昭和58年6月15日会報第8号

                 空なる個から無なる全へ


 昭和58年4月18日、私の兄があっけなくこの世を去りました。大変気さくな、面倒見のいい開業医だったので、あまりお知らせもしなかったのに、驚くほど沢山の方にご会葬いただきました。私にとってはかけがえのない兄ですので、なぜもう少し生きていてくれなかったのかと残念でなりません。若いとき、軍医として上海で活躍し、体を悪くしました。戦争から帰ってきて、おやじの跡を継いだのですが、外科を専攻したので、精神病院を外科病院に切り替え、大変苦労しました。昭和36年には2度にわたって蝸蛛膜下出血を患いながら、奇跡的に助かりました。今回、3回目の大出血でしたが、期待に反して奇跡は起こらず、あっけなく幽明境を異にしてしまいました。痛恨の極みです。6月5日に無事49日を済ませました。戒名は大應院鐘道帰一居士です。今でも、兄を思い出すと涙が出ます。
 人は誰でも親の死に出合い、兄弟の死に出合い、やがて自分の死に至るのでしょう。そして、死に出合うごとに淋しさを得ることができます。そして、その淋しさのなかで、今風にいえば、“残りの人生キューンと生きるきゃないね”ということになります。自分の人生を振り返ったときに、間違いだらけで、考え違いばかりしてきたことに気づき始めています。沢山の重い障害の人と共に暮らしながら、障害について、さらに言えば人間の本質について、一番大事なことに気づいていなかった自分に気づき始めています。今日の心理学、人間の精神について、その基本的な考え方、探究の手法について、根本的な改善が必要と思われます。何一つ誇れない自信のもてない人生をこれから新しくやり直すつもりです。5月29日の日曜日、智弥君と一緒に勉強しているとき、さじの上に菓子をのせて見せたら、彼がちょっと口をあけて食べさせろと合図をしましたが、私はさじを遠ざけました。そのとき、彼が舌をソロソロと出したので、その舌の上にビスケットのかけらをのせながら、そうだ、私は兄貴に手紙を書こう、魂を呼び戻そうと考えました。「空なる個から無なる全へ」というのはこの手紙の書き出しです。私にとって、研究所は本当に有難い存在です。研究所に通ってきてくれる子供たちと一緒に勉強できて本当にしあわせです。いつも人間の心が素直に触れ合っています。子供たちに手伝ってもらって、というよりは教わりながら手紙を書かなければなりません。その手紙を出せば、兄貴はきっとすぐ研究所に来てくれるでしょう。中島も現世で相手にされなくなったから、頭にきて、とうとう幽界へかかわり始めたと言われないように、研究所での仕事を大事にして、一からやり直す覚悟です。そして、研究所を信頼し、現場の教育実践に役立てて下さる全国の父兄、教師、指導員、研究者の方々の期待に反しないように頑張るつもりです。
 皆さんはこの題を変な題でわけがわからないとお思いでしょうが、前略とか、拝啓とか、気候の挨拶のような単なる手紙の書き出しだと考えて下さい。ただし、幽界に出す手紙ですから、お元気ですかとだけは書かないように。そして、是非、自分の一番大切なものを幽界へも送り届けましょう。