平成元年4月4日岩魂創刊号

               岩魂の発刊に際して

研究所に熱心に通っている子供たちとかかわっている人々から、実践記録のまとめを主とした小冊子(研究報告書というにはかたすぎるし、どうも雑誌というのも適切でない。)をいちおう年3回をめどとして出したいと言ってきた。4月、10月、1月にそれぞれ発刊する予定であり、内容は本研究所の実践記録を主とするものではあるが、そればかりでなく、全国各地の報告や研究所その他で開催されている研究会のまとめ、障害の重い子供たちの輝きを示すような随想・エピソード、それに私の講演録、実践記録に対する質問や意見、全国の実践の現場の情報などである。そこで、この小冊子に名前をつけて欲しいというので、「岩魂」とした。もとより岩魂とは岩のようにかたい魂ではなく、私の考えている人類の未来像である。私は現在の人類は進化の終わりではなく、勿論その最高峰でもなく、単に進化の途中であり、長い地球上の生物の歴史の変化の過程の中のほんの一部分の、ある時期のある状況に対する適応を示すにすぎないと思っている。したがって人類は今後段々と他の類へと変化していく。私はその変化の過程を動心類、植精類を経て、「岩魂類」に至るものだと考えており、その類の名前を先取りしたにすぎない。人類は〔霊長目ヒト科の動物。現在のヒト。直立歩行することから手の動きが自由で、道具を用い、また知能の発達が著しく、言語を用いる。〕と角川国語中辞典に書いてある。しかし、一番大切なことは人類が進化の途中であって、その先が何類なのか、なぜ立って歩くのか、手で道具を使うのか、さらに、言葉を言ったり、読んだり、書いたりするのか、それらの人間行動がどうして成り立ったのか、その行動の長所や短所、今後の変化については残念ながらまだ殆ど書かれていない。にもかかわらず、殆どの人が立って歩き、日常生活の基本的習慣を身につけ、掃除、洗濯、炊事などの暮らし方を道具を使って段々便利にし、学校へ行き、読み、書き、そろばんを覚え、ある程度の知識を得、やがて就職、結婚などによって社会人として独立し、子供を育て、やがては死んでいく、人類の営みを広げている。が、人類がどうなるのかあまり考えようとしないし、すぐ、S・F的になりやすい。
 我が国などは、せっかく敗戦でめちゃめちゃになったのに、今日では世界一の経済大国になりさがって、世界中の心ある人からひんしゅくを買っている。ところが、新幹線ができ、例えば盛岡まで3時間で行かれるようになり、便利になったと喜んでいる人が多い。電気洗濯機の普及率も何十パーセントとかということで、荒物屋さんではもう洗濯板を売っていない。速くなったり、正確になったり、安直に手に入るようになったり、力を使わずに効果が大きく上がるようになったりして、今までできなかったことがあっというまにできるようになったことは、それだけ楽になり、得をしたように錯覚しがちだが、失ったものも大きく多いことを示している。私たちの間に、その反省も少しずつ起こっているが、最も根本的な最も大切な間違いや勘違いについて、殆どの人が未だに今日気づいていないのではないだろうか。それは、ひとえに、人間がなぜ立ち上がれるのか、手を使うのか、言葉や道具を駆使するのか、その人間行動の成り立ちの根本について全くわかっていないというより、完全に誤解しているといえる。この問題を宗教的に解決することは、簡単でわかり易い一般的な方法ではあるかもしれないが、実は、一方的、独断的、断片的なものとなり、長続きしない可能性もはらんでいる。今私たちに迫っている最も大切で人生で一番深い問題の解決は、重複障害教育がその鍵を担っているのである。私たちはこの問題を宗教や生理学や心理学に頼ることなく、新しい人間行動学の樹立から接近しなければならない。障害の重い子供とのかかわり合いのなかで、人間行動の成り立ちの根本原理について子供たちから学ばなければならないのである。現実に私たちがなぜ体を起こせるのか、さらに体を起こすことの意味、実際に体を起こした時に、その子供にどんな新しい世界が開けるのか、外界の受け止め方、意図的な運動の自発や、いくつかの運動の組み立てによる外界への意図的反応の自発がどんな過程を通して起こるのか、それはなぜか、そして、体の部分はそれぞれどんな役割をもつのか、相互の関係、そのまとまりがどんなふうに起こっているのか、姿勢の新しい変化とその保持は前の姿勢とどう関係し、その人の感じ方、暮らし方、考え方にどんな変化をもたらすかについて、私たちは実践研究を通して少しずつわかってきている。そして、何よりも私たちの常識の間違い、さらには今日の生理学や心理学のいたらなさが痛感されている。私たちは、障害の重い子供たちとの教育実践を通して、もっと根本的なことを正確に整理し直すために、まず私たち自身の勘違いや間違いについて気づき、新しい人間行動学を少しずつ静かに樹立しなければならない。そのためには、まだたくさんの資料の積み重ねと長い年月を必要としているが、私たちの努力と実績の積み重ねがこの基本的問題を解決する唯一の手段である。この小冊子がそのためにほんのちょっとでも役に立つことができれば、そして、障害の重い子供の輝きの一端を僅かでも伝えることができれば、私たちは本来の人間の営みの深い理解にそれだけ近づくことが可能となるだろう。障害の重い子供は病気が重篤で心理学的に未発達なために、何もできない何もわからない子供であり、教育しても将来自立できないのだから、そんなかかわりなぞ何の意味もないというようなくだらない考え方はいっぺんに吹っ飛んでしまうだろう。そして、小さな研究所で、ほんの少数の集まりのなかで、一体なぜむきになってみんなが一生懸命やっているのか、この小冊子を通してその本当の意味を社会のごく一部の人たちに少しでもわかってもらえれば、障害の重い子供をもつ親や教師や研究者たちの心からの喜びである。
 実は、この原稿を書くのが面倒なので放り出しておいたが、無理矢理書かされるはめになってしまった。それは我家に督戦隊(今の人にはわからない言葉である。辞典を引いても本当の意味は出てこない。)がいて、昼寝しているところを起こされて書き始めたのである。ところが、口述筆記をして、こちらが調子に乗ってくると相手は眠くなって、すごく機嫌が悪くなり、やめろと言う。私は何だか本当にくだらない、読むと眠くなるような原稿をいつも書いていることにさせられてしまう。そこで、昔のNHKの人気番組二十の扉で、「動物、植物、鉱物に分けて」と藤原あきさんや藤浦洗氏が盛んに質問したこと。人間はそれぞれに、その順に寄生しているということ。大地、地球、宇宙から始まって岩魂とは何かという最も大事な私の言い分は飛ばしても、この小冊子の表題を岩魂としたことは読者それぞれの想像にまかせることにする。また家内が眠気から覚めたので、さらに人間の予知について述べる。特に天気予報が当たらないこと。(最近の最も顕著な例は大喪の礼の日の天気予報のはずれ)《天皇陛下のお葬式だから天気が悪いと思っているのに、当日は良い天気だと予報した。その後この予報を訂正した。》NHKによく出てくる天気予報のおじさんは実にいろいろなことを知っていて、話はもっともらしいし、なぜ当たらなかったかの説明はとてもうまいのだが、当たらないことに関して一度も謝ったことがないこと。聞くところによると、気象庁の裏庭には下駄がいっぱい捨ててある。全国から皮肉で送ってくる下駄を放り出している。 冗談 冗談! 三原山が爆発した時に、地震予知連絡会の会長の談話に対して、鈴木東京都知事は、現在の三原山の状態は嵐の前の静けさではない。爆発は本当におさまったのだと談話を出して、都内に避難していた人々を大島に帰した。昔、気象庁は、中国から気象状況がくるようになったから今後は天気予報が当たるようになると言った。その後大分経って、気象衛星を打ち上げたので予報はさらに正確になると言ったけれど、いまだに天気予報が当たると信じている人は少ない。むしろ当たると、当たったと言って驚く人も多い。予知が不正確なのは情報が足りないためであり、情報が正確になれば予報も完全に当たるようになると思っている人がいるらしいこと。これは驚くべきことである。100パーセント正確に予報するというようなことは決してできない。なぜなら、天気予報と言えども予知であり、人間の解釈の問題に帰するからである。正答の決まっている試験問題に答えて正答を多くすることとは違うのである。解釈は、洞察かあるいは岩魂か、やがては人間の魂の問題に回帰するものである。いずれにしても、表面的、機械的、反射的なものの寄せ集めではないし、それっきり、やりっ放し、その場その場限りでおしまいとはいかない。明日死ぬと思っても死なぬ場合もあるし、明日は大丈夫、決して死なないと思っても交通事故やくも膜下出血で急死する場合も多い。死は前から来るものだと思っているかもしれないけれど、実は後ろからも迫って来るものだという話を子供のとき聞いて、何となく心に残っていた。それが徒然草のなかの第155段の1節であることを新聞で知って、「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」吉田兼好「徒然草」(平成元年3月6日朝日新聞朝刊)徒然草を買いに本屋さんに行ったところ、岩波の一つ星の「ロウソクの科学」という本当に懐かしい子供時代に読んだ本と出合った。(もう疲れた。止めてくれ。貴方なんかろくなことを言わないのだから、お経を聞いているのと同じ。眠くてしようがないと家内が悲鳴を上げて寝てしまおうとするので、ほんの少し書いていただくことにする。
 イギリスの科学者ファラデーがクリスマスに、少年少女のために6回の講話をした。それを速記してウイリアムクリックスが編さんしたものである。小学生のときに読んだので、もう内容はすっかり忘れてしまったが大いに感激した。その後パスツールの伝記を映画化した「科学者への道」という映画を見て、同じような感激を覚えたのだが、この映画のことはさっぱりわからない。講義をしたのは1868年の暮れのことであり、ファラデーはもうこのとき70歳であったが、彼がみずみずしい元気をもって、若者達に話しかけていることは、この本を読めばよくわかる。ここでは、ロウソクという最もありふれた材料を使って、(原始的なたいまつからパラフィンロウソクに達するまでには、実は長い時間が流れているのである。)その作り方、燃えること、炎の明るさ、燃焼には空気が必要なこと、水のできること、水素と酸素、炭酸ガスの化合物やその性質について、興味ある事柄が次から次へと述べられている。ファラデーは最後の第6項で、呼吸のそれがロウソクの燃焼と似ていることをわかりやすく述べている。「燃焼と呼吸とはすこぶる一致していることがおわかりでしょう。そこで私はこの講話の最後の言葉として、諸君の生命は長くロウソクのように続いて同胞のための明るい光輝となり、諸君のあらゆる行動はロウソクの炎のような美しさを示し、諸君は人類の福祉のための義務の遂行に全生命を捧げられんことを希望するしだいであります。」と結んでいる。この本の和訳は1933年に第1刷が岩波文庫より発行されてから1988年までに、第62刷が発行されている。この本は多くの実験を見せながら、やさしい科学の講話をして聞かせたものではあるが、ファラデーが6回の話のなかで本当に言いたかったものは、データーでも物理学的知識の羅列でもなく、正答でも表面的機械的な知識でもない。実は、70歳のファラデーの岩魂を表したものである。
 そもそも、岩波文庫は岩波茂雄によって昭和2年7月に発刊されたものであり、「真理は万人によって認められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かっては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。・・・・。」
という読書子に寄すという刊行の辞によって発刊されたものである。
 今まさに、障害の重い子供の輝きを万人に知らせんとして、この小冊子が刊行されることを私達の岩魂は望んでやまない。