夢の国への第一歩

─千葉重複障害教育研究会準備大会における講演─

                      平成5年11月14日

                         中 島 昭 美

 どうも、みなさんこんにちは。中島です。会場にはよく知っている人もいるけれども、全然知らない人もいます。特に今司会している保科君の奥さんの旧姓大原さんとはしばらくぶりでお会いして、なんかあんまり体の具合がよくないらしくて、学校は休んでいるとか言っていましたけれども。香取養護で喜んでいるんじゃないかと思って。それはともかく、大原さんがいちばん前の席に来て寝ないとね。体が悪くなったから僕の話を聞いて元気になるって、さっきおっしゃったから、ああこれはもうたぶん、昔のようにゆっくりお休みになるんだなと思ったけど、いちばん後ろに座っている大原さんなんて見たことないから。人間も年とともに変わっていくもんなんだと思いますね。
 大原さんがお酒が強いとか、太っ腹だとか、独身時代にものすごくもてたとか、採用試験によく落ちたとか、私の講義を聞いて、居眠りばかりしていたのではないという話をしたので、この大会で何の話をしたらいいのかよくわからなくなったんですけど。第一、午前中に二つ研究発表があって、もうすでに少しいやになっていると思うのね。その上に研究協議したんだから、もう充分勉強したんですよ。だから、僕の講演なんか聞いてもしょうがないのね。だいたい僕の講演を聞いてためになるというんじゃ駄目なのね。あんなのくだらないというふうになんなくちゃ、駄目なのね。でもね、ちゃんとアンケートに書いてあるよ。『レポート1』、『レポート2』、『研究協議』というとこまではあるんだけど、その次は、『その他』だよな。いやいや、アンケート用紙見てごらんよ。だから、何か僕の話の感想を書くんだったら、その他の欄にだけしか書いちゃ駄目だからね。あーあ。
 で、森田君からビデオ2本見せていただいたし、研究資料を水曜日にいただいたから拝見して、一生懸命おやりになっていらっしゃるし、それから、ああだこうだというふうに、みんなで自由に討論してやることがいいんで、どれが正しいとかどれが間違っているなんてそんなことはないんだから、お互いに問題をよく考えてるということと、子どもを大事にして一生懸命やってくれれば、本当にそれでいいと思うんですね。このレポートのいちばん前にも書いてあるけど、障害の重い子どもから、その素晴らしさに感動して大いに学ぼうという考えでやっていらっしゃるんだから、私が今さら何をか言わんやという感じなんですね。だから後はゆっくりやればいいのね。そんなに簡単にわかることでもないし。また、そんなに簡単にわかることだったら面白くないから。だんだんだんだん深みにはまっていくというか、だんだんだんだん深さというか面白さというか、その本当の意味というのがわかっていくというのが大事なんじゃないかと思いますね。そういう意味では、こうすればこうなるとか、今こうだからこうしなければ気が済まないとか、そういう決めつけやつきつめた思いというのは感心できないんで、やっぱりそのかかわりの中で、子どもを大事にしているうちに、新しい子どもの行動の意味というものを少しずつ発見していくことだと思うんですね。そういうことを私が言わなくてもわかっているので、またあえて言うと、その点は重複しちゃうかもしれないけれども。
 富里養護学校のレポート1というビデオでは、障害の重い子どもが仰向けで寝たきりだと動きが非常に小さいんですね。体を起こそうという考え方はいいんだけど、どうしても顔をのぞきこんじゃって、話しかけるというふうになっちゃうのね。おおいかぶさるようになる。そうすると、その人の顔だけがわーとこう出てきちゃって、他の体の部分がある意味で見えなくなっちゃうのね。そうなってくると、目ね。顔の中でも目。で、どういうふうな表情をするかっていうようなこと。さらに進むと、手ね。そういうことになりやすいわけですね。だから、目の前で物を見せたり、手でつかませようという気になっちゃう。向こうは、こう仰向けで寝ているんだから、そんなにいきなりよく見てくれたり、手を伸ばして物を握ってくれたりすることがまず起こるはずがないんだから、いきなり目だとか手に私たちが接近していくというか、働きかけていくということはちょっと無理なんじゃないのかという感じがするんです。どうしても、顔のあたりに自分の顔を近づけちゃって。そうすると、抱きかかえるというようなことになっちゃう。この抱きかかえるというのは非常にいいことかもしれない、それから危なくもないんだけど、どうしても抱えこんじゃうから、仰向けで寝ている時と、それから抱え込んで体を起こした時と、要するに上半身が起きているから、違うと言えば違うんだけど、抱きかかえていることにおいては、子どもの状態としては受け身になってしまいやすいんです。
 そういうふうに考えていくと、そういう子どもとであったら、本当は腰からとか背中から、あるいはうなじからというのが原則だと思う。つまり、体の後ろ側、見えないところからというわけです。だけど、あんまり突拍子もないことをすると、怒られるというか、特にああいう大きな部屋でみんなが鵜の目鷹の目で見ている時、あんまり常識的でないことをするのはどうか。ただでさえ重複研というのは名前が悪くて、悪いことをするんじゃないかって思われているという話だから。でも、おおいかぶさるように上から近づかないで、下からそっとゆっくりと足の裏に触ってあげるくらいいいと思う。抱きかかえて起こすのもいいんだけれど、そののぞきこんで話しかけるのもいいんだけど、まず、足の裏に触ってあげることぐらいから始めたらどうなのかなということ。というのは、上半身と下半身とは常にかかわりを持っているわけ。だから、上半身に働きかけようと思ったら、下半身からいくというのが常識的なことじゃないか。それから、体の表側に働きかけようとしたら、体の裏側からいくのがまあ原則的なことだと思う。
 どうしても子どもと向かい合った時に、いつも直接的になる。直接やらせようとするわけ。例えば何か行動を起こさせようとする時、全部直接的になっちゃうわけ。もし、その子がうつぶしている時に顔を上げないから、顔をこう無理矢理持ち上げるわけ。そうすると、こう顔を持ち上げられるんだから、その子はどういうふうになるかっていうと、その力に応じて押し返すことになっちゃうわけ。だから、先生の方は持ち上げているんだけど、その子どもとしては、こういうふうに押し返して、かえってつっ伏してしまう。だから、ただでさえこううつ伏せになっちゃってるのをますますつっ伏す練習をしていることになっちゃうわけ。こう前に伏せているんだから、反対に後ろからこううなじから首すじにかけてそっとなでて、軽い触刺激を与えてあげればよい。別にこうやれって言うんじゃないんですよ。原則的に言えば、有無を言わさずこちらが一方的に顔を持ち上げるよりは、後ろから押した方がずっといいわけ。後ろからこう押せば、押されたからこういうふうに押し返してくる。つまり、直接的にその動作をやらせちゃったら、その動作ができたとしてもやらせなわけ。だけども、一つでもちょっと間接的なことが入れば、それがその子の自発につながることが起こるわけ。どちらかって言えばもっと間接的な方がいいわけ。だから、こういうふうになっていたら、こんな押さなくてもいいのね。背中なでてあげるのもいいし、うなじをちょっとさすってあげるのもいいの。それだけでも、顔を自分で持ち上げるかもしれない。で、持ち上げた時に何かこう見る物があれば、ますますおやっと思って見るかもしれない。
 だけど、もうちょっと間接的にやるんだったら、こういうふうに倒れて机につっ伏しているんだから、それが上半身なんだから、下半身の問題だと考えればいいわけ。そうすると、下半身のどこに触ってあげてどういう力の入れ方を教えてあげれば体が起きるのかということを考えればいい。そうするとそれは、足を踏み込むということをもとにして、体がだんだん起きてくる。つまり働きかけというのは、直接的なことをやらせようとするのが、いちばんまずいわけ。間接的にそれにかかわっているもとになるようなものを探して、そしてその子自身が自分で選択して自発して運動を組み立てていくような状況というものをもたらす、だから難しいわけ。一生懸命考えて、工夫するわけ。そんな、こういうふうにうつ伏していたものを、ぐっとこちらの力で体を起こすんだったら、それはやさしいわけ。やさしいどころじゃなくて、そんなものは何の役にも立たないし、働きかけでも何でもないわけ。ただ一方的な押しつけなわけ。子どもを受け身にして自発性を失わせるわけ。せっかく外界と関係づけようとしている子どもの自発的行動をつぶして受け身にして、やむをえず自己刺激的状況を作らざるをえないところまで追い込んでしまうわけ。そんなことは、教育のことでもないし、もう何でもないわけね。単なる強制ということ。だけども、つい見てると直接的になっちゃって、ある行動はやめさせたい、ある行動はやらせたい。
 まあ、うつ伏せになっていたら起こしたいという気持ちはわかる。だけど少し待ってみたらどうかというわけ。どのくらい待つんだと言ったら、10年待てばいいと。いやいや、100年待てと僕は言いたいんだけど。100年待つという考えなわけ。何か事柄を変えようと思ったら、100年いるんですよ。だから、10年くらいじゃちょっともの足りないんだけど、まあ、ちょっと待つんだったら10年ね。もうちょっと待つんだったら20年。それからもっと待つんだったら30年。これきりがないから、今度ずーっと1000年までも言いそうな感じがするからあれなんだけど、ちょっと待てばいいわけ。10年たったら変化しているに違いないと。それを、今すぐ何とかさせようとか、その子自身が何でそういうふうにやっているのか、ちゃんと理屈を確かめないで、それでいきなり体引き起こしちゃったら何が何だかさっぱりわからないという、そういうことになってきちゃうわけ。だから、もしどうしてもやらせたいんだったら、待ちきれないんだったら、できるだけ間接的に、その子の運動をその子が自発するのにその子自身が組み立てるのに必要な条件というのが何かということを考えることが大切なのね。
 あのね、誰でも運動しようとしている時に直接的な運動というものは決してしないわけ。例えば、ピッチャーが玉を投げる時にいきなりポンと投げない。これ女の人で玉を投げるのが下手な人は、いきなりポンと投げるわけ。だけど、普通投げるんだったら、こう引いてそれから投げる。だから、この引くというのが入って投げているわけ。打つんだってそうですよ。打つんだっていきなりバットでこう打つんじゃない。ちゃんとこうバットを引いて、それでこう打つわけ。つまりその動作をするためには、それをするために必要な条件があるわけ。逆の運動をして止めて、初めて目的の運動を始めることもある。だからその条件を整えないで、ただ目的に合った状態だけをもたらせようと思ったら、これは普通のやり方でもできませんよ。だからそういうやり方で、無理矢理そういうことができるようになっても、応用がきかなくなっちゃって、ただわけもわからずにやってるんだったら、よっぽどその子自身も苦労していることなんです。動きの大きい子どもで、そういう意味で何が何だかわからないけど、ともかくやらせになってしまっている。本当に何が何だかわからないで直接的に運動を起こさなければいけないというせっぱつまった状況で、運動を起こしているという場面が意外に多いんです。だから、準備なし、ウォーミングアップなし、意図的自発なぞ、問題にならないというところですね。本日は準備会だそうですけども、いつまでも準備会をやっているかもしれないというようなことも書いてあるけど、これが第1回じゃないというところに一つの意味があるんじゃないかということ。つまり、工夫するとか考えるというのは、何を考えるのかということなんですよ。めちゃめちゃなことを考えても駄目ですよ。だけど、直接的にああじゃないかこうじゃないかと考えるのはもっと駄目ですね。だから、そこのところで、この運動をこの子がどうやって自発していくのかということを考えなくちゃ駄目。そこに準備会をやる意味があるような気がします。
 後でテレビをお見せしますけど、エルピザの里のひろみさんが食物を口に運ぶという場面。午前中に発表があったんで、ご覧になったと思いますけど。すごいいい場面があるんですね。その時にひろみさんが何をしているかというと、手首を使っているわけ。これはすごいことなんですよ。なぜ手首を使っているかって言うと、これはウォーミングアップで慣れようとしているわけ。普通食物を食べる時には、食物を持って、あるいはスプーンですくって、それを口に持っていくんですよ。だけど、ひろみさんの場合には、いろんな条件が重なっちゃってて、食物を持ってそれを自分の口に投げつけているんです。それが証拠に手首を使っているわけ。スナップスローです。あのね、もしなんだったら、会が終わってから森田君にビデオを借りてコマ送りしてご覧なさい。ほとんど手首を使っていないひろみさんがあの場面だけ手首をこういうふうにスナップをきかせて使っているわけ。なぜ手首を使うのか。つまり、もし何かそれ取ってくださいと言うでしょ。取ってくださいと言った時に、その人が僕のところまで歩いてきて、その取ってくださいと言った物を持ってきてくれるというのもあるわね。だけども、ここに川があったとするんですね。それで、飛び越えられるような状況ではないとすれば、やっぱり、向こう岸からこっちへ放ってくれるわけです。手というものは、その口に対面しているものなんですよ。だから、ちょうど、岸のこちら側と向こう側みたいなものなんですよ。それで、口と手とが互いに向かい合って向こう側からこちら側へ放りこんでいるわけです。おかしなことではないんですよ。みんなそうやって、外界というものを構成していったわけです。初めから、ここに自分がいて、外界があって、それを手で、こんなふうに連続的につないでいるわけではない。だから、見て、つかんで、鼻へ持っていってふいたなんて、そんなことを初めからやったわけではないんですよ。やっぱり、初めは越えられない溝のようなものをきちんと越えていく。
 ところがそこにものすごく順序がたくさんあるわけです。だから、私たちはそこで口というものが何なのか、手というものが何なのかということをよく考えてみないと。口はただ物を食べるものだ、しゃべるものだ。手は物を持って、道具を使うとか、いろんな物を作り出すとか、字を書くとか、そんなことに使うんだと。それは、でき上がった大人はそうかもしれない。だけど大人はそれ以外の手の使い方はできなくなっちゃっているわけ。手なんてそのためだけについているものではない。そんな二足歩行ができるようになったので手が自由になって手を使い出して人間の知能が発達したなんて、そういう空想的なことではない。もう少し人間行動の成り立ちというものはきちんとした原則をふまえて少しずつ踏み出しているわけ。その原則、踏み出して作り上げていく過程というものが今のところさっぱりわからないわけ。いつのまにかできた、いつのまにかやっちゃった、この年代ではこのくらいのことができる、この年代ではこのくらいのことができるという、そういう羅列になっちゃうわけ。だから、何が条件で体の使い方がどういうふうな部分をどういうふうに使ったことが意味があるのか。そして、それをどういうふうに使い直したことによって新しくどういうことができあがったのかという因果関係を持った人間行動の成り立ちの順序というものが何一つ出てきていない。だから、手というものが何なのかということになったら、もう全然わからない。いわんや口なんていうものは全然意味がわからない。いわんや足の裏なんていうものは本当に意味がわからないわけ。その子どもの初めての体の部分の使い方、人間行動の成り立ちの初期において人が体のどこの部分をどんなふうに意図的に作って外界を受容し、運動を自発していくのか、本当のところがよくわからない。にもかかわらず、足の裏を触ってあげることによって、その子の表情も変わるし、動きも変わる。
 それからその子全体の筋緊張と書いてあるけれども、Y君の緊張の度合いも変わってくる。そして、それは足の裏だけじゃなくて膝の裏もあるんじゃないかということを考えていくと、Y君が何で右足をこういうふうに上げるのか。右足を前にこう上げちゃったら後ろにそっくり返っちゃいますよ。右足を上げて体を前に倒せと言ったって、それは無理です。右足を上げたら、こういうふうになっちゃいますよ。だから、体を押しつけようとしてそっくり返ろうとして、右足を上げているわけです。その時に全身の体の緊張が非常に強く起こるわけね。それを解かないでおいて、いきなり体を起こしても、これはやっぱりだいぶ無理がかかってくる。だから要するに足の裏をよく触ってあげて、そして、膝の後ろを触ってあげて、力を抜いてあげるということがまず大事。それから、顔をのぞきこんで話し掛ける。あるいは、抱きかかえるようにして起こす。いちばん最初のとっかかりがないんですよ。いちばん最初のその子自身に対する働きかけの順序というものがなくて、ただこっちの思い通りに子どもの体を動かそうとしてやっているわけ。だから、Y君の方はいろんな意味で困るわけね。その困っているということすらこちら側が気がつかないという状況になったきちゃうわけ。
 この子どもは緊張が強いからこうなんだとか、また医学があって、その上にいろんな発達の問題があって、やたらに障害の重い子どもが何かできないことを理屈づけることがいっぱいあるんです。そんな軽い緊張なんかあっちこっちに起こっているはずなんです。それは我々大人だってそうなんですよ。ただそういう意味で我々大人が軽い緊張があちこちに起こっているにもかかわらず、より大きな、よりなめらかな運動をおっかぶせてごまかしているわけなんです。自分をごまかすようなことをし始めると、きりがないですよ。とうとう自分が自分をごまかしているということ、それすらもわからなくなっちゃうわけ。そういう意味で我々は自分自身が何だかわからないんですよ。ともかく、体を起こさなければいけない、立って歩かなければいけない、手を伸ばして物をつかまなければいけない、目は物を見なければだめだって、もうそればっかり。口で言葉をしゃべらなくてはだめだと言うわけ。
 これはNHKのテレビで、札幌の方の病院で植物人間の方を看護して、だんだんそれが有名になっちゃって、そのシリーズ2みたいなところで、そのテレビを見て、そんな看護ができるんだったら、自分の家でやってみようというそういう方も出てきて、自分の家でやっているのを見ました。その家族の方が何をしようとているかと言うと、言葉をしゃべらせようとしているわけ。そして、後は日常生活。それから進むと、今度は社会復帰です。その人間として生きているということの大事さというものを見つめようという考えが根本的にないんです。医学がそういうものに参加しているから。植物人間だと初めから決めつけてしまって、その人が一生懸命生きて、何を感じ、考え、しているのかという大切な問題が抜けている。
 昨日もNHKのラジオ深夜便で朝4時から、宗教の話みたいなのが多いのだけど、京都の堀川病院という病院の院長さんをしていたのだけれど、年とってやめちゃったのかな、その人が話をしていた。医療で今日の老人問題はとても支えきれない。もうとても医療じゃ駄目だって。もっと日本の老化というのはものすごい勢いで進んでいて、とても医療ではくい止められない。これをくい止めるのは看護だって。看護の基礎になっているのは介護だって。どうも急に4時半ごろ小便で起きて目が覚めて、そこから聞いたから、その前は。あっ、そうなんですね、総合人間研究所というのをその人は作るという考えなのね。敷地も用意しているらしいですけれども、医療と看護と介護という、その三つがそれぞれ独立して、対等で、自由に研修ができるようにしたいという考えの方らしいんです。老人問題は医療だけでは駄目だっていうことがわかっているにもかかわらず、今はそういうことに関しては全部医療です。とても教育なんか、教育が顔を出そうと全く思っていないかもしれない。医療でなければ施設です。それでなければ今度家庭なんだけど、それがみんな医療に組み込まれている状況になっちゃっているわけ。だから、人間とは何か。人間の体というのはどういう意味を持っているのか。そういうことを考える場面が全くない。全部医学的なことから始まって医学的なことで終わっているわけ。いちばんまずいところは、人間というのは体じゃないですね、心なんですよ。ところが、どうしてもお医者さんは体が問題になっちゃって、そして病気を治療するということに専念しちゃうわけ。お医者さんがそうするのは別にかまわないですよ。だけども人間というものを考えなきゃ。人間とは何なのか、人間の心というのをいちばん基本に置かなかったら、それはいかなる近代社会があっても、それから経済力があっても、医学の力があっても、いちばん基本がなければそれは砂上の楼閣にすぎないんじゃないか。現に我が国がそういう意味でまことに砂上の楼閣というものを気持ちよく作りあげているんじゃないか。だから、京都の堀川病院のお医者さんがものすごく困っているんじゃないか。それでそのお医者さんは医療と看護と介護というものを対等にしたいと、縦の関係にしたくないという考えなのね。看護はわかるんだけど、介護というのは何かというと、どうも家族とか地域社会の人がそういう人にかかわるというのを介護と言うらしいんだけど、前の方を聞いていないのでわからないんだけども、ともかく、医療と看護と介護とが、それぞれ別々の立場に立って、まず自分の立場をよく固めて、それから相互に連携しないと、それぞれ独立して対等で自由な関係とはならないと思いました。
 今日の朝4時からやったんですけど聞いた人いますか。ラジオ深夜便。あれだね、あれは視聴率ゼロだね。あなた聞いた。なんかこうやってマイクを持ってしゃべるのは面白いね。何だか神主さんみたいになってきた。だんだんこうやって祝詞(のりと)をあげるようなね感じになってきたね。ねえねえ大原さん、寝ろよ。あなた、前に出てきて寝ろよ。駄目だよ、そんな後ろに居て起きて聞いてちゃ。あーあ。僕だけお茶飲んでいいのかな。みなさんもある方はどうぞ。
 ともかくそういう意味で、今学校教育の中で足とか口というのがないんですよ。それで、足に触るとか口に触るということの意味がわかんないわけ。これはまことに残念だけれども、むしろ看護とか介護という方にはあるんですね。で、教育の方には意外にない。だけど、看護や介護の方ではやり方がめちゃめちゃなのね。これからだんだん何とかなってくるんだろうと思いますけれども、やっぱり私たちがそういうところをきちんと整理してあげて、こういうことなんだということをだんだん明らかにしていくというかな。そういうことが、将来老人問題にとって非常に大事なことなんじゃないかと思うんですね。
 Y君のことも特にキーボードやピンポンという操作板と書いてありますけど、あの操作板は手でやらせていたけど、足でやるようなちょうど大きさだしね、足でやったらうまくいくようになってきたけれども。そういう点でまず足からという感じが強いですね。そういう意味で体を起こしてだんだん手を使わせようという考え方はよくわかるんだけれども、にもかかわらず、足にどういうふうにかかわりあっていくのか。それから、下半身をもとにして上半身をどういうふうに立て直すのか。ビデオの最後の頃にぐーっとその子が体を起こしていて、先生が抱きかかえないで肩のところにちょっと触っているだけで体が起きているような状況が最後に起こっているけど、やっぱり足の踏みしめがよくなってきて、手がだんだん前に出てきて特に肘の使い方がうまくなってきて、下半身によって上半身が安定し、そのために目で見るということもだんだんしっかりしてきているというところを示しているわけです。だけども、もう少し口というものを考えてあげる必要があるんじゃないかというわけですね。
 いろいろ話したいことがあるんだけど、そんなに長く話せないんで、次にひろみさんの話に移しますけど、この方は本当にすごい方で素晴らしい方なんで、本当に私はほれぼれして見ていたんだけど。ともかく、自分の口に手を当てているというそういうことね。これは非常に大事なことなんです。それで、人差し指を主に使っていらっしゃるらしい。僕がビデオで見ている範囲内のことです。中指を上にのっけているの。僕なんかちょっとできないけど、もっとビュッとうまくこうのっけている。何のために中指を上にのっけているのか。これはここの触覚を引き起こすためなんですよ。手というのはそれ自身でじゃ触覚が起きないんです。だからどうしても何か指なら指で関節を曲げてキュッとやるか、あるいはある指を他の指の上にのっけるか。よく足を組むというけど、一つは足の場合は交差するということは立って歩くために大きな意味を持っているんだけど、にもかかわらず、1本の足を1本の足の上にのっけているということは、2本の足をそれぞれ考えていることなのです。両足を開いちゃって両方に刺激がないと足がどこにあるのかわからない。ところがちょっとどっちかの足をどっちかの足の上にのっけておけば、両方の足の存在というものが出てくるわけ。これもそうね。指に指を重ねるから、これで初めて中指によって人差し指の存在というものが一段とクローズアップされて出てくるわけ。まあ、ズームのようなものです。そののっけられている存在の大きくなった指を使って唇の表面を軽くこう触っている。こういうふうに。これが口に触っているのだが、はたして口が主なのか、触っている手が主なのか。これを考え出すときりがなくなって、またラジオ深夜便を聞いているということにだんだんなってくるわけだけれども。このひろみさんは両方やってんだね。この指をのっけることによって指の触覚をより細かく、よりはっきりわかるようにして、その指を口に持っていくことによって、口を確実に確かめるとともに、口の触覚を起こしているわけです。そして、もう一方において、口の方から指先に触ることにより、指先の表面をより確実に確かめるとともに、その裏から中指で重ねられている人差し指に表から口でせまることにより、より人差し指の触覚的な受容を深めて確かなものとしているわけです。
 あのね、この方は30歳だと書いてありますけど、この工夫をするのにおそらく長い間、努力したと思う。そんな簡単に起こったことではない。すごい苦労してこういうふうにすることによって自分がいちばん安定した刺激を欲する時にいつも確実に得られるというこういう状況をもたらしたわけです。自分がちょうどいい刺激というものをその時ちょうどよく起こすというのは、ものすごく難しいことなのね。例えば、今この部屋が明かるすぎるとか、周りの音が静かすぎるとかうるさすぎるとか。それから、温度が低いとか風が吹いているとかいろんな刺激があってちょうどいい刺激というのはなかなか得られない。外界に操作的に働きかけることが何らかの理由で困難な時に、自分にちょうどいい刺激を作るというのは本当に難しいことなのね。そういう意味で障害の重いお子さんというのは、そういう外界に関係なく自分でちょうどよい刺激を作るのに、非常に長い間かけてきちんとやっているわけです。私たちがそれを見るとやっぱりちょっと止めさせたいという気になっちゃう。というのは、こういうふうにすると、たぶんここの刺激に集中しちゃうから、本当に一生懸命になっちゃうわけ。だから、当然、目で外界を見なくなっちゃうだろうし、動きもなくなっちゃうだろうし、いろんな意味で外界に関心を示さなくなって、みんなが予想するような状況と違ってくるから、何とか手を口へ持っていくことを止めさせたいという気になるんじゃないのかな。そういう思いはその人のことを一生懸命考えてあげていることなんで、決して悪いことではないかもしれないけど、まず第一になぜこれをやっているのかということをきちんと私たちが理解しないといけないんじゃないか。
 それと、もう一つは、そういうことを通して私たちがもう少し人間行動の原点というか、人間行動の成り立ちの根本というものをもう少し解明していかないといけないんじゃないか。そういうことを放り出しといて、ただこういうくせなんだ、こういう奇妙な行動なんだ、だからやめさせるんだという単純な発想法で決めつけて、しかも無理矢理やめさせるというんだったら、ほとんどその考え方もやり方も意味を持っていないんじゃないかということなんです。私たちがこれからちゃんと、人間とはあるいは生きているということの意味はということを障害の重い子どもと共に生き教わることによって明らかにしていかなければならない。そこに出番があるんじゃないか。ということなのね。
 そういう意味でひろみさんのなさっていることをよく考えないといけない。まず第一に、この手とか口とかいうのが何なんだろうか。そういうことなんですね。で、あんまり面倒臭いことをぐずぐず言ってもしかたがないから、直接的に話すと、この手というものは、自分の体に触るというのが大きな役割なんです。何のために自分の体に触らなければならないのか。自分と外界というものを区別して、外界というものをその人自身が作り出すための基礎になるからです。だから、自分に触るから相手に触るわけ。いちばん簡単なのは、赤ちゃんがおっぱいを飲みながらお母さんに触っているのは、自分に触った上でお母さんに触るわけ。いきなり手を伸ばしてお母さんのほっぺたを触ったり髪の毛をつかんだりする子はいない。まず自分の頬に触ったり自分の髪の毛に触ったりして、しかる後に相手に触るわけ。つまり、自分に触るということは、自分で自分というものを確認することなんですよ。そういう自分の確認というものをもとにして外界との区別というものが生まれて、その延長線上に外界というものを構成するわけです。まず外界があって何か受け身みたいにしてパッと外界を理解するというような、そんなふうに人間というのは外界を理解していくわけじゃないです。だから、自分に触っているということは非常に大事なこと。
 しかも、口に触るというのは本当にいちばん自分自身の中心なんです。そして、しかも、手と口というのが対面しているわけ。よく目と手というのがこうなる。特に、手鏡と言って人が死にそうになると自分の手をよくこう見るわけ。この目と手というのも対面するものなんです。そういう対面というものが起こる基礎というものは手と口なんです。この場合、直接的に対面しているわけなんです。非常に直接的なんです。だから、まさか手と口が対面しているというのが見えないんです。だけども明らかに手というのが外からその人に向かって、そして、その人自身は口でもってその外側からの刺激を受けている。これが非常に大きな意味を持っているわけ。ひろみさんだけではないです。手と口というものが直接結びついているお子さんというのはたくさんいますよ。それがみんなその人によって独特のその人のやり方というものを持っている。それはもう千差万別で、こんなに人間というのはその人自身がいろんなことを工夫して、やがて自分自身の独特のやり方にたどり着くものなのかなあというほど、本当にいろんなその。だからそういう意味で面白いわけ。
 このひろみさんの場合も、そういう意味の面白さというのは、食事をしている時に介添えしている人がスプーンを見せて、彼女がそれを見て、そのスプーンを近づけると口を開けるので、入れてあげるわけ。だから、スプーンを見てスプーンの動きに応じて彼女が口をパッと開けて、それで食べるということ。非常にスムーズにいっているわけ。たぶんおばあさんみたいな人がいて、この人をかわいがったんだと思う。そして、ほんとうに養ったことで、この方は食べるということは、見て口を開けて、そして入ってきた物を、あまり咀嚼もなさらないようだけれども飲み込むということだと思っていらっしゃるわけ。まさか食べるということが前に食器みたいなものがあって、その食器を自分で持つなんてね。あるいは、スプーンをつかんで自分が口に持っていってなんて、ゆめゆめそんなことを思っていない。食べるというのは、ちょうど目の前に出てきた場合にそれに対してじっと注目して見ているわけ。で、口を開けて、そして口の中に入ってくる(入れてもらう)という……。だから、これは受け身なわけ。外界の刺激が直接その人の中に入ってくるわけだから。空気だって吸わなきゃ入ってこない。食物に関しては口を開けば入ってくるんだから。もっと受け身になると鼻から入れられるとか、もっとすごい状況がいくらでも生じるわけですけれども。だから、ものすごいこれは受け身なんですよ。
 そういう受け身の状況というものが何をもたらすかというと、自己刺激というものが必要になってくるわけです。だから、そういう受け身の状態が多ければ多いほど、その人自身は何らかの意味で自己刺激しているわけです。ただはっきり指で唇をつっつけば、はっきり自己刺激がわかるけれども、もっと小さな自己刺激というものはいくらでもあるわけ。あるいは、呼吸の調整みたいなところで、息を荒くしているような場面だって、それを聞いているという場合だってたくさんあるわけ。だから、音に関しても、そういう触覚的なことに関しても、それからもっと明るさみたいなことに関しても、自己刺激的なことというのはたくさんあるわけです。だけどそれは受け身というものを基本にして、受け身に見合うだけの自己刺激をこっち側で作ってバランスをとっているわけです。
 そこへ今度スプーンを持たせるわけ。まあ持たせられているわけですね。親指で何とか持たせようと思っていらっしゃるけれど、この人はここにかけるから。ここにかけるからこの指はきかないのね。だから、ここにかけるからこの指をきかせようというんだったら、むしろ積極的にここにひっかけさせといて、それで持たせた方がいいね。むしろその方がかえって持ちやすさというものはこの人にとってはわかりやすくなるわけです。今度はスプーンを持たせて、持ってスプーンを見てても、スプーンは近づいてこないですよ。これはこの人にとってものすごく困るとこなのね。見ればその物がすっと口の中に入ってくるというのが普通の状況なんだから。それが、見ても来ないわけね。それはいいんだけど、今度そうやって持たせて、口にこういうふうにこう持っていかされるわけですよ。持っていった時に口を開かなきゃいけないということなんです。そうすると、そのスプーンと口との間というものを何かつなぐものがなきゃだめなんですよ。いちばんいいのは、そこにエレベーターとかエスカレーターみたいなものがあって、ゆっくりスーッと動いてくるようなものがあればいちばんいいんですよ。こうずっと。ないから、それは。だから、ただ見てこれをどうするのか。だから、やっぱりそこでこの人は考えるわけ。これは直接向かい合っているんだから、向こうから放れば口に当たると、そういうふうにやるわけ。事実、口にうまく当たっているわけ。ところがあたった瞬間に口を開くというのが難しいのね。というのは、人が持ってくるのを見て口を開くのはわかるわけ。自分がやってるから。手の動作をやっている時に口を開くかどうかということ。これはとても大きな問題で、これはだんだん時間をかけてゆっくりと解明していかなければならない。もうあんまり時間がないから、この場では駄目ですね。
 あのね、宇宙旅行で水を飲む時にみんなどうやっているかわかりますか。ロシアのスプートニクと言うのかな、秋山さんというのがそれに乗って見せてくれたんだけど、ピュッピュッと出るのね。そこでこうやって口で受ける。あーそうやっているんですよ。だから、ひろみさんを宇宙旅行士にすればいいと思う。既にもう宇宙旅行を経験しているんだと、そういうふうに思えます。そういうふうに思って、もう一度午前中のあの場面を見てみたらどうでしょう。と思うので、そこのところをわざわざビデオで……。その後がどういうわけかビデオが流れちゃってて。そこのところをやってください。要するにひろみさんが宇宙船に乗って旅行しているんだと、そういうふうにね。
 (ビデオを映す。)他にいろんな要素が入っているから、よけいなことを周りの人がさせるから。だから、本当の動作の本当のところが見えなくなっちゃっている場面がたくさんあるけど、にもかかわらず、口に向こう側から投げ込んでいるんです。そこが素晴らしいです。
 これね、秋山さんに見せてあげると、すぐ秋山さんだったらわかるかもしれない。だいたい唇をつっつくということは宇宙で絶対必要なことなのね。宇宙旅行の訓練センターでばかみたいなことばっかりしているわけ。だからいつまでたっても地球上の生活を無重力に持ち込もうとしているわけ。だから人間の新しい行動がいつまでたっても出てこない。だからいつまでたっても宇宙遊泳だとか、宇宙の中で泳いでて。宇宙の中でこそ新しい手の役割とか、新しい足の役割とか、新しい口の役割ね、新しい目の役割というのが成立するはずなんですよ。
 このこぼれたのをちゃんと入れてくださって。これこれ。何でああゆうふうにやらせになるとちゃんと見て口を開けてパクッと食べるのに。
 これは足台ね。この足を踏みしめているのはすごくいいんで、この足を踏めしめているために、この人自身はすごく踏み込み方が上手になって、下半身が安定していると思う。
 スプーンを見て口の中に入れることができるんだから、で、自分で食べる時にあんなに忙しそうにやらなくてもよさそうなものなのにと思っちゃうかもしれないけれども。あのね、よく見るとわかるかもしれないけれども、スプーンを持っているので、唇に触る触り方が変わっているのね。非常に細かいところをうまく工夫しているんです。
 これなんかどっちかっていうと、外界とその人とのつながりができて口開く場面と食物を投げ込むというよりはスプーンで食べるというそういう感じなのね。
 えっと時間がありませんので、はい。(ビデオを止める。)
 これね、いつまで見ててもきりがないんだけれども、食物を見せてスプーンが近づいていくと、その近づいたスプーンをよく見て、ある地点でパクッと口を開けて、食物が入ってくるわけね。だから見かけはそれでいいような気がするんだけど、その人自身の外界への働きかけというのがないし、やらせの執拗な繰り返しの結果としてでき上がった完全な受け身の行動なんです。それこそ、養う人にとっては都合がよいかもしれないけれど、まことに困った行動なのです。つまり、その人自身と外界が一緒になっちゃっているのね。でね、そういう意味では自分と外界というのが全く外界に包まれているというか、区別がつかない状況であるわけね。それがいったい外界なのか自分なのかということになっちゃうわけ。それで、森田君のレポートを読んでいると情動ということが出てくるんだけど、ことに画面が流れちゃっててよくわからないんだけど、音楽を聞いてひろみさんが泣くのね。その時にその場面の自己と外界ということを考えると、まさにその時はひろみさんは自己自身なのね。外界というものは自己自身なの。それに対して、今度食物を見て口で受けている時というのはひろみさん自身が存在しなくて今度ひろみさんを含めた外界自身になっちゃっているわけ。だから外界自身になるかその人自身になるかっていうことが入れ代わりで起こっているわけ。
 そこへその人自身が自分自身であるということ、それを考えて、その人自身が外界へ働きかけて何とか食物を見るようにしよう、スプーンを持たせて自分で食べるようにしようというわけですね。それで、スプーンを持たせちゃうのね。でも考えてみれば、持たせちゃうということは、そこまではやらせになっちゃっているわけ。だから、後はその人が外界に働きかけたわけじゃないわけ。そういう状況から外界の物を自分自身に持ってこようといっても、それはつながらないわけ。だから、その人自身が外界に働きかけたということを、どこかに前提にしないと。これはやっぱり、外界からその人自身というものが、受け身の固着した行動として出てくるわけ。つまり、一方通行になっちゃってて、向こうから来るということしかわからない。こっちから行ってそして向こうから来るんだっていう、そういう関係というものがつかみづらい。それで、そういう関係をつかむということが非常に大事なところなのね。それは食事の場面でスプーンを持たせることによってやるというのは、これはちょっと直接的なわけです。もう少し間接的なやり方でやらなくちゃ、意味がないんじゃないかということです。幸いにしてこの人自身が指で自分の唇をつっついているんだから、いろんなことがそこで考えられるわけ。そこでその人自身が自分で自分の外界を広げていくような自発的基礎というものが何かということを、私たちがよく考えなくてはいけない。
 にもかかわらず、スプーンを持たせて、こう自分で放り投げているというのは、やっぱりその人自身の自発なのね。そして、そこに私たちが見るとものすごい奇妙なことに見えるけれども、宇宙旅行している宇宙飛行士が水を飲んでいる奇妙さから比べれば、全然奇妙じゃない。ちゃんと狙いをつけてやっているので。それよりも、どうせ持たせるんだったらそのスプーンを自分の口にちょっと触らして、そしてその食物のところに持っていって、それですくってあげてというところを、まあそれだけでも足してあげれば、仮にやらせであっても、そしたら、行って来いになるから。行ったきりとかこっちに来たきりというんじゃ、一つのまとまりのある行動としては成立しないのです。
 だから、非常に密接なビタッとした関係になっている場合は、例えば自己刺激的な関係になっているような場合はそれでいいんだけど、間にちょっと空間みたいなものが入っちゃって、それでその空間的な処理というものを必要としているような行動というものは、どうしてもそういう行ったきりの一方通行では駄目なのです。だから、そういう点で、自分自身というものをその人自身がどうやって獲得していくのか。そして獲得した自分自身というものを通して、外界というものをどうしてその人自身が組み立てていくのか。そういう組み立てた外界をもとにして外界と自分自身がどうかかわりあっていくのかという人間行動の成り立ちの基本的な原則というものを、私たちがもう少し考えてみたい。
 ここに起こっているひろみさんの行動というのは、まず対面というものがあること。それから非常に直接的だけれども、放り投げるという自発があるということ。それが非常に一方通行なんだけれども、そこにその人自身の運動の組み立てがあるわけ。だから、そういう意味で体の部分というのをその人自身がどういうふうに使って、そして、自分の行動を組み立てるのかという、そういうことを考えていくと、だんだんわかってくる。養う人が食物を持ってくるのを見て口をパッと開くのは、やらせで、ものすごい受け身の固着だとわかるわけ。
 足とか口とか手とか目というものは、人間行動の成り立ちの基本においてどういう役割を果たしているのかということが、今日、まださっぱりわかっていないです。さっぱりわかっていないどころじゃなくて、誰もまだわかろうともしていない。だから、どこの本にも書いていないし、世界中の誰もまだわかっていない。ひとり、今、ここにいらっしゃるみなさんがわかるかわからないかは別にして、少なくとも少しチャンスがあるんですね。私たちの障害の重い子どもとのかかわりあいというのは、そういう大きな意味を持っているんです。ただその子が言葉がしゃべれればいいとか、日常生活が自立すればいいとか社会的に働けるようになればいいとか、そんな小さなつまらないことではないです。もっと生まれてから死ぬまでの一生の問題なんです。人間そのものの問題。人間の生きていくということの基本の問題です。そこに、やっぱり私たちの一つの大きな夢があるんですね。
 土曜日に友仁君という人が来たんですね。そして、文字が少しずつ読めるようになってきているわけです。お母さんはうれしいわけです。だから、絵本を見せる。そうすると、絵本を逆さまに見るというんですね。それで、お母さんが、その絵本は逆さまだからこういうふうに見なくては駄目だと言うけれど、友仁君は逆さまにしてこれがいいんだと言うわけです。その場合にどっちの考えが合ってるとか合わないとかいうのではないんですね。友仁君の見方というものを考えなくてはいけない。友仁君の見方というのは、どっちかと言うと、形よりも色なんですね。それから全体よりも一部なんです。そして、絵本を逆さまに見ているというのは、ひょっとするとすごい大きな意味があるかもしれない。そして、誰でも、いちばん最初は絵本を逆さまに見たに違いないんですね。それが、初めから、絵本が上下がはっきりしていて、きちんと見たというお子さんが仮にいらっしゃるとすれば、いちばん大事なところを親とかまわりの人が見そこなっているわけです。
 土曜日に通所している美生子さんという方が、非常に音に興味を示して、マスカラの音がかすかにするんですね。これが本当にかすかにする。だけど、それをちゃんと聞いているわけです。それが、もう本当にわれわれではとても聞こえないような小さな音。あっ、音が違うのか。マラカット?僕何と言った? (「マラカスをマスカラと言いました。」) マスカラと言ったの? それ,こうやると(まつ毛を弾きながら)音がする?
 ともかく、みなさん動きが少ないとか、同じことばかりしているとか、何か奇妙なことばかりでわけがわからないとか、おっしゃるかもしれないけれど、音とか触覚とか、だから、聴覚の世界、触覚の世界、それから視覚の世界、それぞれの世界において、それぞれの子どもたちが独自の、本当に素晴らしい状況を展開しているわけです。私たちに見えないだけ。ただ、非常にそれがわかりにくいものなんですね。細かくて、ものすごく精密なんです。だから、これは、だんだん細かくなって、だんだん精密になって、だんだん、もう何と言うか、その刺激だけということになってくる。しかし、刺激をただ感覚をあけっ放しにして受け入れているのではないのです。私たちと同じように、私たち以上に、ピントを合わせたり、ズームを使ったり、絞りやシャッタースピードを考え、全体的な構図を作り出して、とても上手に、深く、大きく、受け止めているのです。それは障害の重い子どもたちの心が透明だからなのです。
 やっぱり、もし、私たちが本当にものを考えていくとか、本当に何かを追及していくという時には、そういう順序というか、そういう追及の仕方に、深さ、緻密さ、全体としてのまとまりというものが、非常に大切なところなんですね。そういう追及の仕方で新しい世界というものを展開している子どもたちを、ただ病気だとか、何もできないとか、それから言葉がしゃべれないじゃないか、大小便たれ流しじゃないかとか、働きがないから穀つぶしじゃないかというふうに、ただそんなことを言っていていいのかどうかということなんですね。
 あっこれはいけないな。もう2分過ぎてしまったんだ。だから、結論から言いますと、きわめて簡単なんです。一つは、京都の堀川病院の先生に聞いたんだけど、これからすごい老人社会が来るらしんですね。それで、医療だけでなくて、看護だとか介護というのがすごく大事になるらしい。だけども、そこで、いちばん大事なところは、人間とは何かということの追及なんです。その人間とは何かということの追及は、その人自身の、体の部分の使い方。とても上手に使って、とても巧みな使い方。病気があろうと、人にどんなにしいたげられていようと、むしろ、そういう意味で制限を受けて、いろいろごてごてごてごてしている人の方が、自分の体の使い方というのがそれだけ上手なわけです。だから、そういうことをよく考えて。人間の場合には、特に姿勢の変化というのが非常に大きいんですね。いろんな姿勢というものをとるんで、そういう姿勢が示しているところの人間の成り立ちというものを、そういうものから私たちが、もう、今までのことに慣れてしまわないで、いつも、もっと新しい新鮮な感覚で、新しい感性というか、新しい考え方というものを持って、そして自分の運動というものを組み立てて外界に働きかけ、新しい夢の世界を構成するために、やっぱり、障害の重いお子さんから教わるということが大事なこと。
 それと、もう一つ大事なことは、これから人間が宇宙へ行くわけです。そして、全く新しい無重力の状態というものを経験するわけです。その時に、いつまでも地球の重力の中で生活して、俺はこういう生活様式なんだと言って、そういうことに固執していたら駄目なんですね。だから、いち早くそういうものを捨てさってしまって、新しいそういう環境に適応できるような柔軟な心というか、柔軟な姿勢というか。そして、そういうことから人間の根本というものを見すえているうちに、人間の未来、人類の未来というものが見えてくる。今、ビデオで見た、ひろみさんの食事の場面から、大きな人類の未来というものが見えてきた人は、もう本当に素晴らしい人です。見えてこない人は普通の人。素晴らしい人でも普通の人でも、それはどっちでもかまわないんですね。ということが私の結論ですね。
 ちょっと、これ延長したんですね。3時50分までなのに、今、3時56分。本当は、もう少し細かい話をしようと思ったんだけど、やっぱり、『忘れな草をあなたに』ということを僕は大事にした方がいいと思います。午前中のビデオは、流れないでちゃんと映ったの? (「おせんべいのところだけ流れたんですけれど。」) 僕のビデオは全部流れてしまった。だから、『忘れな草をあなたに』というのが、どんなメロディーだったんだかわからなくなってしまった。あの場面も本当にいいんですね。だけど、本当にいいんだけど、にもかかわらず、その人自身が自分というものを確立して、外界というものを構成していくそういう基礎というものを、よく考えていかないと、本当の人間の大きさというか、たくましさというか、弱いように見えて、根が強いというか、そういうところが本当の意味で見えてこないのではないか。
 以上で終わりです。何かご質問があったら、感想を書く紙切れの『その他』のところへ書いてください。