人間行動の成りたちの基礎となる人としての感覚と運動

─第12回九州重複障害教育研究大会におけるビデオ講演─

                        平成5年8月16日
                         中 島 昭 美

 熊本の皆さんこんにちは。これ何日にやるんですか。16日月曜か、17日火曜のどちらかですね。今年もまた、私ビデオ録画を頼まれましたので、これから録画をします。毎年一人で録画するので寂しいので、今日は柴田さんと奈苗さんが、両側にお手伝いしていただくことになりましたので、これをちょとズームしてみます。ズームすると動かない。ワイドにすればいいんですね。こうやってずっとワイドにしますと、奈苗さんと柴田さんが、ちゃんと両脇にいるわけです。
 お菓子がここにあるので、食べる? ちょっとお菓子を食べて喉をうるおして、それからやります。ですから、ビデオ見ている人も、何か持っていたら 食べて下さい。何も持っていない人は、がばちょと寝て下さい。あっ、これはおまんじゅうだ。これを、じゃあ、またズームにして、どんなお菓子かを。こんなお菓子です。下らないね。お茶もあります。
 台風がとうとう温帯低気圧になったのかな、まだそれとも北海道に行って頑張っているのかな。いずれにしても、午後から東京は晴れています。何か九州は今年は、台風の通り道で、でも熊本があまり被害があったということは聞きませんけれども、鹿児島、宮崎、それから大分もやられてしまったらしいですね。もし被害があったら、お気をつけになって下さい。何か、今年は冷夏だと言いますけれども、今日あたりは30度を超えていますから、これから1週間くらいは暑いのではないでしょうか。ちょうどこのテレビをご覧になっている時、熊本は夏まっ盛りかもしれませんね。
 そうだ、広島、負けちゃったよ、西条農業。熊本はどこが出ているんだろう。初出場かな。
 このくらい画面がワイドになっていれば、皆さんが食べてておかしくないね。
 というわけで、これから始めます。本当ですよ。これから始めますよ。そうそう、一応、進さんの全国大会で発表したビデオも途中で入れますので、45分、録画することにします。したがって、45分というところにこのタイマーを合わせればいいわけです。ここでスタートします。これがまた、すごい音がするんですよ。これを後ろに貼っておきます。45分たつと、もうおしまいと出ます。
 それで、まあ一応、重複研の21回の全国大会が終わりました。大会2日目に進さんに話をしていただいたわけですね。進さんの話はとてもよかったんだけど、やっぱり会場の人が十分に理解できたかどうかというところが、ちょっと問題があるんですね。柴田さんが、どういう印象を持っているか、せっかくここにいるから、聞いてみましょう。大会全体でもいいし、進さんの発表、どっちでもいいです。
(柴田)進先生の発表で、いちばん印象的だったのは、お子さんが足を非常に上手に動かすようになったということです。その時の動かす様子はビデオで拝見したので細かいところはわからないのですが、方向とか力の入れ方とか、上半身とのバランスのとり方が非常にうまいんだろうということは、よくわかったんです。もう一つ驚いたところは、その足の動きが出るまでの一連の経過があるというところです。足の動きが非常に印象的だったので、最初、反応があまりないというところの印象をかえって覚えてないのですが、確か、最初ほとんどいろんなところを動かしていないところから、進先生が少しずつ足などに触っていくことを通して、徐々に反応が起きてきたと思うのですが、そのプロセスも、とても印象的でした。日頃、自分が接している子どもたちは、そのプロセスがある程度わかったような気になっているだけに、こうすれば足が動くだろうみたいな慣れのようなものがあって、進先生の映像のように、どこから働きかけていいかわからないようなところから、いろんな試みをしているうちに、劇的に驚くばかりに変わっていくという場面には、そんなに出会えないので、非常に、印象的でした。
 研究会全体については、自分たちが発表したことについては、それなりにみんな言えたと思うのですが、発表した者同士や、会場でどんなふうに感じられたかというところをゆっくり聞けるような時間がなかったのは、今年も不満が残りました。しかし、いろんな人が、ビデオの子どもの様子に感動したというような意見は、飲んでいる時などに聞いたりもしましたので、いろいろ伝えることはできたように思っています。後は、どのようにやりとりをしていけばよいのかというところが、毎年悩むところですが、今年は特にやりとりをしなかったなという思いが残っています。

 今、柴田さんが話をしてくれたように、進さんがせっかく一生懸命発表しているんだから、重い子どもを一生懸命やっている人にはわかるんですね。だけども残念ながら、会場に来ている大半の方は、ただ進さんが、足をごそごそこすって、そして、長い間いつまでもこすり続けて、そして、足と口をこすって、それでもってそのうちに子どもがわっと騒ぎ出すほど反応が大きくなったので、こすりすぎだし、そういう子どもが反応を起こしたのは、ごく偶然に違いないし、それからそういうことをして刺激して、子どもに反応を起こさせるというのは決していいことではないんで、ある意味では子どもにかわいそうなだというような、折角のビデオを見ていて、そんな考えだから、どうにもならないと言えば、本当にどうにもならないんですね。
 ここでちょっと進さんが、会場でどういうふうに発表しているかというビデオの録画を入れます。

            (進先生のビデオ)

 というわけで、今、進さんの発表を見たんだけど、やっぱり、柴田君が言うように、毎回、同じように同じところを同じ力で進さんが触っているわけではないんですね。やっぱり、足の裏を触るにしても、どこを触るかどんな触り方をするか、どのぐらい力を入れるかということは、よく子どもに聞きながらやっていることなんですね。だから、毎回毎回、同じことをやっている、ただ足を触っているんだと、そういうふうに勝手に決めつけてしまうと、本当にそういうふうに見えてしまうかもしれないけれど、話はもっと実に微に入り細に入っていて、どういう反応を起こすかということを、子どもに聞きながら、こちらはそれに応じて対応がだんだんと深まっているということなんですね。
 どうも医学にしても教育にしても、すでにやり方が決まっていて、こういう病気の時には、こういう治療をするんだと、もう有無を言わさないわけです。教育の場合にも、何とか療法というのがあって、もう前もって療法が決まっていて、こういうことをして相手がこういうことをしたら、この次の段階ではこういうことをするというふうに、もうプログラムみたいにやり方がきれいに設定されているわけです。こうすれば必ずこうなるという、はじめから一方的な決めつけのかかわり合いになってしまっているのです。
 だけど、具体的な問題は、子どもとかかわり合って、その子どもの反応に応じて、いつもこちら側が考えて、新しい新鮮な考えを持って、ああそうか、こうか、ああか、こうかというふうに工夫してやっていくわけです。あらかじめは駄目です。つまりこちらの働きかえに応じて、ある程度予測があるんでしょうけれども、そういうこちらからの働きかけというものに応じて、相手がどういうふうに応じてくるか、そこが問題なんですよ。一応、私たちがこういうことをすれば相手がこうなるんじゃないかとかああなるんじゃないかとかいうような予想があって、その予想が崩されるところがおもしろいんで、予想通りに相手が反応するんだったら、こっちはやり方が機械的になってしまうし、相手のやり方も非常に受け身になっているということなんですね。こちら側の働きかけに対して、子どもたちがいつも私たちの予想を越えたすばらしい対応をしてくれるので、驚いたり、喜んだり、感心したり考え込んだりしているうちに、私たちも新しい、よりその子どもにとって適切な働きかけが工夫できるのです。
 そこのところを私たちがもっとよく考えて、きちんとした考えに立ってやっていかないと、ただ、足をこすったとか、口に触ったとか、そういうようなことばかりになってしまって、進さんが、何を考えて、どういうことをしようとしているのかという本当の意味というものが出てこない。進さんの工夫や考えの深さがわからない。
 進さんみたいな慎み深い方は、自分が相当よくわかっていても、決しておっしゃらないわけです。ペラペラしゃべらないわけです。どっかにペラペラしゃべる人もいるけど、いや、そんなことない、そんなことないですね。
 これは、非常に大事なところで、ただ機械的に繰り返し繰り返し同じことをしたらお互いにすぐ飽きてしまう。一回一回がとても新鮮なんです。そして、いつもこちらが工夫して働きかければ働きかけるほど、向こうが予期通りの反応はしないということ。だからこそ、こちらがいつも新鮮で、新しく工夫して考える余地があるということ。そして、いちばん大事なことは、子どもが何をしているのか、子どもが何を感じて、どう考えて、何をしているのかということを、そういう働きかけの中で、こちらがうまくつかみとっていく、子どものすばらしさが見えてくる。ここが大事です。ここがわからなかったら、かかわり合いが全然おもしろくないし、意味がなくなってしまうわけです。何でもかんでも、プログラムになって、機械的になって、やらせになってしまうわけです。治療や療法になって、そして決めつけばかりになってしまうわけです。そんな足の裏と口のまわりを触ったら、やがて子どもが騒ぎ出したというようなことではないんですよ。魂と魂との出会いであり、とても深い人間理解の積み重ねなのです。
 人間行動の成り立ちのきわめて基本的ないちばん大事なところに問題点があって、仰向けで寝たきりの子どもというのは、今までは医療的な処置が非常に濃くて、もう押さえつけられて、これは、考えようによって、医療というのは何と言っても、もし病気を発見して治療しようとしたら、やっぱり安静なんですよね。それから、その病気の箇所をできる限り集中的に攻撃するということなんですね。そういうことで考えると、なるべくその人が動かないで受け身になっていてもらいたいという、そういうことが医療行為の中で非常に大きな部分を占めているわけです。だから、われわれが病院に入っていると日常生活を失っていやになってしまうわけです。そういう障害の重いお子さんというのは、生まれて初めから医療と深い関係を持ってしまって、病気がどんどんどんどん発見されて、その治療に手間暇がうんとかかるわけですね。その間に、どんどんどんどん日常の行動的な状態というものが受け身にさせられてしまうというということなんですね。
 だから、そういう障害の重いお子さんを見れば、どのお子さんの場合でもよくわかることは、いつも仰向けで寝たきりで、目はうつろ、それから、こちらの呼びかけに対してはびくともしない。そして、ほとんど体を動かさないで寝たきり。これはきっと病気がうんと重いに違いない。脳にめちゃめちゃな障害があるに違いない。そして、これはもうただ呼吸をしているとか、ご両親や看護婦さんやそういう人の世話で、食事とか大小便は何とかして、最低限の命を維持しているに違いないと、こうなってしまうわけです。
 だけども、やっぱり進さんのビデオを見てもわかるように、そういうふうに私たちがその子を追いつめてしまっているというふうにも考えられるわけです。それは、病気の治療のために医学が活躍することも非常に大変結構なことですね。それから、その人の発達を促すために、心理学の先生方がいろいろなことを言うことももちろん結構ですよ。しかし、いちばん大事なことは、そういう障害のきわめて重い、そういう寝たきりの何もしない何もわからない、ただもう生きているだけが精一杯というような、そういうふうなお子さんであっても、その子の魂は輝いているんだということです。だから、その子は、その子なりにちゃんと感じて考えて、行動を引き起こしているんだということです。本来純粋に生きているということは、その人がその人らしく輝いているということなので、このことは人間理解の第一歩でとても大切なことなのですが、いつの間にか見失われている。そこで大声で「魂が輝いているじゃないか。よく見てみろ。」と直接叫ぶか、進さんのようにビデオを見せて明示することが必要なのです。
 子どもたちはどういうふうな行動を引き起こしているのか。それは、きわめて私たちが目に見えないようなところに、ある種の反応を起こしているわけです。どっちかと言うと、体の前と後ろというのを考えると、体の前に対して、後ろ側なわけですね。だから、体の前に対するような刺激というのは、みんなその子はどっちかと言うと、受け止めないわけですね。だから、目をうつろにする。うつろにしても間に合わない時は、目をつぶってしまう。それから、前の方の刺激というものをほとんど受け止めないわけです。仰向けで寝ていて、これも面白いのですが、呼びかけなども、もし、真上から顔を近づけて呼びかけたら絶対駄目なんですね。隣の部屋から小さな声でぱっと呼びかければその子はそちらへひょっと体を動かすというというようなことは、これはいくらでもあるわけです。いわんや、もう後は、仰向けで寝ていてふとんの中にいるから、その子が足をどんなふうに動かしているか。手はわかるかもしれないけれども、その子の腰とか、背中や肩、その辺はどうなっているかは全然わからないわけです。全然見えないから、たぶん何もしてないんじゃないかということになるわけですね。
 そういうお子さんに、一つは皆さんはじめからものすごいあきらめを持っているわけです。もうこの子に何をやっても決して応じて来ない、駄目なんだと。あるいは、こういう障害の重い子にいろんな働きかけをすることは、その子の心を乱すことになってかわいそうだと、だから、なるべくそっとしといてあげた方がいいと、そして、その子の思う通りにしておいてあげた方がいいというふうに考えるのと、それから、もう一方、働きかける時にはいつも急に抱き上げたり、それから急に声をかけたり、その子に目の前で物を見せつけたりというふうにして、その子が前の目や手への刺激を受け止めまいとしているのに、その前の刺激をうんと使おうとして、しかも、その子が、音に対して非常に敏感なのにきわめて大きな声で呼びかける。べら棒に強い大きい刺激を与える。そして、今度抱き上げて背中をポンポンポンポンとめちゃめちゃにたたくというふうにして、そっと静かにして何もしないで、その子をずっとそのままにしておいた方がいいという考え方と、それから、今度いったんかかわり合ったら、めちゃめちゃに自分の思い通りに、何でもかんでも理屈なんかどうでもその子の意識をはっきりさせようという気になってしまって、主として目や手や耳に無理に反応を引き起こさせるために、とんでもない強い刺激を考え出して与えるという、もうめちゃめちゃに働きかけるという、その二つのやり方を交互に繰り返すから、状況はますます受け身になっていってしまうわけです。
 だから、その子の運動は受け身になってくるから、体の後ろの方でできる限り少しの部分を使って、小さな運動をほんの少しずつするということで、ちょうどその子自身が、受け身の状態と、そういう自分で刺激を作っていく状態とのバランスをとっているわけです。
 それが、脳が壊れているんだとか、息がたえだえだとか、それから、もう生きているだけなんだとかいうふうに、こっちが勝手に決めつけてしまって、それで、一方的にやるわけです。折角の人間理解の機会を見失ってしまうわけです。生命の輝きが見えてこない。
 だから、進さんが、足を触っているのも、ごしごしこすっているとか、口に触るのは、わわっと口に触っているとかいうふうに言うのは、自分がしょっちゅうそういう無茶なやり方をやっているから、自分たちと同じようなやり方で、進さんもやっているんだというふうに思うわけです。だけども、その子自身が、外界との関係をできるだけ断ち切ってしまって、それで、その子自身が自分自身を極端な受け身の状況にして、今度、後ろの背面にへばりつくように自分の体を押しつけて、そして、その運動で、本当にかすかな自己刺激の中で、繰り返して、そういう微細な自己刺激の中で、その人自身の命を燃焼させているというそこの素晴らしさになぜ気がつかないのか。そんな簡単なことがどうしてわからないのか。何か、やっぱり決めつけ、ひょっと見てこうだというふうに思うその人自身の思いこみ、そして、それに輪をかけて、医学だとか心理学だとかいうのが、どんどんどんどんその考えをうんと助長してしまうということなんですね。植物人間だとか、三無主義(無表情、無反応、無感心)だとか知ったかぶりして、人間理解の第一歩、魂と魂との感動的な出会いが起こらないようにしてしまうのです。
 だから、今度、進さんがせっかくそういうふうにして触っていって、その子自身の運動の自発というものが起こって、その子自身が目がぱっちりしたり、それから足で蹴飛ばすような反応が起こると、これはみんな偶然だと言い出すわけなんですね。ある意味では単なる興奮にすぎないというふうに言うわけです。生理学的な反射だと決めつけてしまう。人間行動の成り立ちの基本的ないちばん大切なところというのが、全く見えてないわけです。そして、ただ、常識的なうすっぺらな解釈というものを信用してしまって、その中で安住していて、そういう障害の重い子どもは、もう病気で脳の中が壊れてしまっているのだからしょうがないという考え方にこり固まってしまっている。どんな子どもでもその子なりの行動の様式というものがあって、そして、特に障害が重くなれば重くなるほど、その意味で非常に微細な正確な隠された澄み切った素晴らしい姿というものが、その裏にあるんだということ、その底にあるだということ、そういうことが理解できない。そのためにせっかく進さんが考えてやっていることの意味というものが理解されない。足の裏を触るとなぜ口が動くんですかとか、口を触るとなぜ足が動くんですかとか、そんなつまらないことばかり言っている。
 足の裏と口とは非常に関係があるわけですね。その人自身が後ろの刺激というものを使って、後ろに運動を起こしている時に、どっちかと言うと外界と関係を断ち切っていくわけです。そして、自分の運動の中で、自分で底面に自分の体をこすりつけて、それである種の自己刺激みたいなものを作り出して、ほとんど体を前を主とする外界と関係しないような状況にしてしまっているわけです。後ろの刺激というのは極めて触覚的な自己刺激的な刺激を作りやすいようにそもそもなっているんです。したがって、外界との関係を断ち切っていかれるわけだけれども、私たちがもし外界と関係を作っていくと言ったら、どこから作っていくのか、これがわからなければ、人間行動の成り立ちの根本というものが出てこないわけです。そして、それが足の裏と口なんだ、そういう外界とその人との接点というものがそこにあって、関係のつき始めというものが足の裏と口なんだということなんですね。足と口とが初めての外界刺激の積極的な取り入れ口としての大きな意味を持っているということです。
 今の教育の中で足の裏と口というものを問題にする教育が全然ないんですよ。せっかく全員就学になってきて、障害の重い子どもを学校教育の中に組みこんで来たにもかかわらず、ただ、訪問教育にするだとか、教育的な処置をどうするだとか、そういう子どもに対する時の接し方の心得とか、それから、何か突拍子もないハウトゥー式みたいなことばかりになってしまって、一つの輝いている魂と出会うのだといういちばん大事なことが全く言われていない。障害の重い子どもと学校教育とのかかわり合いというものがもし起これば、それは一つの輝いた魂と出会うことなんだといういちばん基本的なことが出てこないわけ。つまり、私たちが、人間行動の根源とは何かということを改めて私たち自身に思い知らされるそういうきっかけとしての意味がきわめて大きいんだということなんですね。足の裏と口とが教育の始まりなのだということです。ただ、何もわからないで息たえだえでぽうっと生きている子どもたちをどうするかという、そんなつまらない問題じゃないんだと、そこにちゃんとその子自身のやり方というものがあるんだと、そういう感じ方、考え方、運動の組み立て方というものは、実は人間の始まりなんだということ。
 例えば人間の始まりというのは何か、これは仰向けで寝ていることなんですよ。それが教育の中に出てこないわけです。だから赤ちゃんを、何気なく仰向けで寝かせるわけです。最近は、仰向けで寝かせるよりは、うつぶせにした方がいいとかいうことをさかんに言っているけれども、それはいちばん最初は仰向けに寝かせるということを前提にして言っているわけです。初めからうつぶせにはしないわけです。だから、人間がなぜいちば最初に仰向けの姿勢をとるのか、その大きな意味、そして、その仰向けの姿勢をとらない限りは、人間行動が成り立たないということが人間理解の第一歩なんですね。
 だから、仰向けの姿勢というのは私たちの存在の根本として非常に大事だし、それで仰向けの姿勢によって起こっているところののけぞり、それに自分の体の床面への押しつけ、そういうものから、初めて背すじみたいなものが一つ出てきて、肩幅ができるという話は、実は夏の全国大会の第1日目の「三つの面と二つの軸」というところで話し始めたわけですけれども、いちばん最初の仰向けの姿勢の意味、そして仰向けの姿勢でそういうお子さんたちが何をしているのかということですね。そして、そのことから新しい人間行動がどう組み立っていくのかということ。そして、その新しい組み立てということとして、もし人間の前と後ろということを考えれば、主として後ろを使っていた子どもが、前を使い出す。そして、主として自己刺激で自分を受け身にしていた子どもが、だんだん自分を受け身から解いて、外界と関係を持って、そして、新しいその子の運動というものを外界の刺激の受容を基にして組み立てていく、そういう自己調整系の確立のプロセスの土台として寝たきりの姿勢が基本的な役割を持っているということ。そこで、初めて足の裏とそれから口なんです。
 だから、足と口というのは、人間の初めての外界の受け入れ口として非常に大きな役割を持っているわけです。人間行動の成り立ちの初期において両者の関係は非常に強いわけです。だけど、足を触ったら口が動くとか、口を動かしたら足を触るとか、そういう機械的なものじゃないんですよ。進さんのテレビを見ればわかるように、足を触れば、やっぱり、目を開くんですよ。今までうつろだった目が輝いてくるわけです。もちろん口の動きも達者になるけれども、つまり、口をモグモグさせたり、唇を開いて舌をだしたりするけれども、まず目の輝きみたいなものも出てくるわけです。その人が外界と接点を持って、どっかである特定の部分を使って、外界とつながっていくと、他の体の部分も、それじゃあおれもやろうと言うんで、だから、だんだん手もそういう意味で動くようになるわけです。それから、体全体もただ後ろへのけぞっているだけじゃなくて、もう少しいろんな左右の動きや、前後の動き、それからひねりというものが自発的に起こってくるわけです。進さんのあのお子さんが足で蹴飛ばしているところもおもしろいんだけれども、体を自分でひねっているところもものすごくおもしろいんですよ。
 運動の自発によっておこるその人自身の感じというものは、だんだん体の部分を使ってある感じ方、別の部分を使って別の感じ方、つまり、それぞれの体の部分を使って、新しい感じ方というものを作って、いろんな新しい感じ方に基づいて、あるいはいくつかの新しい感じ方をつなぎ合わせて、新しい運動の組み立てをしていくところの人間行動の成り立ちの素晴らしさ、そういう素晴らしさというものが、もし見えてこないと、障害の重いお子さんを、ただいじくり回してしまって、ますます障害を重く見せかけてしまって、見せかけの重さだけどんどんどんどん増していってしまうということになるわけですね。
 お医者さんもする、親もする、学校の先生もするというふうに、みんなしてよってたかってそういう見せかけの重さばかりごんごんごんごん増してても仕方がない。そうして、この子は障害が重いんだからどうにもならないといっていても駄目です。もう少し、私たちが、そういう障害の重いお子さんに対する接近の方法というものを慎重に考えて、特に人間行動の成り立ちの根源というものを、その人なりによく考えて、単なる医学的知識や常識では駄目だということに、気がついて、そして、自分の常識がまちがっているんだということをまず前提にして、そして、相手にかかわり合っていくと、実に相手が予期せざるようないろんな反応をしてくれるわけです。そして、そういういろんな予期せざるような反応にいちいち驚いて、そしていちいち不思議に思って、いちいち考え直して、そしていちいち新しく考え、工夫していって、そして、また、その子とかかわり合っていくということにおいて、だんだんだんだんかかわり合いが深まっていくということが大切なんじゃないかというふうに思うわけですね。
 えっと、これ、後何分だ? 後、14分ある。
 さらばですね、ちょっと14分では、少し出てしまうといけないけども、この前の方ということで、話を進めていくと、どうしても、人間が体を起こすということに問題点が移ってくるわけです。そして、結局は、垂直軸というところなんですね。これが、人間行動の成り立ちの、またきわめて根本的な問題点なんで、いずれにしても、もし仮に、本当は、底面というものが平らというわけにはいかないかもしれないけれども、もし仮に、底面というものが平面だとして、そして、その平らな面に、こういうふうな(ペンを机の上に立てて)垂直の軸を立てようとしたら、本当にむずかしいことなんですね。(カメラをズームにして)こうやったわけです。こうやってまっすぐにすると、こう立つでしょう。だけどこれでは人間が体を起こしたということにならないんですね。これではちょっとしたことで、すぐ倒れるから危なっかしい。ここに人間が体を起こしていくプロセスをもっとちゃんと考える必要があるわけです。



 人間の体の起こし方を考える時には、い
つも、考えなくてはいけないことは、二つの部分ということなんですね(板書)。だから、人間行動の成り立ちというのは、二つの部分ということを考えていかないと、うまくいかないわけです。ここで、いちばん考えなくてはいけないことは、前と後ろ、それから上半身と下半身ということですね。もう一つ入れるのだったら、右と左ということ。こういう二つの部分をまとめるということを考えなくてはいけない。この場合だったらまとめるものは回転なんですね。これが、垂直主軸、人間行動の中で、その人が体を起こしていくための垂直の主軸。
 だから、こういうふうに頭が上にあって、こういうふうに一本の棒、つまり直線になって。だけど、人間の体の起こし方はこれではないんですね。このシャープペンシルだったらこういう感じなんです。まあ、頭の上にもっと重い物をのっけておいても結局は同じことだけどね。(図@参照。)
 ここに、腰があって、足が出ているということですね。(図A参照。)そして、どっちかと言うと、前の方から体を起こしている。(図B参照。)ということを全国大会で真央ちゃんのビデオを見せながら、皆さんに話したわけですね。この上半身と下半身ということで、前の方からですね。


 だから、よく、前に机を置くと、その机にうつぶしたり、倒れこんだりしているというのは、もしそういうようなことが起こっているとしたら、しめたものなんですね。それは、その人が、こういうふうにつっぷしているからぐっと起こそうなんて思う必要はないわけです。もっとつっぷすように逆に押しつければ、その人がいやがってこういうふうに自分で起き上がってくるわけです。なぜなれば、下半身というものあるわけです。だから、こういうふうに前にいくらいったって、だんだんだんだん姿勢的に、バランスがとれなくなってしまうわけです。だから、後は、下半身の踏みこみをやれば、自然に自発的に上半身が起きていくのです。
 つまり、いつも直接的に考えないで、二つの部分を使って、そのバランスの上でだんだん主軸を構成していくのだから、片一方だけ考えては駄目。必ず片一方の運動は、片一方の体の部分の反対の運動と対抗しているということ。そういうふうに考えれば、例えば、一つの運動は、その運動と対抗した運動がある。それから、その一つの運動に、さらにもう一つ体の部分が働けば、今度、この運動と対抗した運動が体の別の部分にもう一つあるということになるわけです。これが、人間が体を起こしていくために、非常に大事なんですね。したがって、人間は体を必ず前から起こしていくわけです。
 ハイハイなんていうのも、何で突っぱりがおこるのか、あれは刺激が前にあるから。あれが後ろになってしまったら、後ろにべたっとくっついてしまうわけです。ところが、刺激が前の刺激になるから、前の刺激に対しては、こういう(肘を伸ばした腕全体の)つっぱりが出てくるわけです。それは何かと言うと、外界と自己との間を作っていくわけです。だから、後ろの刺激というのは、外界の中に自己が沈みこんでいくというか、そういうような感じなんです。それに対して、むしろ前の方の刺激というのは、外界に対抗して、自分の方がきちんとした姿勢を、外界に対して向き合って、ちゃんと対面した姿勢を保っていくということなんですね。だから、もし、前の方へ倒れかけているのだったら、全く心配はいらないわけです。どうしても後ろへのけぞってしまうというのだったら、これはやっぱりちょっと心配がたくさんあるわけですね。そういう時に、下半身とか口というものをもっとよく考えていかないと、のけぞりに対抗できない。下半身の踏み込みと口に対する適切な刺激を工夫しないと上半身がもっと前傾しないわけです。
 そして、ちょっと話が飛ぶんで申し訳ないけれども、そこに手と目というものが参加することによって、ますます前へ前へとくるわけです。前の刺激というものが、手によって作られるし、それから前の刺激というものが目によって作られるわけです。まあ、手の場合には、脇の方までずっと触ることが可能だけれども、目というのは本当に後ろを見ようと思ったら振り返るほかはないわけです。だから、後ろを見ようとしたら、今度見た方が前になってしまうわけですね。要するにいつもある角度をもって前方しか見てないわけです。目は全く前の刺激なんです。手の刺激もそうです。手の刺激も前なんです。
 そして、そういうふうに前の刺激に対面し、間が成立して、その間を手や目でつなぐことによって外界を確定することによって、その人自身の主軸というものがだんだん安定してくるわけです。つまり、この体の二つの部分(板書参照)で、主軸を安定させていくということは、あくまでも自己の中の内部の状況でやるということなんですね。外界と関係ないわけです。ところが、それでは本当の意味で主軸は安定してこないわけです。だから、もっと主軸を安定させるためには、その人自身が前に刺激をその人なりに組み立てていく。その手の組み立てというものは、あくまでも、机の面みたいな平面的な組み立てなんですね。それに対して目の組み立てというのは、ちょうど映画のスクリーンのように、垂直の面の組み立てなんです。
 こういう面というものが何を意味しているのかと言うと、外界とその人自身の出会いの接点なわけです。そこに接点を置くと急に外界が浮き上がってくるわけです。そして、その人自身がうまく組み立てた外界として自分自身の調整に役に立っているわけです。そういう意味で、そういう水平面にしても垂直面にしても、主軸から、そういう面を組み立てていくということが、人間行動の成り立ちの根本なんです。進さんのビデオの子どもたちが口や足で外界刺激を取り入れている。そして、今度取り入れたことによって、前の刺激の受容にもとずいて体の部分のまとめ直しをして新しい運動の組み立てをして、垂直主軸を作っていく。そして、この垂直主軸によって、前の方に水平面と垂直面を作っていく。その水平面と垂直面を作っていくことによって、より自分自身の主軸を安定させるということなんですね。さらに言えば、そのより安定した主軸によって、外界に働きかけてより安定した新しい空間を構成して、その空間的に構成された外界をもとにして、ますます安定した自分自身の主軸を調整するということの繰り返しになるわけです。
 つまり、外界の刺激というものが、その人自身に浮き上がるということが大事なわけです。そういう浮き上がる方法というのは、二つあって、一つは、その人自身が体を動かすことによって、まあだから本当に歩いていったり実際に前後したり、主軸を動かしたりなんかしてもいいんだけれども、体幹を動かしても足を動かしてもどこを動かしてもかまわないんだけれども、いちばんはっきりするのは、ちゃんと座って手を動かす。これが、人間行動の水平面を作るということに非常に大切な役割を果たしているんですね。ここに、人間というものができ上がってくるわけです。そして、底面から離れた水平面というものが一つでき上がって、その面が外界とその人との接点になって、刺激をうまく集約して浮き上がらせているわけです。だから、その人自身が手を使って外界に触ることによって、その人自身に、整理された外界というものが浮き上がってくるわけです。
 ところが、目というのは、どういうふうかというと、どっちかと言うと、その人自身の体を動かさないわけです。むしろ外界の方が動くわけです。外界の方が動いて、体の軸を動かさないで目だけ動かしていることによって、外界の方が動いて、外界の方が浮き上がってくる、そこの接点としてスクリーン状の垂直面があるわけです。
 だから、その人自身が積極的に動くことによって浮き上がってくる面と、それからその人自身がどちらかと言うと動かないで、外界が動くことによって浮き上がってくる面というものがあるわけです。この二つが重なり合って、一つの空間というものをだんだんだんだん設定していく、そういう順序というものを考えていくと、だんだん人間行動というものの成り立ちの根本がしっかりしてくるんじゃないかというふうに思うんですね。
 まあ、問題点は動きということなんですね。私たちが動きというものをどういうふうに考えるかということですけれども、ちょっと時間がありません。
 これで一応私の話は終わりにします。どうぞ熊本の皆さん、来年は進さんが、いらっしゃらない。イギリスかどこかにいらっしゃているので、私が取りしきって、研究会をするということなんで、ビデオではなくて、本物に、お互いにお目にかかるということです。その時には、どうぞよろしくお願いします。