三つの面、二つの軸

─第21回重複障害教育研究会全国大会講演─


                        平成5年8月6日

             中 島 昭 美


 相変わらず雨がやみません。早くお帰りになった方がよいと思いますので、ぜひ5時までにはやめたいと思います。ところが、ビデオを珍しく用意してきて、ビデオを途中ちょっと映します。時間がかかるので、無理に研究協議やめさせてしまって、すみませんでした。この研究協議の題が、「心に触れ、心を感じる」という題なのに、めくりは「心に触れ、心に感じる」となっていました。初めは、「心に触れ、心に感じる」という題だったんだけど、「心に触れ、心を感じる」という題に変えたんです。多少の違いだから、どっちでもいいんですけど。なお、もっとよけいなことですけれど、総武線が事故で品川と新橋の間のトンネルの信号機が全部赤になってしまって、だから、横須賀方面、千葉方面へお帰りの方、気をつけてお帰り下さい。懇親会へ出て、それからお帰りになった方がいいかもしれませんね。あまりそういう話をしていると、また、例によって怒られるけれど。
 今日は、広島に原爆が落ちた原爆の記念日です。昭和20年の8月6日、朝、8時ごろかな、広島でピカドンと言って、すごい爆弾が落っこちて、大変なことが起こったわけですね。もちろん広島におりませんでしたから知りませんでしたけれど、この会場にも、実は、私より1年先輩で、広島県の方がいらっしゃるから、直接原爆のことをおわかりになっているかもしれませんし、私より年上の方がまだいらっしゃるので、必ずしも、もう広島の原爆が過去のできごとだというふうにも思えないんですけど、にもかかわらず、だいぶ風化しているという感じはするわけですね。例えばここへ出席している方も、原爆を知っている方はともかく、原爆の時、まだ生まれてなかったという方が大半だと思うんですね。それより、原爆の前に生まれていたというと、もうだいぶ、蝮(注:毒蝮三太夫)じゃないけど、「なむあみだぶつ」、「なむあみだぶつ」って拝まれてしまう方だと思いますけれども。
 昭和20年というのは、私、この話をすると、またかと怒られますけれど、ちょうど空襲の時期でして、東京の空襲は、大きな空襲が4回あったんです。3月の10日、4月の12日、5月の23日、25日と、東京空襲は大きいのが4回ありました。私は、防空演習をしてたんですね。防空演習を一生懸命やっていたためでもないんだけど、ちょっと体をこわしまして、ちょうど高等学校の2年の夏に、勤労奉仕に行く直前に体をこわして、それから、また、急に高等学校が半年短縮されて、翌年4月に東大に入った時にも、同じように体をこわしてたんですね。それで、3月の10日の下町の大空襲の時にも、家でぶらぶら療養していたのですが、本当にびっくりしましたね。若さにまかせて、あちこち見にいきましたが、どこも死体が累々として、言語に絶する状況でした。だけど、何かやっぱりちょっと人ごとみたいな感じがして、まさかこの次は自分の家が焼けるなんて夢にも考えていなかったから不思議ですね。3月10日の時には非常に天気が悪くて、雲が非常に低くて、その低い雲の間から焼夷弾がわあっと落っこちてきたように感じました。まあ、今でも、本当に、ちょっといろんな思い出が残っています。悲惨だとか恐いとかいうのは通り越していました。
 そういうふうに、まだ、人ごとだと思っているうちに、4月の12日の夜というか、13日の未明に、自分のうちが焼けてしまったんですね。自分のうちが焼けてしまって、ああ、これは焼けてしまったなと思って。それから、今度5月の23日の時には、もう自分のうちはなかったのですけれども、山の手の世田谷とか、まあ田園調布、こちらの方がひどくやられたわけです。ちょうど、その日に、徴兵検査を受けに行って、甲種合格になったんですけれど、だけど、小金井から行ったんで、空襲で遅れてしまって、さんざん殴られて。さっきの明美さんの話じゃないですけれど、直子さんみたいな一見風格のある下士官で、殴るのがもう当たり前という方がたくさんいらして、ぽかぽか殴られた。それでも、一応、甲種合格ということで、年齢をちょっと繰り上げて徴兵検査をしたものですから、甲種合格なんだけど、一応、第二補充兵なんですよね。だけども、僕がそこの徴兵検査で思い出があるのは、どうしても、戦争に行きたかったですね。ぜひできるだけ早く召集してもらいたいと思って、小石川の駕籠町に住んでたんですけど、駕籠町150番地という所で焼け出されたから、小金井に住んでたんで、その小金井の住所がわからなくて、召集令状が届かないといけないと思って、徴兵検査を受けた検査官に私の住所は、こういう住所なんだって、1回言いに行ったんですよ。だけど、全然その方が一生懸命聞かないから、また言いに行ったんですよ。それで何でそんなに言いに来るんだと言うから、召集令状がちゃんと来ないと困るから、きちんと配布するようにしてくれということを言いに来たというふうに言ったわけです。それで、すごくまた怒られたわけ。何でも怒られるんですよ。
 ところが、おまえ学生かと言うわけです。それで、どこの大学かと言うわけです。帝大だって言ったんですね。その頃、東大というのはなかったんです。東京帝国大学という大学だったんです。私は、東京帝国大学というのに入学して、東京大学を卒業した珍しい学生なんですね。だから、入学した時とは別の学校を卒業したわけです。そして、何学部だって言うから、文学部だって言ったら、“偉い”って。文学部は人間の学問でありますって。その人、何だかんだって言うのに、今度は、ございますとかありますとかとても丁寧な言葉になってしまって。それで、何学科だって。学部とか学科とか知っているんですね。それで心理学科ですって言うと、また、“偉い”って。ますます人間の学問だと言うんですね。それで、何か、すごい恐縮して。相手が小さくなって、本当にいやだなあと思ったことがありますね。
 そんなこんなで、広島に原爆が落ちたのは、これは偶然ではないんで。僕のちょうど子どもの頃から、量子力学というか、要するに物理学に、原子というものが問題になって、原子核の構造みたいなものが、きわめてよくわかるようになってきたんですね。だから、量子論みたいなものがだんだんさかんになってきて、新しい原子物理学というものが、流行したんですね。そういう時期を、私は中学校、高校で迎えてたわけですね。もうちょっと上の人は、すでに社会に出てから迎えたんだと思うんですけども。その量子論というのが、これが量子力学だから、微積はもちろんのこと、行列式がわからないと解けないんですね。ところが全然わからないんです。読んでも。それから、例題見ても解けないんですね。それで、ちょうど学校の先生がある子を見て、この子は5まで言えるけれど、それ以上は数えられないというのと同じ。わからないものは、わかっている人がいくらわかりやすく説明しても、それだけではわからないんです。
 それで、もう健康も害したし、うちもなくなったし、明日の食べ物もないというような状態の時に、持ってたのがその量子力学の本なんですね。そしたら、これがまことによくわかるわけです。僕は、この時、こんなによくわかるのに、どうして今までわからなかったのかなと不思議に思いました。それで、いわゆる量子力学みたいなものの計算が好きになって。それで、ちょうど、何も独りですることがないんですからね。文学部の学生はみんな新潟の農村に勤労奉仕に行ってしまったし、授業は4月に入って5月で終わってしまったし。それから、心理学の優秀な学生は、霞ケ浦の航空隊で、適性検査の検査官の補助者が必要だと言うんで、そこへ行ってしまったし。行くところもないし、何もなくなってしまって、することがないので、ただひたすら、独りで計算していました。核分裂というものがあって、核分裂すればものすごいエネルギーだ、これを取り出して、爆弾作って、誰かが使うに決まっているなあということが、非常に身にしみてわかってしまったんですね。で、日本は作れないというのも、これもわかってしまったわけです。
 どっかで作ったのをすぐまねして作るというのは、その頃から得意なんです。だけど、いちばん先に作るのはとても下手なんですよね。これが、まあ、日本の戦後の経済発展の非常に大きな原因なんだと思うんですね。で、日本の人のいちばん下手なことは、たった一つのことを一生やり通すという、何かわからないことをないたった一つのことがよくわかるようにするという、そういう独創的なことが、あまり上手じゃないんじゃないか。そのもとになっているものは何なのかと言うと、やっぱり、だんだんだんだん自分の持ち物みたいなものを捨てていくというか、奪われていくのかもしれないけれども、あるいは、とられてしまったのかもしれないんだけど、ともかく、自分の持ち物というものがだんだんだんだんなくなっていくということ。これはやっぱりその人自身が、一つのこと、たった一つのことがわかる、もしその人が一生をかけて、たった一つのことだけを追及していくためには、とても大切な好条件なんです。それを好条件にするための独創性に欠けているのです。
 だから、そういう意味で、今、障害だとか、病気だとか、老化だとかいうものが、やたらに悪い条件だと思っている人が、たくさんいるわけですね。2、3日前に、生まれて3か月の盲聾児を育てている親から電話がかかってきた。自分の子どもが目が見えないし、耳が聞こえないから大変だと言うわけ。ところが、目が見えないということなんてことは、大したことではないと僕は思うんですね。耳が聞こえないということも、これは大したことではないんですね。別に悪いこと、困ったことと勝手に決めつけて、思い込むことではない。ただ、それだけの事実なんで、別に人間でなくなってしまうわけではないですからね。人間ではなくなったというのなら大変かもしれませんけれどもね。ちょっと目が見えないとか耳が聞こえないとかいうことは、ほんのちょっとしたことだと思うんですけれども。それが何で初めからそんな大きな騒ぎになるのか。
 それは、きっと発達が遅れるに違いない、他の子どもだったらこのくらいの年頃でできるようなことが、必ずできないに違いないという予測を持ってしまうわけです。そして、もし、そういうふうに自分が一生懸命育てても、子どもが発達が遅れたり、それから社会性がなくなったり、そういうふうになったらどうしようというふうになってしまう。暗澹たる気持ちだっておっしゃるわけですね。それだけならまだ話がわかるけれども、そこへもってきて、そのお母さんは、私が年とったら心配だって。自分がまだ若いうちはいいけれど、年とったらどうしようと。その子の面倒をいったい誰が見てくれるのだろうと。まだ、生まれて3か月の子どもを抱きながら、そのお母さんは本気になってそういうことを考えているわけです。明日、そのお母さん、研究会に来ますけれどもね。本気になって考えているんだから、これは、どうしようもないですよ。その人の頭の中にはいりこんじゃった固定観念なんだから。
 だけども、どうしてそういう見当外れな、決めつけみたいなのがいかにも当然のこととして起こってしまって、もっと大事な、人間だとか、心だとか、生きていく本当の意味だとか、そういう、人が本来持っていていちばん大切にしなければいけないようなことが、どうして、問題にならないのか。五体が満足ならばいいとおっしゃるわけですね。これは、大変困った考え方なんで、逆に五体が満足でなければ駄目ということになってしまう。五体が満足ならいいというのは結構ですよ。だけど、五体が満足でなくてもいい。その程度の幅があってもいいのではないか。将来この子が独立して、社会でちゃんと生活して自立して、生きていかれるように、人様の迷惑にならないように、それはいいですよ。だけど、将来独立できなければよくない、人様に迷惑をかけたらいけない、自立できないのなら生きていても仕方がないということだったら困るのではないか。何でそういうふうに思ってしまって、もう少しその子自身がその子自身の人生をきちんと歩めるかどうか、その子自身が本来の自分自身として生きていくかどうかという、そういうことがいちばん生きていく上で大事なんだから、それを考えて育てないといけないのではないか。育てがいを見失ってしまうのではないか。
 それで、そういう暗い考え方というのは、すぐ弱気を呼ぶんですよ。何でも、目の前に現実に素晴らしいことがあるのに、みんなそういうのは否定してしまって、駄目な方だけ、わあわあわあわあ言い立てるわけです。だから、弱気が弱気を呼んでしまって、だから、もう障害だらけ、病気だらけということになってしまう。そして、治すとか良くするとか、そんなことばかりに狂奔してて、その人が人間として充実したその人の人生を生きているという、そういう生きているためにいちばん根本的で大切なことを大事にしていかない。
 ということを言ってると時間がなくなってしまうから、本題に入りますけれど、今日は、三つの面と二つの軸という話で、話を始めようと思っているわけですね。それで、午前中に、開会のごあいさつの時に話を始めましたけれども、三つの面とは何かと言うと、まず底面を考えようというわけです。じゃあ、お前は面というものをどういうふうに考えるんだとか、軸というのは何だとかいうようなことになると、これはまことに面倒くさい考え方で、いちいち説明していると、また、あの、その、つまり、結局ばかりになってしまって、それで、僕としては、ものすごく一生懸命説明しているつもりなんだけれど、これはどうしても認識論の問題になってしまうんですね。で、認識論の問題になってしまうと、どうしてもカントにさかのぼらないと話がつながらなくなってしまうんですよ。カントの問題から話がだんだんだんだん進んでくると、その話が長くなってしまうわけです。だから、聞いていていやになってしまうわけ。わけがわからなくなる。だから、面とは何か、とか、軸とは何か、ということは、なしにして。もう、そういうものはなし。勝手に僕が使っていると。そういう言葉なんだと。
 要するに、寝たっきりのお子さんが仰向けで寝ている、これがどうしてもいちばん気になったところですね。何でみんな仰向けで寝ているんだろうと。普通の人だったらうつぶせになったり、横向きになったり、海老のようになったり、いろんな寝方があるのに、みんな仰向けで寝て、ほとんど動きがないわけです。何で仰向けで寝ているんだろうということに気がつくのに時間がかかったわけです。そのお子さんたちが、寝てるんじゃないんだと、のけぞっているんだということに気がついたわけです。つまり、人間の体の中で、外界の刺激の受容というものがどこから始まるのかというのが、体の後ろから始まるんだということが長い間考えつかなかったわけです。体の後ろから始まるのはなぜかと言うと、のけぞって押しつけているから。何のためにのけぞっているかと言うと、押しつけているから。押しつけているものは何なのかと言うと、それは面なんだということなんです。その人自身が外界を面化して、体の後ろ側で外界を面として受容することが、人間行動の成り立ちの始まりなのです。だから、そういう意味で面というものを考えたわけです。
 それで、どうしてそんなことがわからなかったかと言うと、長い間寝たきりになってくると、病気が重いから動きがないんだとか、発達が遅れるとこういう状態になるんだとか、勝手に異常なことと決めつけて、その障害の重い子どもが何をしているのか、考えようとしない。その上、子どもたちが長い間寝たっきりになっていると、そういうのけぞりの運動とか、押しつけの力というものが、だんだん省略されて、部分的になってきて、動きがうんと小さくなってわかりにくくなるからです。また、体の後ろ側なので、表側からは何も見えない。寝たきりの子どもをうつぶせにしようとしても、仰向けに戻ってしまうことに気づいても、まだ人間の後ろ側の触刺激が人間行動の始まりと気づかなかった。だから、ものすごくわかるまでに時間がかかってしまったんだけど、にもかかわらず、人間行動というものが成り立つためのいちばんの基本として、自分の体を、底面というものに押しつけなければ人間行動というものは始まらない。しかも、背中の方から押しつけなければ駄目なんだという、そういう考え方。で、そういうことから考えると、ちょっと図を書きます。
 頭があって、それで、背骨を中心にして、ここの、こののけぞりというものが非常に大事なところ。こののけぞりで、いったい何が起こっているのかと言うと、ある意味での、この背骨ののけぞりが直線となって、軸化するわけです。この下の側面が、面化するわけです。そして、いちばん大事なところは、この首。だから頭の押しつけ。それから、腰、だから、腰の押しつけ。そこでさらに大事なところが、この直線ができ上がると、この直線を中心として、左右に振ることが起こるわけです。つまり、軸化するわけです。ここに直線と直交する直線が加わるのです。直線と直線との合成というか、いわゆる十字形ですね。この十字形が起こるわけです。よく肩幅というかもしれないけれど、この腰のところにも腰の幅ができるわけ。ほんの少しだけれども、首のところにも幅ができているわけです。しかも、肩幅の方が、腰幅よりも広い、そういう十字形によって、下の底面が、さらに面化が増すとともに、背すじが主軸としての直線化、さらには回転を伴う軸化の意味を持ってくるわけです。


 これが、障害の重いお子さんが、実は本当はみんな腰と肩を押しつけているんですよ。そこに手をあててみると本当はよくわかるわけです。そして、しかも、左右に揺すって回転を伴いながら重心の移動をしているわけです。ただ、寝たっきりの状態が、長くなってくれば長くなってくるほど、その力の入れ方が部分的になってきて、それから、非常に弱くなるわけです。だから、ぐたっとして見えるんだけれど、決してそんなことはない。要領よく底面に押しつけているのです。いちばん簡単なのは、普通の赤ちゃんを見ればよくわかるわけです。普通の赤ちゃんが仰向けで寝ている時は、必ず揺すっているんですね。
 結局は、主軸がまずのけぞりでできて、それから揺すりでもって、縦の主軸に直交する横軸ができて、それから、底面の面化に対応して、主軸としての十字形がきっちりと形成されるわけです。この十字形というものができることによって、底面というものが、非常に大きな意味を持ってくるわけです。今日、話したいことはたくさんあるんだけれど、それが一つの重要なポイントですね。
 それからもう一つどうしてもお話したいのは、この面というものが、その面に、今の場合のけぞって密着していくという場合と、それから、もう一つは、面からだんだん離れるという考え方。だから、面の使い方が二つの使い方にはっきりと区別され、この区別が、将来体を起こしたり、立ち上がったりするのに、大きな意味を持っているということですね。



 そういう意味で、少し話は飛ぶ
けれども、ハイハイの場合に、仮に面ということを考えると、この面から、このぐらいだと、四つの点、ここの左右の手掌と膝ですね。この四つの点で、特に手の肘をぐうっと伸ばすことによって、体全体を押し上げるわけですね。それと同時に、ここのところで首がぐうっと上がっていくんですね。底面に対して、離脱の方向にのけぞりが起こっているのです。ハイハイが動物の四つ足と同じじゃないかという考え方が非常に強いんだけど、この膝を使っているというところに大きな意味があるんですね。で、足の裏が上を向いているということ、使っていないということですね。それと反対に、手は肘を逆にぐっと伸ばして、手のひらを押しつけているということ。そして、この肩幅というものがあって、しかも、腰幅から考えて、こちら(手)の方が高くて、こちら(足)の方が低い。同じ面上にあるんだけれども、こちら(肩幅)の方が長くてこちら(腰幅)の方が短い。したがって、重心が後ろに下がってきている。もう一つ言えば、首を上げて上体をのけぞらして、前を見るということが起こるんですけれども、これが人間のハイハイの非常に大きな特徴なんですね。
 つまり、ここ(仰向け)で起こっている面への密着と、ここ(ハイハイ)で起こっている面からの離脱というのは、運動方向はいかにも逆のように見えるんだけれども、のけぞりの運動そのものは同じなんですよ。ただ、体の後ろ側を使っているか、体の前側を使っているかということ、もう一つはここのところで、首が立つか立たないか。首に垂直軸が一つできるわけです。この垂直軸ができるかできないかということを考えないと駄目なんですね。仰向けで寝たっきりの子どもでも、首に垂直軸が形成されている場合があります。この場合、私たちが顔を上げて前を見るのと反対に首をのけぞらして後ろを見上げているのです。


 このハイハイの姿勢から腰を引けば、今度お座りになるわけですね。結局、ここで、腰をぐっと引けば、このままお座りになるわけです。この場合には腰が結局、一つ底面に接触するという可能性があるわけですね。人間が体を起こすというのは、ここから上体を起こしていくわけです。だから、ハイハイの時にこの首すじに垂直軸があったものが、お座りの時に、この腰から頭に関してのこの背すじに垂直軸ができるわけです。
 必ずしもこういうふうにお行儀よく座っているのがいいかどうかという問題があるわけです。たいていお行儀よく座っている子どもというのは、膝立ちですね。立つ時に膝を使うわけです。午前中の研究発表で言えば、渉君の場合だけど。その場合に、結局は底面にお尻がつくか、足の裏がつくかという問題。これは、同じ体を起こしても、腰が完全についていて、足の裏がこういうふうになっていれば、今ここでこういうふうになっていたとしても、ここに完全な重心がかかるから。だから、ここに完全に重心がかかっているところへ、「く」の字を入れれば、足の裏に今度、重心がかかる。この足の裏と腰との間に、椅子に腰かけるという段階が考えられる。椅子に腰かけていれば、腰と足の裏とにそれぞれ椅子の面と床の面とが、底面として接するわけですね。


 もう少し細かにご説明したいんだけれども、研究所の前期の講義の初めの方で話したし、それに、ほとんど時間がないので、また、機会があったらお話しすることにします。
 人間が体を起こして立ち上がるということは、底面に水平軸だった体が、垂直軸になることによって、底面に対して接触する体の面積がうんと小さくなっていくわけですね。接触する面積がうんと小さくなったのだから、仰向けで寝て床に押しつけているのと、足の裏だけが床についているのとでは、まるっきり違うのではないかという考え方があるわけですね。そうすると、要するに、なぜ人間が体を起こしたり立つことができるのかという問題になってくるわけです。
 立って歩くことは、人間なら誰でもできるからわけもないことなんだということと全然別なんですね。つまり、誰でもできるとか、やさしいことだとか、そういうことを議論しようとしているわけではないんです。つまり、人間がなぜ立って歩けるようになるのか、それから、何のためにするのか、それによってどういう変化が起こるのかということを明らかにすることが必要なんです。ここが大事なところなんですね。
 それを考えるために、僕は、三つの底面と二つの軸って考えているわけです。底面から二つの分離が起こるわけです。一つは水平面。これが言わば机の面なんですね。もう一つは垂直面。これが言わば前方のスクリーンなんですね。そういう水平面と垂直面というものがどういうふうにして底面から分離するのか、何によって分離するのかと言うと、主として水平面は手ですね。垂直面は目なんです。そういうふうに分離した水平面、垂直面がそれぞれいくつかの面に分かれ、層化して、垂直面と水平面とが相互に自由に変換することができるようになって、まとまりを持って、操作的な三次元空間が構成されるのです。また、二つの軸というのは、底面上の垂直主軸とその垂直主軸をもととして、手と目とによって構成される水平面上、垂直面上に成立するそれぞれの副軸を言います。二つの軸と言ったのは、主軸と副軸のことですが、実は副軸は手によって構成される副軸Tと目によって構成される副軸Uの二つに分けることもできます。そして、一つの空間として作られていくために、いわゆる手と目が協応すると言うんだけれども、そのために、どういう条件が必要で、どういう変化が起こっているのかということを、もう少し私たちがきちんと考えないと、人間行動の成り立ち、つまり人間というものが出てこない。
 人間は立って歩くと言うんだけれど、何のために立って歩くのか。それによって、その人自身が、どういう感じ方が変わって、新しい感じ方を得るのか、考え方が変わるのか。もっと言えば、生き方そのものが変わるのかということなんですね。それで、あまりに速く変化する人というのは、大変化したからいいのかもしれないけれども、それだけおざなりなんですよね。つまり内容がないわけです。いつまでたっても変化しない人というのは、ちゃんとその人のきちんとした納得ずくで、きわめてゆっくり、しっかりと変化していく人なんですね。だから、何だかわからないけれども、みんながやっているから私もやってみようとか、何だかわからないけれども、みんなが使っているから私も使いたいとか、そういうようなことで変化するようなことがらと、その人自身がやむにやまれないような状況で、どうしてもそういうふうになっていって、とうとうこうなったんだというような、そういう変化とは、おのずと違うんですね。ここが大事なんですよ。そこがわかるために、子どもと接して子どもとかかわっていると見えてくるものがあるわけです。私たち自身の感じ方とか考え方が正しくないということ。もう一度見直してみなくては駄目だということ。そのことに漠然とみんなが気がついているんだけれども、もう少しきちんと説明しないと、それから、もう少し自分自身の考え方に固執しないできちんと見直さないと、いちばん大事なその人自身の人間、人間が何のために生きているのか、生きるというのはどういうことなのか、そういういちばん基本的なことがわけがわからなくなってしまう。ということなんじゃないかと思うんですね。
 心とは何か、人間の心とは探すものではないのです。ただ何かにおおわれて見えなくなることがあるのですが、その時はおおいを取り除けばよいのです。だんだん不必要なものがとれてくると、はっきりと見えてくるんですよ。それで、いちばん必要なものがその人の中にぽつんと残っているわけです。そこに、障害の重いお子さんの素晴らしさというものがあるわけです。だからぽつんと残っているものが、もしその人が見えなかったら、そのお子さんは何もできない、何もわからない、病気だらけで、障害だらけでどうしようもないお子さんだと、ひょっとすると生きていてもしょうがないんじゃないかという感じをいだいてしまうのではないか。だけども、実はそこに本当にかすかなものなんだけれども、ぽつんと一つ残っているものがある。それが実に素晴らしいんだということを言い出すと、これがまたきりがないんで、もうこれ以上は言わない。ビデオは1時間ものなんですね。後、20分ぐらいしかないんだけども、だから、全部は映しませんから大丈夫です。全部は映さないからご心配はいらないけれども、一応1時間ものであるのは確かなんです。今、非常に大ざっぱに説明して、飛ばしながら映しますから。
          (ビデオT映写開始)

 これは、真央ちゃんという1歳何か月かの、目が見えない上に、耳も聞こえないので、お母さんが心配して研究所に月1回通所している女の子ですね。去年の11月7日に初めて出会ったわけです。それで、やっぱり見てもらいたいのは、体を揺すっているわけです。非常に、この首の細かい揺すり、それから肩の揺すり、腰の揺すり。立たせようとするといやがるんです。やっぱり、こういうふうにそっくり返ってしまうわけです。それを無理矢理立たせようとすると、はっきりといやがるんですね。少し早送りします。
 これもお母さんに抱きついて、足をかけるんだけど。これは、お母さんは立たせようとしているんだけど、真央ちゃんの方は、ぐるっと回ってお母さんに抱かれようとしているわけです。また、必ず前の方にあかりがあるから、あかりに向かって手を振るのに都合がいいから。お母さんは、前向きにして、自分と向かい合わせにして立たせようとするんだけど、真央ちゃんは、ぐるっと回って、それで抱かれようとするわけです。お母さんの膝に腰を下ろせば前の方にさえぎるものがなくなるわけです。これはまた、人間の大変素晴らしいところで、立たせようとすると、立たないんですね。
 とうとうこういうふうにいちばんこの子が望んでいる状況にもっていっているわけです。ちらちらさせるか、ああいうふうに目を押すかというのが、非常にお好きなんですね。
 ここで、これもちょっと肩を揺すっているところなんですね。何気ないように見えるけれど、すごい意味のある行動なんですね。障害が重い寝たきりの子どもでも、必ずやっている。ただ、運動が非常に小さくわかりにくいだけ。それがわかったら、またものすごく興味深いから。真央ちゃんなんか、そういう点、寝たっきりの状態が長い子どもと違って、非常にわかりやすく私たちに説明してくれるわけですね。ちょっと早く進めますね。 お母さんがいろいろな物を持たせようとするわけです。ちょっと持って、必ず口と目の下と目に当てるわけです。これが真央ちゃんの事物の確かめ方ですね。足は非常によくきいて、お母さんにああいうふうに足をかけているのが大好き。手で触るより上手で安定しています。そこへおじいさんが一人現れて(笑い)。まず、この子に前の触刺激を与えなければ駄目だと、お母さんに言っているわけです。よけいなことを言っているから飛ばして。
 こういうふうに、私としては、真央ちゃんが寝ているのを横目で見ながら、お母さんに、今、真央ちゃんに何が必要かを説明しながら、実はどっからとっかかろうかと一生懸命考えているわけですね。そして、まず足の裏をよく触ってあげるわけです。真央ちゃんは真央ちゃんで、自分で自分に触って、触り方を教えてくれているわけです。今度、足の裏から口へいくわけです。それで、口へいっておいて、おもむろにこういうふうに前の方へ起こしてしまうわけです。ここがとても大切なところなんですが、ビデオの画面から隠れるところが愉快なんですね。ここで足をそろえて、下半身を安定させるわけです。どういうふうにやったかは別に秘密ではないんだけど、映ってないわけです。ここがまあすごくいいところなんですね。そしたら真央ちゃんは落ち着いたわけです。
 あれだけ後ろにそっくり返るの好きで、立たせようとしてもいやがるし、必ず後ろの触刺激を求めて仰向けになってしまうし、お母さんに抱かれたがるし。ところが、後ろの刺激が必要ないというふうになっているわけです。お母さんは後ろへそっくり返るんだと思って心配をしているわけです。ところが、前に、前にと、こうなっているから、後ろへは絶対ひっくり返らないわけです。手をあんなふうに後ろにやったってひっくり返らないわけです。ひっくり返るというのは、絶対自分の意志というか、自分の心でやっていることなんだから。前の方に自分に納得できるわかりやすい刺激があれば、それを使って体を前の方へ倒すわけです。ところが、そうそう、後ろにひっくりかえるといけないと思って、後ろに手をそえたり背中を直接軽く押さえれば、まさに後ろに納得できるわかりやすい刺激ができるので、かえってひっくり返るんだと説明しているわけです。
 要するに、腰をしっかりつけて、足先をそろえてあげれば、下半身が安定するし、そして、前の方へ前の方へとわかりやすい刺激を提示すれば、自分で前の方へ体を倒すし、こちらが体を倒してあげれば、真央ちゃんは、かえって体を起こそう起こそうとするわけです。体を下から持ち上げて起こそうとするのではなくて、体を前の方にひっぱれば、逆に、自分で体を起こすわけです。前の方へひっぱるというのは、手でひっぱっては駄目なんで、口だとか肘だとか、そういうところに、わかりやすい触刺激を提示してひっぱらないと駄目です。それから下半身の足の位置だとか。それからこういうふうに直接前へひっぱれば、つんのめりそうになるので、嫌がって後ろへこう体を自分で起こすわけです。
 ここで真央ちゃんがすごいところは、首をきゅきゅっと振るんですね。それで主軸を自分で構成していくわけです。今、前後の揺すりだけれど、ちょっと左右の揺すりが入るんですが。くっくっと回転が入るわけです。ちょっとビデオではわからないかもしれいけれど。ここをずっと飛ばして。 これは、前へ前へとやっているわけです。前へ前へとやれば、ただでさえ後ろの刺激が強いんだから、ちょうどバランスがとれて、ちょうど体を起こすのに都合がよくなるわけです。でもこのビデオを見て、それでは私もやってみましょうと言っても、真似しても、たぶんできないのではないかな。おやりになってみればはっきりわかると思いますよ。ちょっと、足をそろえるそのちょっとしたことが、実はむずかしいんですね。工夫なんです。考えることが大切なんです。
 この柴田さんが作った何だかこのわけのわからない教材を使うわけです。そうか、この日は後藤先生が来たんだ。
 それで、こういうふうに、その教材を足の方から、だんだん手を使うことを考えて提示していくわけです。それで、机を入れていくわけです。今、この机を入れて。
 これは、真央ちゃんをうつぶせにしてみるとどうなるかというわけです。このように下にふとんをひかないでうつぶせにしたんだけど、くるっと仰向けになってしまったわけです。それで、仰向けになりにくいようにちょっと下にざぶとんをひいたんだけれど、それでもくるっと仰向けになってしまうわけ。寝返りはうつんだけど、仰向けからうつぶせの寝返りではなくて、普通とは逆のうつぶせから仰向けの寝返りをうつわけです。真央ちゃんにとっていちばん安定した基本的な姿勢が仰向けの姿勢なのです。そして、のけぞって背中に触刺激があることがとても大切なことなのです。ここに人間行動の成り立ちの根本があるのです。私たちは仰向けの姿勢の本当の意味を、改めて考え直さないと、人間存在の根本が理解できないのです。この時も首を振っているわけですね。
 この主軸の左右の回転というものを全く考えに入れないから、ロボットが作れないわけですよ。何か、ロボットがいつも四つ足みたいになって、立って歩けないのは、この回転というものを全然考慮に入れてないからなんです。
 これは、どこに力を入れているか触ってご覧なさいって言っているわけです。
 だんだんだんだん話が飛んで、机が出てきて。今度、このハンドルという考え方も、子どもはハンドルが好きなんですね。おもちゃの自動車に乗ってぐるぐるぐるぐるハンドルを回しているのをよく見かけます。このハンドルの操作が、副軸、つまり、自分の主軸に対しての、手の副軸を作るために非常にいいものなんですね。両手を使って、片手を動かすと片手が必ず影響を受けて、両手がそれぞれ運動方向を教え合うという両手のバランスによって、前の方に体の垂直軸に対応する垂直の副軸が構成される。つまり、自己の体の中につくった底面に対して垂直な主軸が、手による外界の操作とともに、体の外に構成される軸という意味で、主軸に対して副軸と考えます。要するに、体の中にある軸をもとにして、その人の体の部分の動きを通して、外界につくる軸が副軸なのです。そのためにハンドルというのは非常に役に立つんですね。だから、子どもがみんなこのハンドル操作が好きなんですね。そして真央ちゃんも同じようにこのハンドル操作が好きなわけです。
 というわけで、自分で体を起こして、自分で構成した副軸をもとにして、自分で手を伸ばして物に触るという自分の運動を調整する。特に、机の物に、副軸をもとにして触るということが、少しずつ起こっているわけですね。
 だんだんご機嫌が悪くなってきているわけです。それで、この日は終わりというところ。
           (ビデオU映写開始) 

 これは、8か月経ちましたが、7月の31日先週の土曜日の録画です。音は結構聞こえているんじゃないかな。目は、明暗はわかりますね。
 お母さんが、立ち上がらせようとしてひっぱっているわけですね。でも、このひっぱり方は、あまりひどくひっぱらないで、自分でぐうっと立ち上がるのを利用しているからまあまあです。
 あれは、身振りサイン。座りなさいという身振りサインをしているわけです。お母さんが私に言われて自分で作ったものです。
 ここで、偶然、デモのボタンに触るんですね。音が大きくしだすわけです。これが面白いところですね。ちゃんと、あの二つを持つところ。そして、あの縁によく触っているんですね。
 ここから、デモのボタンを押すわけです。実にはっきり押しているんですね。これが偶然か、必然か。今、僕がちょっと止めたから。これが偶然か、必然か。もうずうっと考えているわけです。この画面がこんなにはっきり撮れたのは、これは偶然ですね。真央ちゃんが押したのは、偶然のように見える必然ですね。
 というわけで、やっぱり、前の方に水平な平面が少しずつ両手の操作を通してできてきて、それで、たたく、触る、持つから、滑らせるということが起こっているわけです。同じ触るのでも、縁が出ているところをよく触ったり、平らな面にそって滑らせたりすることが起こっているわけです。 もうちゃんと一人で自分でいろいろ触っているのに、後ろからじいさんが来て、よけいなことをするわけです(笑い)。やめろと真央ちゃんが言っているわけです。こっちもやめろと言われるとやりたくなるわけです。
 これがいいところ。とうとう一つたたいたんですね。わかった? 聞こえた? ちょっと、もう一度せっかくだから。ビデオを巻き戻して再生すると、これが一つたたいたところです。
 というわけで、だんだん前の方に水平の面というものができあがっているわけです。そして、これは、その面を利用して、その面を支点として、手でつっぱって、前傾した体を起こすようにしてバランスをとりながら、立ち上がっているわけです。そして、棒を握る、手を上にあげる、さらに手をふることを通して、さらに目と手の協応をもとにして構成した三次元空間を支えとして、立ち上がって歩くわけです。
 これは、ピアノのところへ行ってピアノをひきはしないけれど、触ったりするわけです。
 ところが、今回は、うつぶせを全然いやがらないで、自分でうつぶせの姿勢をとるわけです。昨年11月に初めて来た時、あんなにいやがったのに。だから、反対に、うつぶせから仰向け、仰向けからうつぶせというふうに自由に寝返りをうつわけです。
 だけど、ハイハイはしないんですね。移動は逆に仰向けの姿勢でするわけです。ここのところへちょっと仰向けで背中をずらせながら移動するんですね。
 今度は、物に触っているところなんだけど、つなぎ目ですね。コンセントのつなぎ目が気に入っているわけです。ある程度固い物がいいわけです。ハモニカ吹くように歯ぐきにこすりつけるのと、ああいうふうにカチカチと上の歯にうちあてるのと、やるわけです。
 ちゃんと、長さというものがわかっていて、ちょうど半分のところでぶら下げるわけです。物をぶら下げるというのは、ものすごくわかりやすいんですね。もし、目が見えるのに見ようとしない子どもがいたら、さっきのたけちゃんじゃないけれど、ビニールの袋みたいな物にその物を入れてやって、つり下げて自分で振って自分で見れば、いちばんよく見るんですね。物を持ってぶら下げるというのは、すごい物の実感がよく出るんです。その物の重さだけでなく、大きさや形も見るよりよくわかるのです。ちゃんと、物の道理を心得ているんだ。私たちよりずっといろんなことができるし、知っているんだ。
 というわけで、これもそうですね。下さいと言うと、つまり「オチョウダイ」の身振りサインをすると、いやだと言うんです。
 こういう物もちょっと触っただけでわかるんですね。どうしてわかるのか。たぶんお宅にもないだろうから、全く新しい体験だと思うんだけど、10年の知己のごとく、触るわけです。やっぱり私たちの触り方とは全然違うんですね。ちょっと細かにいろんなことを言うと切りがないから、やめますけれど、すごく触り方が上手なんですね。
 これは、明かりをつけたり消したりしたんですね。それに反応しているんです。
 これが影を追っているところです。私が向こうを歩くんですね。その私の窓に映った影を追うのです。ちょっとわからなかったかな。巻き戻してもたぶんまたわからないと思いますけど、もう1度戻してみますね。ここで影があって、まだ真央ちゃんこうなんですね。ここから真央ちゃんが急に動きを追うわけです。そこをスキップでできるかな。これでスキップになるのかな。ああ、再生になってしまいますね。スキップで見ればちょっと影を追っかけているのがよくわかるわけです。帰りはあんまり反応しない。これは駄目。それで津布工さんが駆けたけど、まるで反応なし。
 というわけで、終わりですね。今、何時だろう。
 これは、衣類を着ることができるようになったというところです。研究所でホースの輪っかのはめ外しをやっていたら、これができるようになったと、お母さんが喜んでいるところです。
 もう一つの場面としては、食事なんだけど、これはいかにも自分で飲んでいるようだけれど、やらせなんですね。それで、飲んでいる間中、この右の手で自分の体に触っているわけです。自己刺激です。なぜこういうことが起こっているかと言うと、これは哺乳びんで飲んでいるんだけど、管で胃の中へ直接栄養を入れているのとあまり変わらないんですね。体をこうのけぞらせて、こう食道を開いているのかな。そこで、哺乳びんのびんから、たらたらたらたらたれてくるのを、ただ、口からのど、さらに胃へと、自発なしにたらしこんでいるわけです。いかにも哺乳びんで飲んでいるから、非常に自発的なように見えるんだけど、ものすごい受け身なんですね。そういう受け身の状況だから、何か刺激がなくては駄目なんです。そこで自分で刺激を作るわけです。
 哺乳びんだから全然わからないけれど、あまり吸わなくても、体をのけぞらしてびんを逆さまにすれば、少しずつ出て、しかも、口の中へたまらないんですね。だから、哺乳びんの口を、もうちょっとはさみを入れて大きくした方がいいんじゃないかと思うんだけど、これだけの牛乳を飲むのに15分かかるわけです。お母さんが、自分で、この哺乳びんで15分かけて飲んでみるといいんですよね。哺乳びんというのは、人間の乳首から考えたものなのかもしれないけれど、全く似て非なるものなんですね。それをどうしても、ある一定の栄養を機械的に胃の中へ流しこめばいいという考え方が非常に強いわけです。触る物、見る物が、飲む時に重要な意味を持っているということを全く考えないわけです。
 だけど、もしそこに自分で飲むという自発がないのなら、どうしても、受け身で飲まされている間、別のその子どもの納得できる自発を作っていかなければならないという、そういう窮地に子どもたちが追いこまれているんだということです。これは、説明していると切りがないほど長くなるので、これでやめにしますけれども、本当は、実は、自己刺激を作り出さざるをえない子どもたちにとって、大変な問題なんですね。では、これで終わりにします。
 あっ、10分過ぎてしまいました。あれ、6分かな。どっちがあっているんだろう。7分? じゃあ、こっちがあっているんだ。こっちは9分。
 どんなことでもしゃべり出すと切りがないから、やめなくてはならないけれども、やっぱりすごいところは、真央ちゃんは、目が見えない。駄目、ではないんですね。でもほんの少し光覚がある。そこで、ガラス戸の明るい方へ寄っていく。ガラス戸のところに日射しがあって、ある暖かさがあるんですね。そこに手を伸ばすと、すりガラスのざらざらさがあるわけです。それをじっくりと受け止めていると、向こうに影が映るわけです。その影が映った時に、その影の動きというものがあるわけです。これが、外界を見始める始めなんですね。よく明暗とか、明るさとか、湯気、それから雲みたいなもの、光沢、炎、そういうものに反応するというんだけど、いちばんその人の自発的な目の使い方の始まりは動きを追うことなんですね。動きを追っているのは、何を追っているのかと言うと、影を追っているわけです。実物を追っているわけではないんですね。
 お母さんが、よくうちの子どもが自分のことを追わないからというんで心配になるのは、そこのところの目を使うということのいちばん最初なんですね。本当は、そこで、影は追うんですね。だから、もうちょっと、動きを追うということが何なのかということ、つまり目の使い始めのことを考えていかないと、目を使うか使わないかということだけで、どんなふうに目を使っていくのか、さらに人間が物を見るということの根本は何で、どうやって見てわかるようになるのか、その根本の意味がわかってこないわけです。
 それで、目で見て動きというものが出てくると何が起こるのかと言うと、予測が起こるわけです。だから、ここにあった物が、こっちへ来るだろうという。始まりと終わりができるわけです。そこへ、始まりから終わりまでの間とその動きが構成されて、これが、空間の非常に大きな基本となるのですよ。
 これは、手の場合は自分が動かさないと動かないわけです。目の場合には、逆に自分が動かないで目玉だけをほんの少し動かした方がよくわかるわけです。外界の刺激が、自分が動かすことによって浮き上がってくる刺激と、自分が動かさないでじっとしていた方が浮き上がってくる刺激とがあるわけです。この感覚の使い方の違いというものが、実は、人間行動の中で、非常に大事な役割を持っているんだということを話したいんだけど、これは、また、話すと切りがないから。また来年でもゆっくりと話すことに。あっ、話さなくていいんだ。みんなそれぞれが、自分で考えて、自分で解決してしまえばいいんです。障害の重いお子さんにいろいろおうかがいをたてて、人間というのは、どうやって、物を見始めていくのかということ、そういう意味で、垂直面というのはどうやってできたのか、真央ちゃんみたいな方がいっぱいいらっしゃるんだから、たくさん教えてもらえばいい。
 そういう方に教わると、なるほど、素晴らしいなあということがわかってくるわけです。何もできない、寝返りもうてない、立たせるといやがる、それから、発達がこのくらい遅れているとか、そんなことばかり言っていたら、子どもの素晴らしさが何も見えなくなってしまう。そして、自分自身がいったい何をしているのかわからなくなってしまう。そして、みんな障害児教育から手を引いてしまう。そして、本当の意味で誰も障害児教育の本質を考えないという状況に下手をするとだんだんなっていってしまう。だけど、やっぱり本当に大事なことというのは、世間一般の人が相手にしてくれるようなことではないんですね。本当につまらない、誰が見てもつまらない、誰が見てもそんなことは意味がないようなことが、本当は大事なことなんです。そんな、みんなが大事にして、これが大事だ、大事だなんて言っているものは、がらくたですよ。というわけで、長い間、聞いていただいて、まことにありがとうございました。
 雨が少し上がってきたかな。何か、皇室がお出ましになると必ず雨が上がるそうですけれど、みなさんもそれぞれが、皇太子か皇太子妃雅子さんかどっちかと思って、外へお出になると、天気がぱあっとよくなるんじゃないでしょうか。もうよけいなこと言わないで。では、今日はこれで終わりにします。どうもご苦労さまでした。