平成3年6月2日岩魂第7号
人類の根源
何という題かと聞かれて、しばらく考えて、人類の根源という題にしようと言ったら、「いつも大げさな題をつけるね、買物にいくから早くして下さい」と言われて、すぐへなへなとなってしまったけれども、人類の根源は魂である。魂を無視して、人類を、特に人類の成りたちを語ることはできない。角川の中辞典によれば、人類─霊長目ヒト科の動物、現在のヒト、直立歩行することから、手の働きが自由で、道具を用い、また、知能の発達が著しく、言語を用いる。と書いてあり、魂を問題としていない。
人類の起源に関しては、人間が立って歩き始めたのはいつなのか、その頃、火を使ったり、石器を作って道具としたりしていたのだろうが、人類系統樹によっても、最も古い化石人類が第4期の始めの地層から発見されている以上、人類の出現がそれより以前であることは明らかである。おそらく人類は、第3中世期の初め頃に類人猿とわかれる。その後、いくつかに枝わかれし、そのうちのただ一つの技だけが現代まで続いて、現代の人類になったものと考えられる。要するに、人類の起源は、1900万年前から100万年前までの1800万年の間のいつかと考えられる。
人類というと、すぐ、直立歩行、そして、いつ頃から立って歩き始めたのか、ということが問題にされるのに、それでは、人間がなぜ立てるようになったのか、立つことによって何が起こったのか、立つことがどうしてそんなに重要なのか、ということが全く考えられていない。つまり、人間は、立って歩く動物ということが一般的に常識化され、しかも、直立歩行により、手の働きが自由になるという考え方に誰も疑いを抱いていない。私は、こんな非常識な常識はないと思う。字引に堂々と書かれているけれども、人間は、直立歩行することから手の働きが自由になったのではない。四つ足で移動していた動物が、急に立ち上がって、後ろ足で直立して歩くようになり、そのため、前足が手になったのではない。これらの常識は、非常識なのである。ただその時代の人々が一般的に考えている考え方にすぎない。例えば、私たちの生活している大地は動くはずがない、天のほうがグルグル回っているのだと、みんなが信じていた時期もあるが、今日では、地球が自転しているということを疑っている人はごく少数である。もし、地球が自転しながら公転しているなら、大地に立って私たちは、なぜ足もとがフラフラしたり、目がクラクラしないのだろうか。立っているというのは、極めて不安定な姿勢である。その上に、地球が回っているならば、よろけてしまう。地面は玉乗りに乗っているような球形でなく、動かない、安定感のある平面である。その意味では、実感として地球が丸いとか自転しているとか、その上、公転までしているとは信じられない。地動説を主張して宗教裁判にかけられた人もいる。
私は、宗教裁判より、精神病院に入れられたら大変だと思っている。それでも、人類は、直立歩行することから手の働きが自由になったのだというのは、非常識というよりは迷信であるとつぶやく。人間は、初め四つ足、それから直立歩行で2本足となり、前足が手となったなら、そもそも人間の手は、足から手になったのか。どういうふうにして足が手になるのか。実際に赤ちゃんを見ていて、人間の赤ちゃんは、起き上がらなくても手を使うし、立ち上がらなくても、お座りの姿勢で盛んに手を使う。人間はもともと四つ足だったのか。立って歩くようになったとき使う2本の足は、もともと足だったのか。這い這いが四つ足だというならば、なぜ足の裏を床面につけないで、膝を使うのか。腰から膝までが足で、膝から足の裏までが何なのか。人間の這い這いを四つ足だと考えるとおかしなことばかりである。もっと言えば、立って歩かなかったら、人類ではないのか。手を使わなかったら人間ではないのか。手をこすり合わせて前に伸ばそうとしない子供も、今年度から、中学生になったり、高校生になっても、自分では寝返りを打てない寝たきりの子供たちも、研究所に元気に通所している。人間は、物をつかんだり、触ったり、道具を使うために手を使わなくても、さらには、立って歩かないで寝たきりでも、素晴らしい人間であり、人間のなかの最も人間らしい輝かしい存在なのである。魂の塊そのものである。今、毎週水曜、障害の重い子供たちの輝かしい存在を通して、人間行動の成りたちの根本の問題を解こうとしている。人間は、なぜ立って歩けるか、立つことによっていかなる変化が起こったのか、仰向けの姿勢がなぜ人類の起源なのかなどについて、子供たちから教わったことを話している。人類の根源を明確にすることは、人間存在の意味を明確にするためにも、人類の未来の新しい類のためにも、重要な問題である。