障害の重い子供から人間について如何に学ぶか
財団法人重複障害教育研究所
理事長 中 島 昭 美
・基本的立場
重度・重複障害教育の基本的立場、障害の重い子供との教育的なかかわり合いを通して人間行動の成り立ちの原点とその初期の形成過程について深く学ぶことである。子供に教え、指導するというよりは、障害の重い子供の持つ人間としての素晴らしさに感動し、その輝きの中で私たち自身の人生を充実させることが重要である。にもかかわらず、この教育は緒に着いたばかりであり、実績が積み重ねられていないので、見当外れになってしまいがちである。教育の現場で、真面目な熱心な先生ほど行き詰まり、子供を持て余し、教育の意味を見失っている例も決して少なくない。確かに障害の重い子供たちは、医学的には重篤な病気を併せ持ち、治療の困難な反応の乏しい、言わば植物人間と見られがちである。発達心理学的には、障害のために極端な遅滞を示し、無反応、無表情、無関心な子供と決めつけられてしまう。教師が障害の重い子供と突然出会ったとしたら、何もわからず、途方に暮れてしまうのも当然と言えよう。そして、親や医者や研究者などから意見を聞いて、まず何とか子供を理解しようとする。しかし、かかわり合いを持ち始めると、何も出来ないし、殆ど何もわからないと思えてしまう。どんなかかわり合いが大切なのか、自分のかかわり合い方が悪いのではないかと反省し、多少の工夫をしてみても、多分何の変化も起らないであろう。むしろ、何とかこの子を教育しようと考えて、一生懸命になればなるほど事態は悪化して、自分と子供との間に深い溝ができ、あせりを感じる。教育が禁止や強制の繰り返しになったり、常識的、機械的で、無意識のうちに投げやりとなってしまい、単なる世話に終始して、自責の念に駆られる。私たちはどうすれば障害の重い子供たちが持つ本質的な素晴らしさを引き出すことが出来るのだろうか。教育の原点である子供の生き生きと輝いた姿に出合うことが出来るのだろうか。この子供の持つ輝きに出合わないで、重度・重複障害児教育を推し進めることは不可能である。
戦後間もなく山梨県立盲学校で始まった我が国最初の盲聾児の教育において、本当にこの教育を支えたのは一人の寮母さんであった。当時の校長が県内を隈なく探し歩いて、一人の男児を入学させたのが盲聾教育の始まりである。しかし、入学させたが、ヘレン・ケラーの教育事例のようにはいかず、教育は進まなかった。その後、山梨県立盲学校で盲聾児を教育していることを聞いて、横浜から一人の女児が入学した。いずれも教育は進まなかったが、男児は非常におとなしく、放っておいてもよかったので、あまり問題は起らなかった。しかし、女児は、行動が敏捷で、しなやかで、活発に外界(人や事物)を探索した。盲聾児なので、触らなければ外界を理解することが出来ない。触ると、物が壊れたり、散らかったりした。触ると嫌がる人も出てきて問題となってきた。特に昼間は制止されることが多いので、夜になると探索し、珍しい物に出合うと、歓声をあげるので、それが奇声に聞こえ、安眠を妨害したので苦情が絶えなかった。この頃、ある篤志家が盲学校にピアノを寄贈し、贈呈式が無事終了した夜中に、女児が探索してピアノの後ろに入り、弦の上に乗ったので、弦が2,3本切れてしまった。翌日、そのことがわかり、大騒ぎとなり、職員会議の結果、女児を追い出すことが決まりそうになった。この時、たった一人の寮母さんが、「今、この子を追い出したらこの子はどうなる」と言って、必死になって反対したので、とうとう職員会議はおさまった。この寮母さんの教育に対する情熱が盲聾児の教育を支えたのである。
女児が、目が見えない、耳が聞こえない、かわいそうな子だからとか、育った環境があまり良くないからとかいう憐れみや同情の心で追い出すことに反対したのではない。女児の持つ素晴らしい輝きに感動していたからこそ追い出すことに反対したのである。当時、女児はすぐ裸になる、屋根に登って猿のように伝い歩く、歯で釘を抜くなどと伝えられ、野性児のように思われていたが、心ある人々は、それとは全く反対に、女児の生き生きとした素晴らしい行動の輝きに感嘆随喜していたのである。この寮母さんが当時描いた女児のスケッチを見れば、このことは一目瞭然である。この我が国初めての盲聾児の教育の基礎を支えたエピソードから、すでに約40年の歳月を経ている。しかし、今日においても、障害の重い子供の教育は情熱であり、その情熱は子供の輝きに感動することによって始まるということにおいては全く変わりがない。
山梨の盲聾女児の場合と違って、相手が植物人間で、何の反応もしないのに、なんでその輝きに感動出来るのか、むしろ、感動ばかりしたがって事実の客観的認識が欠けてしまうのではないかと言われる。大人は精神活動は活発だが、年齢が低くなるにつれて動物的となり、さらに赤ちゃんの場合は反射の塊で、精神などは無いと言う人もいる。障害の重い子供は、その重度で重複した障害のために意識は低く、いつもうとうとした状態で、そのためにこちらの働きかけには応じないし、反応も乏しいのだから、そんな子供たちが人間的に輝いているはずがないと言う人も多い。医学や心理学や親の観察も、どちらかと言うと、この立場を支持するように見える。しかし、人間は生まれながらにして精神の塊であり、障害の重い子供が寝たきりでうとうとした状態を保っているのは、外界に対する防御的な反応であり、意図的な自発的なその子なりの活動なのである。ただ、あまりにもその活動が身についているので、まさかその子自身が意図してうとうとしているのだということに気づかないのである。障害の重い子供は、無反応、無表情、無関心などと言うのはとんでもない勘違いである。むしろ障害の重い子供たちの方が、かえって私たちよりも深く外界を理解し、外界との確実で緻密なかかわり合いを持っている。私たちが人間行動の成りたちの原点に立ち返って、このことを理解し、子供たちの本当の輝きに出合うことができれば、その子供たちの持っている素晴らしさに改めて感動し、人間の究極の問題を解く新しい鍵を見出すことが可能となる。
私たちは、子供との教育的な出会いの当初において、障害は何か、その種類や程度、さらには治療の可能性やそれらの障害によって起こる行動の異常や未発達について、医者に聞いたりテストをしたりして、客観的事実を得、これによって子供を理解する前提としようとする。しかし、あまりに障害にこだわり、とらわれ過ぎると、なんでも障害のせいにしてしまって、そのために子供の本当の姿が浮かび上がってこない。私たちは子供の行動を独断的、観念的、形而上学的に解釈してはならない。その子供が現に示している精神の輝きを、より深い教育実践を通して洞察し、行動の本当の意味を理解しなければならない。そのためには、人間行動の成りたちの原点及びその初期の形成過程に関する新しい知見がなければならない。そして、この知見は、今日の医学や心理学を深めることによって得られるものではなく、障害の重い子供との教育実践の中で、触れ合いの具体的事実から、一人ひとりの教師が考え、工夫し、学ぶことによって、初めて積み重ねられるものである。障害の重い子供の教育は決して生やさしいものではない。医学が進み、発達に関する研究がいくら深められても、それによって教育の難しさが解消されるものではない。しかし、狭い小さな門は確実に開かれており、私たちが目の前にあるその門から入れば、必ずやその子供の精神の輝きに触れ、感動し、素晴らしい教育実践が可能となり、子供自身もおのずから生き生きとなる。
・人間の姿勢について
人間の究極の問題を考えようとする時、人間の姿勢が大きな意味を持ってくる。人間は生まれて早い時期から徐々に姿勢を自分で変化し、やがて立って歩くようになる、その変化の過程は躍動的で目まぐるしい。その間に一体何が起こっているのか、なぜ変化が必要なのか、その変化によってもたらされたものは何かについて、まだ十分な知見を得ていない。なぜ人間は立ち上がるのか、2本の足で歩くのか、という問題についてすら、僅かに運動生理学の側面から語られているにすぎず、そのことが、人間が作り出した言葉や道具や社会や文化などと、どう関係するのか、さらには手を使い、口で喋り、身体のそれぞれの部分で感じ、考え、判断し、創造する人間行動全般にどうかかわっているのかは、全く研究されていない。それどころか、人間の姿勢というと、立って歩くことばかり特徴づけられ、そのために、四つ足の動物が前足を上げて立ち上がり、やがて手が独立して人間になったと単純に考えられているし、這えば立て、立てば歩めというように、這う、立つ、歩くの三つの姿勢が人間の主な姿勢の変化であり、乳児期の発達の過程であると常識的に考えられている。この考えは、人間の姿勢を動的な側面を主として考え、その変化を表面的機械的に羅列しているにすぎない。もっと静的な側面を考えないと、人間の姿勢のより根本的な変化の意味合いが理解出来ない。人間の姿勢がいくつあって、どんな筋道で変化していくのか、その変化と新しい姿勢の保持によって何がもたらされるのかを、障害の重い子供たちとの教育的なかかわり合いの中で、よく考え、深く学ばなければならない。特に、姿勢が変化し、新しい姿勢になった時、前の姿勢とどこが違うのか、外界の刺激の受容の仕方や運動の自発及び組立て方がどんなふうに違ってくるのか、体の部分の役割はどう変化するのか、即ち、どんなふうに受容の高次化が起こり、今まで使わなかった体の部分をどう使い出すのかについて、子供たちから学ぶことによって、人間の姿勢とは何かを根本的に究明しなければならない。姿勢を変化して、新しい姿勢を保持することは、その子供にとって、受容の様相や運動の組立てが一変することであり、全く新しい世界を生み出すことなのである。障害の重い子供たちは、日常生活は全面介助で寝たきりの場合が多い。学齢に達しても、まだ寝たきりで、大小便垂れ流しで、食事は養われ、言葉は全く無く、動きも乏しいので、障害の重さばかりが目立ってしまう。しかし、最も肝心なことは、仰向けに寝ていることであり、その意味で、仰向けの姿勢に固着しているのである。なぜ障害の重い寝たきりの子供は仰向けで寝ているのだろうか。このことは人間行動の成りたちの原点と、その形成の過程を考えるために大きな意味を持っている。私たちは生まれたばかりの赤ちゃんを何気なく仰向けに寝かせているが、人間の外界の受容が体の後ろ側から始まり、腰、背中、背筋を中心とした後ろ側の触刺激を与えるために、仰向けに寝かせているのである。ただ、普通の赤ちゃんは動きが目まぐるしく、またたく間に変化するので、人間が生まれて初めて外界刺激に適応する様子がよくわからない。障害の重い寝た切りの子供との教育的なかかわり合いの中で、私たちがまず考えなければならないことは、仰向けの姿勢であり、その姿勢に対する固着である。私たち大人が疲れて仰向けに大の字になって寝ているのとは全く様相が異なっている。背中を中心とする後ろ側の触刺激を受容し、後ろ側にのけぞって運動を止めているのである。底面(多くの場合、布団または床面)に、前身をびっしりと隙間なく押し付け、密着しているのである。そして、これが重力のある大地という外界に適応している初めての人間の意図的自発的な姿勢の保持であり、ここから体を起こし、立ち上がる姿勢の変化と、新しい姿勢の保持が可能となるのである。もし私たちが仰向けの姿勢を大切にしないのなら、そして、人間行動の成りたちの原点としての後ろの触刺激と、それに対応した後ろへの反応の意味を認めないなら、いきなりその子の体を起こそうとするだろう。起された子供は、後ろの触刺激が急に無くなってしまい、不安定となり、急に機嫌が悪くなる。椅子に座らせれば弓なりにのけぞって、椅子から滑り降りて、元の仰向けの姿勢に戻ってしまう。そして、後ろの触刺激に対しては、体をのけぞらせるのに、前の触刺激に対しては、うつ伏せになるどころか、全く関心を示さない。この子供たちの示す刺激に対する的確な反応は驚くばかりである。
障害の重い寝たきりの子供たちは、後ろの触刺激とともに聴覚刺激に対しても、極めて敏感に適切に反応している。別段、耳が悪くなく、むしろよく聞こえているのだから、出来るだけ小さな静かな呼びかけをしなくてはならない。音を聞かせるにしても、より小さな弱い音が区別しやすいし、意味を持つ。そして、高尚な音楽や話しかけよりは、物と物とが触れ合ったり、こすれ合ったりする音、人の歩く音などがよりよく受容されるのである。私たちは仰向けの寝たきりの子供に対して、音とともに、後ろの触刺激によく注意し、その子にとって最も適切な働きかけがなされた時、今まで障害の重さばかり目立っていた何も出来ない、何もわからない子供が、年中うとうとしていた子供が、意外に生き生きとした反応を示し、その子供の奥に潜む精神の輝きに感動せざるをえない。それとともに、後ろの触刺激のみを受容し、身体をのけぞらせる一方向の運動しか起こさない子供に、どうやって前の刺激を受容させ、前の方向へも運動を起こさせるかを考えなければならない。仰向けの姿勢とともに、うつ伏せの姿勢も、人間行動の成りたちの初期において大きな意味を持っている。すでに述べたように、仰向けが後ろからの刺激の受容であるならば、うつ伏せは前からの刺激の受容と言える。さらに、仰向けの場合はのけぞりが起こり、底面への密着をもたらすが、うつ伏せの場合、手足の突っ張りや頭をもたげるなど、底面から自分の体を離す運動が起こる。仰向けから寝返って、うつ伏せになった時、前の触刺激の受容と、手足の踏ん張りによる底面からの離脱が起こり、やがて四つ這いへと進む。前から音を聞かせたり、見せたり、触ったりすることによって、しだいに前の刺激に対しての受容が活発になり、やがては足で踏ん張ったり、目で見たものに手を伸ばしたりするようになるが、その始まりは口と肘である。唇、歯、舌などの口の積極的な意図的な運動の自発が人間の前の刺激の受容の始まりである。体を起こし、肘を支えることにより、両肘が外の二つの支点となり、その二つの支点のバランスが取れることにより、身体の内側のバランスと外側のバランスを分離して、その子供の前にバランスを形成し、その子がさらに上体を自発的に起こすようになる。肘の支えを利用して、足を踏ん張り、背筋を伸ばすことが出来るようになると、上体の静止が安定し、前の刺激の受容がより積極的となり、高次化する。後ろの刺激の受容とともに前の刺激の受容が成立し、それと同時に、のけぞりとは逆のうつ伏せの運動が起こった時、初めて人間は体を起こすことが可能となる。腰を中心として上半身を起こし、前にうつ伏せとならず、後ろにそっくり返らず、ちょうど真ん中に、即ち底面に対して垂直に上体を静止し、保持することは、単なる生理学的な平衡感覚の問題ではなく、人間行動の成りたちの原点としての前と後ろの刺激の受容に基づくバランスによる運動の静止の問題であり、受容の高次化に基づく運動の意図的な調整及び組立ての始まりである。お座り、さらには腰を上げ、足で踏ん張り、椅子に腰かけた姿勢は、仰向けの姿勢とともに、人間の姿勢の静的側面の二つの大事な姿勢であり、人間はこの姿勢を基礎として初めて立ち上がることが可能となる。這えば立て、立てば歩めという三つの動的な姿勢の根本的な意味が明らかになる。また、この姿勢の変化に対応して、その人の内側と外側に二つのバランスが成立し、その二つのバランスが前後、左右、上下の3方向に分化し、それらが再び一つのまとまりを示すことにより、正面の三次元の空間を形成するまでの過程についても、障害の重い子供との教育的なかかわり合いの中で、より深く、より細かく、より正確に学ばなければならない。そのために、首が座るとは何か、なぜ立ち上がれるのか、どうして歩けるのか、その時々の重心の位置と身体を支える支点の数とそのまとまり方、さらに、手と目の役割についても同様に学ばなければならない。私たちは立って歩くことは人間として当たり前のこと、誰でも何気なく何でもなく出来ることと思っている。そのために、立ち上がり、2本の足で歩くことの本当の意味及びその形成の根源について全く理解していない。そのことが寝た切りの子供に対する見当外れの働きかけとなる。人間の姿勢は幾通りに変化するのであろうか。そして、新しい姿勢に変化した時、前の姿勢は消えてしまうのではなくて、むしろ、いつでも前の姿勢に戻ることが出来るし、新しい姿勢の中に、前の姿勢は含まれて新しい意味を持ち、二つの姿勢がまとまって次の新しい姿勢を生むという人間独特の発達の過程を無視してはならない。
・感覚・運動について
私たちは障害の重い子供から人間の姿勢とともに、感覚・運動の成りたちについて学ばなければならない。寝たきりの子供たちが何もわからない、何も出来ない子供だと思われがちであるが、私たちの教育的なかかわり合いが適切であるならば、その子供たちが私たちより外界を深く受容し、外界に対して緻密に正確に反応していることがわかることはすでに述べた。にもかかわらず、実際に初めて寝たきりの子供と出会った教師が、やはり手をこまねいてしまい、どうしてよいかわからなくなってしまうのは、私たちの感覚・運動に関する常識的な考えが障害の重い子供たちに通じないからである。私たちは人間行動の成りたちの原点及びその初期の形成過程における感覚・運動の問題を見直して、人間の感覚・運動の始まりと、その成りたちの過程を探究しなければならない。私たちは外界の刺激を受容することを感覚と言い、外界へ働きかけることを運動と言い、感覚と運動を二つの別なものと考え、その間に内部的な中枢の過程を設定している。したがって、外界の刺激を受容器で受け、求心性の神経経路を伝わって中枢へ行き、中枢過程を経て命令が遠心性の神経経路を経て実行器に伝わり、反応が起こるという、感覚と運動を中枢を媒介とした一方向の流れとして考えやすい。実際には、感覚を生じるということは、少なくともその受容器の運動、特に統制された運動を伴っており、いかなる微小な動きでも、運動が起こればフィードバックの経路によって必ず感覚を生じている。運動と感覚は不可分のものであり、一体である。障害の重い子供の寝たきりの状態は、さらに進んで、感覚と運動が同じものであり、一つのものの二つの側面であることを示している。人間行動の成りたちの原点における感覚・運動について私たちはもっと深く学ばないと、動きの乏しい、殆どこちらからの働きかけに反応しない子供たちの行動の本当の意味がわからない。さらに、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五つの感覚が初めから同じように働き出すのではなく、体の部分の役割も、初期の形成過程では、大人のそれとは大きく異なり、それらの五感の分化の過程は極めて複雑に相互に関連している。どんな障害の重い子供でも、匂いと味に関しては予想外に反応していることが親の報告から明らかである。忍び足で相手にわからないように近寄っても、その子がにっこりとほほ笑むのは私の匂いに反応しているのだとある母親が報告してくれた。また、10か月の時、重篤な脳の障害を受け、寝たきりで反応の乏しい小学校2年生のある男児は、夏ミカンなどの酸っぱいものが好きではあるが、口に入れてあげると、直ちに顔をしかめる。子供たちは想像以上に嗅覚、味覚に敏感であり、行動の調整のためにこれらの感覚を利用している。触覚、特に背中を中心とした後ろの触刺激、また聴覚を十分に活用していることもすでに述べた。しかし、視覚は殆ど使わない。触覚も、手の触覚はもとより、体の前の触刺激もあまり使わない。聴覚も音の受容であって、言葉の受容ではない。しかし、初期の受容の様相がわからないので、その子供をあやそうとして何かを見せたり、手に持たせたり、言葉がけをしがちである。これらの働きかけは、外界の刺激の高次の受容を要求しており、全く見当違いである。もっと初期の受容にふさわしい働きかけから始めなければならない。初期においては感覚・運動が同じものであり、五つの感覚が未分化で、それぞれの感覚が受容する刺激も、受容するために働く体の部分も制限されている。さらに一般的に言って、その受容の様相は、有限の受容よりも、より無限に基礎づけられた受容、自然、ありのままの区別を伴わない受容と言える。この受容から意図的な受容が始まるが、それは受容の拒否から始められる。外界の刺激の受容を拒否することこそ人間の受容の始まりと言える。受容の拒否から機械的受容へ、さらに極端に制限された受容の固着へ、自己刺激的受容を経て、積極的、弁別的、課題的受容へと変化する過程に関しては、障害の重い寝たきりの子供が、体を起こし、立ち上がるまでの姿勢の変化の過程を通して、さらに体の部分の役割がどのように移り変わるのかを基礎として、社会的通念や既成の学問の常識を捨てて、真剣に白紙の状態で学ばなければならない。この受容の高次化の過程は、感覚による運動の調整の過程の形成と深く関係している。人間の運動は動きを止めることによって始められると言ってよい。そして、その動きの止め方は、1.外界の人や事物に自分の体を押し付けることによって止める。2.関節を中心として、その体の部分を突っ張ったり、曲げたり、ねじったりすることによって関節の端で止める。3.二つの拮抗する運動の中心に、バランスを取って止める。の三つの止め方がある。そして、受容の高次化とこの三つの止め方とは相互に関連している。両端を意図的に調整して、その真ん中で運動を静止することが可能となれば、背筋が伸びて首が座り、顔が正面に向き、体のねじれが無くなり、目も上にひん向いたり、左右のどちらかの端に寄ることがなく、真ん中に静止する。腰を中心とした底面に対する安定した垂直の保持が可能となり、それに伴って正面にバランスのよい空間が開け、高次化した受容が活発となり、それに基づいてよく統制された予測的、意図的、操作的な運動の自発が可能となる。
・体の部分の役割
行動のよく組織化された大人の場合、体の部分の役割は固定化している。例えば、目で見、耳で聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わい、口で物を食べ、話をし、手で持ち、触り、足で歩くというように、体の部分の役割は決まっている。人や事物に触る時、口で触るというようなことは殆どしない。手で歩くということも考えられないし、頬や胸や腰で音を聞くようなこともしない。見るということは目で見ることであって、手で触ることとは全く違う。そして、それらの体の部分の使い方は当たり前のことであり、初めからそういう役割なのだと思いがちである。しかし、障害の重い子供との教育的なかかわり合いを通して、人間行動の成りたちの原点と初期の形成の過程を少しずつ見極めると、その初期の体の部分の意外な役割と、その役割の変化及び他の部分の役割との関係がしだいに明らかになってくる。よく組織化された大人の行動は、あくまでも完成後の人間行動であり、むしろパターン化していると言える。初期の段階では、人はもっと自由に、いろいろな体の部分を外界刺激の受容のため及び運動の自発のため、いろいろな役割として使いこなしている。例えば音を聞くのに耳で聞かないで、頬や舌を当てたり、胸に押し付けたり、腰に敷いたり、手に当てたり、足の裏で探るようにする。外界の刺激を体のどこの部分でどんなふうに受容するのか、それらの受容に基づいて体のどこの部分を使ってどんなふうに反応していくのか、その初期の様相は、私たちの想像と全く違った、もっと自由で、その子なりに適切な意味を持つものなのである。極めて初期の受容として、音の刺激と、背中を中心とした後ろの触刺激が重要であり、適切な働きかけの方法の工夫・開発が大きな意味を持っていることはすでに述べた。ここでは、口、足の二つの部分の特に初期の役割とその変化について考える。まず口について言えば、その初期の触覚的受容が人間行動の成りたちの原点において大きな意味を持っている。口は、唇、歯、舌、口腔に分かれ、それぞれの触覚的受容が異なっている。唇はやや突き出すことが可能であり、柔らかくて温かく、すべすべした風船や人の肌のような表面の触刺激の受容に適している。それに対して、歯は噛むことを含めて、固く冷たく形のあるものの振動を含めた触刺激の受容に適している。舌は粗滑、冷温、柔硬などの皮膚感覚とともに、その先を細かく突き出すことによって、輪郭線や位置、形の弁別を含んだ触刺激の受容を可能としている。さらに口腔全体の膨満感は、その人自身の体の内側のバランスの保持と深く関係し、直接的な姿勢のより強固な安定をもたらす。そのため、この行動は固着しやすい。これらの触覚刺激の受容は、前の刺激に対する積極的意図的受容であり、口はその人と外界との間を唇や舌を前に突き出すことにより、空間を作って操作的に繋ぐことにより、正面の三次元空間の形成の原点となる。口は人の認知の始まりとしての深い意味を持つとともに、バランスの原点として体を起こす姿勢と深く関係し、外界の自由な探索を含む意図的課題的な新しい運動の組み立ての基礎となり、重複障害教育の糸口である。
足は、初期においては手と同じ意味を持っており、むしろ手に先だって手の役割を果たす。特に足の裏は、手のひらより早くから触刺激の窓口となり、足の活発な運動の自発を呼ぶ。口とともに足で外界に触り、2本の足が二つの支点となってバランスを安定させ、さらに外界の事物を引き寄せたり、蹴飛ばしたりすることによって、積極的な外界への働きかけを可能とする。足は口と違って、2本あることによって、その2本のバランスによる運動の調整が可能となり、この両足のバランスは、手の活発な運動を促すばかりでなく、体の内側にあるバランスを外側に出し、内側と外側の二つのバランスを形成し、その二つのバランスを一つにまとめることに役立つ。この場合、足の裏とともに足首、膝が大きな意味を持つ。足が膝から折れることは、手が肘から折れることとともに、手足を折り曲げて体のバランスを良くするだけでなく、外界に手足を突き出すと同時に、引き寄せることにより、人と外界の間に操作的な空間を構成することに大きく役立つ。このように、人間行動の成りたちの初期において、口と足とは外界の刺激を受容すること、上半身を起こし、体軸を底面に対して垂直にすることによって、バランスの取れた静止の中で、意図的積極的操作的受容を可能とし、よく統制された新しい運動の自発をもたらす。このような大きな役割を持っているにもかかわらず、私たちが教育的なかかわり合いの中で、口や足に積極的に働きかける方法の工夫が殆どなされていない。むしろ、口や足は教育から除外されていると言える。私たちは動きの乏しい寝たきりの子供たちに対して、口や足にどのように適切に働きかけるかの学習法の開発から始めなければならない。そして、体の部分の持つ役割の本当の意味について学ばなければならない。(昭和62年著)