全国大会 まとめ

                        平成5年8月7日


 さっきビデオを見て思ったのだけど、16年間かかわった方もいらっしゃるのだけど、その方の幼い頃の方がずっと活発で、今の方が何だかごちゃごちゃしているなと思える節も多々あるのです。研究所に通っても何にも役に立たないということが、自慢じゃないけど実証できたと思うので、もう重複障害教育研究所というのは名称が悪いから、これを変えたいというふうに、今、考えついたんです。第一、教育研究所なんて言うと、実験的に子どもを取り扱うようでいやな感じだし、重複障害なんて、そんな障害を大騒ぎする必要もないし、どうもいい名前ではないなとつくづく感じました。はたと困って、井戸端会議所とか何とか、財団法人井戸端会議所にしようかなと、今、思っているところなのです。だけど、都庁に名称変更と事業目的の変更届を出したら、きっと、井戸端会議所なんて、名前がいけないとかいいとか言う前に、とうとう中島も気が狂ったと思われる。以前からおかしいとは思っていたけれど、ついに頭にきたと思われるのがおちです。そして、事業の目的として、衣類の洗濯、体の洗濯、心の洗濯を、障害児が素晴らしいんだとぶつぶつつぶやきながらそれぞれ洗濯をすることを目的とすると書くのです。
 ところで、研究所は、実は学習ということを大事にしているところなんですけれど、学習というのは何かと言うと、お医者さんとか、学校の教育とか、社会の自立とか、そういうところから全部見放されて、初めて純粋に生じるような、その人自身がその人自身であるために必要なものじゃないかという、そういう感じがするんですね。ちょっともう気の遠くなるようなお話かもしれませんけれども、学習と言うと、それができるとかできないとか、何をするんだとかいうようなことではありません。やっぱり、みんなから見放されたあげくの果てに、その人一人が一生懸命やるという。だから、一生かかっても一つのことだけしかできないかもしれないけれども、だけども、必ずそれだけはきちんとやり通すという、そういうものなのではないかという気がするんですね。だから、いつから勉強を始めてもいいし、それから、どんな勉強をしてもいいし、それから、そういう意味で、勉強を通して、その人が何を考えてもそういう点では自由だと思うんですね。
 だから、そうしたら、もう全くわれわれは自由で、どうしてもしなければならないなんてことはないのだけど、やっぱり僕たちは、障害の重い子どもたちと共に勉強するために何をしなくてはならないかと言うと、自分の考えの過ちを正すことだと思うんですね。人間が自発の塊であると。だから、午前中にも話しましたけれど、どんな子どもでも脳の中がこわれてしまって、息もたえだえで、めちゃめちゃだというような状態はないと。その子どもの魂は必ず輝いていて、その子どもの自発というものは素晴らしいものなんだという、しっかりとした見通しというものがなければ、私たちは人間存在の深さを見通すことができないということなんです。
 さっき、ちょっと話がそれてしまったんで、言わなかったんですけれども、人間が、体の前と後ろがあるということが、裏と表があるということが、人間というものの構造上、非常に大切なことなんですね。しかも、人間行動の成り立ちが、裏から始まっている、後ろから始まっているということが、これが、今、まだ、みんなが気がついていない。しかし、人間を理解するために非常に大切なところなんじゃないかというふうに思うんですね。だから、そこのところを、私たちがどうやって、障害の重いお子さんから、何もできないとか、頭の中が壊れているとか言わないで、そういう障害の重いお子さんの中から、そういうところを見通すことができるかということ、これが非常に大事なところなんですね。
 そして、さらにもう一つ、呼吸というのが、その子どもが、いつも非常に大事にしているんだけれども、これは何のためかと言うと、自分で刺激を作るためなんですね。それで、自分で刺激を作る、自己刺激というのは、非常に人間らしい大事なことなんです。他の生物と比較してはいけないかもしれないけれども、他の動物が全くしていないで、人間だけがしていることなんですね。要するに自分で自分にいちばん適した刺激を作る。外側にたくさん刺激があるからかまわないじゃないか、それを拾えばいいじゃないかというふうに思うかもしれないけれども、外側の刺激を拾ったのでは、その人自身が納得がいかないんですね。なぜ納得がいかないかと言うと、その人自身の行動のどこかの部分が、きわめて受け身になっているわけなんです。
 今、志賀さんのお母さんがおっしゃったけれど、施設に入ってポーッとした顔をしているというのは、実は本当はポーッとしていなくて、わざとポーッとした顔をしているんだと、そういうふうにお母さんもおっしゃている。そういう日常生活の中とか、食事のこととか、昨日の真央ちゃんの発表じゃないけれど、結局は、哺乳びんで飲んでいるというふうに見えるんだけれど、それは、ものすごく自分を受け身にして食事をしていることなんですよね。そういうふうに自分を受け身にしている時に、それに見合った刺激がないと、バランスがとれなくなってしまうわけです。それで、自分で作れる自分に最適の自己刺激というものを工夫して考え出して作り出すわけです。だから、自分をたたく自傷にしても、それから歯ぎしりをしてキキキキってやることにしても。
 これは、ちょっと言っておかなければいけないんだけれど、もう一人お母さんに提案者になっていただくように頼んだのだけれど、そのお母さんにみごとに振られてしまったんです。それがこの歯ぎしりの問題なんです。そのお母さんが、ふと、歯ぎしりを明け方の4時頃必ずするようになって、それでうるさいから口にタオルを入れると言って、それをいけませんとかいうふうに言って、それを、今度越谷に行ってしゃべったんですね。それをしゃべったのが文章になって、その文章が岩魂に書いてあって、それをそのお母さんが読んで、がくっとなってしまって、それで、申し訳なかったんですが。本当は、そのお母さんは素晴らしいお母さんで、とても子どもを大事にしているし、もし研究所に優等賞というのがあったらぜひ差し上げたい立派な方です。そのお母さんはとても研究所が好きで、毎月きちんと子どもを研究所に連れてくるんだけど、学校の先生がとても不思議がるんですね。何で研究所へ連れていくのかと。すると、そのお母さんは、研究所へ行くと、この子が一人で椅子に座って背筋を伸ばす、ただ、それだけなんだと。だけど、それがすごく素晴らしいとおっしゃるんですね。だから、研究所へ連れていくのだと。そう言うと、それを聞いた学校の先生がぽかんとしているらしいんですね。つまり、そのお母さんに見えている子どもの素晴らしさが、先生が聞いても、何だそんなことに、となってしまうわけです。これは、それぞれの立場がいろいろあるわけですね。
 立川談志という、これは落語家なのか、それとも人の悪口を言う専門家なのか、どっちかよくわかりませんけど、国会議員になったことがあるんですけれども。テレビへ出てきて、国会は何のためにあるか、国会議員になって初めてわかったんですって。国会というのは、国会議員のためにあるんですって。国会は国民のためではありませんって。それで、今度、続けて、学校は学校の先生のためにあるんだって。それで、どこが何のためにあるかと言って、テレビは芸能界のためにあるとかいろんなことを言ったんだけど、その中で、学校は学校の先生のためにあるというのが、僕は頭にぐうんときて、これを学校の先生が聞いたら、談志は殺されるんじゃないかなと思いました。確かに、病院は病人のためでなく、そこで働いているお医者さんや看護婦さんなどのためにある。ちょっとよく言っても医学のためにあるので、病人のためにあるのではない。そういうふうに思ったんだけど、また、談志がペラペラペラペラ次から次へ言うんですね。だけど、だいたいそういう機関というのは、機関で働く人のためにあるのは確かですね。だから、この研究会や研究所が障害の重い子どものためにのみあるというのは大事だと思いますね。親のためとか、先生のためとか、僕たちのためとか言うのは、その次でね。障害の重い子どものためにこの研究会がある、研究所があるというふうに考えていただければ、非常にいいのではないでしょうか。
 それで、そういう積極的な状況になってくると、外界の刺激を取り入れるわけですよ。そして、何でも自分で直接的に調べてみよう、考えよう、自分で組み立てようというふうにして、外界とだんだんだんだん交渉を持つわけですよ。だから、そういう意味で、内へ閉じこもってしまって、受け身にして自己刺激を作るのも人間だけど、やたらに外界へ出ていって、外界を組み立てて組み換えようとしているのも、やっぱり人間なんですよね。だから、その二つの面を持った、押したり引いたりしているその一つの塊が人間なんですね。
 そこのところをよく見定めていくと、私たちが障害の重いお子さんとかかわり合っているというところの大切さというものが出てくるのではないか。そして、そういうことに気がついていくと、やっぱり、人間、生きていてよかったと思うし、生きているということのひそやかな楽しみみたいなものもたくさんあるんだということもあるし、それから障害の重い子どもに対する見方というのもやっぱり変わるのではないでしょうか。そんな、一方的に駄目だとか、いつもそんな情けない気持ちで子どもを見ているわけにはいかないのではないかしら。やあ、これはすごいなあと、思わず見とれて感心して、こっちがよだれを垂らしてしまっているということもたくさん起こるんだと思うんですね。そういうこちらから働きかける、あるいは、向こうの動きが生じて、こちらがじっとしているうちに向こうから働きかけてくる、そういうところで何か浮き上がって、一つの実体みたいなものがきちんとしてくれば、もう少し、ちゃんとした事柄が相互に行われるようになって、ちゃんとした話し合いができるように、だんだんなってくるんじゃないかと思います。だって、こんなめちゃめちゃなことを言っているのに、この夏、研究会や研修会なんか、非常に多いのに、これだけのたくさんの人がこの会場へこれだけ集まって下さるということは、やっぱり物好きというのがいっぱいいるということを示しているんで、それで、物好きというのがいなければ、社会というのは進歩していかないんですよ。だから、われわれは、社会の進歩のために、他の人から見ると、少し変わってるんじゃないかというふうに思われるように努めているわけです。そういうふうに考えれば、井戸端会議所と、別称ですね、別称井戸端会議所というのも設立の意味が一つあるのではないかというふうに思いますね。
 やっぱり、僕は、お母さんやお父さんの話を聞いて、切々とした胸のうちもよくわかったけれど、やっぱり明るい、強い、より深いお父さん方やお母さん方の気持ちも、一つわかったから。そういう点で、私たちがお互いに支え合っているんで、もうすでに支え合っているわけです。だから、田辺さんは、これから支えるとおっしゃっているけれど、もうさんざん人を支えているんだから、もう結構だとは言わないけれど、今ぐらいでたくさんですと言いたいところです。もう十分人を支えているから。お互い、支え合って、来年再来年とがんばっていくというようなことで。
 えらい、ちゃんと5分前に終わりました。
 今日はこれをもって研究会を終わりにしたいと思います。どうも皆さんありがとうございました。どうもお父さんお母さんありがとうございました。