平成3年3月3日岩魂第6号
遠まわりして、心の輝きに出合う
ある人は、障害の重い子供を三無主義だと言う。無反応、無表情、無関心の三無主義だとのことである。こんな頭にくる言い分はない。確かに、反応が乏しいし、表情の変化がほとんど無いし、外界の事物や人の働きかけに関心を示さない。同じ年頃の子供たちと比べてみれば明らかで、一般的、常識的なわかりやすい言い分なのである。しかし、そんなことを得々と言っている人に、わからずやと怒鳴りつけたい。誰だって、必要も無いのに反応しないし、おかしくも面白くもないのに笑わないし、興味の無いものには関心を示さない。確かに、普通の子供と比べたら、少ないとか乏しいとかはあるが、しかし、全く反応や表情や関心が無いわけではない。それどころか、驚くほど表情豊かであり、外界の刺激に正確に反応しており、関心もまた緻密で奥が深いのである。障害の重い子供たちとかかわりをもっている私たちが、なぜそんなことに気づかないのか。なぜ何もわからない、何もできない子供だと決めつけてしまうのであろうか。私たちの子供に対する見方と、子供の行動の組み立て方とがあまりにかけ離れているので、いつもすれ違いばかりしているのではなかろうか。どんな子供でも、その子供なりに外界を受け止め、自分で意図的に運動を組み立て、人と接し、日常を暮らしているというごく当たり前のことを、障害の重い子供も同じようにしているという大事なことに気づいていない。
同じ年頃の普通の子供といっても、別にどの子供が普通の子供と特定することはできないのだが、ともかく、私たちの頭の中にそれぞれ普通の子供像がいつのまにか形成されている。だから、病気を治療し、発達遅滞をできるだけ取り戻して、その普通の子供像に近づけようとすることで頭がいっぱいなので、その子供の本当の姿を理解しようということなど思いも及ばないことになってしまう。この見方からすると、ますますできないこと、わからないことの多い子供と見えてしまう。そして、一生懸命育てようとすればするほど、いつのまにか強制や禁止が多くなってしまう。
障害の重い子供の側から考えると、関心を示すものが限られ、外界を受容する体の部分が特定されて、運動の組み立てが、私たちの想像しているところと全く違っていることが多いので、私たちにとって、障害の重い子供たちの行動が一層わかりにくくなってしまっている。
トーチくんのお母さんが、最近ト一チくんがずいぶんいろいろなことがわかっているのだということがやっとわかってきましたと言っていた。今年の4月から中学部1年生になるが、もちろん寝たっきりで、寝返りも打てない、訪問学級に在籍している障害の重い子供である。研究所に来て、ひとねむりしたあと、スイッチを入れると、「オハヨーオキナキャ」「イラッシャイマセ」「アイシテマス」など、いくつかの声が出る教材を自分の顎でスイッチを入れたとき、すぐそれに対応して私が返事をしてあげると、とても喜んだ。とくに、「オハヨーオキナキャ」のとき、「あいよ」、「アイシテマス」のとき、「だめ」と言うと、実に愉快そうに声を立てて笑う。
障害の重い子供の行動は、とかく偶然のように見えて、実は偶然のように装っていることが多い。したがって、私たちは、ちょっとした反応や新しい行動の組み立てによる小さな変化を見過ごしてしまったり、そのもっている意味を深く考えようとしない。だから、子供が何のためにそんなことをするのか、あるいはなぜしないのか、根本的な理由がわからない。
私たちは、体を起こすとか、手を伸ばすとか、立って歩くとかは、誰にでもできることなので、つい、簡単なこと、もっと言えば、人間が生まれてもっている当然な行動様式だと考えてしまいがちである。ところが、見たものに手を伸ばすとか、立って歩くということは、大変奥の深い、一人一人の人間がたくさんの体の部分をうまく使ってやっと可能となる、その人にとって、新鮮な、緻密な、輝かしい行動なのである。ただ、人によって、いつの間にかすぐできるようになるか、いつまでたってもなかなかできるようにならないかなのである。いつの間にかできる人は、変化が速く、筋道がたくさんあって、どれが本当の正しい筋道なのかはっきりしない。
私たちは、一見遠まわりしているように見えても、人間行動に一番大切なものを見つけだして、間接的に、緻密に組み立てていくことが大切であり、そのことが、障害の重い子供の行動を本当に理解しうる唯一の道なのである。例えば、仰向けで、寝たっきりの姿勢というのは、人間行動の始まりと考えられる。人間は、体の前のほうにばかり反応しているように見えるが、ごく初期の場合には、後ろのほうに反応する。したがって、背中を中心にする首や腰からの外界刺激の受け止め方、及びそっくり返るようにする後ろ側への反応を大切にし、深くその意味を考えないと、体を起こすという意味が根本的に解決できない。人間行動の初めての組み立てが、体の後ろ側の受容と反応から始まるのだという極めて当然なことに、なぜ今まで気がつかなかったのだろうか。寝たっきりの子供の体を起こすことばかり考えて、仰向けの姿勢で、その子供が何を感じ、どういう意図的な運動を組み立て、自発し、さらに運動を止めているか、その行動の根本的な意味を考えなかった。近頃やっと気がついて、その新しい立場から寝たっきりの子供とかかわり合うと、子供のしていることの意味がだんだんわかってきた。そして、その行動が、緻密で、確実で、実に合理的で輝いている。
たどたどしいけれども、少しずつ私たちと一緒になって立ち上がろうとしているミーさんの重心の取り方があまり上手でないので、立ち上がったとき、嫌な顔をするかと思っていたら、少しずつ自分で立てるようになってくるにつれて、ニコニコと笑うようになった。腰かけたり、仰向けで寝ているときと違って、目の高さが高くなり、外界の光景が一変し、全く新しく見えるのである。誰しも、立ち上がったとき、この新鮮な感動を経験しているのにもかかわらず、すぐ別に新しい変化が起こって、あっという間に感動が消滅し、忘れ去られてしまうのである。一番大切な感動を大事にできないのは、変化がめまぐるしく、忙しいからである。
障害の重い子供たちは、人間行動の組み立てにとって一番大事なものを大切にし、いつも感じ、反応し、その人独自の素晴らしい世界を構成しているのである。ミーさんは音にも実によく反応する。ミーさんとのかかわりが深まっていくにつれて、彼女がどんな音にどんなふうに反応するのかわかってくる。その反応の仕方は、ほとんど私たちが気づかない。しかし、本当は大事な意味をもっている音の微妙な変化に緻密に対応してにこやかに笑っているのである。決して、他人から押しつけられたものではなく、自分自身で区別し、選び、組み合わせたものなのである。
研究所に通っているほとんどの子供が手を使わない。目で見たものを手を伸ばして取るなどということは、造作も無いことで、たいしたことでもないと思う人が多かろう。しかし、誰でもができる簡単なことだからと言って、その人がその行動を組み立てる原理が単純で意味が無いとは言えない。やはり、人間が手を使うということは、人間行動の根本にかかわる重要な問題であり、目で見たものに手を伸ばすという目と手の協応は、人間が営々として構築した文化の根本にかかわる問題である。手というのは、姿勢に関係しており、バランスの極めてよい状態でないと手を伸ばすことができない。
私たちは子供に学ぶと言っても、それは決して簡単なことではない。障害の重い子供になればなるほど、その子供から学ぶことは難しくなる。それは、直接的にわかりやすい言葉で話しかけてくれないからである。そして、初めて出会ったとき、障害の重さに驚いてうろうろしてしまう。何か考えれば、それは見当はずれなことばかりであり、働きかければ、一方的な無理なやらせになる。しかし、寝たっきりの子供が、体の後ろ側を大事にしていること、また、我々が考えつかないような音、例えば、それは隣の部屋の教材の小さな音などに、その子独特の音に対する微妙な反応を示していること。さらに、手を使わないのは、手を使わないのではなくて、手を伸ばす以外のほかのことに使っていること。例えば、手で自分の体に触る、手をこすり合わせる、手で上半身のバランスを取るなどである。これらの子供の行動の意味がわかるだけでも、私たちは、より適切な働きかけを通して、より深く子供から学ぶことができるのである。
私たちは、たとえ遠まわりしても、自分の常識とあまりにかけ離れていても、子供が体の部分をどんなふうに使っているか、何を感じ、何を考え、何をしようとしているのかを、いつも新しく考え直さなければならない。背中が大事だとか、体の前の中心が口だとか、手足や目は初めはどんなふうに使うか、ほんの少し理解しただけでも障害の重い子供の行動が実に深い意味をもっていることに気づく。そして、私たちはまだ理解をし始めたばかりであり、とても深くよくわかったとは言い難い。しかし、仰向け、うつぶせ、横向き、おんぶにだっこ、這い這い、お座り、腰かけ、立ち上がり、歩く、止まるなどの多彩な姿勢の変化の中で、体のどこの部分をどんなふうに使って、外界と対応づけながらバランスを調整し、行動を組み立てているのか、その一つ一つの姿勢の中で、何を感じ、わかり、対応した運動を組み立て、行動しているのかが少しずつ解明されはじめている。そのために、障害の重い子供たちと遠まわりして輝きに出合うことが一番大切なことである。輝きに感動して心と心とが触れ合ったとき、初めて私たちは障害の重い子供と出会い、人間の本当の姿、その根本的な一番大切なものを明らかにしうるのである。