今はフラッペとか何とか言って、全然違うんですね。昔は、わりとかき氷と言って、こういう器に、ちゃんとこういうふうにフワァフワァッと山盛りに氷が盛られていて。そして、氷いちごとか、氷メロンとか、氷あずきかな、というふうになっていて。また、その、食べ方も今の人知らないんですね。あれは、両手でもってぎゅっと押さえて、氷をつぶして固くして食べるものなんですよ。それを、今の人は器も食べ方も全然知らない。あれは、両手でぎゅっともう押さえつけて、それからおもむろにさじでもって食べる、これがかき氷の食べ方なんですね。ごく常識的なその頃の普通の食べ方なんです。これを知っている人は、ちょっとお年をめされた方じゃないでしょうか。
それで、梅津先生と私と一緒にしょっちゅう出歩いていたから、氷屋に入って、また、梅津先生がおっしゃるには、これはラムネをかけて食うのがいちばんうまいんだと。そして、その氷屋さんに入って、いちごやそういうものを入れないで、普通のただのかき氷と、それからラムネを持ってこいと注文した。そしたら、ごそごそごそごそ奥で相談しているんですね。僕だったら、そういう時に、必ずもうあんまりそういう意味で旅の恥はかき捨てじゃないからと思うから、店員がウロウロしていると、「じゃあ、いいや。」と言ってしまうんです。ところが梅津先生、頑張っちゃうんですね。それで、断固譲らないわけです。そうすると、とうとうそのかき氷だけのもの二つとラムネ2本を持ってきた。梅津先生は喜んで、それをかけて食べたわけですね。おいしかったかまずかったかは別にして、お金を払おうとしたら、お金いりませんって言うわけです。ただでは困ると言うと、いやまた今度にして下さいとこう言うわけです。もう来ないよと言うと、まあまあまあとこうなってしまうわけです。それで、そう言われるとこっちが困るんで、とうとう奥からご主人が出てきて、それで、お代は結構ですと、そう言うわけです。それで、何とつけ加えたかと言うと、隣で興行をなさっている方ですかと、こうきたわけです。何だかわからないけれども、隣を見たら、隣がストリップの小屋なんです。そこの興行をうちに二人が来たんだと、そういうふうに思われたわけです。それで、梅津先生が言うには、お前が見かけがよくないからこうなってしまうんだと。僕、今ちょっと、そんなやあさんだとか、あっそういう言葉を使ったらいけないのかもしれないけれど、興行師とかに、見えるでしょうか。どちらとは申しませんが、いかに、いくら片一方が上品でも、片一方が悪いとしょうがないことが起こるということだと思いますけれども。
でも、ともかく、山梨盲学校で盲聾児の教育を初めてしたということは、やはり、ちょっと画期的なことだし、それから本当は山梨の方々が大いに誇りにされていいできごとだとは思うんですけれども、これもまた、なかなか正当なご評価をいただけなくて。いちばん困ってしまうのは、精薄の問題なんですね。まあ、ここも精薄の養護学校だから、言いにくいんですけど。成子さんや忠男さんは精薄ではないんだって。だから、ああいうことができるんだとこうくるわけです。精薄どころか、当時成子さんは、山梨盲学校で、「成子は人間じゃない。動物だ。」と言われていたんです。だから、これは本当に困ってしまうわけですね。
今、松本盲学校の高等部も卒業して、自宅で勉強してるまあちゃんって言う子なんですけれど。この子も、盲学校の中学部の時に、まあちゃんは精薄だから駄目だって、こう言われてたわけです。ところが、だんだんだんだん点字が読めるようになったし、点字のタイプなんかもものすごく速いんですね。それは、もう普通の人ではなかなかかなわない。すごいスピードで打てるわけです。まあ、あんまり速く打てるのは自慢にもならないけれども、ともかくすごく速く打てるわけです。そしたら、何と言われるかと言うと、今度、精薄じゃないけれど、精薄がかかっているんだとこうくるわけです。まあ確かに、高等部になっても、あるいは卒業しても、職業もないし、何もしていないから、確かに精薄がかかっているのかもしれないけれども、その子が何かできるようになると精薄じゃなかったとか、それから、できないと精薄だとかいうふうに言うということ、その決めつけ方が、もう伝統的な精薄に対する考えのまずさじゃないかと思うんですね。
だけど、精薄の偉い先生方というのは、その辺、すごく簡単なんですね。すぐ、精薄だとか、自閉症だとか、精薄がかかっているとか、自閉的傾向があるとか、すぐ言い出すわけです。そして、自分たちの教育のまずさ、内容・方法の貧弱さを、いっこうに反省しようとしない。それで、いちばん大事な、その子どもたちが本当に何をしているのか、その子どもたちがどういうような感じ方だとか、考え方だとか、行動の組み立て方なのか、そして、そこにどういう意味があるのかという、そういう大事さというものに気づいてないわけです。だから、今の、障害児の教育というのは、根本が勝手な決めつけで、ごちゃごちゃごちゃごちゃしているんじゃないでしょうか。
そういうことをまず前提にして、本当は、もう少しこの話を先にした方がいいのかもしれないけれど、ちょっと、せっかく今までの三つの発表があったから、発表を中心に話を進めて、それから、昔の盲聾のビデオがあるんで、その場面をごく一部分をお見せして、それから最後にしめくくるというふうに、話を進めていきたいと思うんですね。
いちばん最初は、五味先生の訪問学級ですね。恵理子さん。この方の発表があったわけですね。一般的に、訪問学級で、先生が子どもと出会う場合に、この方は、もう長く訪問教育を受けられているんで、ある意味では先輩の先生がいろんなことを教えて下さるから、いいのかもしれないけれど、たいがいの場合、障害の重い子どもに先生が出会うのは突然なんですね。何も知らないで、いろんな過去の略歴みたいなのが書いてあるんだけれど、大体において、その子がどういう病気だったとか、もし仮に発達の経過みたいなものが書いてあったとすれば、何歳頃、何ができるようになったとか、そんなことしか書いてないわけです。その子が、どういう考えで何をしているのか、どういうふうに素晴らしいのかなんてことは、一言も書いてないわけですね。
そういう意味で出会ってみると、見かけの状態が非常によくないわけです。初めての出会いなので、先生の方も緊張されているでしょうけれども、同じように、必ず子どもの方もものすごく緊張して、それが見かけを実に悪くしているのです。まあ、例えば、ぜいぜいしてるとか、じっとして仰向けで目がうつろだとか、それから管が入っているとか、手足がこういうふうに曲がっているとかいうようなこと、そういうことが、障害つまり病気が非常に重いために、そういうふうに起こってきているということが、よくわかって、医療が非常に濃く関与していて、その子自身が、例えば脳が壊れてしまっているとか。脳が壊れてしまっているというのがどうしてそんなによくわかるのか、よくわからないんだけど。すぐ脳が壊れていると言い出すんだけれど、もう脳が壊れてしまっているんだったら、私たちでも、たいていの人はもう脳が壊れているんだから、そう心配いらないと思うんだけれど。私たちの方は脳が壊れてなくて、子どもの方が脳が壊れていると思うのは、すごい錯覚だと思うのだけど。まあ、そこのところは、そういう錯覚というか思い違いというのは、ごく普通に行われているから何とも言いようがないんだけれども。
ともかく、そういう意味で、その子自身が、見かけが非常に悪いわけです。見かけが非常に悪いと、先生方がこれは大変だと思ってしまうわけです。この子は、脳が壊れ、息たえだえで、やっと生きているという妄想がますます大きく拡がって、輝ける魂の塊なんだなんてとうてい思わない。魂のぬけがら、生きている屍なんだと思ってしまう。それでも、やっぱり先生だから、何かしなくては気持ちが悪い。これが本当によくないことなんですよね。子どもに何かしないと気持ちが悪いというのは、そこは疑問なんで、子どもに何かさせることになるから。させることになると、みんなやらせになってしまう。
何か、五味先生が、教材を使って、一生懸命がんばっているのに、ある先生からあっさり冷たいと言われて、神経症になってしまったらしいんだけれど、これは、本当に僕も心配なところは、ただでさえやらせの状況のところに教材を持ってくると、もっとやらせになる恐れも確かにあるんですね。だから、そういう意味で、どうしても相手の状態がわからない。悪く考え過ぎてしまう。せっかく教材を使っても、教材が無言の仲介者としての意味を全く果たさずに、ただできないというような表面的なことばかりがどんどんどんどん目につく。何とかしたいというのが、そういう表面的なことに対しての対症療法。そういうようなことになってくる。それで、子どもを先生が追っかけ回したら、それはわけがわからなくなってくる。ただでさえわけのわからないところへ、ますますわけがわからなくなってしまうのです。
だから、五味先生の場合にも、目をきょろきょろさせるとか、全身を動かすとか、声を出すとか、あるいは、食事の時のいろんな反応とか、結構いろんなことがその子はおできになるんだと、そういうことはわかっているわけです。だけど、やっぱり、恵理子さんにとってすべて受け身で、刺激というのが与えられているだけだったんじゃないかということですね。だから、五味先生は恵理子さんに、恵理子さんと私の間で、通じるようなきっちりとしたものを作り上げていきたいという考えなわけです。考えは非常によろしいですよ。考えは非常によろしいんだけど、考えだけでは実際は反対にうまくいっていないわけで。つまり、いちばん問題点は恵理子さんがどういう状況なのかということを考えないと駄目ですね。
そういうふうに考えると、確かに受け身で、仰向けで寝たきり。たぶんうちでご両親も忙しいと思うから、ほとんどの時間仰向けでほおり出されていると思うんですね。そういうふうにして受け身でじっとしてるということになったら、やはり人間だから何かしないではいられない。ここが人間の面白いところなんですね。必ずそこに自発というものがあるわけです。そして、それが非常に個性的なんですね。どこにこの場合に自発があるのかということが、私たちに見えてくるかこないかというのがここが非常に大事なところです。一般的に、そういう時に、人間行動の成り立ちの行動の根本の原則というものを考えなくては駄目です。
ただやたらに、この先生もくすぐるというんだけれど、わかるけれど、触るのはいいんですが、くすぐるというのは、反応を起こさせようとするわけです。相手に反応を起こさせようとすると、確かに反応は起こるかもしれない。だけど、こっちが起こさせようとしたものなんだから、相手にとってはやらせになって、受け身になる可能性が非常に強いわけです。だから、相手に反応を起こさせないように触らなければ駄目です。これをしたら相手が必ずこれをするというような、そんなことになってしまったら、刺激と反応とが一対一対応となってしまって、確かに反応は起こるが、その子にとって選択の余地のないもの、人間行動の自発を呼ぶということと全く逆のものになってしまう。
自発というものは、あくまでもその人が外界を区別して、その人が選択をして、その人自身が考えて自分で組み立てて、外界へ働きかけていくということが自発なんです。そんな、こっちがこういうふうに刺激したら、こういうふうに反応するというように、これがまた、心理学の奴が好きなんですよね。まあ、あまり悪口も言えないけれども、どこか外国からちょっと仕入れてきて、すぐぱっぱぱっぱ言うんだから、もうちょっと納まりがつかないけれど、いかにももっともらしくて権威のあるのが好きなんです。まだ、お医者さんの場合は、好きではないけれど、これはもう厳然たる治療の方針だから。医者は病気を見つけて、その病気をどういうふうに治療していくか、人間行動の成り立ちなど、てんで問題にしないで、そればかり考えているから、別に、その子が生きているとか、その子が考えているとか、そんなこと医者にとっては全然問題ではない。
だけども、もし、心というものがあって、そして、五味先生が言うように、心というものとふれ合うんだったら、こちらも心しかないんですよ。向こう側に心があって、これをお金で何とかしようとか、それから食物で何とかしようとか、それから薬で何とかしようとか、そういう物とか事柄とか、科学的事実とか、そういうものでは何ともできないわけです。それが初めてできるのは、その人の心なんです。だから、やっぱり、よく考えないといけないというのは、そこなんです。人間行動の成り立ちの根本というものを考えて、そこから考えていかないとね。ただ、向こうが状態が悪い、こちょこちょこちょこちょくすぐればいい、まあ、ちょっと五味先生には悪いけれど、ひどく言っているんで、別に本気で思っているわけではないんだけど。もっとひどい人たくさんいるから、めちゃめちゃだから、五味先生なんかは、そんなこと言うと悪いけれど、まだいい方だと僕は思っているのだけど。だって、だんだん、感覚刺激だとか言って、感覚刺激は脳の栄養剤だとか言って、狂ってるんじゃないかと思うんだけれど、心なんて全然問題にしてくれないですよ。言わんや、どんな子どもにも当然のことながら、ちゃんと心がある、その人は自発的な状況なんだと、それで、ちゃんと自発はしているんだと言ったって、絶対に認めてくれないですよね。
そういう意味で、私たちが気がつかないのは、どうしても体の後ろ側なんですね。仰向けで寝ているということは、非常に体の後ろ側に影響されているわけです。だから、前の刺激というものはほとんどなく、あってもこれを受け止めず、その代わり、後ろの刺激は必ず受け止めているということ、これが一つ非常に大事なところですね。だから、後ろの刺激というものをどこで受け止めているかと言うと、一つは肩だとか首ですね。それから、腰。それから、もう少し言えば手とか足とかいうものもつけ加わるかもしれないけれども、主として体幹ですよね。そして、一般的にのけぞるようにして外界の刺激というものを受け止めているわけです。
それで、障害の重いお子さんになってくればくるほど、受け身になって、やらせばかりになってしまっているわけです。だから、もう本当にその人自身が食べることとか、それから排泄すること、そういう日常生活から始まって、それこそ生きていることすら受け身にさせられてしまっているわけです。だから、もうどんどんどんどん切りもないほど受け身にさせられてしまっているんです。とてもせつない状況なのです。
受け身にさせられたら何が必要かと言ったら、その子にちょうど合う適切な刺激が必要なんですよ。だから、その人は、外界にうまく合うのがないし、またあっても、いつでもその子が必要な時にその刺激があるという条件が満たされないので、刺激を自分で作るんです。外界の刺激というのは、確かにいい点もあるんだけれど、いつでもその人が必要な時に、出てこないんですよ、ちょうどいい状況で。ある時は、非常にその子にとっていい状況である場合もあるけれど、ある時には、とても悪い状況でもある。それから、どんどんどんどん変化していって、追いきれないということもある。従って、外界刺激というものを受け止めるよりは、自分の体とか、そういうものを使って、外界刺激なしで、自分で刺激を作っていった方がずっと確実で正確な、いつでも必要な時に、その子の手に入るわけです。だから、外界の刺激を受け止めることをやめて、自分の刺激をどんどんどんどん作るわけです。これが、人間の初期の行動のきわめて大きな特徴なんですよ。だから、障害の重い子どもというのができ上がるわけです。もう、完全に障害の重いお子さんというのは作られたものなんで、そうでなければ、みんな子どもたちが、どうしてああ同じような状況に陥ってくるのかということ。その意味で、作られたものでなければ、いろんな意味で、バラエティーに富んで、いろんなやり方というものがあるのに、もう必ずそういうお子さんというのは、そういう意味で自己刺激なんです。
だから、ここに書いてある、目をきょろきょろさせるというのは何をやっているのかというと、外界の受け止め方で視覚的な受け止め方を受け身にしているんですよ。だから、さっきの小学部の子どもじゃないけれど、くるっくるっと回っている自転車の輪かな、そのくるくるくるくる回っているのを見ているのと同じようなものですね。だから、なるべく、そういう意味で、因果関係とか空間関係とか、そういうような関係的な見方というものをやめて、そして、むしろもう少し、煙を見るとか、光沢を見るとか、ある意味では明るさを見るとか、動きにしても、私たちが見ると目が回るだけというような刺激を、わざと自分で作って見るように、視覚的な状況を自分で作り出していくわけですね。
全身を動かしているというのもそうなんですね。動かしようがあって、ちゃんと動かしてこすりつけて、そして、こすりつけることによって触覚刺激を作っているわけです。これが障害の重いお子さんになると、この恵理子さんの場合は大きいけれど、このこすりつけがもっとうんと小さいんですね。ほとんど見えないわけです。かろうじて、仰向けで寝ている方の下に、手をしばらく入れてみてると、この体にどういうふうに力を入れてやっているかというのが少しずつ出てくるわけです。非常に集中して、わからないようにうまくやっているわけです。だけど、それはその人にとって非常に適当な大切な刺激になっているわけです。
それから、声を出す。声を出すのもそうです。声を出すというのは、息をぜいぜいさせているのもそうですが、呼吸というのは、音と関係しているから、外の音も非常によく聞いているわけです。人の話声なんかあまり聞かないんですね。だけど、自動車が通っている音とか、雨の音とか、それから他の子どもの声とか、大体外から聞こえてくる音なんですね。そういう音というものをなるべく選んで聞くようにしているわけだけども、それで、間に合わなければ、今度自分で声を出して、自分で聞いているわけです。声を出さなければ、もっと息をぜいぜいさせて、それで、自分で聞いているわけです。この子は息がぜいぜいしているから痰がつまっているんだろうと簡単に考えるけれども、そうじゃなくて、わざと喉をつめて、それで自分で音を聞いているという、非常に自分で自己刺激的に刺激を作り出すということですね。
日常生活そのものすべてが受け身になって、しかも姿勢が一定して、ほとんど動きがないというような状況になってきた時に、外界の刺激を取り入れない、あるいは、取り入れる時もその取り入れ方を一定にして、特に自分で刺激を作り出す方法を考えて、それで、その自己刺激をたくさん使って、自分の受け身の状態とのバランスをとっているわけです。だから、受け身になればなるほど、外界をシャットアウトし、自己刺激が多くなってくる。自己刺激が多くなってくれば、だんだん受け身になって、外界の刺激と関係がなくなっていくというそういう繰り返しのところから、ついに仰向けで寝たきりで、ほとんど動かないで、頭の中が壊れているんじゃないか、何もできないんじゃないか、何もわからないんじゃないか、息もたえだえでやっと生きてるだけじゃないかなんて言われるような状況になってしまうわけです。
だけども、それは、そこまでにたどり着くには、ちゃんとした段階があって、そしてその子自身のちゃんとした刺激の作り方、そういうものに対する感じ方と、運動の組み立て方というのがきちんとあるわけです。それはすごいですよ。そのすごさというものにまず驚かなければ、障害の重い子どもが、ただぜいぜいして大変だとか、食物を食べさせるのをどうするとか。それは生命の維持は必要だから、確かに医学的な処置とかそういうものは必要は必要なんですよ。必要は必要なんだけど、人間として、一個の人格者として、輝かしい生命体として存在しているんだということの方が根本で、もっと大切なんですよ。そういう洞察があってこそ、初めて、そこに、食事だとか、排泄だとか、呼吸だとか、循環だとか、そういうものが生まれてくるわけです。いちばん根本のところを全く無視して、ただ表面的なところでうろうろしていても、いくらうろうろしていても切りがない。そういうところが非常に大切なんですね。
そういう時に、今度、それじゃあ、五味先生が何もしないで、ただ見て、その子どもの素晴らしさに、輝いているところに感激していればいいのかと、たぶん言われてしまいますね。そしたら、僕はそれがいいという考えなんです。ただ、見とれて、素晴らしいと思っていれば、もうそれでいいんですね。それで僕なんか一生暮らすという考えだから。それでいいとつくづく思っているんだけれど、世の中の人がなかなかそれでは承知しないわけです。
そこで、承知しないんだったら、僕が言いたいのは、めちゃめちゃだけはしないでくれということ。まあ、五味先生の例をとって悪いけれども、同じ、その子に働きかけるのでも、まず膝枕にしているし、それからおなかや胸をたたいているわけです。キーボードたたくのならいいけれど、キーボードの演奏が上手だけど、その子のおなかや胸をたたいてもしょうがないんですよ。ところが、そうすると、子どもがにっこりしたとか、反応したとか言うんですね。だけども、もう少し原則というものを考えないと駄目です。
その原則というのは何かと言うと、前側の刺激の受け止め方というのはどこから始まるのか、体の部分のどこから始まるのかという、そういう考え方ですよ。そうすると、まず出てくるのが足なんですよ。こういう大事な教育に足というものが全然出てこない。五味先生も、子どもの足というものにほとんど触っていない。すぐ手だとか目にいってしまうわけです。だけどこの場合も含めて、そういう状況でいちばん大事なのは足、特に足の裏なんですね。足の裏というのは、子どもがとても大事にしている体の部分なのです。次に出てくる小学部のお子さんが、きちんと正座していますね。あれはお行儀がいいわけではないんです。足の裏を大事にしているんです。だから、足の裏を座っている時に床に着けないわけです。それほど足の裏というものを大事にしているわけです。足の裏というものは、そういう意味で外界の刺激の取り入れ口なんですよ。それと口なんですね。この二つが外界の刺激の取り入れ口。後ろの刺激に対して、前の刺激の初めての取り入れ口。だから、どっちかと言うと、仰向けに対して、うつぶせという感じですけれども。その間にどうしても足と口というものが入らないとうまくつながっていかないわけですね。だから、足をよく触ってあげること、これが何と言ってもいちばん大事なところですね。
それから、首がすわっていないというけれど、うつぶせで自分でこういうふうに首を持ち上げるんだから、もう首はすわっているんですよ。何でもかんでも猫をつかまえるように首の根っこを押さえるから、向こうは受け身になってしまうんですよ。自発を止められてるんですね。ここが問題点なんで、この場合に、仰向けからうつぶせになると、うつぶせから体を起こすということが起こるわけ。体を起こす時に大事なのは、体を起こすことではないんですね。下半身をどう安定させるかですね。下半身が安定しなければ体が起きない。上半身が起きるというのは、下半身を使って起きているわけです。
だから、バギーみたいなのに、深々と包みこまれてしまっている、そうじゃなければ、抱っこされてあなたまかせになってしまっているというような時には、これは、その人が、体をその物か人に委ねてしまっているのだから、全然自発ではないんです。だけど、体を起こすということは、これはその子の自発というものを土台としなければどうにも起きないんですよ。でなければ自分でどんどんどんどん倒れ込んでしまう。その子自身が自発的にこう体を起こしてくるというところが大事なんです。それには下半身なんですよ。下半身を安定させて、上半身を前に倒すことなんです。もし向かい合っていたら、下半身をちゃんと安定させて、上半身を前に引くことなんですよ。上半身を前へ引いたら、でででってこう前にきてしまうじゃないかと言うけれど、そうはいかない。前へ引けば引くほど、その人は後ろへ起き上がろうとするわけです。
ここが人間のすごく面白いところなんですね。これは、本当にここのところをやってみたら、人間がなぜ垂直の主軸を作っていくかという、そのいちばん基本的な大事なところが、非常によくわかる。何か、人間は二足歩行だとか、立って歩くことによって手が解放されて手が使えるようになったとか、勝手なことばかり言っているけども、人間がどうして垂直主軸を作ったかというそのきっかけがわかっていない。だから、みんなめちゃめちゃに体を起こしてしまっている。いきなり体を起こして、いすに座らせようとしたり、脇の下に手を入れて、足をトントンさせて立ち上がらせるような直接的強制的なことを平気で繰り返す。ところが、またこれが、普通の子どもにやると、いくらめちゃめちゃなことをやったって、できるんですよ。だから、ちょっとした思いつきのどこが人間行動の成り立ちの原則だったのかということが見えてこないわけです。そのめちゃめちゃなところで、あんなやり方がある、こんなやり方もあると。だから、ちょっとした思いつきのやり方が無数にあるわけです。切りがないほどやり方があって、どこがいちばん大事なのかということがわからなくなってしまっている。
特にわからないのは、人間の自発ということがわからない。体を垂直にするということは、人間の自発の中で、非常に重要な位置を占めているわけです。従って、えんこということであってもいいんだけど、下半身を安定させて上半身を前からずっと起こしていく。人間というものは後ろから体を起こしたわけではないんですね。前からこういうふうに体を起こしたんです。この恵理子さんと深くつき合ってみれば、そのことは本当によくわかる。本当、人間ってすごいんだなということが、よくわかります。そして、そういう意味で体というものをその人自身が起こすということが自発なんですね。
これがどうしてもこちら側のやり方と、例えばここにも書いてあるように、恵理子さんの活動の様子のところで、うつぶせ、横抱き、手指を使うのはいいんだけれど、筆とか毛糸なんてなってくるんですね。これは、くすぐろうという考えなんですね。おなか等をくすぐるようにするということになってしまうわけです。だけど、くすぐるということは、反応を起こさせることはできるかもしれない。しかし、やらせになってしまって、自発というものを促すことにはならない。くすぐるというのが絶対いけないというのではないんです。普通の子どもなんかくすぐったって何だって、みんな反応が起こるし、それからまた自分でどんどん自発しますからね。絶対いけないというわけではないんですね。
だけど、この恵理子さんの場合、もっとていねいに触ること。それではどこに触るか。顔、首、手、足、脇、おなかと言うんだけど、こういう触り方の順序があって、体の部分のどこから触っていくのか。だから、この場合だったら、足から触って、首にいって顔にいって、それからおなかをさすって、それで手をさする。そういうふうな順序があるわけです。そういう順序というものを子どもがちゃんと教えてくれるわけです。今度は、ここを触れとかあそこを触れとか、ちゃんと子どもが教えてくれるわけです。だから、子どもに教わって、そういう一応こちらが予測した順序を考えて、それで、子どもに教わりながら工夫してやっていけば、そこにだんだんだんだん相手の状態というものがわかるわけです。
やっぱりどうしても手を使わせることが好きだから、まずすぐスイッチ板になってしまって、うつぶせでやらせているわけですね。そして、手を使わせるわけです。一つ言いたいのは、うつぶせと仰向けとの間で横向きの姿勢が出てきてて、横向きからうつぶせになると言うけれど、うつぶせになってこうかぶっているところは、なぜかぶってしまうかというと、下にある手を使わせないからなんですね。下にある手を使わせれば、そこで下の手が使えるわけです。横向きというのは、わりあい手にとっては、寝たきりの子どもにとって、使いやすい状況なんですね。横向きだから、上の方に上げたこっちの手の方が自由に使えるだろうと思うかもしれないけれど、そうではないんですね。下の方にある手の方が使いやすいわけです。だから、横向きになって下にある手をうまく使わせれば、そこに一つのその子自身のいろいろなやり方というものがわかってくるわけですね。
ともかく、その意味で、手がだんだん使えるようになるということが、問題点なんだけれども、本当は、手と言っても、手首や手のひらというはいちばん最後なんですね。肩から肘、それから手首、それから手の甲、手の脇っちょ、それから手のひらというふうに、手のどこを使わせるかというのにも順序があるわけです。
だから、どっちかと言うと、手を使わせるよりは、先生がやっていたようにあごを使う。本当はあごを使うよりは足を使う。足でやらせたら、この子なんかいろんなことができるわけです。足というのは立って歩くためなんだと思うかもしれないけれど、初めは、外界と関係するために実によく使うわけですね。本当に器用に足というのは動くわけです。だんだん立って歩くようになると、立って歩くためにしか使わなくなるんですけれどね。だから、手が独立して、足の本来持っていたすごい巧みさというか、そういうのが消えてしまうんです。
やっぱり先生が言っているように、教材を出してやらせになってしまうことは、どうも仕方がないんですね。たぶん子どもとしてはつまらない、よくわからないということなんじゃないか。それというのは、できるかできないかということがどうしても教材を出すと気になってしまうわけです。だから、スイッチ板を出せば、スイッチ板をその子が押すか押さないかなんですね。ツリーチャイムを出せばそのツリーチャイムをこうして、音を出すか出さないか。キーボードだったら、そのキーボードを押して音を出すか出さないかということになってしまう。だけど、それはあくまでも私たちの使い方なわけです。一つの教材にもいろんな使い方というものがあるんだから、一つだけこういうふうな物はこういう使い方だけと限定するわけにはいかないですね。やっぱり触った時の触り心地とか、それから、見た時の見方、つまりどこを見て、何をどう感じ、どう考えるか。
ぶら下がっているということは、初期の段階で、ある意味で見やすさ、持ちやすさがあるんですね。だから、スイッチ板とツリーチャイムというのは全く使い方の意味が違っているんですね。だから、仮に、そういうスイッチ板には手を出さなくても、ぶら下がっている物には手を出すというようなことがあるかもしれない。そうすれば、ぶら下がっているということがいいんじゃないか。そしたら何でもぶら下げたらどうかという気になるわけです。だから、その子に触らせる時に、何でもぶら下げてこういうふうにこうやったらどうかと。
というのは、そういうところからだんだんだんだん考えていくと、やっぱり、その子の見方、感じ方、考え方があるし、それから、いつも目で見せて手を使わせるという考えに立たないで、足を使わせるとか口を使わせるとかいうことをぜひ入れてほしいわけです。できれば首の左右の振りとか、上下とか、そういう首を使わせるとか。それから今度だんだん肩を使わせるとか、肘を使わせるとかいうことで、体の他の部分から始めて、だんだん手を使わせるとか目を使わせるとかいうことを、いちばん最後で考えるというのが大事なところじゃないでしょうか。
そういうふうに考えていくと、次の小学部の河西先生の目と手の協応というのが出てくるわけですね。この目と手の協応というのが、これが何と言うか、言うは簡単なんだけど、目と手というのは本当は一緒になかなかならないものなんですよ。だから、目と手というのは、本来ばらばらなもので、なかなか一緒にならないというふうなことを前提にした方が、いいんですね。
何と言っても、まず第一に目というものは見るものなんですね。手というものは触るものなんです。そうすると、手というものは外界へその人自身が近づいていくものなんです。その人自身が外界へ接近するということを前提にしないと手というものが出てこないわけです。目というのはどういうふうなことかと言うと、外界から少し自分を遠ざけて、一目置いて、距離を置いて対面した時の方がより見えてくる。だから、その人自身がじっとして動かないで、外界の方が浮き上がってくる。これは目というものの非常に大きな意味なんですね。それに対して手というものはどうしてもその人自身が外界の方へ働きかけて、外界へ働きかけることによって外界が浮き上がってくるという、本来ちょうど逆の状況になっているわけです。同一の人や事物を、目で見るのと手で触るのとでは、感じ方がまるっきり違うのです。目で見ると全体がぱっと見える。一目瞭然です。だから、形とか全体の配置の関係などがわかりやすいが、手で触るとあくまでも部分的で、しかもその一部の表面だけが孤立化しやすい。従って、全体はわかりにくいが、実感は断然触ることがまさっているのです。見ると触るとは大違い。だから、このY.W君が、やっぱり目でしていることと手でしていることが全く別々なわけです。目でやる時は、やっぱり回るということが非常に重要になってくるわけです。だから、くるくるくるくる回るということです。
回るということは何かと言うと、ここにも先生が書いているけれど、この子は回る物が好きだから、教材もそういう物を選んでらっしゃるんだけれど、今後の見通しと課題のところで、「くるくるはいつまでたっても終わりなく」というここなんですね。回るということは、始まりと終わりがないということ。これが、回るということの大事なところなんですね。そして、もう一つ大事なところは、回るということはいつでも元へ戻ってくるというわけなんです。だから、どんなに回っていても必ず元へ戻ってくるわけです。ここが、人間行動の中で、回るというものの役立ち方なんです。だから、ある意味で回るから際限もないんだけれども、いつも元へ戻っているという意味から言うと整理がつくわけです。回ることによって、目で見ていれば目は回るけれども、中心は確立する。つまり、芯がしっかりしてくるのです。主軸が構成され、自己が外界から独立するのです。
だから、私たちが、例えば時間の単位なんかを、すぐ、1週間だとか、ひと月だとか、春、夏、秋、冬だとか、そんなことをやっているんだけど、1日が日が昇って日が沈んで夜になって、また日が昇るとこうなるわけです。たまには、日が昇って日が沈んで、もう翌日日が昇らないというのがないと本当に困るんですよね。いつもぐるぐる回っているから。
このことが非常によくわかっているお子さんなんです、このお子さんは。つまり、回るということの意味、そこが非常によくわかっているわけです。だから、そこのところがよくわからないと、回るということの意味がわからなくなって、すぐ自閉的傾向があるとか、ピカピカしてる物が好きだとか、何でもぐるぐる回すとか言うんだけど、人間が、円というものと直線というものを何で考え出したのかということです。円というものを考え出して、その円というものの対極として直線というものを考え出しているわけです。ここが非常に円というものが人間行動の出発点としての意味を持っているわけです。ただふざけて回る物が好きだというのではないんですよ。繰り返しというものの中に無限を見てるわけです。つまり、われわれが何月何日に何をしたとかいうことに対して、この人は、すでに昨年1昨年から始まって、来年、再来年まで……というふうにして、1993年の8月16日からずっともう何千年前と先までずっとやり終わってしまっているわけです。だから大変なんですよ。いかにも無表情に見えてごまかされやすいけれど、その一つ一つ、一刻一刻が、常に新しい、実にういういしい新鮮な感じなのです。
そういう大変さというものがわからないと、ただそういう物に興味を持っているとか、飽きずにやっているとか、それからああいうのはこだわりだとか。自分がそれじゃ暦を使わないかというわけです。そういう回ることをもとにして自分が整理していないのかということです。自分だってそういうふうにやっているんですよ。そういう、子どもとの新しい出会いなんですよ。ただ、子どもが変なことをしているとか、子どもがそういうことばかりしていると、そういうのではないんです。そこに、新しい出会いというものがあると。ああ、ここに円というものがあるんだと、ここから直線というものが出ているんだという意味なんですね。だから、この子は直線というものに大変実は抵抗があるわけです。それを無理やりに直線を作らせるということ自体は、やっぱりどこかに無理がある。
今度、直線というものが何かということを考えなければいけない。直線というものは、始めと終わりがあって、その間をつなぐものじゃないか。そうするといちばん困るのは、始めの前はどうするんだ、終わりの後はどうするんだと、ここになってしまうわけです。そこの見当を、どうやってその子自身がつけるかということ、そこを考えていかないと、始め、終わりというものが出てこないわけです。これが、どういうふうにして、このY.W君に出てくるかという、ここが非常に大事なところなんですね。
そのために一つヒントになることは、いちばん大事なことは、机の上でいろんな操作をしているわけです。非常にその子が姿勢がいいわけです。ところが、そこまでは、いいんですよ。そこまでは、いいんだけど、先生が出している課題と、その子が考えていることとがそれぞれ別々なわけです。この子は、何をやるかと言うと、物を持ってしまうとどうしても音にこだわるわけです。だから、例えば鈴なんかをはずせば、これはそのまま持っていますよ。そして、しかも持ち換えて、ちょうどいいような状態で、少し何か耳に近すぎると思うけれども、こういうふうに振っている。これは、そこのところで両者の気持ちが非常に合うわけです。ところが、箱のふたをはずすというところになってくると、だいぶ合ってこなくなってしまうわけです。箱のふたをはずすまではいいんですよ。だけど、このふたを持ってしまったでしょう。そうするとそのふたは何を意味するかと言うと、Y.W君にとっては、音を出すための物になってしまうわけです。だから、そのふたでもって箱をたたくわけです。ちょっとうるさいほどたたくわけです。だけども、それは、持っている物で音を出しているわけです。ふたを持っている意味が、Y.W君に初めて実感として感じられるのに、先生にとっては、ただうるさいだけ、早くやめさせたい行動となってしまうわけです。
その時に非常に大事なことは、Y.W君は持っている物を見てないことです。見てたらたたけなくなってしまう。つまり、音を聞こうとしているんだから、見ては駄目。そんな、こういうふうにたたいて、そこから音が飛び出してくるわけではないですから。音が視覚的な映像として箱から飛び出してくるわけではないのです。これが、たたいて音というものが飛び出してきて、目に入るのだったら、それは見ますよ。音というのは耳に入ってくるので、別にその発生源から視覚的に飛び出してくるわけではないから。従って、実にうまく見当をつけて、それで、あっちの方向にたたきつけるようにたたくわけです。ここがすごいんですよ。
見る時は回転。持ったら音。そういうふうにして、刺激を自分に合わせていくわけです。教材を自分なりにこなしていくわけです。ここがすごいところなんです。別に、ふたがあけられないとか、そういうことは先生方にとっては非常に大きなことかもしれないけれども、今、人間行動の成り立ちから考えていくと、別に大したことではない。その子自身が、どういう時に何をどういうふうにして感じようとして行動を起こしているのか、その時の子どもの様子がはっきり見えることが大切なのです。
あっ、これ、すみませんけど、テープが切れましたね。どうやるんですか。これ、どこを開けるんですか。やってあげましょう。これ裏返すんですね。あの、今、普通、オート・リバースになっていてね。アーッ。これで、テープレコーダーがちゃんと録音できるかどうか。
そういうものなんですよ。その子が考えていることと先生方が考えていることと同じではしょうがないんですよ。違うことが大事なんです。同じだったら、もうやらせを通り越して、機械と機械の出会いになってしまうわけです。人間なんてどこかにいってしまって、歯車と歯車との結びつきになってしまう。違っているから意味があるわけです。そして、しょっちゅう食い違って、先生方が予期していることを子どもたちがしないから意味があるわけです。
それで、向こう側に立って考えてごらんなさいよ。先生方は、向こうの子どもたちが予期していることを全くしないですよ。子どもたちがしないと思うかもしれないけれども、先生の方はもっとしないんで、実はもっとひどいんですよね。そこのところをよく考えていかないと、教材の面白さが出てこない。
ちょっと時間が足りなくなってきたから、あまり、細かく話せない。もっと本当は細かく話さないとよくご理解いただけないと思うんだけど、この場合にハウトゥー式に、それじゃお前だったらどうするのかと言うわけですね。そんなにたくさん手はないですよ。手はないんだけど、少なくとも、目でもって手の動きの先取りみたいなことをするようなことを、やっぱりだんだんだんだん取り入れていかなくてはいけないという感じなんですね。どうしても、棒から鈴をはずすとか、それから、ふたをはずすとか、そういう取り出すとか、はずすとか、抜くとかいうのが多いんですね。これに対して、今度、入れるとか、はめるとかいうこと。
これがまた、そんなことやったら、ますます先生の考えていることとお子さんの考えていることが食い違ってしまって、やらせになってしまうと思います。やらせになってしまうから、非常に言いにくいんだけれど、実は、持ったら、ぎゅっとただ引っぱればはずれるわけです。今度、持っている物を入れようと思ったら、入れるところをどうしても見なくては入らないわけです。ちらっとでも。それがその子にとって、課題というか、その子自身の課題として、その子自身が気がつくかどうかということ。
そこのところが非常にごちゃごちゃごちゃごちゃたくさんのことを考えて工夫していかなければ、簡単にとても解決できないけれども、だけどいずれにしても、そういう意味では、目というものは、そういう手の動きの先取りみたいなものだから、単に回る物とかちらちらする物ではなくて、どこからどこまでというようなところが、その見るところの中に入るかどうか。
だから、その意味で動きなんですね。ただくるくる回るとかぴかぴかするとかそういう物ではなくて、もっと動きなんですね。それを見るかどうか。よく、お母さんが、自分の子どもが障害者じゃないかと思うのは、自分の姿を目で追わないというのが始まりなんですよ。どうもおかしいというふうに気がつくのは。これは、見るということの根本は何かということ。見るということの根本は、動きなんですよ。この、動きを見るということが非常に大事なわけです。
動きを見るということは、ものすごくむずかしいことなんです。つまり、動いているから、動いているどこを見るかということなんです。つまり、動きの始まりと、動いている時と、動きの終わりがあったとするわけですね。ずっと見てればいいじゃないかと言うかもしれないけれども、一つ一つ見ているところが、今どこを見ているのかということ。だから、動きというものが何か。つまり、そこに運動の軌跡と、その人自身の予測とが、どういうふうに絡んでいるのか。これが動きと動きをを見るということの非常に重要なところですね。
それで、人の動きを追わない子どもでも影なら追うかもしれない。その人を見なくても、影は見ているかもしれない。だから、くもりガラスをこう置いておいて、こうちょっと動かしてみると、見るかもしれない。まあこれは一つのヒントですね。ともかく、その子自身が動きを追うということから始まるわけですね。ここで、その子どもとどこの場面でどういうふうに出会うかというところが非常に大事なところです。
そこが、うまく出会えることになれば、目というものは、わりあいにコントロールしやすい。目というものをコントロールすると、その目というものはひとりでにその人自身の全身、特に手というものの動きをコントロールするようになってくる。だから、そういうふうにある所へ物を入れるとか、それからはめるとか、パチンと止めるとかいうことが、だんだんいやにならなくなる。そこへ、だんだん位置というものが出てくるわけです。そうすると方向が出てきて、順序というものが出てきて、形が出てくるという筋書きのわけですね。だけども、言うはやすく、それではどこでどういうふうにやるのかということは、一つ一つの実際的な具体例となると、非常にむずかしいわけです。ものすごく考えて、よく工夫することが大切なのです。
それともう一つ大きな問題点は、机の面というものが、この場合、手というものが、どうしても、物を持ったら、自分の方へ引き寄せるか、上へ持ち上げるか、そういう力の入れ方になっているわけです。だから、この面に押しつけるという状態。今度、この面から離れる押しつけるというところから、この面上ですべらせるということが起こる。電池でもころころと転がしているだけです。せいぜいそこを見ているだけ。もう少し押しつけておいてちょっと力を抜いて、ここにこの先生も書いているように、力を抜くということが大事だとどこかに書いてありましたけれども。力をちょっと抜いてすべらせる。特に、机の面上をすべらせるということは、とても大きな意味を持っているのです。さらに、両手を使っていくということから、机の面というものが出て、その面の中に、空間的な方向が出て、ということ。それと、前にあるスクリーン状の視覚的な空間的な方向。それとがうまく重なり合うというところに目と手の協応というものがあるわけです。ここのところは非常にむずかしい問題がいくつか入ってしまうから、とても一言では言いきれません。
力の調節というのは、この上のところに書いてあります。「今後の見通しと課題」のちょっと上のところに書いてある。力の調節ができてないのは確かなんだけれど、そしたらどうやって力の調節を起こすかというところに非常に大きな問題点があるんですね。持ち上げる、押しつける、すべらせるというところから、水平面を出す。それから、動きを見るというところから垂直面を出す。そして、垂直面と水平面をうまく重ね合わせるというところが、その人自身が操作的な空間を作っていくところのもとなんですね。
ちょっともう少しいろいろ話したいんだけれど、残念だけれども、話しきれないから、もう一つ高等部の先生の発表があったので、それへ移りますけれども。この高等部の先生の発表も、子どもの自発と先生の考えていることとが、どうも食い違ってしまうわけですね。いちばん違ってしまっていることは何かと言うと、非常に簡単なことなんで、よく鏡文字と言うわけです。小さな子どもが鏡文字を書くわけですね。空間の構成の仕方の違いなんですね。
こういうふうに、ここにばってんとまるとがあるとするんですね。そうすると、この高等部の先生によると、まるとばってんがこうでなければいかんと。図1Aの関係なんですよね。確かに一つの考えはあるんだけれど、どういう根拠でそんなお考えになっているのかと言うと、こういうふうに基準を置いているのですね。これに対して、逆にこう図1Bのように答えるとなぜいけないか。どうして、こっち(図1A)の答えがよくて、どうしてこっち(図1B)の答えが悪いのか。ここが問題なんですよ。少しそれは勝手すぎるんじゃないかということですね。