昭和55年6月3日会報第5号
この小さくて静かなるもの
研究所も設立されて満5年経ちました。その間、まことに順調ですくすくと成長しました。我が国における障害児教育の実践研究の現場として、そのユニークな存在が広く認められるようになってきました。これもひとえに日頃からの皆様方の深い御理解と暖かい御支援のお陰と、心から感謝いたしております。
残念ながら私の身体の方は研究所のようにはいかず、昨年4月に心筋梗塞をわずらい、危うく冥途へ旅立つところでしたが、いかなる運命のめぐりあわせかこの世にとどまることになりました。近頃ではやせてスマートになった元気そうな私をみて、「一病息災、あなたも病気してよかった。かえって長生きできるでしょう。」といって慰めて下さる人もいます。まことにありがたい限りです。
入院中、時折マーちゃんのことを思い出し、元気になってまた一緒に勉強したいと思いました。マーちゃんとは研究報告書第4号に松木さんがその教育実践の一部を報告している盲ろう男児のことです。今年松本盲学校に入学し、研究所には月1回元気に通所しています。最近とくに表情が豊かになり、怒った顔や泣いた顔、びっくりした顔、あどけない顔はもちろんのこと、時折見せる不満そうな顔、ニヤッとした顔、得意そうな顔はすばらしく魅力的で、単なるいたずら小僧の域をこえたマーちゃんの人間としての奥行きの深さを感じさせます。
一般的に障害が重い子供たちには表情がないと言われていますし、見かけはいかにもそう見えますが、それはつき合いの浅さを示しているにすぎません。ほんの瞬間的に見せるその人の本当のすばらしい顔に接したことのない人のたわごとです。
普通の子供よりずっと表情が素朴で生き生きしているといったら、いやむしろそれでも言い足りないほど底知れない幅と深さに思わず引き込まれてしまうと言ったら、あまりに身びいきな言い過ぎでしょうか。
ブラインディズムや自傷行為ばかりが目につき、外界の人や事物にほとんど関心を示さず、動きのない寝たっきりの子に絶望したり、あるいは、動き回ってとめどもない子に振り回されたりしている間は、私たちはその子のすばらしさに気づくことはできません。私たちがその子を本当に理解するための唯一の方法はその子に最も適した学習法を工夫・開発することであり、さらに、納得できる教材・教具を製作することです。教材・教具や学習法を工夫することなしに、子供を理解することはできません。その子の障害が重くなれば重くなるほど、能面のように無表情であればあるほど、より基礎的、より本質的な工夫が必要です。人間行動の成り立ちの原点から出発して、一歩一歩階段をのぼることが大切です。単なる接触や呼びかけ、無手勝流の愛情、機械的な繰り返しの訓練、あらかじめレールをしいた有無を言わせぬ学習では、子供を理解することはできません。むしろそんな働きかけこそ、子供の行動の固着や停滞をもたらし、さらに無表情の世界へと追いやることになってしまうのです。
この5年間の間に、研究所に通ってくる子供たちとともに、お母さんたちが明るく自信にあふれるようになってきました。重い子供を育てることは確かに平凡なことではありません。その子供たちのもつすばらしさに出会うために、学習の大切さが理解されはじめています。親としてのかけがえのない体験をひそかに誇りにするようになってきました。
教師もまた当然のことながら教育の内容・方法を深めることが子供との出会いにおいて一番大切なことだとわかりはじめてきています。
私も近頃やっと本当のことが少しずつわかるようになってきました。人間がなぜものを持つのか、外界を見、見分け、見通すようになるのか、なんのために立って歩くのか、そのごく初期の段階の姿勢の変化はヒトとしての感覚と運動の自発とにいかなるかかわり合いをもつのかが本当にちょっぴりですがわかってきたような気がします。
一番もとがわかりはじめたので、理論的な積み重ねもでき、理論の大系が夢見るように大きくふくらんできました。ゾクゾクとしたロマンチックな気持ちです。しかし、あわてず、急がずその底にある小さくて清らかなものを静かに暖めていくことが今後の研究所の課題と言えましょう。