平成2年10月27日岩魂第5号
舌先で宇宙に遊ぶ
舌先で宇宙に遊ぶとは、誠に風雅な題であるが、それだけに漠然としており、意味不明とも言われかねない。特に、日常忙しく働いている人々にとっては、遊ぶなどとは風雅どころか無縁なことである。国連平和協力隊の是非や、中東情勢悪化に伴う原油の高騰、株価の急落などと違って、我が身は宇宙にさまよい出て、ふわふわと浮く魂となれるかどうか、そんなことは到底できそうもないし、また、できたとしても、私たちにとって、どんな意味があるのかと考えると、忙しく生活をしている人々にとっては、あまりに現実からかけ離れた空論と言える。しかし、宇宙を感じたり、その宇宙に遊ぶことは、必ずしも私たちの日常からかけ離れていることとも言えない。私事で恐縮だが、3年前、広島で、私は2度目の心筋梗塞を起こし、危うかった。CCUから出て、一般の病室に移ってからも、食欲がなく、ちょっと動くと、すぐ脈が速くなる状態がしばらく続いた。私は、その時、障害の重い子供たちの真似をしよう、特に、仰向けの寝たっきりの姿勢を真似ようとしていた。
ある晩、夜半に目覚めた時、ふと、自分は広い大草原に横たわっていると思った。こんな狭いベッドでも、広々とした、ふわふわとした、やすらかな草原の上を感じることができるのだなあと不思議な気がした。
その時、私は、手足を縮め、体を丸くし、横向きになって、背中をベッドの枠に押しつけて寝ていたのである。その後、何度か、狭いベッドを大草原にしようと試みたが、うまくいかないうちに、ベッドから降りて、立って歩くリハビリが始まってしまった。退院の前日、看護婦さんから、患者としての入院中の感想を言えと言われたので、私の意見を思いつくままに、感謝の気持ちを込めながら話したが、最後に、この狭いベッドを広々とした草原のように感じさせるような看護が必要なのではないか、と言ったら、相手の看護婦さんは、キョトンとしていたので、その先を話すのをやめてしまった。
9月上旬、朝日新聞朝刊、折々のうたに、次の1句が載っていた。
月明の 宙に出でゆき 遊びけり 山口誓子「晩刻」(昭22)
大岡信氏によれば、昭和19年から23年頃、誓子は、句に丹念に制作月日をつける習慣があったとのことである。重い胸部疾患や、空襲による自家の全焼などから、1日1日が死に接する思いだったのだろう。日付を克明につけた気持ちも推察される。ちなみに、この句は、昭和21年9月10日の作であるとのことだ。月明を浴び、あたり一面冴えわたり、意識が高揚して、魂が宙に出ていって、ゆったりと遊んでいる自分自身を見つめ、感じている体験を表している。一生懸命生きる、より原則的な立ち場に立って確実なことをするために、自分の作った句に、日付を入れたのだろう。
研究所に、月1回通所している、寝たっきりの障害の重い智弥くんは、舌を少し丸めて出している。その出し方は、極めて巧妙、かつ、精密で、いつも一定している。小学校5年生だが、まだ体を起こすことはおろか、寝返りも打てない。ほとんどこちらからの働きかけに反応しないし、自発的な体の動きも極めて乏しい。一見すれば、何もわからない、何もできないで、11年間、無為に過ごしたと決めつけられかねない。それは、とんでもない私たちの誤解である。智弥くんは、実は、すばらしい感受性の持ち主であり、全身が魂の塊なのである。誓子が月の明かりに見た宇宙と、その宇宙へ積極的に出ていって遊んでいる自分の魂を見たように、智弥くんも、舌先で、誓子と同じように宇宙を感じ、宇宙に遊んでいるのである。誓子は、視覚的に月の明かりを外界刺激として受け止めたのに対し、智弥くんは、舌の先で外界刺激を触覚的に受け止めている。
外界刺激の種類は違っても、受け止め方、感じ方、考え方、していることは、同じなのである。壮大で、現実離れしているようにみえるので、私たちに実感として感じられないことが多いが、人間の精神の根本的な営みなのである。宇宙を感じ、宇宙に遊ぶために、いかなる外界刺激を、体のどこの部分で、どんなふうに受け止めたらよいのか、ということを考えながら、注意深く、障害の重い子供の行動とかかわり合いをもてば、触覚的、聴覚的、視覚的に受容する刺激の種類や大きさなど、それぞれ各人各様であるが、そのいずれの場合においても、その子供たちが、何のために、どこの体の部分を使って、どんなふうに外界を受け止めているのか、そして、自分自身の体を、どう調整して、行動を自発していくのか、しだいに理解できるようになる。そして、自分自身の全身を魂の塊とするためには、どうすればよいのかということが、少しずつわかってくる。私たちが、障害の重い子供たちから、何を学ばなければならないのかが自然にわかってくる。11歳になっても、まだ寝たきりではどうしようもない、何もわからない、何もできない子供だと決めつける前に、その子供が、より確実に、より深く、より純粋に、感じ、考え、生きているという事実を納得しなければならない。問題行動とか、その改善方法とか、一方的な子供のあら探しをやめて、一つ一つの行動に深い意味があることを洞察し、相手に迷惑のかからない、かかわり合いをしなければならない。
人間の心、あるいは精神活動、さらには魂などと言うと、どうしても形而上学になってしまう。確かに、魂は物ではない。物理的な法則や分子的な結合で表しようもない。その意味で、客観的、科学的ではないと、あっさり言われてしまう。確かに、科学の対象となりにくい存在であるが、人間行動の成り立ちの根本を解明しようとする人間行動学にとっては、一番大切な問題である。原子の構造や素粒子の力学を、物理学で考えるのと同じように、人間行動学において、魂の問題を取り扱うことは、かけがえのない探求であり、科学的と言うよりは、人間行動学的と言うべきである。また、魂の問題は、直接、宗教の問題となりやすい。例えば、悟りなどは、ある直感的な体験であり、言葉に表せない論理の飛躍がある。さらに進めば、独断と偏見に満ちて、凡人の実感からかけ離れたものとなりかねない。人間行動学においては、魂の問題は、平凡な日常の人間関係における、ありふれた会話のなかや、見慣れた風景のなかにあるものとして取り扱いたい。魂は、決して、実態がないもの、五官で感じられないものではない。感じるといっても、生きている人間が、外界刺激の関係や変化を身をもって体験するのである。ある物理学的尺度をもって構成された外界を、刺激として抹消の受容器が受け止め、求心的神経経路を通って中枢に送られ、機械的に感じるものではない。物理学や生理学とともに、人間行動学が意味をもつのは、人間が生きて感じ、考え、組み立て、創り出すからである。人間行動の根本において、人間は、どんな外界刺激を、どこの体の部分で、どんなふうに受け止めたのか、その感じたことを基にして、何を組み立て、自分自身を調節するとともに外界へ働きかけるのかということを、極めて初期の段階から、今日の文化の構築に至るまで、できるだけ深く、緻密に、すっきりと、表さなければならない。我々が外界から感じるものは、個々の物理的刺激の積み重ねというよりは、全体としてのまとまりであり、実験室で作り出された、機械的に固定化した状態というよりは、刻々とした生きた変化と、その変化の奥に潜む意味なのである。生きた人間が、生きた外界を、なまなましく感じているのである。その人と外界との接点は、広く、多彩で、学問や常識的な決めつけの到底及ばない、眩しく輝くものである。
それでは、宇宙に遊ぶということが、誰もが体験できるありふれた日常のなかにあるのだから、私もやってみようと思っても、簡単にできるものではない。宇宙に遊ぶとは、ありふれた日常のことではあるが、面白そうだからといって、誰でもできるものではない。いや、大変難しいものであり、だからこそ意味が深いのである。まず、宇宙に遊ぶためには、障害の重い子供の行動を理解することが大切である。そして、自分自身を魂の塊にしなければならない。魂の塊にするためには、自分自身を捨てること、よく考えること、静寂と孤独のなかで、より純粋になることである。社会的自立などが大切なことだと思わなくなることだけでは、とても自分自身を魂の塊にすることはできない。本来、無一物の生きた人間が、ひとりぼっちのなかで、静かに考えることである。虚脱とか、解放とか、大げさなことではなく、ひそやかに、したたかに、ただひたすらに、一つのことを感じ、考え、生き抜くことである。わかりにくいこと、その効果が、いつ表れるのか明らかにならないようなこと、いつまでたっても変わらず、とめどもない繰り返しのなかで、一生懸命、したたかに、ひそやかに、ただひたすらに、唯一、その人にとって大切なことを追及することが、自分自身が生きていることの証であり、魂の塊となることである。そこから、本当の意味の人間の感覚や運動とは何であるか、人はなぜ体を起こし、やがて、立って歩けるようになるかが明らかにされる。さらに、道具を作ったり、使ったり、言葉を話したりする人間の日常の営みが、何で、どんなふうに、成り立っているかが明確となる。そして、人間行動学の根本的な問題を解決する糸口を見出すことができる。
人間行動の成り立ちにおいて、目とは何なのか、手足とは、口とは、背中、背筋、腰とは何なのか、本来、どんな役割を担って、その役割がどう変化して、それらの体の他の部分との相互の関係はどうか、ということを考えると、私たちは、今までの常識的な考え方を一変しなければならないことに気づく。全く新しい立場、今までの考え方からすれば、奇想天外な考え方、見方、組立て方が、必要となる。例えば、日常生活の仕方一つを取り上げてみても、私たちは、今までの立場を捨てて、障害の重い子供から学んだ新しい立場に立たなければならない。障害の重い子供は、一般的に、噛んだり、飲み込んだりすることができない。そこで、すぐ、どうしたら上手に噛んだり、飲み込んだりできるようになるかということを考える。HOW TO式で、子供の発達を促す指導法を開発しようとする。しかし、子供に学ぶことなくして、いかなることをも教えることはできない。噛んだり、飲み込んだりすることができないのは、いけないこと、何とか教えて、なおさなければならないという考えは、一方的で、単なる対症療法の開発や、無意味な焦りや、いらだちへとつながりやすい。もし、私たちが、外界刺激の本当の意味を感じ、その奥の深さを味わおうとするなら、力まないで、鑑賞することである。まずは、外界の変化に対応して、こちら側から意図的に働きかけないで、その変化の成り行きを静かに見守ることである。むしろ、私たちは、日常、なぜ、口の中に入れた食物をせわしなく噛んで、すぐ飲み込んでしまうのだろうか。そのことの方を反省し、見直さなければならない。早喰いの人は、一挙に、多量に、口の中に入れ、よく噛まずに飲み込んでしまう。そうしないと、かえって味がわからないという人もいる。瞬間的に、食物が口を通り過ぎてしまう人もいれば、噛んだり、飲み込んだりせずに、いつまでも、口の中に食物を含んでいる人もいる。いつまでも口の中に含んでいても、少しずつは、変化が起こるのである。噛まないけれど、舌で押して、食物は唾液と混じりながら、少しずつ丸くなり、飲み込みやすくなる。そこで、意図的に飲み込まなくても、滑らかになり、流れるように滑り落ちる。もし、深く味わおうとするなら、あまりに急激な意図的運動(噛む、飲み込むなど)を自発して、外界刺激に大きな変化を起こさないようにしなければならない。できるだけそっとしておいて、相手と自分との相互のかかわり合いにおいて起こる、静かな、穏やかな変化を、ゆっくりと待つ心構えが大切である。食べることは、私たちの日常生活において、本当に大事なことなのである。その奥の深さについて、常識を捨て、新しい見方から、その本当の意味について考え直さなければならない。障害の重い子供は、何もわからないとか、未発達だから、噛んだり、飲み込んだりできないだけで、食物を静かに味わっているなんて馬鹿げた発想法だと言う人もあろう。噛んだり、飲み込んだりすることを早く覚えさせようとする。それができるようになると、すぐスプーンを使わせようとする。障害の重い子供に対する食事指導や、お母さん方の悩みは、この2点に尽きている。そして、焦って指導するあまり、直接的な禁止や強調ばかりとなって、やがては、あまりに進歩しない子供の状態に、やけになって、世話することに専念し、疲れ果てて、この子は駄目だと思い込んでしまう。噛まないからといって、下顎をギュウギュウ押しても、子供にとっては、何が何だかわけがわからない。そして、子供の本当に自然なゆったりとした姿が、全く見えなくなってしまう。悠々と暮らし、ゆっくりと味わい、奥の深い人生を送っている障害の重い子供と、せわしなく、味気ない、機械的な日常生活のなかで、浅い人生を過ごしている母親や施設職員、学校の先生方とが、極めて対比的に浮かんでくるのである。もっとも、障害の重い子供が、人生の奥の深さを味わうことができるようになったのは、ある意味では、この機械的な、せわしない押しつけが役立っている。食べさせる時、姿勢を一定にして、「お口をあけて」と言って、子供が口をあけたら、すばやくスプーンで口の奥に食物を突っ込む。確かに、手早くて、口の周りや手や衣服などに、食物をこぼして汚さないので、一見、早く、清潔で、上手に食べさせているように見える。しかし、子供の体の自由は奪われる。手が使えないどころか、何を食べるのか、それを見せてさえももらえない。子供としては、受け身になること、じっとして体を動かさないこと、感覚を使わないこと、そして、やがて機械のようになることを皮肉にも教えられている。というよりは、強いられているのである。しかし、ここに、人間のしたたかさが現われる。どっこい俺は生きているという素晴らしい輝きが見えてくる。つまり、強制的に受け身にされたため、一見、何もわからない、何もできないように装いながら、実は、そのために、我々が到底味わうことのできない人生の奥の深さに到達し、明鏡止水の心境となるのである。全く力まないで、外界を乱すことなく、静かに、ゆったりとした変化を鑑賞する魂の塊となることが可能となる。私たちは、障害の重い子供から、本当の意味での日常生活の感じ方、考え方、暮らし方、生き方を学んで、日常生活を根本から見直し、人間行動の成り立ちの組み立てを根本からやり直さなければならない。何のために、噛むのか、飲み込むのか、どうすれば、噛んだり、飲み込んだりできるのか、ということは、障害の重い子供から学ぶことによって、新しく考え、組み立てることが可能となる。噛んだり、飲み込んだりする私たちにとって、全く無意識の行動であっても、初めからできたわけではない。ごく初歩的といっても、意図的運動の自発であるから、その基礎となる外界刺激の感じ方、理解の仕方を基にして、意図的行動の自発を調整し、組み立てなければならない。どんな子供でも、初めから食物だけを噛むということはない。お母さんの肌を噛んだり、衣服やてぬぐい、さらには、机やお盆のはし、茶碗やスプーンなどを噛むのである。決して、噛みなさいと言われて噛むのではない。自発的に外界刺激の確かめのために噛むのである。そして、食事は、その子供がリラックスして、落ち着いて、ゆっくりとすることが大切である。少なくとも、これから食べる食物の名前や、その手ざわり、目で見た感じ、口の中に入れたときの感じなどを、十分に教えたあとで、食物を食べさせることが大切である。相手が食べようとして、頬を近づけたり、唇を突き出すようなことが起こったら、そのタイミングを逃がさずに、食べさせることである。噛んだり、飲み込んだりする意図的行動を、子供自身が自発するためには、その子供が、感覚を外界に開いて、食物を刺激として、弁別的、選択的に受け止めることを基礎としている。つまり、感覚をふんだんに、自由に使うことは、意図的運動の自発と調整の基礎となる。今までの間違った決めつけや見方を変えて、世話や、直接的な行動の禁止や、強制にとらわれないで、養いながら、子供たちが各人各様にしている素晴らしい感じ方、考え方、暮らし方、生き方に深く感動することが大切である。子供たちが、何のために、どの外界刺激をどんなふうに受け止めているか、その感じ方を基にして、自分自身の運動を調整し、どんな時、何のために、どんなふうに外界へ働きかけるのか、ということがわかれば、何もできない、何もわからない子供ではないと気づく。
私たちが、この子は未発達だから、外界の働きかけに、無反応、無関心、無表情なのだと決めつけないで、そのような、受け身で、機械的な反応や能面のような表情は、単なる装いであり、実は、その子は、素晴らしい感受性の持ち主なのだと気づいた時、そして、もし、私たちの働きかけが、よく考え、よく工夫され、その子にとって適切なものであれば、必ず、その子供は反応し、生き生きと目を輝かせ、笑うのだということを確信した時、私たちの障害の重い子供に対する見方が、根本的に間違っており、指導法が悪かったのだと、素直に考え直すことができる。そして、私たち自身の日常生活や根本的な基本動作(例えば、噛む、飲み込む。目で追い、見分ける。手を伸ばしてつかむ。立って歩く。など)の成り立ちの根源と、その組み立ての筋道が、ほのぼのと見えてくる。
人間は、生まれて、生活し、生きている間は、自分自身が有限であるとともに、外界もまた有限となって、有限から離れられない。ある時は、有限を追い求め、また、ある時は、有限に追い回される。有限のなかに無限が隠れ、薄くなって、見えにくくなってしまう。そんな時、果して、無眼を感じることができるだろうか。一つ一つの孤立した有限の集まりではなく、また、部分としての有限の積み重ねではなく、全体としての無限、一つのまとまりとしての無限、有限の関係としての無限が、障害の重い子供の輝きを通して、私たち自身の根底の魂のなかに、浮かび上がってくるためには、子供たちが、魂の塊なのだから、私たちも、魂の塊となってかかわり合わなければならない。そして、有限の始まりとしての無限、有限を支え、その成り立ちの根本としての無限を、深く感じ、理解し、味わい、遊ぶために障害の重い子供たちとともに、輝かなければならない。限りなく爽やかに、静かに、奥深く、人間の魂と魂が出合うことは、人間行動学の根本の問題である。この出合いを基として、私たちは、私たち自身の行動の成り立ちや、言葉や、道具の意味、さらには、今日の文化の構築、そして、未来の文化の創造にまで、新しい展望が開かれるのである。
追伸 昨日、ある信託銀行から私宛に、「あなたは来年3月に退職です。退職金の有効な利用法はこれこれです。」というダイレクトメールがきた。私は、すでに、本年3月31日に退職しているので、間違いである。しかし、思うに、私は、4月1日生まれなので、コンピューターが来年退職と錯覚したのだろう。私は、幸運にも境目に誕生したので、宇宙に2度遊ぶことが可能なのだ。したがって、本題は、「舌先と指先とで、宇宙に2度遊ぶ」とし、障害の重い子供をおどかしたいと、ひそやかに、したたかに、ただ一筋に思い込んでいる。と、書いたら、誰かさんに、「舌先と指先とではなく、舌先と口先でしょう。」と言われました。 ………………おわり