平成3年11月9日岩魂第8号

               「役に立たないこと」のもつ意味

 我が国盲ろう教育の先駆的存在である成子さんと忠男君とに、久しぶりに会うことができた。私は、昭和30年代に本当にお世話になった。二人ともすごく元気で、30年前と全く変わらない素晴らしい存在であり、私はただ感動するのみであった。お母さんの話では、時計は与えても、すぐ壊してしまうということであるが、忠男君は実にそおっと時計の針に触るのである。ところが、時刻を知るためにのみ触るのでなく、時間をも触ろうとするので、はためで見ると確かに触りすぎるのかもしれない。流れゆく時の瞬間的な1点ではなく、その流れを触ろうとするのである。見る場合は、秒針を見れば、その経過が一目瞭然であるが、盲人用の時計は秒針が付いていないので、分針を手で触って時の経過を知ろうとするのだから、やはり大変なことである。突然、時計の話を持ち出したが、これはほんの一例であり、忠男君の触り方は、常に実に堂々として、ゆったりとしており、それでいて細やかなのである。さらに素晴らしいのは、成子さんの触り方である。ぼうっとして、終始受け身で、放っておくと一日中何もしないようにみえるが、彼女は、絶えず自分のペースで周囲を触っている。主として人であり、さらに言えば衣類である。彼女の衣類の触り方は素晴らしい。柔らかく、物静かで、温かい。そして、軽やかな触り方であり、まことにあどけなく、かわいいのである。生理学や心理学は、感覚というと、すぐ、味覚、嗅覚、触覚、聴覚、視覚の五つに分け、それぞれの受容器はどうの、外界刺激の物理的状態はこうの、神経の伝わり方はそうの、中枢の活動はああのと、くだくだ言って、いつのまにか、人間が感じ、考え、暮らし、生きている本来の姿を見失ってしまう。まことに機械的で味気ないし、人間存在の真の解明には何ら役立たない。私が、触り方があどけなくてかわいいなどと言うと、それだけで客観性がない、科学的でないとして、しりぞけられてしまう。人としての感覚は個別的であって、人それぞれ感じ方が違うということから今日の生理学や心理学は始まらなければならない。人間は、まさに十人十色なのである。私たちは、人間行動の成り立ちの根本を解明せずして、人間そのものを理解することはできない。障害の重い子供から、感覚の成り立ちやその役割を学ぶことなくして、人間存在の意味の深さを究明することはできない。人間行動の成り立ちの根本としての人としての感覚の意味、運動との関係、さらには、視覚、聴覚、触覚などの人間行動の形成に果たす重要な役割、相互の関係について、二人の盲聾の方から改めて深く学ぶことができた。触覚は、聴覚や視覚などと深く関係しながら人間行動の成りたちの初期において、外界への積極的な働きかけの出発点としての意味をもち、人としての感覚の本質を表すものである。自己と外界との接点としての感覚の極致が触覚なのである。私たちは常日頃から、感じ、考え、日常を暮らしているが、しだいに、ある強固な枠組みの中に閉じ込められて、感じ方、考え方、生き方、暮らし方が、一方的、独断的、表面的、常識的になってしまい、安易に流れ、深く感じ、よく考え、心から楽しむことを忘れてしまっている。感じ方、とくに触り方のなかに、人間としての感覚の深い意味があることを忘れてしまっている。成子さんの触り方は、力を抜いた、運動の小さい、のどかなものであるが、その感じは、ものすごくどでかく、爆発的なものである。表されたものは、全く新しい世界、実にすがすがしく、清らかな世界なのである。情報が多量で多種類にわたっていても、その一つ一つががらくただったら、富士山のように積み上げても全く無意味なもので、人々をせわしなくしたり、無味乾燥にしたりしてしまう効果しかない。障害の重い子供は素晴らしい存在なんだと言っても、世話がやけるばかりで、いくら一生懸命育てても、生活の自立どころか、立って歩けるようになることすらあぶなっかしいのではないか、子供から、感じ方、考え方、暮らし方、生き方を学ぶと言っても、所詮何もできない、何もわからない子供から何を学ぶことができるのか、新しい、実にすがすがしい清らかな世界だとか、触覚の極致としての幽玄などと、すべてたわごと、そんなことは世迷いごとで、おまんまも喰えないし、お金にもならないと言われかねない。
 何と言われようと、人間とは何かを解く鍵として、人間行動の初期の段階において、人としての感覚のもつ本当の意味、とくに触覚の重要性について、障害の重い子供からより深く学ぶことが大切である。この優れた感じ方を基にして、私たちは役に立たないことを一生懸命する無欲の仕事を感動をもって積み重ねていかなければならない。