盲聾児の教育(第1回)
─第6回山梨重複障害教育研究会講演その1─
平成6年1月15日
中 島 昭 美
こんにちは、かな。思ったより人がいるんですね。もっと誰もいないということを考えてきましたけれども。おにぎやかで、結構なことじゃないでしょうか。今日はものすごく天気がいいから、こんなところで話なんか聞いているよりも、富士山へでも登った方がいいんじゃないかなとも思いますけれども、そういうわけにもいきませんので。まあ、あれですね、ちょうど、昼飯食ったから、僕も眠いけど、みんなも眠いんじゃないでしょうか。
講演がその1、その2に分かれたんですけれども、日程表で見ると、講演その1は、12時50分から13時30分となっているんですね。これを今やるところなんですね。なぜこういうふうに、その1その2に分かれたかと言うと、実は、今日この会場に古田さんという方がお見えになる予定だったんですが、その方が、昨日の夜、突如として間野さんのところへ電話があって、都合が悪くて来られないということで。たぶんここでちょっと話をしてくれと言ったので、来るのが急にいやになってしまったのではないかと思うんですけれどもね。
その古田さんという方は、みなさん方と年がだいぶ離れていて、僕よりも年上かな。ちょっとその辺、今日お会いした時によく聞いてみようと思ったんですけれど。山口成子さんが、甲府の盲学校に初めて入学した時に、担当された寮母さんなんです。まあ、言わば成子さんが甲府で初めて出会った新しいお母さんということです。
この間、家内がうちを整理していて、昭和36年の文部省の実験学校の報告書なんですけども、それが出てきたんですね。その辺のことを読んでみます。昭和36年にこれは書かれたものなんですけれども、一応は成子さんは、昭和20何年かな、昭和26年ですね。「昭和26年1月」、寒い頃なんですね。「山口成子が入学した。これに伴って盲ろうあ教育の基本方針を立てるために、三上校長、中島教頭」、この中島教頭と言うのは僕ではなくて、当時の山梨盲学校の教頭です。全国で、教頭で全盲だったのは、この山梨盲学校だけじゃないでしょうか。歩くのがすごく下手な方で、パンパンと手をたたいて廊下の真ん中をまっすぐ歩くわけです。そうすると人がどくと思うんですが、耳の聞こえない方もいらっしゃるから、そううまくいかないと思いますけれども。
「及び、滝田教諭、成田舎監」、この辺ちょっと本当はこの人たちを呼んで話を聞きたいと思っているんですけれど、成田舎監なんて、成子さんをいじめたという話しか、当時していなかったから、今、どういうことを考えているのか。「それから担任の寮母」って、せっかく古田さんがいるのに、それは担任寮母としか書かれてない。名前を書いてないんですね。「が、協議した結果、身振りサインによって教育を始めることにした。」以下、成子さんの状態などがずっと書いてあるわけですね。
それで、私は昭和26年の1月は知りませんけれども、その頃の状況を古田さんに聞いて、当時の盲聾教育のルーツみたいなものを、少しずつ明らかにしていきたいという考えを持ったわけです。この会場にも、飯野先生、今成子さんがお世話になっている山梨ライトハウス、そこの飯野先生がいらっしゃっているので、成子さんは、去年は手術をしてちょっとつらかったらしいけれども、今年は、とても元気なのではないかと思いますけれども、後でちょっとお話をおうかがいしたいなあと思っています。
「山口成子は、昭和18年、横浜で生まれた。」うちの家内が昭和17年だから、昭和18年に生まれていた人は、この会場にたくさんいるかな。昭和18年にすでに生まれていた方はいらっしゃいますか。あなた一人きりですか。あっまだいらしゃいますね。後ろの飯野先生はどうですか。(最初に手を上げた男性に)大正ではないですか。
(「まだ、そこまでは行きません。昭和14年生まれです。」)
ああ、そうですか。じゃあ兎年ですね。私の一回り下だ。大正生まれの人、いますか。いやあ、もう明治は遠くなりにけりじゃないんですね。大正は遠くなってしまっているんですね。
というようなわけで、昭和もだんだん遠くなってくるんですけれども、にもかかわらず、今、当時の山梨の盲聾教育を振り返ることは、私なりに意味があると思うんですね。それで、せっかく古田さんが来るので、30分ばかり古田さんにいろいろと話を聞いて、質問してみようと思ったんですけれども。来年からは、間野先生に頼んで、そういうコーナーをこの研究会の中に用意していただいて、毎年少しずつ、昭和20年から30年代に行われた山梨盲学校の盲聾教育に関係された方のお話をおうかがいするということをしたいと思いますね。
それで、ピンチヒッターと言っては何ですが、古田さんの代わりに、井上先生のお話をお願いします。成子さんの教育を自分の教育の原点だとお考えの方は、古田寮母さんだけではなくて、井上早苗さんもそうなんで、この話は、11月に研究所で早苗さんが雑談をしに私のところに来て、それで、話が始まったもので、井上早苗さんが古田さんが来ないにもかかわらず、わざわざ東京からお見えいただいので、ちょっとここへ出てきてもらって、早苗さんをぎゅうぎゅうとっちめることにしましょう……。
井上:私では駄目だと抵抗したのですけれども、駄目なので、お聞き入れいただかないので、出てまいりました。井上です。
中島:まず、自己紹介をして下さい。昭和何年生まれ?
井上:先生と似たようなもので。
中島:そんなことないでしょう。
井上:成子さんよりも上です。成子さんの生まれた時にはもうこの世に存在していた数少ない人間なんですけれども。いいですか?
中島:駄目。ちゃんと昭和何年何月生まれか。早苗さんはもう長いことつき合っているんですね。ちょっと今聞いたら、昭和36年からつき合っているんだと思ったんですけれども、37年からつき合っているらしいんですけれども、ずっとつき合っているんですね。それでつい最近……。
井上:もう、いいですよ、その話は……。
中島:やめましょう。
井上:昭和12年6月生まれです。だから、さっきの方より、まだ上なんです。
中島:そうですか。まことにお若くて。
井上:はい。
中島:わかりました。それで、成子さんが18年だから、6歳上ですね。成子さんの教育に早苗さんがずいぶん長い間かかわっていて、いろいろな意味で思い出が深いし、それから、今、成子さんの教育を、自分の教育の原点だとお考えになっていらっしゃるという気持ちは非常によくわかるんですけれども、その辺の話から、古田寮母さんを訪ねて、どういうふうなことになったかということを、ちょっと簡単に言っていただけますか。
井上:はい。私は、過去を振り返るのは、年寄りというか、まあ、年をとった証拠だというふうに思っていて、あまり最近までずっとこだわっていたわけではないんですけれども、特に、過去を振り返ろうとは思いませんでした。私は今ご紹介いただいたように、大学を出て、大学院に行った時に、昭和37年に中島先生にめぐり合って、それがきっかけで、昭和37年の5月に山梨の盲学校に連れてきていただいたのが最初の障害児と出会った、生まれて初めて障害児を見たという最初のことでした。それまで全然障害児とかかわり合うようになるだろうと思っていなくて、今の学生のことをモラトリアムと言えないような状況で、大学を出て大学院に行って、何かやろうかなと思っていたんです。学部の時は動物実験をやっていたものですから、人間とか子どもとかにかかわってみたいなと思って教育心理を選んだのがきっかけだったんですけれども。それからずっと時代の流れとともに障害が重くなってくる過程で、重複障害のお子さんのことをぼつぼつとやって、今、何となくたるんでいる人間なんですけれども。
だけど、直接は、2年前に梅津先生がお亡くなりになったことに非常に関係していたわけですけれども、平成4年の1月にお亡くなりになったのですが、その年の秋に、中島先生が、成子さんと忠男さんに梅津先生のお墓参りをさせたいというふうにおっしゃって。その下交渉と言いますか、準備のために、ライトハウスを私が9月の末にお訪ねして、飯野先生などにお会いしたのがきっかけなんですね。私の中に変化が起こったということについては。
私は、その後、いろんな成子さんの事情から、ずっと教育的なかかわりは持つことができなくなってしまいました。さっき先生にうかがったんですけれども、重複障害教育研究所の創立が昭和50年で、その記念の第1回の合宿として、久しぶりに成子さんや忠男さんを呼んで、合宿をして数日過ごしたというのが、成子さんと会った最後だったんです。それ以来ずっと何となく気になることはあったけど、かかわりは全然なかったんだけれども、2年前の9月の末にライトハウスをお訪ねした時に、成子さんと忠男さんに再会して、非常に、タイムカプセルというのはこういうものなんだろうかという、その10数年20年近くの間が何もない、昨日会っていたんじゃないかという感じがするくらい成子さんと忠男さんが変わっていない印象を受けたんですね。
それは私もどこかに、何か、ちょっとみじめな成子さんや忠男さんと会うんじゃないかというような、そういうどこかおそれみたいなものがあったのかなと思うのですけれども。何で成子さんや忠男さんとそれまで会わなかったかということについては、何か訪ねない方がいいのかなと。それは、とっても誤解だったということがわかったのですけれども。そういう思いもあって、それから怠慢もあって、全然交渉がなかったのですが、2年前にうかがった時に、飯野先生が私が行くということを成子さんに伝えて下さっていたので、成子さんは、その日、早めにお風呂にも入って、非常にさっぱりした、すっきりしたお顔で出てきて。忠男さんも、リュックをしょって。もうちょっと何もしないようになってしまっているのかなと思っていたんですけれども、とても活発でわが人生を生きているという感じの方に出会ったんですね。それで、すごく、ああ変わっていないんだということが一つありました。
それから、もう一つは、それからちょうど何日かたって、10月の10何日かになって、鎌倉の駅で待ち合わせて、施設の先生が成子さんと忠男さんを連れて、中島先生ご夫妻と合流して、お墓に行って。その時に、私がもう一つ感じたことは、忠男さんは、お母さんが山梨からご一緒していらして、それから、成子さんは、弟さん夫妻が鎌倉に車を持ってきて下さって、私たちを乗せてお墓に連れていって下さったんですね。それで、それと出会った時に、私は、もう一つちょっと新しい発見というようなものをしました。
それは、私がつき合っていた時に接した成子さんというのは、お母さんがせいぜい、お妹さんもいたかもしれないけれど、夏休みになんか引き取りにいらして、それで、帰るおうちも、おうちの事情でお母さんが働いていらっしゃるから連れて帰れなくて、私が、横浜訓盲院で夏休みを過ごさせていただくように送っていった覚えなんかがあるんですね。それから、おうちから迎えが来なくて、私が、合宿が終わって帰る時に、横浜の成子さんのうちを訪ねて、誰もいないおうちの中でずっと待っていて、それでお母さんが帰ってきて、それで引き渡して帰ってくるというようなことがあったんですね。そういうような時の成子さんの家庭の状況というものと、ずいぶん変わってきた。
忠男さんについてはお父さんが送り迎えに見えていたと思うけれど、お母様にお会いしたのは、この間が初めてみたいに思うんですね。
そういう面で、何かこう忠男さんや成子さんを取り巻いている方たちというのが、とても人生に余裕ができて、その時よりは、余裕ができているというのはおかしいけれど、まあその時は、それぞれの忠男さんや成子さんにかかわっている方たちが、すごくいるんだということで、成子さんがずっと子どもの頃から一生を過ごすということがこういうことなんだなと、そういう実感をすごく持ったんです。
それで、そういうようなことをひっくるめて、それからまた9月の出会いに戻るんですけれども、成子さんがとっても変わっていなかったということと、それから、飯野先生が、その後で盲学校の方に案内して下さったんですね。だけど、周りの様子も変わってしまっているし、すごく建物が増えているし、わからなかったけれど、だけど実際に建物を回ったら、ああここは私知っているという実感がものすごくあったのと、その中に、お二人だけ、当時から、私は昭和37年から39年か40年くらいまで合宿ができていたと思うんですけれども、その時にいらした先生が、体育の先生と中村先生という視覚障害を持った先生が、そのお二人がまた全然変わってないわけですね。私のこともお二人は覚えていて下さったし。そういう、人間がものを懐かしく思うということは、人とか場所というものも関係しているなとつくづく思いました。
そんなことを思って、私は、やっぱり、自分の原点だなと思ったことが一つあって。それで、私は、成子さんのことについて、当時のことをうかがうのは、中島先生からうかがったり、その頃から寮母さんやいろんな方たちから耳にしていることなんだけど、それが史実であるのか。それは、成子さんの行動について、例えば、屋根のてっぺんにまたがって空を仰いでたとか、それから何かそういう野生児的な、非常に成子さんの独特な行動というのが、何となく知っていることなんだけれども、それは事実なのか、どこからが伝説なのかということが、あまり自分がわかっていないということにとても気がつきました。 そういうわけで、私自身にとって、もっと、成子さんの最初の時期のことを知りたいということと、自分の原点だったので、そこを自分のために固めたいという衝動みたいなものがあって、それは、私は、2年間放っておいたんですけれども、私は、それを中島先生にその当時のことを私に話して下さいというふうに、実は、11月の末にお願いしたんですね。そしたら、中島先生は、古田さんを探しなさいと言われました。最初に成子さんが横浜から誰に連れられて来たのか、来た時どんな様子だったのかというようなことを知っているのは古田さんだから、古田さんに会うといい。そして、会って、それを聞いて、それからいろいろなことを話して下さるというようなことをおっしゃったんです。そういう事情でした。
そして、私は、もう一つ自分のために成子さんの事実を固めたいと思っているということと関係あるんですけれども、私は、特にお墓参りの時に、忠男さんのお母さんとか、それから成子さんの弟さんご夫婦、弟さんの奥さんの方がとても気配りのいいすてきな方だったと思うんですけれども、その方たちがそこにいらして、やっぱり成子さんが一生を生きるということはこういうことなんだなと思った時に、成子さんの人生のそれぞれにかかわっている人たちが、成子さんについて語ることをつないでいく必要があるのではないかと思ったんですね。それで、まあ最初に出会った時のことから、今の、非常に私は幸せに暮らしていらっしゃるんだと思うんだけれど、そういう今の生活の様子とか。
話が長くなりますが、例えば、飯野先生からうかがったら、忠男さんについて、私も2年前に会った時に印象深かったのは、リュックの中に昭和39年7月何日とか言う、29日だったかな、合宿の時に使ったテキストを入れていて、それを今でも、方程式か何かなんですけれども、勉強している。忠男さんの日課だそうです。それで、非常にこう私なんかが出会った最後の頃は、忠男さんはちょうど青年期で、バランスが悪くて、行動が停滞しているというようなことがちょっとあったりしたんだけど、今、非常にこう成人になって安定した感じをすごく受けたんですね。それで、そういう問題なんかを解いているということをおっしゃったし、私も机の上にあるのを見せていただいたんです。
そんなことで変わらないなあと思ったんですけれど、今、飯野先生にうかがったら、昭和から平成に変わった年号がやっぱりちょっとこだわって、今、平成何年かな、何年何月と言うのが理解はするんだけれど、本当に納得できないということで、これはどうすればいいんでしょうとおっしゃったのですけど、やっぱり私もそれをうかがって、どうすれば忠男さんが平成という年号に切り換われるかということが、一つまた学習の課題なのかもしれないけれども、やっぱり昭和の時代に生きているんだなと言うか、ずっと生き続けているんだなということを、今改めて感じたんです。そんなこと感じるなんて大したことではないかもしれないけれども。
まあ、そういうようないろいろな思いがありまして、それで、私は、どっちかと言うと、自分の体験としては、成子さんに、女が一人しかいなかったから、お風呂に入ったり買い物したりとか、いろんな日常的な生活も合宿の時はやったりしたから、成子さんについて固めたいという気がするんです。
そんなことで、古田さんに会いなさいと中島先生がおっしゃって下さったから、間野先生などにお願いして、古田さんのご住所をうかがって、それで12月の14日に古田さんを、最初にお尋ねしてきました。それで今日が二度目でお会いできると思ってすごく楽しみにしてきたのですが、ご都合でいらっしゃれないので、という事情です。もしあれだったら、古田さんが、こういう声をしてらっしゃるんだとか言うので、私、まだテープ起こしをしてないのですけれども、最初のところは、ここに持ってきましたので。そういう事情です。
中島:今晩、徹夜してこれからやろう。
井上:ちょっと、長くなってしまって、すみません。
中島:どうぞ、どうぞ。遠慮なく。テープ、あるんですね。それじゃあ聞かせて下さい。僕も聞いてないから、ちょっと聞きたいんだけれど。 ちょっと井上さんが、今、テープを用意しているので、その間に、今、お話を受けて思い出したことは、「日本盲ろう者を育てる会」と言うのが、今、ちょっと衰微しているけれども、昭和何年に発足したんでしたか。第1回の大会は、いつやったんでしょうか。48年かな。日本盲ろう者を育てる会の第1回の大会を池袋の区民センターでやったんですね。私としては、そういうことに関しては、必ず成子さんと忠男さんをお呼びするというのが私の考えですから、その時も、第1回の大会に、成子さんと忠男さんをお呼びしたんですね。
久しぶりで早苗さんと成子さんが会ったんですね。そしたら、茂子さんが、早苗さんを触って、いきなり指文字で「ABE(あべ)」とやったんですね。井上さんのことをもう阿部さんという人はほとんどいないんですね。旧姓阿部なんで、井上健治さんのところへお嫁に行ったから井上になったわけで。すると、井上さんが「うわあ私のことを阿部って呼んでもらったわ。」って言って喜んだのを、今、急に思い出したました。
準備ができたようですね。じゃあ、今これから古田さんの声ですね。井上:それがですね、鼎談なんです。古田さんは4人のお孫さんを育てて いるんです。お嬢様が学校の先生で、4人のお孫さんを育てて、3人はみんな小学生、中学生になって、3歳のはるなちゃんというお孫さんが一緒なんです。そのお孫さんも入ってます。
(古田さんへのインタヴューのテープ)
井上:1993年12月14日です。お名前は。はるなちゃん?
はるな:うん。
井上:はるなちゃんです。今日は、成子さんと最初にお会いになった古田さんをお訪ねしました。成子さんのお話をたくさん聞かせていただこうと思ってうかがいました。小さな2歳のはるなちゃんがいます。こんにちは。てれちゃった。こんにちは。成子さんと最初にお会いになったのはいつなんですか。
古田:26年の1月です。
井上:ああ、そうですか。そうすると甲府に成子さんが最初にいらしたのは、昭和26年の。
古田:はい、1月です。
井上:ああ、そうですか。
古田:お母さんと、横浜の児童相談所の職員と一緒に来ました。その時、8歳ぐらいだと思うんですけれど、お母さんが成子ちゃんをおんぶし て、歩けませんので、おんぶしてきたんですよ。それで、8歳とお母 さんは言うんですけれども、一見、3歳ぐらいの感じに見受けました。(中島:もともと体は小さいですからね。お母さんも小さい方ですから。お母さんの名前はよねさんというんです。)
古田:状態は、髪の毛がぼさぼさで、お母さんの背中から床におろすと、いざるような姿で、ぐるぐるはい回っていました。そして、時々首を横に振って、ふんふんって言って。チック症状ですね。わりとずっと子どもの頃から今でも何かの時には続いているんですね。校長先生や教頭先生と話しているうちに、長い話になりましてね。校長先生が生い立ちやどうしてこういう状態になったかなどを聞いたんです。
(テープを止める。─このテープは講演1、2の後に、古田さんの了解を得て、掲載しました。─)
中島:それでは、こうしましょう。井上早苗さんが感じたことをちょっと一言、言っていただけますか。
井上:こういうふうにして、お話して、最初の出会いをうかがってきました。古田さんは、成子さんに最初に出会ったのが、計算すると21歳の時で、先生よりも上とか下とかおっしゃったけれど、昭和3年生まれとかおっしゃってました。それで、夏休みは、自分の実家に連れて帰って一緒に暮らしたりとか、それは、おいおいうかがうといいと思うんですけれど、私は感じたのは、やっぱり古田さんは、今でも成子さんについて語りたいことがいっぱいおありになると思いました。
だから、古田さんの過去の話ではないと言うか、それで、今も自分の生活のはりとか、特にお孫さんを4人育てられる時に、しょっちゅう成子さんの最初の時のことを思い出したとおっしゃるし、そういうようなことで、やっぱり、もっともっと話していただきたいと思いました。
それからついでに、ちょっと一言、言いたいことを言ってしまうと、古田さんがいらっしゃらないということは昨日の夜、わかったんです。だから、この大会の趣旨とちょっと違うと言うか、いきなりここで成子さんの話をするのは場違いだと思ったから、まあどうしようかなと思ったんだけれど、中島先生が講演なさればいいと思ったんだけど、私は、やっぱり山梨だということでうかがわせていただいたんですね。やっぱり、山梨の盲学校で盲聾教育が最初にやられたということを、もっと山梨の先生たちは誇りを持っていいんじゃないかと思うんですね。誇りを持ってというのもおかしいけれど、もっと大切になさって、それで、今、私が言ったように、成子さんという人が、現在、成子さんも忠男さんもですけれどね、暮らしている、生きて人生を歩んでいるわけです。そして、そこにかかわっている人たちというのは、それぞれいっぱいいらっしゃるし、今でも、やっぱり、その方たちは、山梨を中心にいらっしゃるわけだから、何かもっと、山梨の盲学校が盲聾教育を始めたという歴史が残っていないということ自体、私はとても残念だと思うし、何か、もっと、今それにかかわっているかとか、それから、過去にその事実を知っているか知ってないかじゃなくて、もっと大切になさっていただきたいというのが、最後の、私のお願いです。
中島:ありがとうございました。だんだん思い出したけれど、37年に早苗さんに初めて会って、5月に会ったらしいんだけど、その時の話をすると彼女がいやがるんだけど、まだ三編みをして、女学生のようだったんです。河内君といって、今東大の教授をしてるけれど、その方に連れられてお見えになったんです。私はその時に何をしていたかと言うと、小説を書いていたんですね。東大の助手を36年にやめて、やることがなくて。ただし、退職金を30万円もらったんですね。当時、月給は2万くらいだったと思うんですね。だから、悠々暮らせて、退職金で悠々やっていたんですね。そうですね、その37年の10月から水産大学へ行ったから、その前の37年の5月頃に初めて早苗さんとお会いして、そして、ずっと今日に至っているんで、まあ、何と言うか、早苗さんがクラシックが好きだとか、早苗さんが健治さんと結婚する時の状況とか、いろいろそっちの方を思い出しましたけれども、なおかつ、ちょっと一言だけおうかがいしたいのは、37年から何回か合宿をやって、成子さんと数の学習で、早苗さんが一生懸命になって、それで、論文もお書きになったし、今、心の中に非常に残ってらっしゃると思うんですけれども、その中で特に成子さんとのかかわりの中で、一つだけ、時間を短くこれというような、言いたいことがあったら言っていただけますか。せわしなくて申し訳ないけれども。
井上:そうですね。やっぱり、全部ですね。全部だけど。
中島:汽車に乗ってずいぶん来ましたね。梅津先生、僕、河内君、早苗さん、4人で来たこともあるし、あなたが一人で来たこともあるし、それから、合宿でずっといた時もあるし。盲学校は、駅のそばから下飯田の方に移っていたのかな。
井上:いいえ、途中だったと思うんです。37年は、鉄道のそばにあったと思うんです。
中島:古い盲学校。
井上:その次の年から、下飯田と言うんですか、田んぼの中だったと思うんです。
中島:合宿をしたのは校長官舎だったんですね。
井上:ええ、そうですね。それで、田んぼの中で、何か、ニホンジュウケツキュウチュウ(日本住血吸虫)と言うのが土地の病気だから、田んぼの中には決して入らない方がいいと言われたのを覚えています。
中島:今、あの辺、田んぼなんか一つもないですよ。
井上:だから、2年前にうかがって、本当に周りが変わったので驚いたんだけど、盲学校の建物は、あるんですよね、そのままで。それから、官舎で合宿をした時に、この間お会いした中村先生が、そこで自炊をなさって暮らしていました。
成子さんについて、思い出というのはいろいろあるんだけど、どうしたらいいかなと思って、いまだにわからないことで、数っておっしゃったけれど、直接、数に関することではないんですが、「適当に人間がやるということ」を、どういうふうに教えてあげたらいいのかということは、今だにわからないんです。それは、成子さんにお風呂に入ることを、パパパパッとしてということが、とってもできないんですね。それで、それは、部分として洗うとかまんべんなく洗うとか、頭から順番に洗っていくとか、そういう組み立て方というのがきっとあるんだと思うんだけど、そういうことをいくらやっても、私たちは、たぶん、そういうことを計算して10回洗ったらとか、20回洗ったらということをやってないから、成子さんはいつまでたっても同じところをゆっくりとやってるわけですね。だから、それをしょうがないから、数で、10回やったら次。子どもに100数えたら上がると言うのと同じだようなことだと思うんですけれども、沈んじゃったら、いつまでも、次のサインというか、出なさいと言うまで、動かない。そういうゆっくりと。まあ、今はどうなのかと思うけれども。そういう時に、私は適当にやるということがどうしたらできるようになるんだろうなあと思ったし、そういう時に、数概念なんていうものは、全然役に立たないのかなっていうことを思いました。今は、数の概念なんていうものが、人間の生活をコントロールしていく上で役に立つものなのかなって思わないでもない。そういうきっかけを作ってくれたようなのが成子さんのお風呂で、非常に印象に残っていますね。
中島:適当にやるということは、予測するということなんですね。予測するということは、その人を適当にするもとなんです。だから、予測することができるなんていうのが、立派なことのように言うけれど、とんでもないんですね。天気予報を見てみろと言いたいですよね。今日なんか、快晴なのに、まだ雨が降っているとか雪が降っているとか、昨日、間野さんが天気予報で今日は寒いですなんて言っていたと言うけれど、全然当たってないんですね。それでも、天気予報があたってないということすらもう気にならないんです。だから、予測をして、その予測がでたらめなんだということに平気になるようなことがいちばん大事なんじゃないでしょうか。そのことが、できない人がいろんな意味で困るんじゃないか。
ちょっと、よけいなことになってしまったんだけど、ここにもう一つ僕が、盲教育の目的とか社会的意義というのを、これは何のために書いたのかわかりませんけれど、文部省からお金をもらうために書いたのが、この実験報告書と一緒に出てきたんですね。この頃書いた僕の原稿を水口先生が清書してプリントしてくれたらしいんですね。その盲教育の目的のいちばん最初に、盲聾教育ではないですよ、盲教育の目的のいちばん最初に、「われわれの研究グループは、我が国で初めて盲ろう二重障害者の教育に成功した。」と書いてあるんですね。特殊教育諸学校の管理職の研修会の時に放したら、怒られて。何であなた方が成功したのかとさんざんどつかれて、ちっとも成功してないじゃないか、第一、二人は施設に入って何もすることがなく、ボーッとしているって。これは、後からなんだけど、確かに二人は施設に入ってしまったし、三人目の方は退学してしまったじゃないかって。大きなこと言うなと。第一、お前は、盲聾教育なんて何にも知らないんだから、こんなことを書いてはいけないと。もうえらく怒られた記憶があるんですね。
だから、僕は、そこのところをやっぱり今つくづく思うんだけど、今まさに、盲聾教育は成功した。早苗さんが確かに、盲学校の人はもっと誇りに思ってと。もっと僕にははっきり盲学校で、資料記念館を作るくらいのことをやれと言ったんだけど、ここでは遠慮して。やっぱり、大学の先生だから、現職だから、言いにくいこともあるんですね。 要するに、僕は、ヘレンケラーを育てようなんてことはいまだに全然考えないですね。そんな、灯りをもうちょっと高く掲げて下さいと言って、世界を指導するなんて、そういうことは絶対に下らないことなんですよ。人生にはもっと大切なことがあるんですね。それは、長生きをして、平凡に見えるけれど、その人独自の人生を生き抜くことなんですね。これが、ものすごく大事なことなんで、これを除いて、ヘレンケラーみたいに素晴らしい盲聾の人を作ろうなんて言うのは、みんな魑魅魍魎の輩のすることなんで、この山梨の盲聾教育も一時新聞に騒がれたり、それから小説になったり、それから少女フレンドとか言う雑誌に載って、すっかり有名になったりしたけれど、やっぱり魑魅魍魎時代が過ぎ去って、きわめて安定した時代に入っているし、その影響は、今日、会場にいらっしゃっているけれど、佳奈ちゃん。やっぱり甲府の盲学校で佳奈ちゃんを教育しているということは、今、小田切先生が一生懸命やっていらっしゃるんで、小田切先生の素晴らしさというものを認めないといけないけれども、やっぱりその前に積み重ねた成子さんの教育があって、八王子盲学校の後藤先生など全国各地の素晴らしい子どもと先生方との教育実践があって、それから三木さんたちがいて、そういう人たちが少しずつ積み重ねて、やっぱり今日の佳奈ちゃんというのがここに存在しているわけですね。
やっぱり、そういう積み重ねみたいなものが、静かに行われることが大切なんで、そうやたらにランタンか何かを高く掲げて、みんなついてこいついてこいと言うようなことは、やっている連中は面白いかもしれないけれど、一見そういう人生は退屈は紛れるかもしれないけれど、本当に自分自身で納得できる人生を生き抜くことはできないのではないか。
ついでに、もうちょっと言うと、昭和30年代の初めにさかんに夏の合宿をしていた最中、ちょうどお盆の頃、梅津先生と、三上校長とが二人して、いろいろ話した後で、僕が呼ばれて、こういうことを言われたことがあるんです。三つ言われたんですが、そのうちの一つは今でも言えないけれども、自分たちは明治生まれだから、お前は昭和生まれだから、自分たちの方が先に死ぬと言うわけですね。だから、お前に言っておくけれどもと言って、三つ頼まれたんです。その一番目は、成子さんと忠男さんを中流以上の生活をさせろと。二番目は、死んだ後、必ず解剖しろと。ちょっと三番目は今でも言えないから、もうちょっとたったらまた言いますけれども、もう一つあるわけです。僕は、それをことごとく断ったんですね。考えてみると、今、ここで、やっぱりそのことを考えながら、早苗さんの話なんかをつくづく聞いていると、盲聾教育というものの持っている本当の意味と、それが現代にどういうふうにこれから生きるのかということを、さらには人類にどんなふうに役立つのかを考えると、しみじみとせざるをえないというふうに私は思うんですね。
まあ、今日は、ここまでにして、来年はちゃんと、企画して、時間もちゃんと取って、先生もちゃんとした先生を、いやいや早苗さんがちゃんとしてないことはないけれども、めったにお目にかからない人をお呼びしてというふうにしたいと思いますけれども、ちょっと時間がオーバーしてしまいました。わざわざいらしていただいて、勝手なことを申し上げて本当にすみませんでした。