平成5年11月20日岩魂第14号

                 この小さな輝ける魂

 先日、二人のお子さんをコロニ一に入所させている母親が研究所を尋ねてきた。病気の診断がついたとき、15歳までは生きられないだろうと言われたので、母親はそう思って、はらはらしながら育てていたが、二人とも現在施設で生活している。本人たちも、なんとなくそのことを感づいているとは思うが、自分が死ぬことなどは少しも考えていない。二人の息子は必死に生きている。毎日毎日生きるために一生懸命なのだ。「私たちはどうも生きていることが当たり前で、生きることに不安がない。そのために、無駄な生き方をしている。二人の息子を見ていると、何のために生きているのか、生きていることの本当の意味を見失っている自分自身に気づかされる。」と、淡々と話して帰られた。
 私自身、今66歳である。あと10年生きられるかなと時々考える。老いと共に1日1日を大切に生きなければと考えている。しかし、そんな考えでは駄目なのではないか。1日1日を大切にとは、より平穏で、やすらかで、豊かな人生を送るように見えるが、そんな人生はありえないので、妥協、ごまかし、なあなあの人生になってしまう。真剣に生き、充実した、本当のその人らしい人生を過ごすことの難しさに出合っている。健康で、忙しく、その日その日を無事に送れば、まあまあ幸せなのではないか、死ぬまで元気で、突然ぽっくりいってしまうという願いでは、人生を生き抜くことはできない。ある程度出世して、お金も不自由なく、家族に恵まれて平凡ながらも、まあまあ幸せだと思うのは、実は不幸せである。死ぬことを怖がるよりは、真実に生きていないことを恐れなければならない。
 他人のことを気の毒だとか、不幸だと思うのは、それに比較して、自分はまだあの人よりはましだと思う、自分自身をごまかそうとする、なあなあ人生の始まりである。老いや病をいつも他人ごととし、自分はそんな嫌なものにはかかわらないと勝手に決めつけて、それらを悪者扱いにしていても、結局、そんな考えでは自分自身の本来の姿をも見失ってしまうのではないか。老いや病もまた、健康や若さと共に私たち人間にとって大切な意味を持っている。障害もまた同じであって、他人ごとでも、よけて通ることでもなく、私たちが生きていくために一つの大切な意味を持っている。
 障害を基礎としてこそ初めて実感できる人間の輝きがある。障害によって、人間の力強さ、奥行きの深さ、魂の輝きを初めて見つめることができるのである。弱いように見えるが、人間は、底力のある素晴らしく輝いた魂そのものなのである。決して何物にもくじけることはないのである。一生懸命生きるということはどういうことなのであろうか。常識的な思いつきや他人との比較やありふれた欲望の追求では、とうてい解決しえない。常識や世間一般に言われている、処世の術を断ちきって、自分自身を根底から否定して、徹底的に追求する。今までわかったことは、みんな考え違いで、もっと本当のことを探求して、新しい感性、新しい理解、より自分にふさわしい、みずみずしい心境を打ち立てて、本来の自分自身に立ち返る。
 あなたは、どこと言わず、体全体がどこもかしこも弱っていますと医学的に診断されれば、それは、科学的事実である。しかし、それが唯一絶対のものではない。もう一方において、あなたは人間としての本来の輝きを少しずつ増していますと言われていることを忘れてはならない。それが、底力のある私たち人間の魂の輝きであり、実存の確かな証なのである。私たちは、本来私たちの中にある人間としての魂そのものである自分自身を見失ってはならない。障害の重い子供たちにはっきりと表われている魂の塊としての本来の人間の姿に感動して、深く学ばなければならない。
 月に1回、久美さんはお母さんに連れられて、研究所を尋ねてくる。私は彼女に「こんにちは、お元気ですか。きょうも楽しく勉強しましょう。」というような馬鹿げたことは言わない。「こんにちは。あなたの心は輝いていますね。あなたの今は素晴らしい人生ですね。私もあなたに習って、少しずつ新しく、少しずつ深く、少しずつ豊かになります。」そして、決して忘れないでつけ加える。「あなたは本当に美人ですね。」久美さんはある時は冷淡に、ある時はせせら笑い、ある時は悲しげに、しかし、時としては、明るく私の相手をしてくれる。そして、1日1日をけなげに生きているのである。