お金や権力の空しさを実感して、明日の真実に生きる

─第8回中・四国重複障害教育研究会におけるビデオ講演─

                        平成5年8月21日

                         中 島 昭 美

 広島のみなさん、こんにちは。このビデオは、研究会のちょうど半ばぐらいに映すのでしょうか。お疲れのところでしょうけれど、もう少し頑張って、今日一日楽しく研究会をして下さい。それでは、こちらもビデオを撮り始めます。
 というわけで、5人の方がここにいらっしゃるので、一応、自己紹介かたがた、8月6日7日の両日東京の国学院大学で開催された全国大会の様子などを、あるいは広島の方々に対するメッセージなどを、それぞれ言っていただくことにしましょう。それでは、まず向こうの端から、うちの家内からやってもらいましょう。

(知子先生)初めまして、重複研の中島知子です。広島で、もうこれで大会何回目ですか。会を重ねるごとにきっと内容も充実していることと思います。東京での全国大会で、1日目、すごい大雨だったんですね。それと、新幹線の事故があったんです。これはもうきっと出足が悪くて、あまり人が集まらないのではないかと思っていましたら、全然そんな心配をよそに、皆さん熱心に来ていただきまして、本当に感激いたしました。もしかして、広島も雨や風が吹いたとしても、それ以上に熱心な先生方がお集まりで、きっと素晴らしい会が……。

(中島先生)きっとすごい晴天だと思う。21日にやるんだもんね。もう16日からの週だから、ものすごく晴天で、どちらかと言うと秋風が吹いて、いい気候で、研究会なんかしたくないという感じじゃないでしょうか。

(知子先生)というような予想ですので、ぜひ、素晴らしい会にしていただきたいと思います。どうも。

(中島先生)その隣は、味戸公美さんという、初めてご覧になる方もいらっしゃると思いますけれども若き音楽家です。実は、3月に広島で合宿をした時に、行ったんですよね。たぶんその時にお会いになった方も、何人かいらっしゃるのではないかと思います。こういうよけいなことを言うから怒られるんだけど、東京都の教員採用試験に、落ちました。しかも1次で落ちました。来年も落ちると思います。本人はそのことによってますます、健康となり、体重も増えるんじゃないかと思って、心配しております。それでは、味戸さんにいろいろお話をうかがいましょう。

(味戸)広島の皆さんこんにちは。初めまして。今、養護学校で非常勤講師をしています味戸公美と申します。よろしくお願いします。3月の広島の合宿では、何人かのお子さんとお母さん方とお会いして、いろいろなお話しをして、とても心に残る出会いがあったという感じだったので、都合がつけば行きたかったんですけれども、ちょっと都合がつきませんので、また、来年の3月にはうかがいたいと思っていますので、その時にはよろしくお願いいたします。中島先生がおっしゃったように、採用試験には落ちてしまったのですけれども、やっぱりちょっと勉強するのが嫌いなんで、来年度のことはちょっと考えて、試験のないところに就職しようかなと最近思っています。本当に、障害を持つお子さんと一緒にいることが好きで、そのためだったら何でもするんですけれども、どうも勉強をしなければならないというのは苦手なので、来年度からの生き方をちょっと考えてみたいと思っている今日この頃です。

(中島先生)やっぱり、落っこちたからしおらしいよ。結構ですね。

 じゃあ柴田君の方が先にして奈苗さんがいちばん最後がいいですね。じゃあ柴田さん。

(柴田)こんにちは。当日もすでにお会いしているはずなんですけれども、今、東京です。東京の全国大会では今年は、広島から田辺さんに来ていただいて、いろいろ発表していただきました。敏宏さんとの長い歩みをじっくりと聞かせていただいて、何か、資料など、当日用意できていると思いますけれども、そういう話をしていただいて、他のお父さん、お母さん方からもいろんな話をうかがって、なかなか、お父さん、お母さんが集まって、自分たちの子どもが素晴らしいんだということだけを話す機会というのは、希だと思うので、今年の研究会もよかったなと思いました。

(中島先生)じゃあ、奈苗さん。

(柴田奈苗)柴田奈苗です。広島では、顔見知りの人と、ゆっくり会えるので、今から楽しみにしています。全国大会でも広島、山口、熊本の方々、たくさんお見えになって、また、地元で会おうという約束を交わしました。会うたびに深い話ができるのではないかと楽しみにしています。田辺さんにも、私は初めて聞く話ばかり全国大会で聞かせていただいて、お父さんが本当に息子さんの手のことや、探求心や努力するということを、息子さんのことを自慢というか、感動していらっしゃる姿というのを、話としては初めて聞いて、あらためて感激しました。

 全国大会のアンケートを2、3ここで、読みましょう。

(中島先生)とてもいいアンケートをたくさんいただいて、本当ならもう少したくさん読みたいのだけれど、にもかかわらず、時間がありませんので、適当に奈苗さんが選びました。

(柴田奈苗)それでは、私が適当に選んだのを読みます。ある養護学校の先生ですけれども。
「初めて研究会に参加させていただきました。前々から本会についてはお聞きしたことがあったのですが、やっと参加させていただける機会が得られ、また、大変勉強になり、ありがとうございました。学校で、子どもたちとかかわりながら、どのようにしたら心で触れ合えるかということを思っています。ともすると、大人の勝手な読み取りと一方的なかかわり方によって、子どもたちの本来持っている輝きまでも消してしまいがちです。どのようにして子どもの気持ちを感じ取り、どのようにしてかかわったらよいか、もっと勉強しないといけないと思いました。私たちのかかわりについて、子どもの見方についても、自分よがりな実践ではなくて、もっと研修する必要性を感じます。勉強する上でどのようにしたらよいかというのがあれば、教えていただきたいと思います。また、中島先生のお人柄にふれ、何と心の穏やかな方と思いました。先生のお話もさることながら、また、講義、お話、ぜひお聞きしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。また、スタッフの方々も和気あいあいとして、とても素晴らし運営の様子、暖かいものを感じて帰ります。」
 それから、これは、山口の養護学校の先生です。
「初めて全国大会に参加させていただきました。感想は、全国でこんなに大勢の先生方が取り組んでおられる、自分の言葉で発表されているということでした。また、いろいろな教材を見ることができ、数少ない手持ちの教材に、子どもさんをあてはめようとしている自分を反省させられるとともに、教材作製の意欲がわいてきました。中島先生のお話は初めてじかにうかがうことができ、基本的な心構えから教えていただきました。自発していない人はいないという見方と、おみやげを持って帰るだけでなく、長続きするようにという取り組みがどこまでできるかやってみたいと思いました。お世話になりました。ありがとうございました。できたできないは、こちらの判断基準でしかないのですね。この2日間で少しわかったような気がしてほっとしました。」
今度は父兄の方です。
「初めて参加させていただきました。それぞれの方の研究発表を興味深くうかがいました。担当される方がかかわりの中で深い愛情を持たれていることが伝わってきました。子どもさんが笑うと、一緒になってとても喜ばれる姿に、素直に心開いて接して下さる姿勢を感じ、また、そんなにも喜ばせる力を持っている子どもたちの力を感じました。親や先生だけでなく、この喜びをまわりの方々にもお教えしたい気持ちです。私たち夫婦とも、子どもを抱いているだけで、何だかゆったりとしたいい気持ちになってしまうね、と思っておりますが、子どものまわりだけ、別の時間や空気が流れているようで、私たちのまわりにも、そんな時間が持てる人が増えて下さると幸せです。」
以上です。

 わかりました。それでは、ここで田辺さんが大会の2日目に研究協議の時に、敏宏君も含めて自分の考えを発表されたビデオがありますのでそれを少し映させていただきます。

          ─田辺さんの発表のビデオ─

 というわけで、映し終わりましたので、それでは私の話を少ししてみたいと思います。
 あるお母さんが、田辺さんのお父さんの前に発表したのかな、そのお母さんが、娘さんが生まれたのが五つ子ちゃんが生まれた年月日、年だけじゃなくて月日も全く同じ月日なんだそうです。昭和何年の何月何日か、今、ちょっとわかりませんけど、今、高等部3年生ですから、もう18年ぐらい前かな、ということだそうですけれども、その時に、自分の子どもが非常に障害が重くて、テレビで五つ子の成長の過程が、何回も何回も繰り返ししつこく報道される。まことに五つ子さんが健やかに育っているというんで、どうもそのテレビを見ていられなくて、何度も消したというんですね。そのことをあるお母さんの話から、急に思い出して、また、再び思いが新たになったということを、話されたんですね。
 とてもお子さんを大事にして、立派に育てられてらっしゃる素晴らしいお母さんなんですね。もし研究所に優等賞なんていうのを出す賞状があれば、ぜひ優等賞を差し上げたいようなお母さんなんですけれども、やはり、他のお子さんに比べて自分のお子さんが発達しないというか、他のお子さんと違うということに関して、今でもそうだろうと思うけれども、長い間、その人の強いコンプレックスになっているということだと思いますね。
 どうしても、他の子どもの様子と比べて自分の子どもが未発達になるんじゃないか、障害があるんでそういうことが起こるんじゃないか、ということ。また、そういう意味で表面的にできるとかできないとか言うと、すぐわかるようなことがたくさんあるわけですね。例えば、ちょっとした表情だとか、刺激に対する反応とか、言葉の問題とか、やがては体を起こして立つとか、それから食事や排泄の日常生活の自立みたいなもの、あるいは、少しずつ社会性が身についていくかというようなことを、いくつかのスケールで測ってみると、他のお子さんはある意味で標準というか、平均なのに、自分のお子さんだけ、どんどんどんどん下の方になってしまって。ということで、非常に情けない思いをするということなんですね。
 そのお母さんとしては、そういうことで、他の子どもと比較するなんて、本当に意味のないことだと、できるとかできないとかに追われていてはいけないと思いながらも、実は、そういうふうに考えると。それがコンプレックスになっていくという切々たるお話をおうかがいして、そういうものなのかということを、やっぱりつくづく感じたわけですね。
 もう一つの問題点は、そういうお子さんが非常に素晴らしい方々で、輝いているんだということを、私たちが示すということ、あるいは、私たちが確信を持ってそう言えるだけの根拠というものをきちんとするということに欠けているんじゃないかという気がするんですね。これは、やっぱり世の中多勢に無勢だから、ほんの少しの人がそんなことをやってみても、世の中何も変わらないし、何も意味がないということも確かなんですね。だけど、にもかかわらず、誰もしないのと、ほんの少しだけれど小さなことをどこかで何かしているというのは、やっぱり大変大きな差なんじゃないかと思うわけですね。
 ちょうど、この大会が6日、7日とあったわけですね。6日は、ご存じのように広島の原爆のピカドン記念日で、でも、もう会場にいらっしゃる方が、ピカドンの体験というものがほとんどない。その時に生きていらっしゃった方、あるいは生まれてらっしゃった方というのが、もうほとんど会場にいらっしゃらない。おそらく、この広島の、今やっている大会の会場でも、もうピカドンというのは、わりあいに古い歴史の中に入っているんじゃないかと思うんですね。
 ところが、小さいながらも、広島までの行進だとか、それから、原爆記念日だとか。今年の原爆記念日は、ちょうど内閣の変わり目だったので、総理大臣を始め、誰も出席しなかったんで、僕は非常にいいことだと思うんですね。そういう記念するような行事というのは、小さければ小さいほど、その持っている意味は大きいのではないかというふうに、僕は思っているわけです。
 だから小さくなることは、別に少しも心配いらない。むしろ大きくなって表面的で、ただわあわあ騒いで、例えば、どこかの政党と政党との原爆記念日の争いみたいになるという方が、むしろ心配なんじゃないか。こういうものは、その人その人の一人一人の心の中に深くしみ通っていくようなものなんで、それはなかなか全部の人にきちんとしみ通るというわけにはいかないわけです。
 今、原爆のことからもちろん離れますけれども、そういう意味で障害の重いお子さんを育てている時に、本当にそのお子さんとの魂の出会いというものがあるんだと。だから、あるお母さんが言ったんですね。それは、どういうわけで言ったかと言うと、ちょうど、大会の4、5日前に、研究所に電話がかかってきた。実は生まれて3か月の男の子なんだけれど、お医者さんから目も駄目だし耳も駄目だと言われたと。盲聾だから、これからどうなるかわからないんで、いろいろあたったけれどもちゃんとした情報を与えてくれるところがないと。そして、何かパンフレットを見たら、相談機関のその他の中に、重複研というのが入っていて、それで、電話をかけたんだということで、電話をお受けしたわけですね。
 そのお母さんは、すでにお子さんが二人いらして、三人目の男の子なんですけれども、その方が盲聾だということで、気が動転されているわけですね。それで、もう盲聾の子どもだから、うまく育たないにちがいないというふうに強く思いこまれているわけです。普通の方だと、自分の子どもが目が見えないというだけで、もう大変だと思ってしまうわけですね。これは五体満足ならばいいという信念みたいなものがあって、これがまことに困ったもので、五体不満足だったらいけない、大変なことだということになってしまうわけですね。
 もう、私どもみたいに長い間そういう視覚障害の方々と一緒にいると、目の見えないということは、不自由なことかもしれないけれども、そう大きな意味を持っていない。むしろ心眼というか、心の目が開けて、大変その人にとって非常にいいんだと。またそんなことを盲人の人に言うと、反発を買うこともあるんですけれども、にもかかわらず、人生の一大事ということでは、私はないと思いますね。耳が聞こえないということもそうなんで、そんなにもう耳が聞こえなかったら絶望だとか、死ぬほかないと悲観してしまうのは、一方的な思いこみじゃないかと思うわけです。だけども、そのお母さんにとっては、目も耳も駄目だと言われて、本当に絶望的な状況になっている。そして、どうにもしようがないわけです。
 まあ私が、目が見えないなんてたいしたことじゃないとかいうようなことを、いろいろ申し上げて、そのうちに、やっぱり、その人自身が、子どもと本当の意味で出会うということが大切なんだから、むしろそのことを一生懸命に考えなければ駄目だと。そういう意味で気張ったり、決めつけたり、もう、こうじゃなければ気がすまないというようなことではなくて、もっと自由な子どもの出方に応じて、こちらがだんだんだんだん新しい考えになっていくという、そういうことでかかわり合えば、とりあえずはいいんじゃないですかということを申し上げたのですが、まあご納得いただけない。
 そのお母さんが言うには、自分がまだ若いうちはいいと。老後どうしようかと。自分が年をとってこの子の世話ができなくなったら、いったい誰が世話をしてくれるのか、それを考えると暗澹たる気持ちですと。まだ、生まれて3か月の赤ちゃんが目の前にいるのに、育て始めようとしているのに、その人は、もう自分の老後のことまで心配していらっしゃるわけです。それは、まさに突拍子もない心配なんじゃないかと言っても、そのお母さんは聞かないんですね。やっぱり、それはその人がそういうふうに思いこんでいるから、本当にどうしようもないわけですね。
 その方が、研究会にこられて、研究協議の中で質問されたことに対して、あるお母さんが、自分の子どもを障害者だと思ったらいけませんと、自分の子どもだと思いなさいというふうに、淡々とおっしゃったわけです。さらにつけ加えれば、自分の子どもだと思うのも実はよくないんですね。自分と切り離された、1個の人格を持った生命体だと思わなければいけないわけです。単なる人格を持った生命体だと考えるだけでもまだ駄目ですね。もっと考えれば、魂そのものなんだと。魂そのものと出会っているんだというふうに考えなければ駄目なんですね。
 そういうことというのは、別に特別なことではないわけです。「こんにちは赤ちゃん」だとか、「私の育児法」だとか何とか言って、みんなそれぞれ普通の場合でも、何かぱっと出会って気楽にやったようなことをおっしゃってるけれど、そこには、その人の人生があるし、その人の命のすべてがあるわけです。そして、お互いに二つの魂の出会いというものがちゃんとどんなところにもあるわけです。だから、障害を持ったお子さんの場合でも、同じようにそうした出会いというものも当然あるにもかかわらず、これが特別に消えていってしまうというか、全く出会ってないということになってしまうというもとというのがいったい何なのかということを私たちはよく考えていかなければならない。障害児であることによって、魂を喪失した生ける物体のように感じるなら大変な思い違いです。他の子どもはこんなこともできるあんなこともわかるのに、私の子どもは何もできないし、何もわからない、ただ息たえだえに生きているだけだなんていう表面的な見比べに終始してしまったら大変です。
 そういうふうに考えていくと、どうもまわりで、障害児を持った親に対してろくなことを言わない。何か、おためごかしに言うようなこともあって、相手を激励するように言っているのかもしれないけれども、要するに、全部、相手を脅かしているわけです。本当は同じように魂と魂とのすばらしい出会いであり、障害があることによってかえって大きな感動を伴い、深い出会いとなっているのです。いたずらに心配させたり不安がらせたりすることなど少しもないのです。ところが、障害児を持って、大変ですねと、そういうことなんですね。私は障害児を持ってないからわかりませんけれども、あなたは障害児を持っているから大変に違いないと。きっとあなたはうんと苦労するに違いないと。そういう苦労は、実りがなくてばかばかしいものに違いないというふうな、突き放した、自分と全く関係ないようなことになってしまっている。
 それで、これが、近所の人、それからだんだんだんだん身内、それからだんだんだんだん親戚の中でも近くの人となってくると、だんだんだんだん言い方がひどくなって、露骨になって、切り捨てるような言い方になってしまう。要するに障害というものがあったら駄目なんだ、障害というのは本当に悪いものなんだというふうに、勝手に考えてしまっている。もう目が見えなければ、絶対に駄目なんだ、損に決まっているんだと。まあ、損だとか得だというふうに人生を考えるというそのことが、もうすっきりしないもとになってしまうわけだけども、そういう思いこみを今、せっかく子どもを育てようとしている親に思いこませようとするわけです。
 お医者さんはどうかと言うと、これはまた医学的な処置で、やたらに病気を発見して、病気が重篤だ、こういうふうな処置をしなくてはいけない、ああいうふうな処置をしなくてはいけないというふうにして、いろんな医学的な処置をしようする。そして病気を治そうとする。病気は治るかもしれないけれども、その間、その人はその人なりの感じ方、考え方をしており、意志もあり、自発もしている魂の塊で、その人がだんだんだんだん大きくなって育っていくんだというプロセスに対しては、全く無関心というか。あるいは、親から、その子は育つでしょうかと聞かれたら、もうどっちかと言うと、自分が考えているよりひどく言ってしまうわけです。というのは、お医者さんとしては、責任をとらされてしまうわけですね。あのお医者さんがこう言ってくれたのに駄目じゃないか、ちっとも発達しないじゃないか、あれは薮医だと、こうなってしまうわけです。ところが、自分が考えているよりも少し重く言って、行動の発達が遅れるようなことを言っておけば、そういう点ではお医者さんのせいにされることはないですからね。
 これは、また不思議なもので、誰かのせいにしないと気持ちが悪い。ある表面的な段階で、状態が進んでいって、ものの本質というもの、あるいは事柄の根源というものを見ようとしないような段階になってくると、急に不安感が増大し、迷いに迷いが重なり合い、無駄なやりとりをするわけです。自分の中でも他人に対しても無駄なやりとりをして時間を潰して、そして、自分を楽にしていくというか、そういうことになってしまうわけですね。だから誰のせいにしても、全く役に立たないにもかかわらず、それでも誰かのせいにしないと気がすまなくなってくる。だから、最後は、あの人が悪かったとか、あの人がこうしたというようなことになってしまって、もう障害があるということだけで悪いのに、障害があって起こったようなことはみんなよくないということになってしまう。だから、お医者さんは、もうそういう意味で親を助けてくれないわけです。
 いわんや、心理学者だとか、児童相談所の相談員なんて、障害を受容して、正しく障害を認識して、それで、発達をなるべく遅らせないようにしよう、これがまたものすごい脅しなんですよね。ただでさえ、発達が遅れるに決まっているわけです。あるスケールでやっていけば、普通の子どもよりどんどんどんどん遅れていくに決まっているわけですよ。それを、遅れないように遅れないようにしろと言ったって、それは、ただ、遅れないようにしろと言ったって、具体的な方法を示してもらわないで、そんなことはできない。
 それで、具体的な方法といったら何かと言ったら、早期発見、早期治療。早期発見、早期治療と言ったら、うちの家内が、それは癌に対することで、早期発見、早期教育なんだと言われたけれど、何でもかまわないんだけれども、要するに早期に手当をするという考えなんですね。だけど、何を発見して、何を手当するのか、全然わからないわけです。だけど、これが親にしみ通ってしまっているわけです。そして、さらに、どこかにいいやり方がある。外国にいいやり方があるとか、こっちにいいやり方があるとか、日本にはいつもいいやり方がなくて、外国にいいやり方が散らばっていて。だから、外国のその人のところにわざわざ行って教わってきて、あるいは、子どもを連れていって。つまり、最高のものを受けさせよう、できる限りのことをしてあげようと。もし、本当に親が子どもに対してそんなことを考えるんだったら、子どもは息がつまってしまいますよ。考え方としてはすごいように見えるけれども、せっぱつまって追いこまれているんですよ。全くゆとりがないわけです。だから、何も見えなくなって、ただわあわあわあわあ騒いでいるうちに無為に時間だけが流れていくのです。そういう状態なのに、そこへ早期発見、早期教育なんだと言って、なるべく早く手当をしなければ駄目なんだ、一生懸命やらなければ駄目なんだと言うので、発達の遅れるところばかり見つめさせてしまう。
 だから、ここで、僕がその親なら親に、発達するということも大事だけれど、発達しないということもまた本当の意味があるんじゃないですかと言ったって、全然聞き入れませんよ。考えようともしませんよ。そんなこと聞いただけで、何言っているんだ、あの馬鹿と。あっ僕のことを言っているんですよ。研究会へ出てきて、中島昭美は、静かな考え深いきちんとした人だと言ってくれる人は、ほんの少し。後は、僕の言うことを聞いて、馬鹿だと。馬鹿ぐらいならいいんで、気が狂っているって。ただ、常識がないだけなんです。ただ、それだけなんです。私の常識、相手の非常識なんです。だけど、今度、相手の常識、私の非常識なんです。
 発達するということは、これは大事なことかもしれない。まあ一歩心理学に譲って、発達しないより、発達した方がいいんだというような意見があるかもしれない。それは、考え方なり、一つの物差し、見方なんです。その物差し上で考えれば、やっぱりある平均みたいなものがあるから、なるべくその平均にそった方がいいという考え方は、これは一つあるかもしれない。だけど、発達しないということが、じゃあ悪いのかということですね。その物差し上で測っただけの話で、もっと他に物差しがあるんじゃないかということ。そして、その物差しだけが素晴らしくて、他の物差しはみんなくずだというようなことはありえないんじゃないか。むしろ、その物差しがあまりに一般的で、あまりに常識的で、あまりにありふれた物差しなんじゃないか。誰が見てもわかる、誰が見てもそういうふうに決めつけても不思議とは思えない。そういう物差しがいちばん実は根本的には危ないんじゃないか。いちばん何も考えられないで、ただ自然発生的に出てきて、だから、地球が回っているのか、天が回っているのかと。天が回っていて地球は動かないんだと、まあ昔はそう思っていたわけですね。天動説か地動説かと。そこへ、いや、地球の方が回っていて天の方は回ってないんだと。要するに天が動くのか、地が動くのか、天動説か地動説かというような考え方があったとするんですね。やっぱりそれぞれに理屈があるわけですよ。いつの場合でも相対的なので、「これは絶対だ」というようなことがあっては困るのです。それぞれに考え方がある。いちばん大事なことは、その相対の中で、より深く、より新しく、より正確に、よりきめ細かく考えていくということなんです。
 だから、障害の重いお子さんに出会うということは、これは確かにむずかしい。普通にやって、普通にみんなの意見を聞いて、普通に一生懸命やっては駄目です。もっと、自分自身、心を入れ換えて、考え直して、やっぱり、子どもというものをちゃんと見つめて、自分を無心というか、ある決めつけとか偏見とか、下心を捨てる。自分自身がまず間違っているんじゃないかということをよく考えて、そして、子どもの本当の姿を見つめようと考えること。そのためには、うちの子どもが目が見えないから駄目だとか、将来誰がこの子の面倒を見るんだというようなことばかり考えないで、この目の前にいるお子さんの体の動かし方とか、表情だとか、声の出し方とか、そういうようなことですね。その子のその子らしい感じ方、考え方、動作というような、ごく、そういうようなところから見つめていって。そして、意外や意外。やっぱり、その子にこちらからただ一方的に触ったり、一方的に声をかけたり、一方的に働きかけるということがまずいんだということ。やっぱりこちらから働きかける時には、いつもちゃんと理屈を考えて、それから注意深く、それから、一つ一つ、働きかけに対して、向こうの小さな反応、本当に薄い、見えにくい、反応、そういうものを十分に確かめるつもりで、働きかけていくということを繰り返せば、発達しないことの大事さ、つまり、普通のお子さんが体を起こして立って歩くのに、そのお子さんがいつまでたっても仰向けで寝たきりだとすれば、それは仰向けで寝たきりでそのお子さんがそこにとどまっているだけの理由があるわけです。それは、医学的に言えば病気の問題もあるだろうし、発達的に言えば未発達の問題もあるかもしれないけれども、もっとその人自身が、そういう状態の中で自分で組み立てている自発の問題があるわけです。その子どものその子らしい心の動きが見えてくるわけです。さらに魂の輝きが伝わってくるわけです。ここのところがわかってこないと、その人自身が、ただ病気のためとか、ただ心理的な未発達のためだけに行動の遅滞が起こってしまっているんだという、一方的な決めつけになってしまう。そういうふうな行動の底に隠れている、その人自身の自発というものが見えてこないわけです。
 そんな、意識もないし、ただ呼吸だけしていて、日常生活全面介助のところに、どこに自発があるか。あります。少しも心配いりません。その人の呼吸の仕方一つにしても、呼吸が荒い時もあるし、呼吸が穏やかな時もある。どうして呼吸が荒くなったのか、どうして呼吸が穏やかになったのか。それが、単に生理学的な、あるいは行動の発達の問題じゃなくて、その人自身の心というものを表している。ただめちゃくちゃにその子の体をいじり回さないで、どこかよく決めて、特に、この体の後ろ側、あまりめちゃめちゃに触らない。少しずつ。何もこわがることはないんですよ。見当をつけてきちんとやれということなんですよ。そういうふうな見当をつけてきちんとやるということは、自分で探さないと駄目。誰も教えてくれないから。だから、親と子がちゃんと向かい合って、自分で探さないと駄目。誰も教えてくれないですよ。そして、親御さんが、きちんとした子どもの心というものを発見する。こちら側の働きかけに対して、その子どもがどういう変化をするか、あるいはどういう対応をするか、気長に待つ。ゆっくり、しっかりとした小さな対応の中に起こる、人間行動の成り立ちの根本の本当の意味というものを、私たちが十分に考えていく。そういうことを親に言い聞かせる人が、いなくては駄目です。現在この世に、全くそういう人がいない。ただ、障害を受容しろとか、こういう病気で、この病気はこういうふうに治療するんだとか、それから、たぶん非常に発達が遅れるでしょうとか、こんなお子さんを生んであなたどうするの、これからどうやって暮らしていくのとかなんてことばかり、みんなよってたかって、わあわあわあわあ言っても、無駄なんじゃないでしょうか。そういう無駄なことはやめにした方がいい。そして、もっと魂と魂が出会うことの大切さというものを考えれば、私たちがそういう障害の重い子どもと出会って、本当に人間の魂と魂の出会いというものが大切だということがわかれば、私たち自身の日常生活の基本的な態度からきちんと変えて、私たち自身が、もっと一つのことをはっきりと、きちんと仕事をしていかなければならない。たった一つでいいからきちんとした仕事をしていかなければならないということが、わかってくるのではないか。そして、それぞれの人生がある。だから、それぞれの仕事の仕方というものがある。そして、それぞれの考え方というものがあるけれども、そういうふうにそれぞれの人が、自分の考え方を深めていくことによって、だんだんときちんとしたものを積み重ねていくことによって、その人の人生というものが、素晴らしい人生になるのではないか。子どもの魂の輝きの中から私たちは初めて人間行動の成り立ちの根本を学ぶことができるのではないか。そういうことを考えれば、やはり、ここに研究会をお開きになって、皆さんがそういう素晴らしい人生を生み出す第一歩としての研究会として、この会をやられることの一つの大きな意味があるのではないかというふうに思います。
 それではこれで私の話を終わりにします。どうもありがとうございました。ちょっとカメラをワイドにするからみんなもお辞儀をして下さい。それでは、研究会、残り少ないけれども、大いに頑張って下さい。終わりにします。