平成4年2月29日岩魂第9号
「ささやかなるもの」のもつ意味
1月12日に甲府で、第4回山梨重複障害教育研究大会が開催され、午後からの講演にだけ参加した。午前中の養護学校の先生の研究発表の資料の終わりに、何にしても、恭子さんあっての私であると書いてしめくくってある。この先生は、子供の方が自分より1枚も2枚も上手である、そして、私の貧困な常識を頭から崩してしまう、子供の考えていることをいち早く読み取りたいのだが、まだ未熟者で、なかなかできない、恭子さんは私にとって、よきライバルであり、なくてはならない存在である、と信じている。障害の重い子供の行動の小さな、単純な、何気無い変化を通して、人間が体を起こし、座るということはどういうことなのか、人間行動の成り立ちの初期の極めて重要な原則が、教育実践のなかから少しずつ見えてきている。この研究発表は、私たち自身の姿勢の保持及び変化について、常識を離れた新しい見方の重要性を示している。人間が体を起こして座るまでの体の部分の役割、とくに、足の働き、手の働きについて、いくつかの重要な事実を子供との取り組みによって明確にしている。足は立って歩くためのもの、手は前に伸ばして持ったり、触ったりするもの、という常識的な固定観念にとらわれてはならない。手で体を起こし、支える。もっと言えば、人間はまず手で立つ。足で立つのは大分あとのことである。足は、初め、蹴る、さぐる、触るなど、手の役割を先取りしている。足で触って、手で立っているという手や足の初期の逆転した役割、その後の役割の変化と相互の関係など、貧困な常識でなく、障害の重い子供の行動のなかから深く学び取らなければならない。人間は、初め、仰向けで寝ているのは当たり前、やがて、寝返りを打ち、体を起こし、座ったり、這い這いしたりするようになるという何の変哲もない考え方が常識として固定化してしまっている。仰向けで寝ていることがなぜ当たり前なのだろうか。仰向けの姿勢が人間行動の成り立ちの根本にかかわっている深い意味を考えなくてもよいのだろうか。人間は、仰向けの姿勢で一体何をしているのだろうか。外界刺激を受容する刺激の種類や範囲、受容の様式について、さらには、意図的運動の組み立て及び自発について、体のどこの部分を主役としてどんなふうに使うのか、その仰向けの姿勢が、将来、体を起こし、立って歩くこととどういうふうにつながるのか、という人間行動の成り立ちの根本の原則をもっと広く、深く、厳密に考え、新しい人間行動学の基礎をつくっていかなければならない。這い這いにしても、動物の四つ足と同じという考えは、根本の原則から人間行動の成り立ちを考えようとしないことから起こる大変な誤解である。這えば立て、立てば歩め式に、表面的な姿勢の変化を機械的に見てくれよく、ただ意味もなく並べたてた見方では、本当の人間について何もわからない。そして、こんな表面的な変化を発達だと考えるならば、本当に筋の通った人間の発達は浮かび上がってこない。さらに、人間がなぜ道具や言葉を使うのか、人間の感じ方、考え方、暮らし方、生き方についての明確な洞察をなしえない。障害が重く、しかも重なっている。発達が著しく遅れている。病的な異常行動が見受けられる。性格もわがままで、自己主張が強く、集中心がない。私たちは、障害の重い子供をこんなふうに決めつけて、治療する、発達の遅れを取り戻す、根性を直すということばかりにとらわれて、子供の示す行動の本当の意味を考えようとしない。人間行動の成り立ちの根本からかかわり合おうとしない。障害の重い寝たっきりの子供たちは、人間の仰向けの姿勢の深い意味について語りかけている。人間の初めての感じ方、考え方、暮らし方、生き方について、整然と順序正しく示している。寝返りを打ち、体を起こし、這ったり座ったり、立ったり歩いたり、なぜできるようになるのだろうか。感じ方、運動の組み立て方、体の部分の使い方とその関係のしかたがどんなふうに変化していくのかを私たちに語りかけている。その語りかけは、極めて本質的な内面的な原則であり、黙々と教えているのである。私たちは、障害の重い子供と真剣にまじめに取り組んで、このガッチリした正確な教えに触れたとき、ただ感動するばかりである。これらの感動の積み重ねによってこそ、やがて、新しい人間行動学の金字塔が打ち立てられるであろう。誰もまだ障害の重い子供たちと本当にかかわり合っているとは言えないが、一生懸命子供たちと共に生きることによって、人間行動の成り立ちの最も大切なものを少しずつ学ぶことができるようになってきている。常識による誤解でなしに、本当にわれわれの原点を明示する人間行動学樹立のために活躍する人々が育ってきている。私たちの新しい考え方は、世界に新風を送り始めている。私たちは、これに満足することなく、未来の人類のために、とかく見過ごされやすい、ささやかなるものの本当の意味をもっと緻密に内面的に探求していかなければならない。