人間行動というと魂を連想する。魂というと直ちに岩を思い出す。人間が本来岩だなんて誰も世間の人は思わないかもしれない。まず無生物と生物と本来違うというのが常識ならば、まさに常識はずれの連想ゲームと言える。しかし、違う、違わないのどちらも一つの尺度であり、尺度の違いによって起こっているにすぎないのだと言っても納得できる人は少ないかもしれない。
最近、米国の惑星探査機ボイジャーのことが話題になり、8月28日、月曜の朝日新聞の夕刊に「生きている冷たい火山か」ボイジャー撮影とあり、トリトン表面に跡という写真と記録が載っていた。海王星の衛星トリトンに今も活動的な冷たい火山があるとみられることが撮影した写真からわかった。ジェット推進研究所のソダーブロム博士は「噴火口は数十箇所あって、今も活動しているか、少なくとも100年以内に冷たい物質を噴出した。途方もない考えだが、見つかったあばた模様の地形を現段階で説明するには一番よい考えだ」と話している。冷たい火山とはおかしな言い分で、冷たい活動している山ではなかろうか。それとも、火山が冷たい物質を噴き出しているのだろうか。例えば、山深く出ている清水は冷たいので、たとえそれが火山であってもおかしくないのかもしれない。この記事は、規模は小さくとも現在地球上で起こっているにすぎないようなもので、騒ぎ立てる程のことでもあるまい。山が冷たい物質を噴出しておかしいなら、熱い物質を噴出しても同じようにおかしなことではなかろうか。
地球の中にマグマというのがあり、それがすごい熱をもっているのだとすると、ファラデーのロウソクの科学ではないが、燃焼には空気が必要であり、水ができる。地球の内部に閉じ込められているマグマは、どこからそれを取り入れ、排出して燃焼しているのか。大体太陽がどうしていつも真っ赤に燃えているのか。どうやって燃えているのか。もしファラデーのいうように「空気が肺に達するやいなやその酸素は炭素と化合します。この化学変化は体が凍らずにたえ得る最低の温度でも起こります。そうして炭酸ガスを生じ、生命の活動が正常に続けられるのです。燃焼と呼吸とはすこぶる一致していることがおわかりでしょう。そこで私はこの講話最後の言葉として、諸君の生命が長くロウソクのように続いて同胞のために明るい光輝となり、諸君のあらゆる行動はロウソクの炎のような美しさを示し、諸君は人類の福祉のための義務の遂行に全生命を捧げられんことを希望する次第であります。」であるならば、人間の呼吸と太陽の燃焼とは同じなのではないのか。ともかく、ローソクの科学は勿論のこと、宇宙探査のことは全く素人なので、何が書かれていてもああそうかと思うしかないが、ボイジャーが12年かかって海王星に大接近したという12年が長い年月なのか短い年月なのかは気にかかるところである。私は、たった12年で太陽系の外に出られるとしたら、馬鹿に短いような気もするのだが。人の一生は長くて100年以内だから、それでも5回往復できるのか、5回しか往復できないのか、どちらなのだろうか。アナウンサーの、なぜ宇宙探査をするのかという質問に、私たちの住んでいる地球を含めた太陽系のことがだんだんわかるようになってきたし、さらには、生命の起源について明らかにすることになるので、私たちと宇宙探査は無関係ではないと言っていた。そして、宇宙にとって、太陽系はほんの一部にすぎず、太陽の届かないところへこれからボイジャーが飛び続けて、あと何十万年かかけてカシオペア座に行くとのことである。勿論62歳の私などはもうあと何年もつかわからないので、多少ぼんやりしながら、アナウンサーと解説者のやり取りをテレビで見ていたので間違っているところが多いかもしれない。しかし、やがて、人間の乗った宇宙船も地球のまわりばかり廻っていないで、いくつかの宇宙の駅を建設して、だんだんと遠くに行くことができるようになるに違いない。そして、遠くに行くということになれば、行ったきりの場合もあろうが、また帰って来ることもある。帰ってくるとなると、まっすぐ帰ってきても、行ったきりの2倍の時間はかかることになる。だから、100年がかりで行けば、200年かかって往復することになる。そうすると、一世代では間にあわないので、何世代かの宇宙旅行ということになる。しからば、宇宙船の中での人間の生と死の繰り返しによる宇宙探査をするようになるであろう。その時は、人類も変化して、岩魂類とはいかないまでも、別の類へ進んでいるであろう。したがって、もし人類として想像するならば、まず、宇宙船の中のお産、子育て、そしてやがては死を迎え、どのように葬式をするかであろう。いずれも考えれば、難問山積のような気もするが、ちょっと尺度を変えて、その尺度が常識化すれば、それが当たり前のことのようになるであろう。
人類が立って歩き、手で道具を使い、言葉を話し、いろいろ自分たちの生活にとって、便利なものを作り出し、集団で生活しているのも、ほんの僅かな時期でしかないと言っても、やがて、人類というものが昔いたという笑い話となってしまう。今の尺度を絶対化して、人類は万物の霊長であるという考えを頑迷に守り通す人は、現在まだまだ多かろう。しかし、数万年はおろか、数億年、数兆年は、夢の間でしかないかもしれない。変な例だが、我が国の国家予算は50兆円を越している。私の小学生時代は、国家予算は2千円ではなかったとは思うが、2千万円位だと思うけれど、多分間違っているだろう。ともかく、日本の輸出は、生糸で支えられていると習った。そして養蚕は、日本の極めて重要な産業であるということが常識的なことであった。
人間の尺度はその時は絶対的だと思っても、あっという間に変わってしまう。例えば、子供と大人、結婚前と結婚後、老後など、ほんの少し前まで考えられなかったことが、今やまさにどうしてもそう考えざるをえないことのように思えてくるから不思議と言えば不思議である。宇宙探査のことばかり書いて、この原稿を終わりにしたら、読んだ人がまたまた中島のよたばなしと言われかねないので、もう少し障害の重い子供とのかかわり合いについて現在思うことを書いてみたい。宇宙探査で言いたかったことは、お産から始まって、子供や老人を乗せてもらいたい。そして、一番乗せてもらいたいのは障害の重い子供たちである。その時、私たちは初めて障害の重い子供たちがこんなに適応が上手なのかと驚くことばかり起こるであろう。それを書こうとして、我々の知識がまだいかに少ないか、と言うよりも、何もわかっていないのに等しいのではないか。だから、常識などは別にこだわることではないし、いつも自分が間違っているのではないかと考えると、障害の重い子供に、あれができない、これがわからないと言って、ただお世話ばかりして、むやみやたらに相手を受け身にしておいている現状。さらに、子供に学ぶことが当然であり、その輝きに感動することをすぐ忘れてしまう私たちの常識的な生活の基盤に立って毎日を暮らしていることが本当に情けない。
今年の初め、何気無く松岡先生にビデオを作り出し、2時間もの15本を作ったのだが、それは5枚の表を説明しようと思ってやり始めて、表も作ったのだが、その表を説明する前に、ビデオはとぎれてしまった。(初めは2時間もの3本のつもりで作り出したのだが、だんだん伸びて、2時間もの40本位になりそうになった。)その表Tは、人間の基本姿勢であり、1〜6の6つに分け、それぞれについて、面、動(静止)、バランス、自発(受身)、受容と運動、使用する身体部位、の項を立て、説明したものである。ところが一番大事なことを忘れていた。それは、6つの基本姿勢の移り変わりと後戻りに関する考え方が全くないので、人間行動の成り立ちの根本の原理について表Iは全く説明していないと言える。まず、1あおむけ 2うつぶせ の間の寝返りの重要性についてである。これは、人間行動の成り立ちの根本をなす回転の意味である。脊柱から始まって、首、手首、足首、さらには腰に重心を集めたときの腰の回転の重要性を考えなければ人間行動は成り立つまい。そうすると、2のうつぶせから3のおすわりに移る平面の成立とそれを支えるバランスについて考え直さなければなるまい。さらに、人間が垂直になることの意味について、3のおすわりから4の四つ這いまでの間の支点の数、部位の変化と重心の置き方についてもう少し本格的に考えないと、なぜ人間が這い這いし、停止し、えんこし、やがて立ち上がろうとするのか、この四つ這いから立ち上がりまでは、上半身と下半身、足と手・手と目など人間の体の部分のそれぞれの機能とその関係について深い意味をもっている。なぜ2本の足で歩くのか、ある日突然上手に歩けるように思えても、そこに至るきちんとした原則の組み立てをしない限りは、寝返りから始まって、立ち上がって歩くまでの姿勢の本当の意味、その後の人間行動の形成の基礎としての役割が納得できない。従って、表Tはまさに表面的によくわかる、誰にでも見える変化を羅列したもので、人間行動の移り変わりを根本的に考え直すものとはほど遠いものである。表I´を付け加えなければならない。回転と共に、手足については交叉、目については重なり合いの問題が表U、表V、表W、表Xに至るまでつきまとっている。従って表U以降もそれぞれの´のついた表を付け加えなくてはならない。
8月の7日、8日と重複障害教育研究会第17回全国大会が国学院大学の視聴覚教室で開催され、受け身と自発の問題が論議されたが、私としては、統一郎君の、ものを持つことは、あくまでも彼の自発の援助をしたので、持たせたのではなく、統一郎君が自分で持って握りしめたのであるが、見ていた人にはどうも今一つわからないらしい。健太郎君をフットノート(音の出る敷物)に乗せ、私自身が腰を揺すったように見えるが、私は健太郎君の腰を支えたにすぎない。健太郎君が自分で腰を振ったのである。しかし、そのあとすぐ健太郎君のお父さんが健太郎君の腰を振って音を出させていた。そして、私のしたことと、お父さんのしたことと全く同じに見えるから不思議である。ただし、よく見ると、私とお父さんとでは、健太郎君の腰にあてがっている手の場所が違っているところに、自発と受け身の差が出ている。健太郎君はむしろお父さんのやり方に積極的に喜んで対応しているように見える。創輔君の立ち上がりについても、私は左の膝とお尻を支えただけで、立ち上がったのは創輔君の自発なのだが、いかにも私が左膝を押し、腰を押し上げたように思われるから心外と言えば心外である。しかし、受け身と自発はこのように似ており、外から見て区別のつかないような場合が多いので、私たちが障害の重い子供とかかわるときに、どのくらい相手に学ぶかが決め手になるのである。そして、学ぶということは決して容易なことではなく、むしろ面倒臭い、常にああじゃないか、こうじゃないかと考えて一番適したことを少しずつ積み重ねていくことであり、時間もかかるし、一番適したことはたった一つしかない、その子供のその瞬間にとってその場限りのことなのである。こちら側の主張がいつも間違っているのではないかという深い反省の念に基づいて相手のことを考えなくてはいけないし、相手の素晴らしさに感動し続けるという考えられないほど大変な高まりである。
私は、平成2年3月31日をもって東京水産大学を停年退職する。退職後、すぐにやりたいことは、毎週1回、夜6時半から8時半までの2時間、話をすることである。その週1週間考えたことを主として話して、13回〜15回を1シリーズとし、年2シリーズ話をしたい。相手がいないと淋しいので、現在、相手になってくれる人がいるかいないか思案中である。その相手の条件とは
1.障害の重い子供と深くかかわり合いをもっている人。
2.今朝の新聞に出ていたが、過敏性大腸症候群であったか、現在そうである人。〔9月4日(月曜)朝日新聞朝刊15面(こころ 宿敵対人恐怖症から開眼より)〕
3.私の話を聞くとすぐ眠くなる人。
4.死ぬ死ぬと騒ぐ人。“人は死んでしまうのが嫌なのではない。死ぬのが嫌なのだ。”(モンテーニュ)[同朝刊同面の言葉巡礼記より]さらに、話があちこち飛ぶ人。(要するに自分です。)
5.経済一流、政治三流、学問五流の国に住んでいる人。(この話は話せばきりのないことなので……)以上
追伸
人−魂−岩という題について原稿を書き始めたのだが、書き始めに考えていたことと全く違う原稿ができあがった。そこで追伸を書くことを思い立ったが、これがまた話題がそれてとんでもないことになりそうである。だから、人はすなわち魂であり、魂はすなわち岩である。ということが納得できるかできないか。多分納得できないに違いない。しかし、このことは障害の重い子供たちとのかかわり合いにおいて、人間行動の成り立ちの原点を学ぶために根本的に大事なことである。にもかかわらず、ごく簡単なこんなわかりやすいことが私たちになぜ納得できないのだろうか。当たり前のこととしてどんどん教わることができないのだろうか。それは、私たちができること、知っていること、当たり前のことから障害の重い子供たちを見ているからである。すでにある程度できあがって自立し、常識を備えている大人の目から、より子供の心をさらには自分が生まれた頃、外界をどんなふうに感じ、考え、暮らしていたかについて、そして、人間の一番最初の行動の成り立ちは何かについて考えることにはどうしても無理がある。私たちの知識は天地万物の自然界のでき事や事象の変化についてあまりにも少しのことしか知らない。まだ何もわかっていない。それだけならよいのだが、間違って理解していることがあまりに多すぎるのではなかろうか。何も知らないより間違って知っている方がより困ったことであるにもかかわらず、常識や学問はその根本的な方針を無視して、さらにとんでもない方向へ進んでいこうとしている。
例えば、我が国が驚異的な経済発展を遂げて、アメリカを凌ぐ勢いである。アメリカの恐怖にさえなっている。戦後、食べるものが無くなってひもじかった時代と、現在の飽食の時代と僅か3,40年の隔たりしかない。そんな間に築いたものなど何ほどのことでもない。にもかかわらず、世界中を驚かせ、日本人の顔を見るとお金に見えるという人がいるから、どうも多少おかしなことである。自民党は自由主義経済を守り、発展させた我が党の多いなる成果であると自負しているが、国民は勤勉で、休みをなかなか取らない。実によく働いている。その成果にすぎない。そして、何か経済的な豊かな実感すらもっていないという実情は、明らかに間違っており、考え直さなければならないのに、走りだした汽車にブレーキが付いていないのではないだろうか。こんな調子で、障害の重い子供から学ぶなどと言ってもたくさんの反発を喰うだけで、全く同意は得られない。したがって、人は魂であり、魂は岩なのであるというごく簡単なわかりやすいことも、到底、今後長い間理解されることは無かろう。そして、障害の重い子供たちからたくさんのことを学ぶということなどとても無理である。話は極めて悲観的になってきたけれども、だらだらとますます悲観的なことを書いても仕方が無い。特に政治や経済のことなど無用である。私の話を聞く相手の5番目の条件として、経済一流、政治三流、学問五流と書いたが、なぜわからないのに最もらしいことを言うのだろう。ある首相はアメリカのボストンを訪れて、野球場で始球式だけすればいいのに、その地区の文化人を集めてパーティを開き、その席上、日本は基礎研究を全くしないなどさんざん言われたが、確かに予知の問題では行政にすらかなわない。前号で、天気予報が当たらないと書いたら、伊東地震のときは、とうとう、伊東市が地震予知連絡会議のまだ危ないという警告にもかかわらず、住民を戻し、緊急警備の体制を解いてしまった。大島の三原山火山の爆発のときは、都知事が島民を帰還させた。今度の伊東の地震も、地震予知連絡会議が終息宣言を出したのは、行政に遅れること2週間位後のはなしで、新聞に小さく記事が載った。私はその記事を読んでハラハラした。なぜなら、予知連絡会議がそういう結論を出すとよく爆発が起こるので、また爆発が起こるのではないかと思ったが、今度は何も無かった。マグマの絵や地球の内部の図は最もらしく、いかにも解説は自信に満ちているのだが、何より大事なことは予想できないということである。私たちが今一番大切にしなければいけないことは、自分たちの知識が少ない、と言うより間違っているのだということであり、それを教えてくれるのは、障害の重い子供たちであり、さらには惚け老人である。私たちは、自分が生まれたことも、自分が死んだことも知らないし、自分が今何歳で、どこにいるかも確かには確定できない。ある尺度を使って、いつも安心しているにすぎない。その尺度は、川の流れのように、でこぼこで曲がりくねり、あるところでは速く、あるところではゆるやかに、そして、やがては大海へと流出しているにもかかわらず、いつも直線で、一定の速さで過ぎ去っていくように錯覚しているとしたら、私たちは人生を生きるという一番大事なことをしていないのではなかろうか。尺度はたった一つしかないものではなく、しかも、ゆるやかに、静かに、時代と共に大きな広がりをもって、その広がりをだんだんと広げ、しかも深めて過ぎ去っていくのであるとすれば、単なる歌謡曲の一部にすぎない。折り折りの歌は休みになってしまったが、終わりの方でそんなに死にたいなら死んでみな、一度死んだらもう死なぬという意味の歌が載ったことがあるが、本当に一度死んだら二度死なないのだろうか。昔、七生報國といわれ、七度生まれ変わって国につくすと教えられた私たちにとっては、少なくとも七回は死ななくてはいけないのではないだろうか。尺度の違いは、人生観や宗教、その国の生活習慣や文化の違いにまで及んでおり、どの尺度も正しいものであるが、それらは、あくまでも相対的であり、その中においてこそ初めて深められたり、高まったりするものである。にもかかわらず、その最も相対的、客観的、科学的であるべき学問が、反対に常識化し、有無を言わせず一般化してしまって、あたかも絶対的な唯一の尺度となってしまっている。私たちは根本的に私たちの感じ方、暮らし方、生き方について考え直さなければならない。もし今、1たす1は2、2たす3は5、と思っている人がいたら、それは絶対的なことではなく、一つの尺度にすぎない。いわんや、日常生活にも通じないし、私たちの感じ方や考え方にも合っていない。太陽系1と中間子1をどうやってたすのか。たすとは一体何なのか。と考えるとどうしようもないのではないか。それはちょうど障害の重い子供から学ぶことがいっぱいあるのに、何もしないか、自分のもっている尺度にこだわり続けているか、あるいは肝心なことに気付かず、無駄なことばかりしているかにすぎない。ともかく、見なくていいものをなぜ見るのか、見なくてはいけないものをどうして見ないのか、私にはそれが不思議でならない。あとは、孫悟空が実は岩から生まれたという話や、今は亡き光道園の中道園長が得意だった水上勉の小説、岩を抱いた松の木の話など、少しずつ話したいことがあるのだが、だらだらと意味もないことを言うだけで、という忠告にしたがって、この栄養分のない岩のような話を一応打ち切ることにする。と書けば、読者はホッとするであろうか。まあ大体において、終わりまで読む人はいないだろうから、本来どちらでもいいことである。もし、唯一絶対的尺度がなければ、どうしても生きていかれないという人がいるならば、まず手始めに、今後、岩魂を読まないことである。
おわり