熊本大学集中講義のためのビデオ

                    平成5年12月21日録画

                         中 島 昭 美


 みなさん、こんにちは。あっ、こんにちはでしょうね。今日、今録画しているのは平成の5年、12月21日、火曜日です。研究所で、柴田奈苗さんに手伝っていただいて、録画を始めました。奈苗さんがいやだと言うけれど、枯れ木も山のにぎわい、ではないけれど、話が聞きたくない人は奈苗さんの顔を見ているというようなことで、話を進めたいと思って、無理矢理横に座ってもらいました。
 柴田さん、ちょっと自己紹介しておいた方がいいんじゃないでしょうか。新しい学生さんで、奈苗さんのことを知らない人もいるんじゃないかしら。いないかな。せっかくだからズームにして。

(「柴田奈苗です。熊本には、夏の研究会に行っていますが、この冬の集中講義は3回参加させていただいて、最近は、さぼって家にいることが多いです。今日は録画の手伝いに来ました。」)

 決して枯れ木ではありません。
 というわけで、これから話をするわけですけれど、23日から柴田さん始めるのかな? 24日から? じゃあ、26日の日曜日にこのビデオを映すのかもしれませんね。27日かしら。いずれにしても、日曜日か月曜日に映すんじゃないでしょうか。1時間ですから、タイマーを持ってきましょう。今、2時37分だけど、一応、2時半にして、1時間にセットしてスタートします。これ、1時間たつとまことに奇妙な、悲鳴のような音が鳴り出すから、そしたらやめるということにしましょう。
 そこで、みなさん知らないかもしれないけれど、もう6年たつのかな、8月に熊本で大会をして、熊本の大会は、だけど、奈苗さんは熊本には来ませんでしたね。今度、広島へ行って。62年ですね。62年に、熊本から広島へ行って、倒れてしまって、それからちょうど6年たちます。だから、もう6年過ぎたんですね。手術したのが、その62年の12月の16日かな。だから、ちょうど今手術してから6年と5日目ぐらいです。それで、少しずつ健康を取り戻して、何か今はもう手術前と同じくらいかそれ以上に調子はいいです。だけど、それだけ6年間で6歳年をとって、66になってしまったから、それだけ老人になったきたことは、確かだけれども、体の調子は、悪いとは言えないんで、来年のことを言ってはあれだけど、来年8月に熊本で、重複研の大会がありますけれども、進先生が英国留学でいらっしゃらないんで、私が進先生の代わりにいろいろ助言とか、話し合いとか、そういう場にできるだけ出たいと思います。
 でも、病院に、今、月に2回行っているんです。消化器の方と心臓の方と2回行っているんです。それで、いつ行ったのかな、18日の土曜日の日に、心臓に行ったんですね。消化器の方は、ものすごく待たされて、朝7時半に行っても、診察してもらえるのが10時半ぐらいで、3時間待って、それから診察してもらって、今度また、そこから薬とかなると、どうしてもお昼ぐらいまでかかってしまう。心臓の方は、午前の診療の受付の終了ぎりぎりの11時に行って、まずトロンボー値と言って血液の凝固率の検査をしてもらうんですね。それから心電図をとって、そして、その先生は診察が速いから、ほとんど待たないで、11時40分頃にそのトロンボー値と心電図が終わって12時ちょっと過ぎには、たいてい診察になって、12時半には終わってしまうんですね。
 ところが18日は非常に混んでいて、珍しく待たされたんですね。病院で待たされるとどういうことが起こるかと言うと、患者同士がよく話し合うんですよ。だから、ためになることはなるんだけれど、ちょっと待合い室が談話室みたいになってしまうおそれもあるんですね。毒蝮三太夫先生がTBSのラジオで言うには、病院の待合い室へ来る人は元気な人なんだって。だから、近ごろあの人来なくなったと言うと、それじゃあ本当に具合が悪くなったとみんなが言うんだと言っていたけれど、まあ、それほどひどくはないけれど。
 その18日の日も、突然後ろの席の人から声をかけられて、女の方で、66歳で私と同じうさぎ年なんですね。僕は6年前に心筋梗塞のため冠状動脈バイパス手術をしたんだけれど、その方は9年前に私と同じ手術をされました。それで、僕はものすごく重症で手術したんだけれど、その方は、どちらかと言うと、最初の心筋梗塞でしかも軽かったから、鼠蹊部の動脈から心臓へカテーテルを入れて、バルーンと言って直接血管を風船でふくらませるというやり方で、心臓の筋肉へ血液を送る血管をふくらませるやり方でやったらどうかと言われたんだけれども、その女の人は、いや手術してもらいたいと言って、普通だったら手術よりも風船でふくらませた方がいいと言うところなのに、手術したわけです。すごく度胸がいいんですね。 その方が問わず語りにおっしゃるには、自分には子どもが二人いて、女の子はお茶ノ水女子大の物理で、そこを卒業した後、東京医科歯科大学へ入ったんです。医科歯科の歯学部へ入って、歯医者さんなると言うんで、今、教養課程が2年終わって、来年の4月から、本当にこっちのお茶ノ水へ来て、歯医者さんの勉強を4年間するのかな。それで、国家試験を受けて、一応医局に入るんだろうけれど。お母さんは、自分の娘に歯を診てもらえるだろうと期待しているわけです。
 それから、男のお子さんは、その娘さんのお兄さんらしいんですけれど、その人は東京外語大を卒業して。頼近美津子と言って、結婚して姓が変わったけれども、フジテレビの会長と結婚して、そして子どもがぼこぼこっと2、3人生まれたのかな。だけど、その会長は死んでしまったんですよね。それで、だいぶ長い間アメリカで生活をしていたんだけれど、もともとはNHKのアナウンサーで、今は、東京にいて、NHKの音楽番組に時々顔を出しているんじゃないかな。知っていますか、頼近美津子って。知らない? その長男が、その人と外語大の英語科が一緒だということです。ところが、外語大と上智大と両方入ったんだそうです。それで、どうすると聞いたら両方行くと言って、外語大と上智大と両方通い出したらしいんです。ところが、やっぱり1年通って、両方は無理だということになって、上智大をやめて外語大に通うようにしたらしいんですけれど、でも考えてみると、片一方が官学で片一方が私学だから、両方通って同時に卒業することが可能なんじゃないかなあと、そういうことできるのかなあと思いましたけれど、まあ見つかって怒られるぐらいが関の山かもしれないから、おやめになった方がいいと思うし、また、両方入るのは何かと大変だと思いますけれどもね。まず、二つ試験を受けないといけないから。ともかく、今、新日鉄に勤めておいでで、鉄があまりよくないからあまり元気はないらしいんですが。
 それで、問わず語りにおっしゃるには、子どもに勉強をしろと言ったことは一度もないと。だから、何で、世の中の人が、自分の子どもに勉強しなさい勉強しなさいと言うのかというのが、そのお母さんの私に対する結論なんですよ。まあ、大変お話好きというか、僕も、しゃべる方ではそんなに負けないはずなんだけど、もう一方的にしゃべりまくられて。だけど、どうも、要するに自慢話なんですね。ところが、どうも、僕に話したということは、自慢話をするところが少ないんじゃないかということなんですね。
 それからもう一つは、その人自身が言っているように、その人自身は幸せなのかどうか。ちょっとここのところを考えてしまったわけです。よっぽど、あなたお幸せですかと、露骨に、単刀直入に聞いて見ようかと思ったんだけど、まあやめたんですね。
 男の子と女の子が二人いて、それが無事に育つということだけでも大変なことなのに、二人ともすごく頭がよくて、試験に落っこちたことがないんで、どうも僕はまいってしまうというか。それで、勉強しろなんて言ったことがないなんて。僕は、もちろん全然うらやましくないんですね。というよりは、そんな、試験にぼこぼこ入るというのは、僕としては、非常に心外なことですからね。僕は試験に落ちる人が好きなんですね。僕は、そんなことを言っては悪いけれど、試験に入る人はきらいなんです。特に、どんな試験を受けても入る奴は大きらいです。ろくなことをしませんからね、そういう奴は。
 これが、障害の重いお子さんを持ったお母さんが、問わず語りに、自分の子どもをそういうふうに自慢話をするかどうかということも、ちょっと考えてしまうわけです。どうでしょうね。そこのところが、僕は、割り切れないものを感じるんですね。やはり、お茶の水大、外語大のお母さんと同じように、自慢話をしてもらいたい。聞いている方がちょっと鼻につくようなほど、ひどい自慢話でなくても。
 それで、今日的な現象なんですね。現在の日本の社会の巨大化した組織が生んだ病的現象なんですね。昨日、12月20日の朝日新聞の夕刊の一面のこちら側に、「高校面接攻略本が人気」って堂々と出てるんですね。「高校の入試はこれで受かる」という「面接完全攻略本」というのが売れるんだと。それで、読んでみると、「うちの学校は校則が厳しいけれど、守れますか。」と面接で聞かれるそうです。まあ、こんなこと、聞く方も聞く方だと思いますけれどね。これに答えなければいけないというのも、何か妙だけど。それで「好感解答例」というのは、「学校生活の基本的ルールですから守ります。この学校は生活指導は厳しいけれど、勉強やクラブ活動は生徒の自主性を重んじてくれて、生徒も活発に行動していると聞いているので心配していません。」それで、「まずい解答例は、本文の冒頭に。」と書いてあって、この冒頭に何と書いてあるかと言うと、「校則というものは、生徒の話し合いで決められるものであって、時代とともに変化していくものだと思います。厳し過ぎる点は改めるべきだと思います。」これは、立派な意見のように見えるけれど、面接試験でこう答えると見事に落第すると書いてある。
 それで、だんだん読んでいくと、校長先生のお話なんかが出てきて、こういうマニュアル本が出ると、みんなの答えが同じになってしまうんだって。「東京都内のある私立高校長は、『こうした本が出ると受験生はみな暗記した同じ解答になってしまう。面接はリラックスしたふだんの姿を見たいだけ。よほどのことがない限り、面接では落ちませんよ。』と苦笑いしていた。」と言うけれど、今まさに、時代が、現代というものが、あまりにもがっちりとしすぎていて、身動きがとれない。自由がないどころかみんな自分自身の心を見失ってしまっている。何でもかんでも合格すればよい。そういうものなんじゃないでしょうか。それで、実は、それぞれ、どこかしら、そういうことによってわりきれないというか、不安感みたいなものが、みんなに起こってしまっているのではないかという気がするんですね。私たちから見たら幸せそうに見えるような人ほど、実は、本当は不安感を持ってとても不幸な一生を送ってしまうのではないでしょうか。そういう気がするんですね。
 やっぱり、優越感というのは優越感で独立していると思うかもしれないけれど、劣等感の本当は裏返しなんですね。だから、そういう意味で、常識だとか、あるものの考え方だとか、それから、物差しとか、こういうものが、社会が未成熟なうちならいいんだけど、成熟して、巨大化して、組織化して、固定化してしまうわけですね。それで、それが絶対化する。そして、有無を言わさず鵜呑みにさせる。だから、これ(健康)でなければもう駄目、他のもの(病気、障害、老化)はみんな駄目というふうに、後は、恐ろしい脅迫みたいになって、迫ってくるという世の中になってきたのではないかという気がするわけですね。
 土曜日の日に、突然、市川の通園施設の指導係長さんという人が来たんですね。この人は、一般の行政畑を歩いていたのに、学齢までの障害児の通園施設の指導係長に急になったらしいんですね。ところが、通園施設に来て、ものすごくいろんな疑問が出てきてしまった。まず第一に、障害児がバスに乗って通ってきて、園に入ってきた時に、保母さんたちが誰も迎えに行かない。それから、その子どもたちを見ても、本当に楽しそうな顔をしない。これは、非常に素朴なおかしいという疑問なんですね。本当に、子どもが来たんだから、今日はあの子何をするかしらとか、あの子どうしてるかしらとか、それから顔を見て思わず笑うとか、声をかけたくなるとか、そういう感じが全然ないというんです。その係長さんは、女の方なんだけど、非常に素朴な疑問を感じているわけですね。
 奈苗さんもあの時いましたね。市川の係長さんの話。その園のいろんな話を聞いたけれど、もう本当に、こういう現実なんだなというふうに、つくづく思わされたけれど。あっ、だけど、僕は別に一つの施設の悪口を言っているわけではないんですね。全体を通じて、どこの施設もみんなそうなんですね。今や、学校なんてろくな学校がないですよ。施設なんて本当に駄目ですよ。僕はそういうことは本当にはっきり言いたいですね。どこか、ある施設を名指しして非難しているわけではないんです。全体を非難しているんです。本当に今の学校の先生、何をしているんだと言いたいわけですね。それから、そういう通園施設で障害児の教育に携わっている人たち、本当に何をしているのかと、心の底から叫びたいですね。
 それで、僕も、そういう意味で、悪口ではないんで、本当に僕の言わんとしているところをくみ取っていただいて反省してもらいたいというのが僕の気持ちです。その人のプライドを傷つけるとか、ある施設や学校の名誉を棄損したとか、そんな小さな問題ではないんで、もっと大きな問題だと思うんですね。
 要するに、どの子もかわいいという、そういうことなんですよ。そして、障害の重い子どもとかかわりを持って、人間というものはこういう素晴らしいものなんだ、生きているというのは、本当はこういう意味を持っているものなんだということを、そういう障害の重い子どもからしみじみと学ぶということが大事なんですね。そして、しみじみ学ぶということ、これなくしてそういう子どもたちとかかわってもしょうがないと思うんです。それはもう、お母さんにも言いたいし、学校の先生にも言いたいし、それから施設の方にも言いたいわけです。みんなに本当にそのことは申し上げたいわけですね。
 ここでちょっと編集したビデオをはさんでいただくと思うんですけれども。寝たきりの無表情で、何の動きもないし、ぜいぜい呼吸しているだけだから、脳がめちゃくちゃに壊れているし、もう生きているということが本当にやっとなんだというふうに思うようなお子さんでも、それは、一つの見方であって、いくらそういう障害の重いお子さんでも、その子なりにちゃんと外界を理解しているし、その子なりにちゃんと自発があるということなんですね。そして、その子の顔を上げて、きりっとして非常にしっかりとして、底力のある立派なところとか、それから、本当に悠然たる笑いとか、そういうのを編集して、たぶんこの間にはさんで見せてくれると思うんですね。だから、ここで一度パチンとビデオが切れるわけです。

 (松下舞さんと中畝祥太君のビデオをはさむ。

 ともかく、子どもを育てるということは、壮大な夢なんですよ。ロマンに満ちたものなんですよ。そんな、別に障害の重いお子さんだけに限らないんで、育てる、そして自分が育つ、それで自分が育てられる中で相手も育つという関係というものは、本当に大スペクタクルなんですね。すごい雄大なものなんです。だけど、そんなこと、僕が言わなくてもわかるはずなんですね。それを、何で矮小化して、わざと汚くして、わざとめちゃめちゃにするのかというのが、私の不思議な疑問なんですね。
 例えば、『岩魂』のいちばん最後に載っている熊本の報告、『岩魂』ありますか。14号ね。ちょっと今『岩魂』を持ってきますから。
 これは、県立の熊本養護学校の井上礼治先生ですけれども、みなさんの先輩で、熊大を出た方ですね。なかなか、それこそ、試験に受かるんだか受からないんだか、わからない方なんですが。それで、『岩魂』の終わりに、「Sくんが見せてくれたこと」という一文があるわけです。それで、この文章のいちばん最後を読みますと。これ、それでは奈苗さんに読んでもらおうかな。この「おわりに」というところ。
 おわりに
 昨年来のS君の身体の変化に伴い、「かわいそうだ」、「いまからはよくて現状維持しかない」、「思うように体がいうことを聞かなくて不憫だ」という声がよく周囲の教師から聞かれる。Sくんがとても不幸な状態にどんどん陥っていく。だんだんと衰えていくというふうなことを殊更に強調されてしまう。しかしSくん本人の側で考えてみると、Sくんの人生そのものが悪い方向に行っているわけでも、彼の生活の価値が下がっていくわけでもまったくないはずである。
 昨今の生活主義教育の中で、他者からの援助をなるべく少なくすることが“自立”であるという考え方を耳にすることが多い。援助が必要かどうかを判断する際は、子ども自身が発している何らかの意思表示を受け手がどう読み取り、どれだけ的確で自然なかかわりができるかが問題になるのであって、どれだけ密接な人間関係がとれているかがその前提条件となるだろう。
 「Sくんが○○したくても、身体が動かない。それが不憫だ。」との周囲の声。しかし、接する人との人間関係のなかで気持ちを支え合うことができれば、哀れみの感情の前にお互いの世界を学び合い、感動し合えると思うし、補い合いが違和感なく行えるはずである。他者との人間関係をどんどん断ち切り疎遠にすることが自立であるのか。他者から援助してもらうことがよくないことだという意識が自立のことばの中にあるような気がしてならない。
 Sくんの左手のまひについて言えば、以前はスプーンを持ったりはさみを握ったりと、いわゆる操作をする手であったものが、右手での操作の際に体をしっかりと支える手へとその役割が変わってきている。まひが出て使えなくなったのでは決してないのであって、新しい姿勢の中で新しい使い方をしているのである。この営みは“衰え”ではなく、逆にSくんによる“創造”と言えるだろう。
 来年の春には本校中学部を卒業するSくんだが、今後どのようにSくんの身体の状況が変化しても、その状況の中で次なるバランスのとり方(姿勢の組立)をSくん自身が工夫しながら行っていくであろう。
 がんばれ、Sくん!

 これは『岩魂』ですからね。たぶん、読んだ方もいらっしゃるし、それから、借りれば読めると思うので、ごく短い4ページぐらいの論文なんですけれど、「身体の状況の変化に対応した、新しい姿勢の組み立て」という副題でSくんのことが書かれているわけですね。
 それで、ビデオでもご覧になったし、この論文でもわかるように、一人一人の子どもの持っている、一人一人の感じ方とか、考え方とか、運動の起こし方みたいなものがきちんとあって、その子なりに実に正確なことを、しかも、力強くやっている、退行だなんてすぐこちら側から勝手に決めつけていく気になってしまって、子どもたちの素晴らしい感じ方や工夫や創造力を認めようとしない。そんなことあるはずがないと、全く問題にしない。
 あれっ、どうしたの。モニターが切れてしまった。そこの接触がおかしいんですね。カメラの方は大丈夫なんですね。
 お母さんにしても、学校の先生にしても、障害児に出会った時に、初めて出会って、誰でも初めて人格を持った一人の赤ちゃんと出会うんだから同じことなんだけれど、にもかかわらず、障害を背負っていると言うと、何か悪いことが起こるんじゃないか、不治の重篤な病気だから、うまくいかないんじゃないかという不安感が非常に強くなってしまうわけですね。それから、いつまでも世話をしなくてはならないのではないか。とうていこの子どもは一生涯一人立ちできないんだから、最後まで自分が面倒を見なくてはならないのではないか。そうすると、今度は、自分が死んだ後どうなるんだろうと、そこまで考えるわけですね。だから、ものすごく先まで考えてしまって、いかにも常識的で、そう考えるのが当たり前のように思えるんだけれど、実は、ある種の暗い空想的な、自己陶酔で、とんでもない思い違いなんですね。そういう思い違いというものをもとにして、もっと具体的にその思い違いを助長する人が周囲にたくさんいるわけです。
 例えば、そのお母さんの親兄弟とか、親戚の人とか、お医者さんとか、近所の人とか、区役所の相談する人とか、みんな、そういう人たちがよってたかって、「この子は障害が重くて、いくら教育をしても駄目ですよ。せいぜい自分の身の周りのことができるようになったらそれで大したものなんですよ。そこまで行きませんよ。」と。第一、もっと徹底した言い方は、短命ですよというような、そういうふうな一生懸命育てても何もならないという言い方になってしまうわけです。
 だけど、一つの医学的な根拠とか、そういう経験として間違っていないというか、あっているということはかまわないんだけれど、これが絶対的な事実になってしまうわけです。それ以外の考え方をみんな排除してしまう可能性が非常に強い。そして、それがためにどういうことになるかと言うと、その子が気がすむように完全に放っておく、さらに、せめて生きている間、何の苦労もなく楽しく過ごさせたいという考えで、おいしいものを食べるとか、よい音楽を聞くとか、その人が楽しいと思うことを勝手に押しつけようとする。それと、反対に、その子が少しでもできないことができるようになる、あるいは、少しでも病気がよくなる、少しでも障害が少なくなる、それにはどうしたらいいかという、きわめて具体的な現実的なことを考えてあれこれやるわけです。
 例えばこういうことができないとしますね。そうすると、何とかできるようにするということになれば、それは全部やらせになってしまう。その子どもができないのを、無理にやらせるという押しつけになってしまうわけです。
 そういう意味で医療の濃い押しつけというのがあるわけですね。まあ、医療行為そのものが、そういうものを含んでいるわけですね。例えば、食べなければチューブを入れて、胃の中へ直接食物を入れる。呼吸ができなければ気管切開する。それから、後、自発的な呼吸ができなければ、呼吸機をつけて機械でさせるというふうに、有無を言わせないで。例えば、その子が口を開かなければ、口を無理矢理に開かせるというふうに、有無を言わせないわけです。これは、だけど、医療の場合は本当に徹底しているんですね。だけど、その考え方が、人間と人間との心のふれ合いの中に、育ているということの中に、もっと日常生活の習慣みたいなものの中にも、だんだんだんだん及んでくるわけです。徹底的な執拗なやらせの繰り返しをやるわけですね。だから、ここをこうすれば必ず口を開くとか、ここを押せば必ず飲みこむとか、ここをこうすれば必ずこうなるというようなやり方になる。また、そういうやり方が一見効果があるような場合もなきにしもあらず。子どもが言うことをよく聞くと勘違いして、得意になるから困ってしまいます。
 まあ、例えば、この間の盲聾の、まあ弱視聾かもしれないけれど、お子さんも、小児科へ連れていって薬をもらったら、少し寝る時間が長くなったから、お母さんが助かったと喜んでらっしゃるんだけど、これは、まあ薬で眠らせるということになる。だから、その点はいいのかもしれないけれど、そのことによってもたらされているものが何なのかということは、きわめてはっきりしないというか、実は、一方においては大変なことが起こっているんだということには、気がついてないんじゃないか。つまり、その子どもが、つまり、子どもがよく寝るようになってよかったと、一方的に思い込まないで、医学的には確かによかったのだが、育てるということからはプラスの面とマイナスの面とがあるというふうに、人間と人間との心のふれ合いの中で、子どもの本当の姿が見えてくるのだということをいつも主体的に考えていないと、とんでもない勘違いが起こるのです。これができないから無理矢理やらせる。そうすると押しつけになって、一見できるようになるように見えているんだけれど、それは、全くその人の自発というものを欠いた受け身の行動なわけです。だから、一般的に、そういう自発を失ってしまうと、子どもの方がすごく機械的になってしまうんですね。本当に、こうすればこうなってしまうというふうにね。
 例えば、排泄を時間的にするようになってしまう。これは、まことにおかしな話なんで、そんな、小便が出たくなって催して排泄をするというのが、その人の排泄の自発なんですね。それが、時間によってきちんと決めて、その時だけぱっと出るというふうに仮になったとしたら、それは、もう、しつこいやらせから起こった受け身の機械的固定的な反応なんですよ。ところが、これは、親にとっても先生にとってもとても便利なこと。しかも、いかにも排泄の自立みたいに一見見えることなんですよ。だから、そういうことはいくらでも起こっているわけです。
 例えば、食事の時に口をぱかっと大きくあいて、その時に口を大きくあくということが、それはもうおかしなことなんですね。そんな、食べる時に口をぱかっと大きくあけてというふうになったら、もうただ口をあけてるだけの話で、たぶん、もう目はつぶってしまっているだろうし、手はひっこめてしまっているだろうし、姿勢はのけぞってしまっているだろうし、もう悪い意味でその人自身を受け身にして、ただ口だけぱかっとあけている。大体、大きく口を開くというのは、止まらないから。自分で止まらないから、力いっぱいやって、後は、下あごの関節によってこれ以上いきませんというところまで下あごがきてしまっているということを示しているだけで、まあ、大きく口をあければ入れやすいし、面倒くさくもないし、非常に利点は多いんだけど、それは、お母さんの方の都合のいい、勝手なよさなんで、何のことはない、それは、ものすごくその子どもを受け身の状態にしているということですね。
 これは、姿勢でも、のけぞって上を向いてこうなってしまって、たぶん、ビデオでも映っていたと思うけれども、中畝さんの、やっぱり、上だとこう後ろにもたれかかってしまうんですね。下になると、がばっとこう伏せてしまって。ちょうど真ん中で、自分が、前でも後ろでもなく真ん中で自分の体が止まるということが起こらないわけですね。外界の物理的な端、あるいは自分の関節の端で運動を止めているのですね。
 つまり、よっかかるとかもたれるとかいうようなことで、外界の物理的な面を使って自分の運動を止めたり、それから、もうこれ以上開けないというほど大きく口を開いて、下あごの関節の端っこみたいなところで、自分の運動を止めたりする。そういう受け身の姿勢なり、それからそういう体の使い方なり、自分の起こした運動を止めることすら自発しないで、あなたまかせというようなことが起こってくる。そういう受け身が全体的にしみわたってくると、動きがすごく小さくなるけれども、すごく固執的になってくるわけです。そういう固執というのが何かと言うと、感覚をできるだけ少なく使う。だから、要するに、いつも目で見たり、手で触ったり、人とお話したり、それからいつも外界に対して自分の刺激を受け止める感覚を、まあ、いろんなところから刺激が入ってきますから、そういうものをいつも開いていくつかの感覚を総合的に使うということもやめてしまう。どこか、一つだけに決めてしまうわけです。今は、この感覚だけ。それで、しかも、その感覚の中の、きわめて狭い刺激の範囲だけにして、さらにある固定した使い方に限定してしまうわけです。
 だから、例えば、そういう食事の習慣とか、排泄の習慣とか、日常生活の仕方全般が、やらせになって、受け身にさせられて、周りの人が都合のいい状態で放っておかれたような状況になってくると、そのお子さん自身は、自分で何をしでかすかと言うと、そういう受け身の状態の中の自発をするわけです。そして、感覚をなるべく、いくつかの感覚をまとめてとか、関係的には使わない。一つ使う感覚の中でも、できるだけ狭い範囲内でそこだけでは精密に、しかもある極端に限定した使い方によって使うということを始めるわけです。だから、よく夜中に歯ぎしりするとか、夜中に騒ぎ出すとか、それで周りの人が寝られないということが起こる。それで、何とかしなくてはということになるわけです。それも、もう、実に工夫した、どこの歯をこすり合わせて歯ぎしりしているのかわからないくらい巧みなことなんですね。それは、本当に一つの感覚を、きわめて限定して、研ぎ澄まして使って、それに対応する運動を、工夫を重ねてたんねんに組み立てた時に初めて起こる、まあ、言わば職人芸なんですよね。すごく芸が細かいというか、精密なことなんですね。まねしようと思ってもまねできないわけですね。
 だけど、これが周りに与える影響というのは、うんざりするほどのものを持っている。なぜうんざりするかと言うと、とめどもないわけです。いつ始まるんだかわからないし、いつ終わるんだかわからないし、いったん始まったら、終わりそうがない。外界の働きかけに応じないし、興味を示さない。外界に関係なくそのことだけを熱心にやる。そして、その人の、ずんずんずんずん心の奥底まで響いてしまうわけです。だから、うんざりしてくるわけですよ。その子が、そういうふうに一つの感覚を、しかもきわめて刺激の範囲が狭いところだけで、使い方を限定して精密に使っていく。そのための自己刺激というものを自分で作り出していくということになると、そういうとめどもなさとか、固執とか、精密さとか、ある種の鋭さ、そういうものが起こってくるわけです。
 だから、そういう障害の重いお子さんが、まず第一に、昼夜が逆転しているとよく言われるんですよね。これもまことに受け身の自発なんですね。もし、その人自身の積極的な自発ならば、何も夜中にひっそりと寝静まって静かになって、なおかつあかりも少なくなっているという時に、その人自身がやらなくてもよさそうなものなんだけど。それは、やっぱり昼間みたいに、ものすごく刺激が多い時には、刺激が入ってきてしまう。そしてどの感覚もふさがなければならないから。そして、自分の研ぎ澄ました感覚だけ開いておいて、それに合わせて自分の考えぬいた末の、工夫に満ちた運動を、組み立てた通りに正確にするためには、周りの刺激が多いということは、非常に迷惑なことなんですね。だから、受け身の自発というのをしようとしたら、できるだけ静かだとか、できるだけ外界が安定しているとか、できるだけ暗いとか、それから、何かやっても人から制止されないとか、そういうような条件というのは必要なわけです。そうすると、だんだんだんだん夜になると、その人が自分の本当の活動の場というものができ上がって、だから、今度、夜活動するから昼間はいつもうとうと寝てるということになってくる。だから、昼夜の逆転というのは、その子自身が、生活が受け身であるということを、姿勢にしても、感覚の使い方にしても、日常生活のしつけにしても、全部が受け身であるということをもとにして起こしているその子自身の自発なんですね。まことに人間らしい行動のもっとも根本、つまりいちばんの発端なんですね。
 誰でも赤ちゃんの時にそういう時代があったに違いないんです。ただ、赤ちゃんだから、非常に運動が小さかったり、弱かったりする。でも、夜泣きをする子というのは、世の中にいっぱいいるんですね。それで、お母さんが、アパートみたいなところに住んでいて、子どもが夜泣きするんで、とうとう口に何か詰めてしまって、子どもが窒息するようなそんな悲惨な状況に追い込まれてしまうことだって、普通の子でもあるんです。ただ、体が小さいし、そういう意味で、周りのコントロールが割合しやすい。それから、その子自身が、昼間の中で積極的な自発活動が起こりやすいというわけです。そういうようなことを含めて、そういう人間行動の成り立ちの根本にある受け身の自発というものが隠れているわけです。それで、いつのまにか、それが、積極的な人間の自発に覆いかぶさってしまって、全然見えないで、普通の子どもには、初めからなかったような気がするわけです。でも、初め、授乳だけではなくて、昼夜を分かたずやらなければならないのは事実なんで、それから赤ちゃんがどっちかと言うと、夜の方がよくお目覚めで、昼間の方がいつも安らかにお休みになって、昼夜の逆転が起こっているということも、これも確かなんです。どんなお子さんだって、当然そういうことが起こっているんだけど、ただ、それが、何か月くらいかの間に覆いかぶさってしまって、消えたように見えるから、だから、例えば5歳でそういうことをするとか、7歳でそういう状態だとかいうような、人との違いみたいなものになってしまうんだけど、決して違っているわけではない。人間行動のきわめて基礎にある、人間行動の根源なんだと。その受け身の自発というものが。
 だから、そういう昼夜が逆転するとか、それから、何か特別な声を出すとか、自分の体に触るとか、あるいは小さな紙切れみたいなものを持ってひらひらするとか、あるいは手を振ってちらちらさせるとか、そういう自己刺激から、さらには、自分をたたくとか、そういう自傷みたいなものとか、そういうようなものも、何か、親や先生がやめさせたり、それからこれはよくないことだと思う行動というのは、実はみんな自発なんですね。全体の行動が受け身になっているところに作り出した、その人自身のすごい工夫した、ある意味では努力の結晶なんですね。押し込められた自発なので、自発を止めるより、押し込められた状態を解くことが大切なのです。 だから、そういう自己刺激の持っているとめどもなさとか、唐突さとか、それから執拗さとか、それから鋭さというものは、弁別が細かくて、動作が正確で、いろんな感覚をいっぺんに使わないで物差しを一つにして、しかも刺激の範囲、使い方をきわめて限定して、そこだけという、そういう独特のその人の運動の組み立て方なんですね。だから、力の入れ方とか、運動の速さとか、素早いというか、すごい熟練したというか、手練の早業かという感じがわれわれにはっきり感じられるんだけど、それと同時にわれわれはそういうようなうんざりするという状況になってしまうわけです。そして、何とかやめさせたいということになると、どういうふうにするかというと、無理矢理禁止にして押さえつけるわけです。そして、もういけないいけないと、ただそればかり言うわけです。あれもいけないこれもいけない、しちゃあいけないしちゃあいけないと言うから、そういう意味で、自発だから、いくら受け身でも自発だから、その自発を押さえられるからますますその人は受け身になるわけです。そして、受け身になると、ますますその受け身の自発というのが強くなっていくということの繰り返し。これを考えるのは、臭い匂いはもとから立たなきゃ駄目という、そこのところを、その受け身ををもたらした閉じ込められた状態を変えていかなければ駄目なわけです。
 そんな、食事の時に上を向いて口をあってあけたら、これはもういけないことなんだと。そんな、ある時間的に連れていくと、シューッシューッと小便するんだったら、これはいけないことなんだと。その周りの親とか先生とか、保母さんたちが、お世話するのには便利なことは、全部、とんでもないこと、いけないこと、困ったことなんだというふうに考えて、そこのところを直していかない限りは、そういう急に歯ぎしりだとか自己刺激だとか、自傷だとか、もっと言えば偏食……。偏食なんていうのは、ある一つの感覚をきわめて刺激の範囲を限定して使っている、そういう使い方なんです。そういう受け身の自発なんですよ。
 この間来た子が、要するにその子が、寄宿舎にいると何でも食べるんだけど、自分のうちではヨーグルトかな、何か二種類ぐらいの牛乳かな、それしか飲まないで、後はそっぽ向いてしまうわけですね。それは、見事にそっぽを向いてしまうわけですね。お母さんは、寄宿舎では緊張しているけれど、うちでは甘えているからと言うんですね。だけど、まさにそれが自発なんですね。だから、そういう偏食というのは、その人の自発なんだと思わないといけないんですね。ただ、受け身の自発なんだから、受け身の全体を変えない限りは、そこだけを変えようという考えは、どうしても駄目。だから、なるべく世話がしにくいような行動を起こさせるわけです。なるべくごちゃごちゃしてしまうようなふうに持っていって。これは、やってみないとわからない。それから時間がかかるんですね。ゆっくり、しっかり、長い間かかって、取り組んでいかなければならない。
 例えば、桑田洋子ちゃん。洋子さんか。洋子ちゃんなんて言ったら怒られるかな。洋子さんの場合なんかもそうなんで、もちろんまだ立って歩くというようなことが起こらなかったんだけど、その頃は、食べ物は絶対噛むことはしなかった。後は、多少舌を使って、上あごと舌でもってちょっと押すようなことは時々した。そして、こう丸くなって、砲丸みたいになって、こう自分で丸めてしまう。飲みこみはしないんですね。だんだんその丸めたものが食道を通って下の方へ入っていくわけです。だから、ものすごく時間がかかる。だから、考えてみれば、ずっと、朝食、昼食、夕食と三食の食事がつながっているようなものなんで。もう今は洋子さんは、そんな噛んだり飲みこんだりするというようなことなんか全然心配いらないわけです。やっぱり、その当時、もう20年くらいになるけれど、本当に、2、3年の間、ああでもないこうでもないと、この子が本当に物を噛めるようになるかしらと、本当にその時、一瞬、ほんの数年間ぐらい思ったことがあるわけです。
 それから、沖縄の盲聾のお子さんでただし君という子なんだけど、この子は、もうどんどんどんどん手が動くようになって、点字まで読めるようになったわけです。ところが、食事は、食事になるとものを持たない。それで、先生か誰かの近くへ来て、上を向いて口をぱっと大きくあいてしまう。それで、スプーンでこう持って何でも入れてもらうわけです。パンなんかでも、決して自分では入れないわけです。しかも、その子は、パンなんか大きなものを入れてもらいたいんですね。という状態でこれいったいどうなるんだろうと思ったけれど、このただし君の場合も、そんな、人の手の借りないで自分でちゃんと食べられるようになったわけですね。
 1時間たったんだ。これがビビビって鳴るよ。いいや、今日は少し延長して。
 日曜日に来た憲ちゃんの場合もそう。憲ちゃんの場合も、何しろ、何か飲ませようと思って口へ持っていったらすっとこう顔をそむけてしまう。それから、食物なんかも、食べさせようと思って持たせたらポーンと放ってしまう。他の食べられないものだったら、口へ持っていって歯にあてたり、何かいろんなことをするんですね。ところが食物だったらみんな捨ててしまう。憲ちゃんの場合なんかは、新潟の田中さんという人が、本当にそれは苦労したんです。小さなぐいのみを使ったりして、唇にあてる食器の小さいのから少しずつ大きくしたり、まず、憲ちゃんに手をつっこませて手を汚してしまう。その手をぱーっと口へ持っていって、口を汚して、それから食器やスプーンを唇につけること、さらに、自分で口を少し開いて唇を突き出すこと、舌を出すことをやったり、もう本当に苦労した。だから、もし、田中さんが今の憲ちゃんを見たら本当にびっくりしてしまうわけ。憲ちゃんが缶ジュースを缶からこうやって飲むんですね。あれ見たら本当に田中さんがびっくりしてしまうわけです。顔をそむけて、飲もうとしない時は、無理に口を開かせないで、鼻をきゅっとつまんで、口をこうやってがっとあけた時、入れればいいんだというふうに言って当たり前のようにやっていた。みんなそれをやるわけです。
 それで、いちばん困るのは、以前そうだったという話をしても、ああそうですかと言って、誰も感心もしないし、まあ、前のことを知らないから、わからないから、まさか、まさかと言うんです。もう、要するに、その人が、これはいくらかかわっても駄目じゃないかなというような絶望的な状態になったことがないから。大体、親がああそうですかと言って全然感心を示さない。
 北海道の来年3月で停年でおやめになる前東先生、この方は、盲聾のひろみさんという方にかかわって、非常にていねいな仕事をされた方なんですが、ひろみさんがすごい自傷なんです。それで、本当に苦労に苦労を重ねたんです。だけど、ひろみさんは、今、施設に入っていらっしゃるけれど、自傷なんか全然跡形もないんですね。だから、前にこの子、自傷をしていたんだと言ってもわからない。
 だから、本当に、そういう意味で絶望的な状態になったらしめたもの。そこに本当の工夫が生まれる。子どもの本来の姿が見えて来る。ワァー、この子どもは素晴らしい子どもなんだと感激してしまう。感動の連続なんです。そして、2、3年で解決する。それで、その間にいろんな工夫をする。それで、工夫をしながらその子どもからたくさんのことを教わる。親や先生に新しい考え方が育ってくる。そして、その子は、ちゃんと納得して、一つ一つ納得して、自分で自分のことを変えていくわけです。それは、もう本当に人間というものは、そういうところでは本当に芯が強いし、底力があるし、そういう意味では、本当に素晴らしい存在なんですね。その人間の奥の深さというものは、そういうものすごい固執とか、こっちがもう本当に気が変になりそうな、もう真っ暗みたいになってしまいそうな状態というふうにこっちが勝手になってしまっているだけで、だんだんそういうところから見えてくるものは、本当に、その子の持っている素晴らしさ。本当に人間というのは、こういうものなんだと。
 それが、何か言うと、すぐ行動が変化してしまったり、すぐこっちの要求に応じたり、何かやるとすぐわかったり、そういう子どもを相手にしていると、全然見えないんですね。本当に、自分の納得したことを、少しずつ自分で理解して、自分で少しずつ自分を変えていくという素晴らしい人間の育っていく姿が見えない。やっぱり、いつも、こうしたら損だとか、ああしたら得だとか、こうしたら便利だとか、他の人がこうして損しているのに、私だけはこうして得したとか、ああならなくてよかったとか、もう小さいうちからそういう判断をする。自分に本当に納得したそういうことを少しずつ自分が吸収して、自分が自分を変えていくという人間のいちばん大事な姿というものが、どうも普通のいわゆるコミュニケーションと、普通の社会の常識の中に見当たらない。これが、もう非常に残念なところですね。
 そして、そういう意味で、さっきの面接の仕方じゃないけれど、こういうふうに聞かれたら、こういうふうに答えなさいという全部マニュアル式になってしまっているわけです。そして、そういうマニュアル式でいちばん被害を受けているのは、障害の重い子どもたちなんですね。障害のない子どもたちは、マニュアルで落っこちたり入ったりして、別にその子の命だとか生活のもととかいうところまで、攻め込まれないわけです。ところが、障害児の何とかというマニュアルは、そういうその人の生活の基盤まで侵すおそれがある。下手をすると命のもとまで迫ってこられてしまうから、始末が悪い。だから、そういう意味で、軽いどうでもいいようなマニュアルは、それでそういうマニュアルは、たくさん売れても、みんなが便利に使うんだからいいんだけど、そんな調子で障害児のことをやったら、それは大変なことになる。そして、現に大変なことになってしまっているわけです。
 もう、親がお医者さんに頼り、お医者さんが駄目なら今度訓練に頼り、育てるということなんか誰も考えていないわけです。いわんや、障害児が素晴らしい人間なんで、そういう人間に私たちが学ばなければならない。そういう人間を通して私たちは、本当に生きている意味とか、人間存在の実感を深く教わっているんだということが、見えてこないわけです。だから、本当に人間が人間らしい自発というか、積極的な外界を取り入れて自発をしていくその根本が出てこない。
 だから、障害児教育の中で私たちがもっとも大事にしなければならないのは、子どもの笑いなんですよ。本当に、子どもが本当にわかった時にすごい笑いをするわけです。それは、大笑いでも何でもないんですね。その人が、非常に全身の力が抜けて、感覚の使い方とか運動の起こし方みたいなものが、ほどがよくなって、まったくどこにも障害のない自由な人間という感じの中でこみ上げてきている、自然で、周囲の人々の心を暖める笑い。これが人間の自発というもののいちばん基礎なのではないでしょうか。だから、そういう人間の本当の自発の中の基礎みたいなものが、一回でもお母さんとか先生とか施設の人が、子どもとその本当のところで出会ったら、もう一生障害の重い子どもとつき合って、一生学ぶことができる。
 ところが、いつまでも出会わないで、医学とか心理学とか、それからわけのわからないハウトゥー、療法にしがみついて、こうすればああなんだとか、ああすればこうなんだとか、わけのわからない理屈をさかんに言って、そして、決まりきったやり方で子どもにかかわって、そして、結局は子どもを受け身にしてしまって、何かできたできたと言って、勝手に自分で都合のいい解釈をしてしまって、そして最後は、あげくの果ては、自分でこんなつまらない仕事はないと思い出して、それで、もう自分が貝のようにというか、機械のようになって、ただ世話ばかりしているとか、ひょっとすると、もうこんなつまらないことはしていられないと言ってやめてしまうとか、逃げ出してしまうとか、もう子どもを施設に入れてしまったからさっぱりしたとか、そういうような、その人自身が自分で勝手に下らないものを信用してしまって、それで、下らないやり方をやって、子どもに迷惑をかけるとともに、自分で自分の自信を失ってしまって、自分自身を見失ってしまってということの繰り返しが現状なんですよ。そこへもってきて、社会全体が非常に強固にできていて、稼がなければ駄目だとか、地位がどうこうとか、生活をどうするんだとか、そんなことばっかり言って、迷いに迷いを重ねてしまう。もっといちばん大切な人間そのものというのが、見えてない。未来というものが見えない。もっと新しい感じ方とか、新しい考え方という展望が開けてこないということになるのではないでしょうか。
 だから、やっぱり、そういう意味で僕たちが考えなければいけないことは、人間としての自発の根源みたいなもの、そしてそういう意味では、どんな障害の重い子どもでも、音だとか触覚的な状況とか姿勢とか、それから風とか温度とか明るさとか影とか、そういうようなものには、たくさん見事に反応しているんだから、そういうことに気がついていけば、どういうものが自発であるかとわかるわけです。
 例えば、ビデオにも出てきているかもしれないけれど、中畝さんが、体を起こして、そして、どっちにも、後ろにもそっくり返らないし前にももたれかからないで、自分で背すじをすっと伸ばした状態というのが、これが人間の自発なんです。上半身を垂直にして、そして、前にも後ろにもいかないで、そこでバランスを保って、自分の姿勢を保持しているというか、運動を静止しているという、これが、人間の自発なんです。その時に、もっと自発するならば、思わず体をずうっと上げるというようなことが起これば、これはもっと素晴らしい自発なんですよ。だから、その時のその子の顔というのを見たら、あれっと思うくらい引き締まって、素晴らしい顔をしているんです。僕たちにはそういう顔ができないんです。すごい顔をしているんです。そういうバランスによる運動の止め方というか、姿勢の保持というものは、やっぱり上半身と下半身、それから体の前と後ろ、それと同時に、左右に対する受け身の自発を越えた自発というものがあるわけです。
 だから、仰向けで寝たきりだって、自発はあるわけです。つまり仰向けで寝たきりでも、首をこういうふうに振るというのは、すごい自発なんですよ。だから、だんだん言えば、ちょっと体を揺すったり、腰を浮かしたり、動かしたりするという、そういう意味で仰向けでも、その人自身の重心の移動を起こしているということはいくらでもあるし、それから仰向けでも外界の物の動きを目で追うというようなことがあるわけです。だから、特に首すじをのけぞらして外界の物、例えば人の影みたいなものをその人が目で追うというのは、ただ、物の動きを追っているんだから、自発とは言えないだろうと思うかもしれないけれど、そういう首すじをそり返して、頭頂を床面に対して垂直に立てて、目を動かすというのは、その人自身の非常に運動的な自発なんですよ。ただ、漫然と外界刺激を受けているのではないんですね。やっぱりその人自身の運動として、足で立っているのとは反対なのですが、頭のてっぺんを下にした垂直軸を工夫して作り出して、運動をこなしているというか、組み立てているというか、自発しているわけなんですね。
 だから、そういう意味で、例えば、その子が声を出したり、表情を変化させたり、まあ、舌を出したり、体を揺すったりというようなことが起こるとすれば、そこに、どの外界の刺激を受けて、その子はどの体の部分で、どんな感覚を使って、何のために、そういう運動なり表情の変化なり声なりを出しているのかという、そこのところ、その自発がわれわれがよく見定められるならば、そこからいろんなことが考えられるわけです。いろんなことをつなげるわけです。そういうことから考えていけば、その子にとって適切な外界の刺激というものを私たちが用意できるかもしれない。もし容易できれば、子どもたちは、あれほど働きかけに応ずることなく、無関心を装っていたのに、われわれが想像もつかないほど、きちんと、見事に、外界に対応していくわけです。そして、それこそ、舌を出したり、それから声を出したり、体を揺すったり、そして笑ったりするわけです。

 (玄関のチャイムが鳴る)
 えっと、奈苗さんが行ってしまったんで、もうこれで私の話は終わりにしたいと思うんです。結論としては、どの子もかわいいし、それから、素晴らしい。そして、そういう人間賛歌なんだということですね。

 (奈苗さんが戻ってきて)
 大体結論が出まして、障害の重い子どもとかかわり合うことによって私たちが、人間の素晴らしさというものを本当に実感して、いつも感動の中で、そういう子どもと共に生きていくということが大事だという、いつもと同じ結論ですね。じゃあ、これで終わりにしましょう。どうもご苦労様でした。