平成6年8月17日岩魂第16号
愛する人の魂にゆすぶられ
私の魂は今、ゆさぶられています。障害の重い子どもたちの魂によって烈しくゆすられているのです。魂が魂によってゆすぶられることのない世界に生きていても何の意味があるのでしょうか。愛する人の魂によってゆすぶられることなしに我が魂は存在しえないのです。
人間存在の本質をみきわめることなしに、ただのんべんだらりと毎日を生きていても、何にもなりません。一刻も輝きを失ってはならないのです。
ただ、病気を治療すればよい、社会に通用する人間を育てればよいという安直な考えでは、到底、障害の重い子どもたちと共に生きることはできません。何とか楽をしたいなどということはもっての外です。別にわざと悩んだり苦しんだりする必要は全くありませんが、苦労などは何でもないことです。努力し、工夫し、よく考えて、本物を探し、知ることが大切なのです。
たった一つのことを、社会の常識では決して認められないことを、一生かけて、ゆっくり、しっかりやり抜く。50年でも60年でも、生ある限り、きっちりと貫徹する。それが人間が生きることなのです。自分が自分自身として存在する自分への確かな証しなのです。
ゆるぐことなく、ひるむことなく、いじけることなく、ただただひたすらに、ゆっくりと静かに歩みましょう!!
人と人、心と心とが出会い、心と心とが重なり合って、お互いにそれぞれの魂が感動し合い、元気になって、高まり合っていく。魂同士が、考え、わかり、沈み込んで、どこまでも深まっていく。
教育は、一片のマニュアルでは解決しえない。もし、現場の教師がそのマニュアルによって困らなくなったとしたら、今度困るのは子どもたちです。そんなマニュアルは大迷惑です。教師が教育の現場で悩むのは当たり前のことです。もし教師が自分の仕事の内容や量を予め決めて仕事をするのなら、それはとても教育とは言えません。悩める教師の悩みを解決するより、子どもたちが困っているのか、いないのか、我が国の先輩が一人一人の盲ろう児の教育をして、それぞれの先生方が子どもと共に独自の盲ろう児の教育を樹立した輝かしい業績を汚すような下らないマニュアルは作らないでほしい。通り一遍の通俗なものを焼き捨てて、より深い大切な本物を、ゆっくりしっかり構築しよう。
心と心との高まり合い、魂と魂との深まり合い。これが教育の原点です。障害の重い子どもと共に生き、共に学ぶという口先だけのことでなく、障害の重い子どもたちの魂にゆさぶられて、本当に生きることの意味、生きることの大切さを実感してほしい。私自身は何のために生まれてきたのか。障害の重い子どもたちと共に存在するために私は生まれ、今日在るのです。何の不思議もない。確かなことなのです。
人間の存在の本質が見えてくる。そのすばらしさに感動し、静かな喜びにみちあふれる。小さなとるに足りないことに一喜一憂しても仕方がない。障害の重い子どもたちから教えられた、もっと大きくて深い根本的な原理をこれからもますます明確にするためによりひたむきに生き続けよう。
障害の重い子どもたちとひとたび出会ったら、少なくとも50年はゆったりとつき合うことが大切です。夜、寝ていても本気になって、子どもたちとどうつき合うのか一生懸命考えましょう。考えれば考えるほど、工夫を重ねれば重ねるほど、子どもたちの本当のすばらしい感動的な姿が見えてくるのです。何もできない、何もわからない、生きていてもしょうがない穀つぶしだなんて馬鹿にしている人は、大馬鹿者です。私たちの働きかけが本当によく考えられ、工夫され、その子どもにとって最も適切であった時、子どもたちは実に緻密に、あざやかに、きっちりと応じてくれるのです。それは人間行動の成り立ちの根本を示すものであり、「人間とは何か」を私たちにより深く学ばせるものであり、一人一人の障害の重い子どもたちが持っている人間本来の底力なのです。私たちの魂を心の底からゆすぶってくれるものすごい力なのです。私たちはその底力に感動し、迷いがふっ飛ぶのです。不安がスウーッと消えるのです。
お金の力、権威の力のような一時的なうたかたの力ではないのです。私たちを悪い夢から覚めさせて、本当の人間にしてくれる確かな真の力なのです。障害の重い子どもを重荷だと思って、勝手にああだこうだと決めつけて、わけのわからないことをしてくたびれ果てて、大馬鹿者になるよりは、障害の重い子どもたちとより深くまじりあって、よく考え、工夫して、うまくいかなければ、うまくいかないことが大切なのだから、ますます深くまじりあって、さらに考え、もっと工夫して、しっかりした、緻密な、ゆっくりした働きかけをして、子どもたちの思いもかけないすばらしい人間らしさ、人間の底力に感動し、私たち自身が、自分自身の本当の充実した人生をすっきり送ろう。