平成4年11月20日岩魂第11号

           直向(ひたむ)きの子供たちに存在の本質を習う

 日本で第2番目の宇宙旅行者となった毛利さんは、宇宙では、“歯を磨くために歯ブラシに歯磨き粉をつけるような簡単なことができない”と言っている。果して、左手にもっている歯ブラシの先に、右手でチューブを押して歯磨き粉をつけることは、そんなに簡単なことだろうか。
 私たちが何気無くやっている動作でも、その動作ができるようになるまでには長い年月を要しているのである。この動作が簡単でないことは、何も宇宙まで行かなくても、地球上で目をつぶってやってみれば、その難しさがわかる。私たちがそういう何気無くできる動作をいつ、どんなふうに組み立てたのか、もっと基礎的な人間行動の成り立ちから解明しなければならない。現在なんの苦もなくできることを簡単なことだと誤解していることの方が実は大きな問題なのである。ソ連が世界で初めて人工衛星を打ち上げてからすでに30数年が経っている。ここらあたりで、私たちはもっと真面目に基本的に、どうやって無重力状態に適応するか考え直すことが大切ではないだろうか。立っていること、手を使うことなどは、人類が地球上で獲得した安定した姿勢であり、運動の組み立て、自発、調整であり、それは長い年月をかけ築き上げた重力に対する適応なのである。したがって、立って歩くことや手を使うことは何気無くしているが、簡単なことではない。順序正しく、原則に基づいて、一つ一つ自分で納得しながら正確に組み立てた人間行動である。しかし、あくまでも重力のもとでの適応であるので、無重力状態では、この組み立てのもととなる感じ方、運動の起こし方をすべて破棄して、無重力状態に適応した新しい人間行動を形成しなければならない。どんな姿勢が一番よい適応なのか。立ったり歩いたりすること、手を使うことなどは、無重力状態ではよい適応とは言い難い。背筋を伸ばして体を垂直の棒状にすることは、重力で下にいつも引っ張られていることによって初めて可能となるバランスのよい安定した姿勢と言える。ともかく、今やっているように、無重力の空間で垂直の棒状を作ることは馬鹿げている。手を使うことも地球上で考えられているほど大きな意味のあることとは言えない。むしろ、現在の手の使い方は無重力の状態のもとでは無駄な動きや力の入れすぎのもとになってしまっている。
 私たちは、重力状態で獲得した今日までの感覚、運動、姿勢をすべて捨てて、もっと新鮮で自由な新しい人間行動の成り立ちを大切にしなければならない。無重力の状態では、体を動かしたときの感じから始まって、もっと基本的な嗅覚、味覚、触覚、聴覚、視覚のすべての外界刺激の受容が新しい感じとなる。この感じ方を大切にして自分自身の納得できる運動を組み立て、自発し、少しずつ調整することによって無重力に適応した新しい体の部分の感じ方、使い方、まとめ方をもとにした無重力空間を素直に形成し、より適応的な姿勢を基本とする人間行動を樹立しなければならない。地球上の三次元空間では到底考えられない人としての感じ方、運動の組み立て方、考え方、暮らし方、生き方を確立しなければならない。そのために、私たち自身の存在の本質について、私たちよりもっと深く豊かに直向きに生きている障害の重い子供たちから習うことが大切である。人間とは何か、人間存在の本質は何か、人間行動の成り立ちの原則と始まりは何かを学ばなければならない。重力状態の地球上において、現在の私たちの暮らし方が一番よい適応のしかたでないことは、障害の重い子供が示している。障害の重い子供は何もできない、何もわからない子供のように一見見える。ある小児療育病棟で、数人の子供たちが暮らしている様子は、もし、初めてそこを見学した人から見れば、異様で、悲惨で、痛ましいものと映る。ところがそれは、あくまでも見かけの表面的なもので、そこに横たわっている子供たちは命そのものであり、私たちよりずっと新鮮に、自由に生き生きと外界を感じ、それに基づいて緻密に確実に運動を組み立て、極めて微小な反応を瞬間的に自発しているのである。その感じ方、運動の組み立て方、自発の様子の素晴らしさが私たちになかなか見えないのである。見かけにこだわらないで子供たちと共に生き、深くかかわり合うことによって、私たち自身の存在の本質を考え直さなければならないことに気がつく。人間行動の成り立ちの原点に立って、いつまでも新鮮で豊かな実感を保ち、しっかりと深く考えて直向きに生き、命そのものを輝かすことの難しさと大切さとをつくづくと思い知らされるのである。
 私たちは、「いのちの初夜」の著者、北條民雄のように、命の輝きをわかりやすくは言わない障害の重い子供たちから、より深くて確実な人間存在の根本をいつまでも学び続けなければならない。