに食べ方がうまくないし、もっとちゃんと食べなきゃいけないと言って、今度は管でもって胃の中へ直接入れるわけ。それから、時々痰が出るからと言って痰を引く管を入れて。管がいきなり3つくらい入って、それぞれの管でふさがってしまうといけないからと言って、また別の管が入るんですね。僕らなんかあんな管ちょっと入れられたら、げぇー、あーっとなって、それこそ大変だと思うんだけど。この間、お母さんがその子をうちへ連れて帰ってきて、私は行きませんでしたけれど、他の者が行きまして見てきたんです。管が入っているわけ。そうすると医学的な状態は確かにそうなんですね。
 医者がやっているのをやめなさいとは僕は言わない。だけど、何が起こっているかということを申し上げればその人の自発が止められているわけ。自分で痰が出せない。自分で噛んで飲み込んで、自分で胃の中に入れることができない。だんだん自分で排便もしない。自分で息もさせないというふうにして、自発させない。日常生活の中で、極端な制限がなされた場合、手が自分の体をたたくというたった1つの役割だけに固定化されてしまう場合もありうることなんです。そういうことなんですね。
 今、手の問題として考えないといけないのは、もう1つ手の問題の大事なところは、手が外へ出ていくわけです。自分の体だけには触らないわけ。自分の体に触ったら、それと同じように相手の体にも触ってみたいわけ。つまり、自分の体に触ったという延長線上に外界というものを確定していくわけ。そんな、外界が、突拍子もない、ある日突然ポーンと出てくるようなものじゃないんですね。ちゃんと自分と、自分の手、それと自分が作り、自分に適していて、よくわかる外界という、そういうふうになっている。だから、その子自身が初めて作る外界というのは、その人と直接関係している人、例えば母親の体なんですよ。そんな、いきなりこういう、これはコップで飲むものなんだというふうには。
 この間、10月に来て、この水きれいかって聞いて、怒られたんだ。だから聞かないでおいて、ちょっと飲んじゃうけど。あまりうまくないね。
 そういうように、これがいきなり水差しで、話していて、のどが渇いたら飲むための物だなんて、これが机だとか、これがテープレコーダーのマイクだとか、みんな見てすぐわかったり、自分で使いこなせたり、そんなことすぐできるものじゃない。
 いちばん初めに、その人に成立する外界はいったい何かということを考えなくてはいけない。それはどうやって作ったものかということを考えなくてはいけない。そういうふうにすれば、自分というものを確定したいちばん最初は何か、そういう自分の確定を通して外界というものがわかったいちばん最初の外界は何かということを考えていけば、当然、そこに自分の体と人の体、しかも、自分と向かい合った人の体ということが出て、そこに初めて、その人の自己とその自己によって関係づけられた外界というものが出てくる。これは非常に大事なことなんだけど、こういうきちんとした簡単なわかりやすい考えが、世界中にないわけ。情けないことに。
 すぐ、感覚・知覚・認知と、話が飛んでしまって、中学校の体の仕組を見ると突拍子もないんですね。たいてい、りんごが出てきて、しかもそれが赤いりんごなんです。もう中学校を卒業してだいぶたってしまっているからわからないんだ。ちゃんと習ったんですよ、あなたがたも。教科書にあったはずですよ。刺激と反応のしくみとかいうのが。そんなのインチキなんだから覚えない方がいいんです。知らない方がいい。わからない方がいい。そんなの本当だと思われたら困るから。どういうわけか水晶体を中心とした目がこんなになって、必ず受容器の方がりんごを感じてしまって、この網膜に逆に映ったりんごが視神経かなんか通って、脳の後ろの方の、この辺にたいていばってんが書いてあるんですね。ここに伝達される。それで、結局赤いりんごが見えるわけ。それで、この赤いりんごが、赤いと、りんごとわかるのが、もうちょっと上の方なんですね。またそこにばってんが書いてあるんですね。それで、その赤いりんごが食べたいという時は、もっと前頭葉の前の方なんです。それでまたそこにばってんが書いてある。それで食べたいというようになると、今度そこに運動を刺激するような、運動中枢があって、そこのところにまたばってんが書いてある。そしたら反応というのが出てきてそれでりんごをとって食べるということになる。いかにももっともらしいんです。
 もっともらしいんだけど、人間が外界を認めるとか外界を感じるということは、本来自発なんですよ。その人の自発ということを通さないで、外界はわからない。その人が自発も何もしなかったら、外界なんて全然わからない。その人の自発というものを通して、初めて外界というものが成立してくる。これが人間行動の非常に大事な部分なんです。
 だから、そういう意味で、もし仮にここに自発をめちゃめちゃに止められた人がいるとするんですね。そうすると、そういう呼吸だとか、食べることとか、痰を出すこととか、それから例えば体を起こすことも止められるというふうにして、医学的であるか、あるいは病気のためか、あるいは日常生活の全面介助の部分のためか、いろんなことのために、周囲の人々によって意図的運動を止められるんですね。
 それだけじゃない。今度、外へ手を出すことも止められる。なぜならば、それは、自傷している子どもは、自傷しているんだから手を使えるわけ。だから、その手を使えるということは、何も自分の体をたたくことだけじゃないんですね。そういう手の使い方がいろいろあるんだから、自分で姿勢を変化すれば、新しい姿勢を保持するためのバランスにも手が関係する。それから、その人自身が手を外に伸ばすということにも関係する。手を外に出すということは、これは非常にいろんな意味で、いくつかあるわけです。
 だけど、非常に簡単なやり方は、相手の体に触るということ。だから、その人ができる限り相手の体に触るということが大事。だから、自傷を起こしているお子さんは、自分の体に触っているのだから、相手の体に触る可能性がある。なぐっているんだったら、相手の体の同じところをなぐらせればいいわけ。これはだけど、無理なやらせになりやすいから、嫌がるけれどね。そういうことを直接的にやると嫌がるけれど、原則は、その子自身の内側に向かっているエネルギーを外側に向ければいいわけ。それで、特に、手というものを使うということを考えればいいわけ。
 手を外側に向けるということは、その人にとって初めて成立する外界は人の体であり、その意味で手で人の体に触るということは非常に大事なんだけど、もっと大事なことは、手を合図として使うわけです。だから、さようならとかこんにちはと言うのに、子どもの手を使えばいいわけ。そういう合図の時に手を使う。口で「こんにちは」、「さようなら」と言いながら手を振ったり握手したりするわけ。だから、仮に、自傷している子に会ったら必ずこんにちはって手を握ってあげるだけでも、1つの手の使い方の変化というものが起こる。さようならという時に、よく小さい子どもをつかまえて、親が振らせていますよね。さようならって。本当は小さい子どもはやる必要はないんですね。もういろんなことを卒業しているんだから。だけど、やる必要のない子どもにはたくさんやってあげて、自傷しているような、今度やる必要のある子どもには全然やらないわけ。合図のために手を使う。
 やり取りのために手を使うというのは、これはもういろいろな手の使い方があるわけです。おつむてんてんとか、結んで開いてとか言っているのは、これはみんなやり取りなんです。そういうやり取りの手の使い方というものが、自傷の烈しい子どもたちに非常に不足している。もう極端に。それで、反対にその子ども自身が何かで自発してやり取りのために手を使っているのに、みんな止めてしまっている。
 そんなこと言うと親が怒るんですね。私は何もそんなことしませんって。私は何もそんなことしませんというのがもう駄目なんですね。何気なく止めてしまっているのです。だいたい、親がよく言うのは、障害を持った子どもを生んでしまって自分の責任だと。だから、障害の子どもに対して全力を上げてできるだけのことをしてやりたいと。これが間違いのもとなんですね。そんな、1個の人格なんだから、もし全力を上げてめちゃめちゃにその子どもにしてあげたら、相手が人形になってしまうわけ。そんな、自分が生んだ子どもなんだからほっぽり出しておくわけにはいかないかもしれないけれど、それぞれ人格を持っている対等の状況なんだから、一方的におっかぶせてしまって、一方的に自分の願いで、自分の気のすむようにしたら、それは普通の子どもだってたまらない。普通の子どもだってたまらないものを、病気でもってたまらない、医学的な処置でたまらない、それから日常生活でもまた、親の気のすむように扱われたのでは、何をか言わんやです。
 養われることで、まず、まずいのは、さじですね。それから喃乳びん。ああいうものがうまく用意されてあるから、その子が手を使わないで、あるいは、本当に手を使うのを最小限にして、あるいは、無理な手の使い方しかできないような状況で食事しなくてはいけないという状況になってしまう。手というのは、食事をする時には、食物と口との間で、例えばペースト状の物ならペースト状の物を手にべっとりくっつけて、べとっとなめるためのものなんですよ。それを、口を大きく開けさせといて、さじでがあっとつっこんでしまう。できるだけ奥へつっこむ。そしてちょっとでもこぼれたらすぐ拭いてしまう。そして非常に清潔に養っているから何のことはない、完全に養われて、自発の余地がないわけ。管で直接胃の中へ食べ物を入れるのとあまり変わりがありません。その子が一生懸命手を出そうとしたら押さえつけてしまう。
 そして、どういうわけかおもしろいことなんで、世話をしだすと手間と暇を惜しんでしまう。もし、普通の赤ちゃんが自分が世話しないで、その子自身がゆっくり自分で食べるようにと思ってすると、その赤ちゃんは、手や口やおぜんの上をべちょべちょにしてしまって、なかなか食べないし、食べるという観点から見ると、めちゃめちゃなことをいろいろたくさんするわけです。でも仕方がないと思って見ているわけ。ところが、世話を仕出すと、お盆の上にまずきちんとならべてしまって、それから、手ぬぐいか何かうまくかけてしまって、そして、さじか何かでどんどん口の奥につっこんでしまって、そしてなるべく汚れないように、なるべく時間が早く、手間がかからないでできるようにと、急にそうなってしまうわけ。それは何かと言うと、完全に世話をすることになってしまって、相手の自発を完全に止めてしまうことになってしまう。相手を無視して、完全に自分の思い通りにしてしまう。相手が自分の思う通りにしないと気がすまない。
 例えば、ほんのちょっと牛乳がこの辺についているとしますね。ほんのちょっとついている牛乳を、その子があらっと思ってちょっと指で触ることだって、これはその子の自発なんです。あるいは、仮にさじで食物を入れてあげたとしても、奥までつっこまないで、唇のこの辺に置いてやって、こぼれそうになったのを仮にうわあごとか歯とか舌とかいうのを使ってちょっと自分で口の中へ引きこめば、それは自発なんです。同じ養ってても、がばっと入れてしまったら全くの受け身になってしまうけれども、唇の外に、あるいは唇の近くに、あるいは唇の上にとか、ともかくその人自身が動作を起こして少しでもその食物を移動させれば、ほんのちょっと移動させただけでもそれはその子の自発なんです。そういう自発をもとにして、初めてその子が飲みこむとか、噛むなんていう意図的運動の自発が当たり前に起こってくるんです。
 特別に噛まないとか、特別に飲みこまないとかいう子は、世の中にいないんです。自発を止めているから、そういう意味で、完全に受け身の、なされるがままの状態になってしまって、その子は苦労して意図的に自発をしない。だから、食物が口の中に入っても飲みこまない。そうすると、だんだんだんだん食物が落ちてくるのを待っているわけ。まあ、食物を喉に通りやすいような形に舌を使って砲弾型に直すとか、せいぜいそのくらいのことはするかもしれないけれど、そういうふうにしても、食物がのどを通過するまでにものすごく時間をかけているんです。だから、そういうお子さんは、いったん口に入れた物は翌朝でもまだ残っている。そういうようなことはいくらでもあるわけ。いかに自発というものが止められているか。そして、自分を受け身にして、自分で自発を止めて、親に協力しているのか。涙ぐましい限りなのです。いわんや手で触ってなめるなんていうと絶対に許されない。
 だから、この間、何も心配することはないんで、朝、飯食わせ出したら寝るまでに朝飯が終わればいいんですよというふうにお母さんに申し上げたんですね。そしたらもうお母さんがびっくりして、まあ何て変わったことを言う人なんだろうと思って、あきれてお帰りになりましたけれども、ゆったりとした気持ちで飯食わないと駄目ですよ。そんな、飯になったら、急にぱぱぱぱっとてきぱきして、あっさりと終わりとなってしまって。それが、おしめ替えるのもぱぱぱぱっになってしまう。普通だったら、おしめ替えて、ちょっと足をなでてやるとか、ちょっとどこかつついてやるとか最低そのぐらいのことをしたらよさそうなのに、ぱぱぱぱっ。これ、世話をし出すとどうしてもそうなってしまって、非常に手間暇が惜しまれてしまって、その世話をしている人の都合になってしまうわけ。手ぎわがよくて上手なんだけど。実は、子どもを育てる時は、いつも心と心との出会いから始まるわけ。手練の早業ではないわけ。
 手練の早業は、相手の自発を止めていくことなんです。つまり、相手の人間性を否定していくことになる。相手に外界を作らせないようなことになってしまう。相手に手を使わせないようなことになってしまう。だから、心と心とをつなぐ手の使い方なら手の使い方で、合図のために手を使うとか、コミュニケーションでおつむてんてんだとか、握って開いてとか、そういう手を使うということを、いつの間にか、普通の子どもにさんざんしているのに、自傷の烈しいお子さんには、自傷を止めさせることばかりに集中して、そういう心と心とをつなぐ手の使い方をやらなくなってしまう。日常のふれ合いの中で、相手が意図的に手を使うような工夫を全くしなくなってしまう。食事の時でも、ちょっと食べる物を見せたり、その食べ物にちょっと触らせたり、あるいはその食べ物をちょっと手につけて口に持っていかせたりとか、そういうことを何もしない。これは極端な状況ですよ。 そういう極端な状況になってきたらどういうことが起こるかと言えば、それはやっぱり、もう完全に、ある状況の中で、ある事柄だけを独立させて、だからもう他の外界をできるだけシャットアウトして、そして、ある特定の中にだけきちんとした回路を作る。すごく精密な、われわれが考えつかないほどの、きちんとしたものを作り出すわけ。これがまた人間なんですね。だから、自傷なんていうのは、極端な受け身、極端な自発の制限の中の自発の塊。最高の自発なんですよ。すごいことなんですよ。
 現に、その子がどういうふうに自発しているかと言ったら、まず右手だけ使うんだから、左手を使わないことですよ。左手を使わないためにどうやるかと言うと、左手をこういうところにブロックする。手を使う時にいちばん大事なことは肘を固定することなんですね。ここを固定しないと、一定のところへ手がいかない。いいかげんにやるんだったらいいんですよ。目のちょっと上にやるというんだったら、この辺からこうもできるし、こっちからこうもできる。それからこっちからこうもできる。ところが、ちょうどここの目の中のどこだかわかりませんけど、要するにこの目尻の上のまぶたのどの辺かとかいうような場所が大変なんだから。そこをやるためには肘を固定しなければ。だから必ず肘をこうやる。そして、なおかつ、こういうふうにこうして、こういうふうにこうやるわけ。なるほどこういうふうにやってやるものなのかなあっていうことが、両手、肘の使い方の意味が、つくづくわかる。
 感嘆ばかりしていて何もしないじゃないかと怒られるわけ。でも、大事なことは思わず感心することなんですよ。その自傷がいけませんとか、この行動は異常行動だから駄目ですとか、そんなこと言ってることではない。感心することなんですよ。そんな、変な管みたいな物をぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう入れられて、どうしてげえっとならないのかと感心してしまうことなんですよ。もう障害の重い子どものやることを見て、感心し出したら、切りもないほど感心することだらけなんですよ。
 まあ、感心ばかりしていてはいけないんで、その子の場合は、目でちょっと外界を見れば自傷が止まるわけですよ。ただ、下向いているだけではないんですよ。目をこういうふうに細めるというか、嫌だなって、はあんってこんな感じ。これは外界を見ないというその子の強い決意なんです。見ないものを無理に見せようと思っても駄目。しかし、その子自身が顔をあげ、目を開いて外界を見れば、手は止まるのです。意図的運動のもととなる受容が起こりやすくなることが大切なんです。30分ぐらいの間に、完全な受け身の自傷と意図的な運動のための受容とが逆転して、ぱっと自傷がきれいに消えるというのは、これはできないことではないんだけれど、やったことよりも、その子の持っている筋道の素晴らしさなんですよ。
 まず、1つは姿勢なんですね。姿勢がこういうふうになって、こうなっている(脇をしめ、背を丸めるようにして前かがみになる)。なぜ、こういうふうになって、こうなっているかと言うと、これは、そこへ気持ちを集めているわけ。だから、われわれがおじぎする時、こういうふうにして。まあこの頃、政治家の中でこうやっておじぎしている人もたくさんいるかもしれないけれども、やっぱりお祈りするという時は、こういうふうにいくらか前かがみになる。前かがみになるということは何かと言うと、足と関係している。だから、この足をどういうふうに刺激していくか、どういうふうに足をつかせて、ぐっと足を踏みしめさせるか。足の踏みしめがぎゅっとなると体が起きる。体が起きれば目が開くんですよ。簡単なことなんですよ、そういう点は。自傷の烈しい子どもというのは、そういうきっちりした人なんです。きっちりしているから、ある意味では理屈がきちんとしているから、だからちゃんと考えてちゃんとしたことさえしてあげて、その子が納得すれば、ちゃんとした状況の変化をちゃんと示してくれる。そんな、とんでもない奇跡的なことでも何でもない。足をどうするかということが1つの大きな問題点です。そういう意味で体がだんだん起きてくる。
 仮に、もう1つの問題点は手の肘で脇腹をしめつけて胸をおさえつけている。これを離すかどうか。それは、この手が、ぐっと押さえているのが、ちょっとこっちへゆるむかどうかなんですよ。これをぎゅっと無理にゆるませては駄目なんですね。こうちょっと持ち上げて、むしろ逆にもっと前かがみにしなさいというふうにすると、後ろへいく可能性があるわけ。前にしなさいと言うと、のけぞりなさいと。体を起こしなさいと言うと、こうなってしまう。もうちょっと前にしなさいと言うと、顔をこうしてしまう。反対なんですよ。直接やるといつも反対の運動を起こしてしまうわけ。だから、反対に肘を考えて、そしてもう1つ考えないといけないことは、この手の手首から先なんですね。これは、この手をどこへ置くかの問題なんです。これを、机の上に置くとか、要するに自分の体以外のところへ手が置けるかどうか。
 それで、今度、目がまぶたを開いたら、その子自身が初めてどこを見るかということも考えなければならない。まず、正面を見る子というのはいないんですよ。結局は、こうなっている以上は必ずこうなってしまって、だから、もし目に刺激をしようとしたら、少し斜め右になくては駄目。もし僕が仮に自傷をしている子だとすると、僕の方から向かって言えば、その子の前の右になければ駄目。少し、視野の中の高いところへ。つまり、その子自身が、自分の体を起こし、顔を上げて、目を開いたら、どこを見るのかということを予測しないと駄目。そして、その予測したところへ、できるだけ小さな視覚的変化というものを与えてあげること。
 大きな変化というのをみんな思うかもしれないけれども、いちばん大事なことは小さな変化。こうしなさい、ああしなさいという時に、いちばん大事なことは、少し刺激すること。いちばんまずいことは、こうしなさい、ああしなさいとどなること。もっとまずいことは、こうしなさい、ああしなさいというふうにその動作を自分がやってしまうことなんです。そういう強い刺激というのは、その子自身が自分の力を抜いてあなた任せにしてしまうわけ。弱い刺激というのは、その子自身が自分でするきっかけになるわけ。だから、できるだけ、弱い、いちばんその人に適した刺激をうまくタイミングよく与えるということが大事。
 だから、こういうふうにこうやって、こう自傷しているお子さんを、まず、できるだけ体を起こして目が開いて、手がこうなった時に、視覚刺激をどうするか、聴覚刺激をどうするか、触覚刺激をどうするかということを考えていけば、どんな自傷でも解けるんです。ただ、何年もかかって作っている自傷を今日か明日やめるということはできない。だけども、2か月とか3か月とか半年あれば、十分に解ける。直接自傷を解くことも1つの解き方だし、それから手の使い方というものを考えて、そういう手の使い方の根本から考えて解いていく解き方というのも、また大切な解き方なのです。
 そういう解き方というのは何かと言うと、実は、人間行動の成り立ちの根本を考えること。つまり、私たちが、私自身は何かということを知ることなんです。私は私であって人間で、いろんな言葉もしゃべれるし、いろんなことも知っている。わかることはこんなにたくさんあると思っているかもしれない。だけど、いちばん根本の、人間なんだ、生きているんだ、人間ってどういうものなんだ、生きているってどういうことなんだといういちばん根本のところは残念ながらわかっていない。もしそれがわかるとすれば大変ありがたいことなんですね。それをちゃんと教えて下さる方がいるんだから、十分聞く絶好のチャンスなんです。
 だから、自傷もその中の1つ、よだれを出すというのもそう。それから異常行動というようなことを言って、一見きわめて異常な行動をするとか、ある固執的にわあわあわあわあ同じことを繰り返しているようなこと、これもそう。つまり人間というものは外界を受けて、いろんな人間行動を組み立てていく時に、いろんな感覚を使って、その人独自の運動を組み立て、自発するわけ。そういう感覚とか運動というのは全部自分で作って、自分で組み立てるものなんですね。自発が根っこにある。ここが人間行動の非常に大事なところなんです。
 そうすると、その感覚なり運動というものは本来もっと独立したものでなければいけないわけ。他と切り離した純粋なかたちにしていかないと、自分自身がうまく組み立てて使いこなしていくことができないわけ。だから、例えば赤ちゃんが外界を理解していく時に、いちばん大事なことは目をつぶることなんです。目で見ることではないんです。目をつぶって見ないことなんです。音になんかも、音に対して直接的な反応をすることではないんです。いかにも音が聞こえないような状況に自分を持っていくことなんです。そういう自分の感覚として、自分の感覚を使うために自分の感覚を使わないということが大事。これが大事なこと。それで、それぞれの運動なり感覚がばらばらで、それぞれが独立するということが大事。そこで初めて人間の感覚として成り立つ基礎ができて、組み合わせのもとが形成され、それで人間が自由にその感覚を使って自分の運動を組み立てていくということが初めて可能になる。初めからそんな自由に自分の感覚を使えない。運動を組み立てられない。まず、拒否し、閉ざした後、ばらばらに解きほぐすというところが、そして、それぞれ、そのものとして独立するということが非常に大事。そして、まだ幼い時に、それを非常に巧みにやるわけ。
 そこのところが、全然今の学問に見えてないわけ。つまり、常識の中でも見えてないわけ。どこでも見えてないわけ。だから、人間というものが何か、人間が何でどうやって生きているのか、生きるということの根本が見えてこないわけ。そこにある人間の独立性と自発というものを、そして、そこへだんだんだんだん限定していく、そういう人間の組み立てというものの、いちばんの基本が見えてこないわけ。
 だから、例えば同じことを繰り返し繰り返ししゃべっていらっしゃる方がいると、またかと思われるかもしれない。この繰り返しが、非常に大きな意味を持っていることなんで、それはある種の音の世界の独立なんですよ。これが、目の世界が独立してしまうとやたらに動き回るようになるわけ。それから、触覚的な世界が独立してしまうと、やたらに自分で自分の体をたたき出すわけ。いかにもみんな変な行動のように見えるけれども、実は、それは人間の感覚と運動が本来独立なものであるということを、きわめて明確に証明しているわけ。生きている実感の原点なんです。
 独立性というのはなぜ起こるかと言うと、外界と関係を持たないような状況で、他の人にはそんなことが起こらないのに、自発を何らかの意味でさかんに、その人だけめちゃめちゃにある状況で止められたわけ。その結果、その人が起こした唯一の自発というものなんだということを考えると、その人独自の工夫の積み重ねにより組み立てられた素晴らしさというか、思わず感心せざるをえないような状況というものがはっきり見えてくる。だから、自傷を止めよう止めようと思っていくらやめさせようとしても、自傷は止まりません。
 しかし、人間行動の成り立ちの原点というものをよく考えて、手というものが何のためにあるのかということを考えて、手の使い方、そういうものの使い方を広げていくとか、それからその人自身が手をどういうふうに使っているから、これを足とどう関係させるか、目とどう関係させるか、姿勢とどう関係させるかというふうにして、それぞれ体の他の部分とどう関係させるかということを考えながら心と心とを合わせれば、そこに答えが出てくる。そして、出てきた答えというのは、実は、私たちが、自分自身が自分自身であるということを確認するために非常に大事なもの。自分が人間であるということが自覚できるために、非常に大事なもの。自分が何のために生きているのかということを、自分にはっきりわからせるために非常に大事なもの。自分にとって大事なものなんです。
 そして、そういう自分にとって大事なものを教えて下さる人が目の前にいるのに、ほっぽり出していたら、あるいは、そのことがいけないとかいいとか言って、こっちが一方的に思いこんで、こっちが勝手にいろんなことをして、ああいいことしたいいことしたって決めつけているのでは、ちょっと考えが浅いんじゃないか。もう少しきちんと考えていかないと、ちゃんとした奥の深いかかわり合いというものが起こらないといけないのではないかと思うんですね。
 一昨日かな、日曜日に、これも障害の重いお子さんなんですね。もちろん寝たきりなんですね。あっ、前の管をたくさん入れられてしまった子は15歳なんだけど、15歳まで自分でちゃんと一人で細々ながら呼吸して、自分で細々ながらご飯を食べて、自分で一人で痰を出してたんだけど、病院に入れられたら、とたんに管をわあっと入れられてしまっているわけですね。15年も、そうやっていたんだから、もう少し、そのままでよさそうなものだと思うんだけど、これがまた医学的見地というのが、ある意味ではものすごく権威を持っているからね。
 日曜日に来たお子さんは女のお子さんで吏江さんというんだけど、しばらく来なかったんだけど連れてきたわけ。やっぱり障害が重くてほとんど寝たきりというか、手とか足とかほとんど動かないんですね。そうですねえ、普通の人が見たら植物人間だって言ってしまうんじゃないでしょうかな。そういう状況なんだけど、そんなこと決してないわけです。そのお子さんを連れてきて、こうやってつっつくとブザーが鳴るピヨピヨスイッチというのがあるんですけれども、それをつっつくと鳴るわけ。ところが、その吏江ちゃんという子は、こちら側からつっつくとあんまり反応しない。ところが、自分が頬でそのスイッチを押して自分でピヨピヨスイッチを鳴らすと実に愉快そうに笑うんです。お母さんは、その笑顔が見たくて研究所に来るんです。
 ずいぶん、世の中ばかばかしいと思うかもしれない。そんなこと何だというふうに思うかもしれない。子どもの笑顔が何だ、子どもなんてあやせばすぐ笑うじゃないと簡単に思いこんでいるかもしれないけれど、障害の重い子どもの場合、そうはいかないことが多いのです。あやせば体を固くしてしまう。その子にとってちょうどよい、それこそもっとも適したわかりやすい刺激に対してのみ、的確に反応するのです。その笑顔に出会った時の感動なんです。
 ところが、今、あまりにそういう意味で障害の重い子どもとそういうつき合いをしてくれるところがなさすぎるんじゃないかと思うわけ。ただ、医療的にお相手して下さるとか、生活的にお相手して下さるとか。だから、療法とかいうやり方があって、やれドーマン法だとか、だっこ法だとか、ただ抱けばいいんだとか、ただ体を揺すって前庭とか三半器官かどこかわかりませんけど、いろんな理屈があるんでしょうけれども、そういうやり方。いや、そういう表面的、機械的、マニュアル的なやり方と生活のお世話だけしかないところがどうにもならない。それから、何とか訓練法だとか言うんで、まあ、あまり言うといけないのかもしれないけれど、何とか療法。何かこのやり方がいいんだと言って、めちゃめちゃにどの子に対しても同じやり方でそういうことをやる。だけど、それはいかにも肉体的な刺激なんですね。
 人間は肉体じゃないって言うんです。生きている物体ではない。人間は精神なんです。誰が考えたって人間は心なんです。それはもちろんそれぞれの人がそれぞれの肉体は持っていますよ。生まれて、生きて、死にます。だから、そういう限界というものはちゃんとあるかもしれない。しかし、人間というのは心の塊なんです。精神の塊なんですよ。だから、その精神と向かい合うような方法でなければ駄目です。そんな肉の塊と向かい合っているようなやり方で、それで脳を刺激して、よくなったとか、それからこういう異常行動が、こういう肉体訓練で消えただとか、そんな行動のよしあしとか脳の改善とかそんなものじゃないんです。心と心との出会い、そこに初めて感動というものがある。誰だって赤ちゃんを育てている時に、この赤ちゃんは肉の塊だなんて思ってるお母さんは一人もいないですよ。心と心が出会うというそういうことがいちばん大事な基本的な人間同士のつき合いの前提の条件ですよ。ならば、障害の重いお子さんに対しても、当然そういう心と心の出会いを大切にする人がいなければ駄目ですよ。
 たった1つ、その頬をちょっと動かしてピヨピヨと鳴ったらその子がわははと笑ったと。話としては別に何のおもしろみもないかもしれない。だけどもそこに感動があるんです。すごい感動があるんです。そういう感動というものを前提にして、考えたり工夫していかなければ駄目です。
 ただ、相手を客観的に見つめて、そして、冷静に診断かなんかして。お医者さんならいいですよ。お医者さんならもう勝手にそうやっているんだから。医者にそんなことやめろと言ったって聞かないから。もう無理だから言わないけれど。だからある種の医者ならかまわないけれど、一般の人が医療従事者になってしまって。また、とんでもないことに、管などが入って人工栄養したり、酸素入れたり、痰出したりしてると忙しいんですよ。だから、その子はうちへ帰ってきても、お母さんが抱く暇なんてないんですね。うちへ帰ってもやることがたくさんある。何のことはない医療従事者ばっかり。人間がいない。
 人間が周りにいないで、人間が人間として成立するということはどういうことなのかという、そこを考えないと駄目ですね。私たちも普通の人間なんだから、ごく普通の人間が、ごく普通の人間とお互いに向き合っているんだということを前提にしなくては駄目。そして、自発を止められたような状況で人間にどういうことが起こったのかということ。そして、例えば触覚的な独立というものが起これば、どういう状況が起こるのか。その子がどんな独自の世界を創り出すのか。そして、それは私たちの人間行動とどういう結びつきを持っているのかということを考えていかないと駄目なんじゃないか。
 3時半までですね。この時計合ってますね。今、3時18分、ちょっと、これ進んでいますね。学校の時計と同じ。学校の時計も必ず進めてあるんですね。進めたの淵辺さんでしょう。水産大学のように。淵辺さんが水産大学にいた頃はまだのんきだったな。淵辺さん、僕のうちにいたことがあるんです。知ってますか。そして、うちの家内に怒られたことがある。知らない? 聞いたことない? じゃあ今度、淵辺さんに聞いてごらんなさいよ。なんで怒られたのか。やめとこう。僕のうちの座椅子を壊したんです。ねえ真家さん。誰が壊したんだろう。力があるんだよな。あっという間に壊しちゃった。すごい力なんだよ。
 もうこれでいいんじゃないかな、話は。もう何度言っても同じだから。私たちは、医療従事者でも学校関係者でも何でもないんだから、変なふうに指導するとか、変なふうに治療するとかいうのはやめた方がいい。それで、心と心と出会って、そしていろんなこと教えてもらうということを考えれば、そこに自然にいい状況というものが生まれてくると思いますよ。やっぱり、相手が愉快そうに笑うと本当にうれしいからね。ただ、喜ばせようと思ってもなかなか相手は笑わないから。うまい自発があって、向こうがタイミングよく確かな自発を自分で身にしみて感じた時だけしか本当に心から笑わないから。そういうチャンスを作るためには、それは大変ですよ。作ろうとして作れるものではない。出会うものなのです。だけど、そういうチャンスに1回でも出会えれば、それは忘れられないんですね。そういうものなんです。
 ただ、学習なんてやったって意味がないですよ。本当の意味でその子がいちばん大事にしているものと出会えるためのきっかけになるような学習ならばいい。その子自身がいちばん大事にしているもの、本当に宝物のように思っているものを、私たち自身も宝物にしなければ駄目だということ。ただ、私たちが知識の量を競ったり、偉くなることを競ったり、いばっちゃったりしては駄目だと。そんなことをしても、私たちも自分自身納得できないから。そういう点、そういう障害の重い子どもが本当に愉快そうに笑ったら、やっぱり私たちが本当に愉快になるというそこのところが非常に大事なんじゃないかなあ。そして、そういうつき合い方をする人が少なければ少ないほど、やっぱり私たちが一生懸命になって、そういうつき合い方をしないと駄目なんですね。
 だから、病院の人たちがそういうつき合い方をしない。学校の先生方がそういうつき合い方をしない。親がそういうつき合い方をしない。ならば、私たちがせめてそういうつき合い方をしていかないと駄目です。本当にそういう意味で、無駄なことはしない、曲がったことは大嫌い、きちんとしたことをいつも正直にやっている人が誰か、それは何のためかということをよく考えていけば、なるほど、人間の手とはこんなものなのかとか、人間が外界を見るとはこんなものなのかとかいうようなことが、自然に学びわかってくる。そして、そういう意味で人間が本当に喜ぶという状況が何なのか。そしてそういう喜びというものは、もちろんお金とかそういうものに代えられないけれど、学校教育とか、病気の治療の問題とか、そういうものに代えられない。魂の問題だから。永遠のものだから。そういうものにできるだけ近づこうと考えていくことが大事なんじゃないかな。
 おもしろいことに講演が終わりそうになると、みんな目が覚めるんだ。本当。おもしろいものなんだ。みなさん、眠い人いないでしょう? もう講演が終わるから。それでは、もう下らないこと言っていないで、何か質問ありますか? もういいかな。みんな下を向かなくていいですよ。足で踏みしめて、自然に体を。もし、下を向くんだったらついでにこうやって体を起こして、顔を上げて下さい。
(入所者の問題行動に関する質問がある。)
 だけど、そういうお子さんというのは、まずものすごくエネルギーがあるんですね。僕たちがお相手しているような本当に寝たきりというお子さんとは違って、まずエネルギーがあるんですから、それだけでも素晴らしいんですよね。
 いずれにしても問題行動があって、その問題行動を中心にどうしようこうしようと言ったら、話がおさまりがつかないわけです。その問題行動というのはだいたい、解決がつかないから問題行動なんですから。だから、そこの問題行動だけにしぼってしまって、1歩も出られなければ、今度は話し合っている人が自閉的傾向になってしまう。だから、もっと広いいろんな生活があるんだから、そうした広いいろんな生活の中で考えていかければ駄目なんじゃないかな。なおかつ、そういう問題は、長い間に作られたものなんだから、急な解決はいけないんです。
 どうも、その点、たった30分ぐらいでその子がにこにこっとし出したというのはよくないんですよ。何か素晴らしい魔術を使ってやったというふうに、そして僕は偉いんだというふうに言うのは、もう大まちがいなんです。そういうふうに急にその人の行動が変化するのはよくないんです。われわれが気がつかないうちに、だんだんだんだん、その子自身が納得して、変化するということが大事。それより、その子自身がものすごく大事にしているものと、自分がうまく出会うことなんですね。とんでもないところに鍵があるんですよ。
 園長さんがもう1つ言っていたのは、女の人の母性というものをくすぐればいいんだって。まあ園長らしい計算だなあって思って。また、園長がうまいんですよね。横で聞いてて思わず歯が浮きそうな感じになるんだけれど、うまいんだあ。そういう意味でやっぱり母心というか、それよりももう1つ大きな親心というのが大事なんじゃないでしょうか。要するに責任感とかそういうものではないんですね。単なる愛情でもない。もっと純粋に心と心との出会いなんですね。そういうものを前提にして問題行動とか何とか考えていかないと話が変なふうになってしまう。まあ、そこのところは気をつけたほうがいいですよね。それから、こういうふうにみんなが集まって話すより、2、3人で、わあわあわあわ、今日こうだった、ああだったって話してるところにヒントがあるわけ。
 だから、集まったら必ず園生の素晴らしさについて話し合うのがいい。今日こうだった、ああだったって。別に申し送りでも何でもなくて、自分の感じたこととか出会ったこととは、みんなにも言った方がいいですよ。園生の魂の輝きについて私たちはとうてい語りつくすことはできない。だから、日常の井戸端会議で、ケース会議で、一人でいる時にはひとりごとで、語れる限り、語りつくそう。そうするとそこで、だんだん解けてくる問題があるんじゃないでしょうか。ともかく問題行動がなかったら光道園は成り立たないからね。問題行動が山ほどあって、それで光道園ありなんだから。何も心配いりませんよ。ああよけいなこと言わないことにしよう。それでは、みんな大いに頑張って、よい夏を過ごして下さい。それではどうも。

* * *

 後日、深雪さんから講演のビデオテープが送られてきて、下記の手紙が同封されていました。

こんにちわ
 先日は、遠方のところ、中道先生のお墓参りにいらしていただき、ありがとうございました。お身体の方は大丈夫でしょうか。
 又、ご無理なお願いをして、講演までお願いいただき、本当にありがとうございました。
 あの翌日、ローンホームの職員、芝さんが、「宮川さん、ちょっと聞いてよ、明美ちゃん、もうとってもおりこうさんな人やって、本当にいい子で、問題になること何もせんのや! 私の泊まりの日は、かえって夜尿したりするけど、いいんや。私に甘えているんやと思う。昨日、中道先生、偉いのは、あの子らやって、話してたけど、本当にほやなぁーって思った」と言ってきました。
 私の前で、先生の話をうなずきながら聞いていて、きっと永田明美ちゃんのことをおもっているんだなぁーって思っていたのです。
 職員同士、みんなで入所者の話をできることが本当にいいことだなって思いました。
 お帰りもあわただしく、何のおもてなしもできませんでしたが、どうぞまたいらして下さいませ。
 何年か前、病気のため、どこにもいらっしゃれなく、淋しい思いがしましたが、こうして一年に一回、こちらでお逢いすることができ、本当にお身体を大切にと願わずにはおれません。
 奥様共々、来年またおこしになるのを楽しみに、待っております。 8mmビデオ、遅くなってしまいました。同封いたしました。
 光道園の体育会も27日に終わりました。各課、班活動、個別外出、一泊旅行と、忙しそうです。
 先生も奥様も、お身体には、充分お気をつけられますよう、お祈りしております。
                         さようなら

                        1993.5.31
中島昭美先生
                          宮川深雪