平成4年3月17日岩魂第12号
ある日、ふと目覚めて深く考え、真剣に生きる
障害の重い子供の教育現場は、くだらないやり方や、どうにも始末の悪い考え方が相変わらずまかり通っている。権威を傘に力ずくである。人と人との心の出会いを大切にして、障害の重い子供たちの魂の輝きに感動して、共にひそやかに生きている者にとっては、誠に迷惑千万な話である。人間行動の成り立ちの本質を見極めようとしないで、すでにできあがっている人間行動から表面的に考えるので、初期の段階の大切な積み重ねが見落とされてしまう。例えば、私たちの感覚や知覚についても、外界の刺激を受容器が受けて感じ、中枢で判断が起こるというような、単純で機械的な理解になってしまう。したがって、受容器と中枢に、これといった障害がなければ、感覚や判断は、外界の刺激を受けて、別に何の学習の段階もなく、すぐに成立すると考えてしまう。いかにも疑いようもない、わかりやすい常識的な考え方ではあるが、人としての感覚の成り立ちの過程、とくに、初期の本質的な部分の組み立ての解明にとって、邪魔な考え方となっている。
人としての感覚は、外界の物理学的刺激を生体が生理学的に受け止めて、中枢の道程で成立するということからは説明できない。物理学や生理学に頼らない、新しい人間行動学の立場から、人としての感覚の成り立ちの根源を究明していかなければならない。私たちの感じそのものは何なのか、視覚の受容器としての目、聴覚の受容器としての耳などは、身体の部分が特定されているので、外界刺激を受けて中枢へ伝わる道程が生理学的にわかりやすいが、触覚となると、身体の部分が限定されにくく、一体何が触覚なのかさえもわからない。触った感じなのだろうが、その時、冷温、粗滑、硬柔などの皮膚感覚や圧や痛みや、ひょっとすると重さまで含まれてしまい、物に触った時のどんな感じを触覚というのであろうか。
昭和30年代の初めに、平凡杜から心理学事典が出たが、私は、その中のある項目に、触覚の受容器の中で大切な役割を果たすものとして、パッチニー小体という、私としては見たことも聞いたこともない、得たいの知れない小体について、いかにももっともらしく書いた覚えがある。書いた人が、正体のわからない小体について、わけのわからないことを書いたのだから、誰が読んでもわかるはずがない。しかるに、今日まで誰からも文句が出ていないのはなぜだろうか。パッチニーでもバッチイでも、ある学問の権威が保たれれば、みんながそれなりに、わかってしまったような気になってしまうのも、困ったことだと大いに反省している。
筋肉の緊張の度合いは、筋電図で取り出すことができるし、筋紡垂から中枢に伝わる過程も、今日、ある程度まで明らかにすることができているが、筋肉は果して実行器であろうか。受容器の役割をも持っているのではなかろうか。歯は、私たちの新しい行動学的立場からは、初期においては、ほとんど受容器であると決め付けてさしつかえないのに、食物を噛むための器官としか考えない人が多い。末梢の変化は取り出すことが可能であっても、中枢の過程についてはなかなか解明が進まない。だから、あるところから、急に高次の精神活動という言葉が威張りだしてしまう。
それにしても、外界に無数の刺激があり、生体の全身に各種の受容器が散らばっているので、もし、外界の刺激を受容器が受け止めるとなれば、無差別、開きっぱなし、無数で、一挙にめちゃくちゃな受容が起こることになり、目や口のように、開閉器がついていればよいが、皮膚や耳や鼻のように、閉ざすことのできない受容器は、外界の刺激の受け入れをどうやって防げるのだろうか。順応などということがまことしやかに書かれているけれど、そんなことでは逃げ切れない問題があまりにも多い。私たちが、運動を止め、完全な受け身に自分自身を置くことは、果して可能であろうか。同じ外界刺激の条件のもとでも、さまざまな生活のしかたがあり、その中で果す感覚の役割は、それぞれ違っており、到底、生理学的な考えで、一義的には解明しえない。主体性を無視して、見たり、聞いたり、触ったりする行動は成り立ちえない。ほんのちょっとわかったところが大きな顔をして、ほとんどわからない大部分のところが小さくなっているなんて、なんと奇妙なことだろうか。私たちは、権威に惑わされたり、○○法を安直に頼ったりして、よだれ、指しゃぶり、自傷などを、固執的異常行動として追い回し、くたびれ果てるよりも、障害の重い子供と共に生きて、より深く真剣なかかわり合いの中で、人間行動の成り立ちの根源の追求の重要性に目覚め、自分自身を新しい自由な新鮮な存在者として確認することによって、子供の素晴らしさに感動し続けなければならない。