平成4年5月5日岩魂第10号
三昧無礙の空ひろく 四智圓明の月さえん
あるテレビを見ていたら、障害児の療育の問題を話し合っていた。障害児をもつ母親が我が子を育てることの楽しさを淡々と話した。
小児科のお医者さんがどんな子供でも力をもっていること、適切な時期に適切な方法で育てること、特に早期発見早期療育について話した。急にアナウンサーが猫撫で声で障害児をもつ母親の苦労は大変なもので、とても並大ていのものではないと言い出した。そして全体の論調が急におかしくなってきた。どうして障害児をもった親は不幸でなければならないのだろう。悲しい辛い思いをしながらかけがえのない人生を送らなくてはならないのだろう。障害児はやっかいなお荷物であるという世間の常識を何とか変えることができないものなのか。障害児を子供にもったことはすばらしいことなのだ。初めて生きることの本当の意味を知り、子供の行動のすばらしさを通して人生のより深い味を味わうことができたと言っているそばから、ご苦労が多くて大変ですねとごく自然に同情する調子で言っているのだから始末に負えない。この世のなかで辛いばかりで全く楽しいことがない辛さなんてないのと同じように、楽しいばかりで辛いことがない、ただ楽しさばかりというのも望むべくもない。大変な苦労をすればそれだけ楽しさも深く大きいのである。
障害児のためのある学校の1年間の教育記録が放送された。持久力、忍耐力、集中力を養うという。そのために、廊下の雑巾がけなどの日常生活のしつけの繰り返しと、かけ足、体操などの体育が指導の中心となっている。それと将来の自立のための木工の実習、パンの製造実習などである。子供が家庭で大事にされたのでわがままになっている。それでは社会へ出られない。社会で自立するための教育ということで、世間や子供をもて余している親にとっては歓迎される方法なのかもしれない。しかし、表面的で思いつきで機械的な無理強いのような気がしてならない。教育というよりは、その子を何がなんでもある型にあてはめようとする強制にすぎない。
病院の待合室で、ある老人が雑誌を読んでいた。標題は老人ホームにむく人むかない人と書いてあった。老人がいて、老人ホームがあるのでなくて、老人ホームがあって、老人がいる。だからそれに合うか合わないか。合えばよいのだが、もし合わなかったら……、ゾッとする。
白血病のために7歳8ケ月で亡くなった少女の2年間の闘病記録が母親の手によって出版された。その子は、2年間、死について考え、死を見つめ、死を通して神を知り、生きていることの大切さを深く味わったという。どうも、障害児の話になると、人間の心、生きる意味などが主役にならず、果して社会的に自立できるかとか、世間に迷惑をかけないで生きていけるかということばかりが問題にされてしまう。障害児は普通の子とくらべて、できないことが多い。なかなかわからない、へんなことをする、固執的でわがままだ、などということばかりが目について、問題にされてしまう。障害児のもつひたむきさというものが全く理解されない。たとえ、障害が重くて何もできない、何もわからないように見えても、その子の命の輝きにふれるためには、私たちは自分の安易な暮らし方を一切捨て人生の根本について考え直すという大変な大切な努力を尽くさなければいけない。
7歳で亡くなられた少女のひたむきな生き方に習う親のように、私たちは、障害の重い子供から人間の感じ方、考え方、暮らし方、生き方の根本について学び、人生の清明さを実感しなければいけない。感覚の制限を受ければ受けるほど、少ない狭い感覚を通して、より深い外界の構造の根本的理解が可能となるのである。運動の制限を受ければ受けるほど、より小さな運動の組み立てによって、かすかな動きの中に、宇宙そのものを表すことが可能となるのである。それが、人間の本来の姿であり、命の輝きなのである。科学的客観的という言葉にまどわされて、人間の小さな心で人間そのものを無視した機械的、表面的理解に基づいて樹立した私たちのごく常識的な人間観を捨てて、時空を越えて自由なひたむきな圓明な世界へと限りなく前進することによってのみ、私たちは障害の重いことの意味の深さをしみじみと味わうことが可能である。