全国大会第2日目午前の討議から
平成5年8月7日
今、二つ質問があったし、進さんも答えたから、でもちょっと、追加します。障害の重いお子さんの場合、とても医療が濃くかかわっていることが大変多いわけですね。だから、今の場合には、そういうことはなかったけれど、たくさん管を入れられてしまうわけですね。そうすると、仰向けで寝たきりで、じっと動かないということが非常に大事な条件になってしまうし、それで、何となくボーッとした目つきになってしまうし、体全体がだらっとしてしまってものすごく重症のように見えるんですね。確かに、そういうかかわり合いだと、その子が障害だらけで、本当にやっと生きているという感じに、私たちはすぐ考えてしまうわけです。
ところが、そういう段階で最近は学校教育を含めて、教育が参加する場面がやっとでき上がってきたわけですね。やっぱり教育が参加する以上、どういうことを私たちが考えていかなければならないかというと、自発ということなんですね。人間だから必ず自発しているわけなんです。ただ、その意味で、その子自身が受け身にして、いろんな意味で自分の運動を止めていることが多いんですよ。だから、この子は障害が重いから視線が定まらないんでボーッとした目つきをしているんだというふうに考える場合と、その子がわざとそういうふうにしているんだと、そういうふうに考えることもできるわけです。わざとだらんとして、外界の働きかけにも応じないし、その人自身も自分で運動していないんだと、そういうふうにも考えられるわけです。
そういうふうに考えると、人間なんだから、絶対に自発を、絶対になんて言葉を使ってはいけないかもしれないけれど、必ず自発しているにちがいないということを考えれば、まあ何と言っても、人間の体は前と後ろがあって、後ろ側なんですよ。ところが後ろ側は仰向けで寝ているから、全然見えないわけです。だから、ふとんの中へ手をつっこんで、背中か腰か首か、どこかに触ってみれば、その子自身の小さな動きというものがきわめてよくわかるわけです。その触り方が問題なんですよ。ただ、ふとんの中に手をつっこんで触ればよいというものでは本当はないのです。相手の出方を確かめるような触り方、おずおず触りなさいというのではない。あくまでもやさしく柔らかく、相手が人格を持った一人の素晴らしい人間の本当の自発を教わるのだという心がけが大切です。この心がけがなければ何も伝わってはこない。相手の自発の素晴らしさを実感した時、感動に満ちた、魂と魂との出会いが始まり、ここに教育の根源があるのです。そういう障害の重いお子さんで、もう植物状態だというようなことまで言われているようなお子さんが、蓐瘡を起こさないということが非常に多いわけです。何で蓐瘡を起こしてないかと言うと、そこに小さな運動があるということなんですよ。この間来たお医者さんが、私といろいろ話した時に、そういうお子さんの蓐瘡の問題はどうしますかと、床ずれはどうですかと聞かれたんだけど、僕は、十数年寝たっきりの子どもたちと共に暮らして、まだ床ずれの心配をしたことが一度もないんですね。
だから、やっぱりそこにその子自身の運動の自発が集約されているということ、それがわかったら本当に人間の持っている強さというか素晴らしさというか、本当にすごいなあということがつくづくわかります。それがわからないで、見かけ上、これは大変だ、脳がめちゃくちゃにこわれているのではないか、もう意識もないんじゃないか、動きも全くないんじゃないか、全く何もできないし、何もしないし、したがって何も考えていないような状態じゃないかというふうに思ったら、これはまたそういうふうに見えるわけですね。
そこで、やっぱり考えなければいけないことは、後ろ側をその子がうんと使っているんだけど、前は全然使っていないということなんですね。前を使うということにどういう意味があるかということを考えていくと、やっぱり一つのその子自身の自発を、その子自身が外界との対応した関係によって調整していけるような自発にだんだん組み換えていくような、私たちがそういう手助けができないかということを考えなければいけない。
そのためには、足と口というのは非常に大事な体の部分なんですよ。だから、そういう障害の重いお子さんとの教育的なかかわり合いが、足と口から始まっているというのは、実は後ろ側でうんと自発されている方に、前の方から外界と関係した運動の調節を自発することはできますよと、そういう可能性もあるんですよというふうに、そういうチャンスというものがあるんですよという。その自発はもちろん子どもたちがしてくれることですからね、こちらがするわけではないですから。私たちは感動する。子どもの動きの本当の意味がよくわかる。一生懸命考える。工夫して相手に働きかけて、相手の出方を楽しみに待つ。いつも予測を越えていて、たくさんのことを教わることです。
それから、もう一つ気をつけなければいけないのは、今問題になっている呼吸の問題なんですね。前の松岡先生の発表の中でも、息をわざと荒くするわけですね。呼吸というのは人間の中で非常に大事な自発なんですよ。だから、息を荒くして、変な声を出すというふうに言うかもしれないけれど、あの学習の場面で、はめ板をやっていることは自発ではないけれど、息を荒くして呼吸を荒くして声を出していることはすごい自発なんですよ。だから、そういう自分で自分に最も適した刺激を工夫し、製作する自発というものがあるんだということですね。そういう自発というものをまず私たちが十分考えて、そういう自発を通して私たちが何かかかわることができないのかという、そっちを考える方がずっと大事だと思うんですね。そういうところを考えることによって、だんだんその子の全体というものがはっきりと見えてくる。
その子の全体というものがだんだん見えてきたら、私たちの考え方がまちがっていたということ。私自身の考え方がまちがっていたということに気がつくこと。これに気がつかなかったら、いつまでたってもかかわり合いが起こらないですよ。まちがったかかわり方をしているから、まちがった見方をしているから、子どもが本当に見えてこないんです。だけど、これは、例えば、学校の先生が、この子はこういう子だと決めつけてしまう。お医者さんがこの子はこういう子だと診断してしまう。全部、決めつけというのがまちがっているんだということを考えなければ、つまり、その子どもの病気や未発達の奥にある人間と出会わなければ、何も事柄は始まらないし、それから、そういう意味でその子自身の持っているところの自発の素晴らしさというものが見えてこない。息をゼイゼイさせるのが、ただうるさい騒音だというふうに、もしお考えだったら、それはちょっと考えちがいなんじゃないかということですね。
ちょっと長くなりましたましたけれども、私の意見を申し上げました。