障害の重い子どもたちを見つめて
─存在感と論理性を学ぶ─
平成5年8月16日
                         中 島 昭 美
                       於やまびこ養護学校

 おはようございます。雨にけぶる甲州街道をやってまいりました。
 相模湖というのは人造湖で、昔なかったんですね。あそこは、たぶん相模湖と言わないで、与瀬(よせ)と言っていたんじゃないでしょうか。ちょっとお年をめされた方がいらっしゃるから、知っていらっしゃるかな。今、「相模湖」と言っている中央線の駅名も以前は「与瀬」と言っていたので、ここへ来るの「よせ」と言うわけです。校長先生の紹介にあったけれど、若い頃さかんに往復したんですね。いっぺん、甲府から臨時電車に乗ったんです。そしたら、この電車がものすごく遅い電車で、どんどんどんどん追い越されるんですね。だいたい、普通列車にも追い越されてしまうんですね。それで、とうとう、それこそ、与瀬で停まって動かなくなってしまったんです。駅員が20分停車だと言ったんですね。20分停車だと言って、いったい何が追い越したかと言うと、貨物列車が追い越した。それで、さすが臨時列車だと驚いて。ともかく甲府発の臨時列車で、夏の民族大移動の最中に、あまりに空いているんで驚いてしまいましたけれど、貨物列車に追い越されて二度びっくり。まさに後悔するのは「よせ」だなあとプラットホームの端っこで、ぼんやりしていたら、やっと発車ベルが鳴り出しました。
 その頃は毎年夏休み、ちょうど今頃、甲府の山梨盲学校で合宿をしてたわけですね。お盆をはさんで、前後だいたい長い時で一月ぐらい。短い時でも2週間ぐらい。だから、甲府の南口、北口なんて、今から考えると全く夢のような変わりようで。南口は平和通りと言って、建物が高くなったくらいで、わりあい今とそう変わらないけれど、北口の方は、あそこはものすごく寂れてて、それで、県の職員宿舎があって、その先に盲学校があったわけです。駅から歩いて、3分ぐらいのところですね。もう一つ向こうの通りが朝日町の通りで。みなさんは、甲府を全然知らないですか。甲府に行ったことがない人いますか。(誰も手を上げない。)わかりました。それでは、わかりますね。朝日町の通りは、ずっと行くと湯村へ行きます。そのこっち側の、駅からまっすぐ積翠寺の方へ行く左側に山梨大学があるけれど、あの通りはすごく寂れていた通りなんですね。商店街もなく、もちろん舗装もしてなかったんですよ。
 それで、駅から近くて便利なんだけども、盲学校で合宿をしていて困るのは、駅をまたいで向こう側へ行きたい時ですね。平和通りへ行きたい時に、こっちから行くと、もし、左の方のお城の方へ下ると、お城の方の端っこの方に、踏み切りが一つあるわけです。今度、向こう側へ行くと、朝日町から、あれは、地下道になってたのかな。朝日町から行くところがあるんですね。でも、いずれにしても駅をまたげば、ほんの一またぎなのに、ぐるっと回ると、どっちへ回っても遠回りしなければならないんですね。それで、初めは知らなかったんだけれど、2年も3年も合宿をやっているうちにわかったのは、盲学校に通行証というのがあるんですね。それを持っていくと、駅で入場券買わないで、ただで通れるんです。それで、それがわかって、それを合宿中に借りるようになって、それから、ずいぶん平和通りの方へ行くようになったんですね。まあ、寮母さんなんかは、もう顔だから、はいとか駅員にお辞儀して、どんどんどんどん通って行っちゃうわけです。
 今と違って、国鉄も大変のんきな時代で、忠男君という男のお子さんは汽車に触るのが好きなんですね。それで、お昼休みで、ちょうど昼食をした後、どうしても出かけたいわけです。行かないと玄関のところにうずくまってしまって、こういうふうにうずくまって待っているわけです。どうしても連れていかなければ、てこでも動かないんで、僕もだいぶ連れていきましたけれども。駅員さんも、はい、はいと言って。もう、駅員さんの方がよくわかっているんですね、今頃来るというのが。線路に降りて、貨物列車にずっと触って、今度プラットホームに上がって、プラットホームの洗面所で水道の栓を逆にして、バーッと噴水みたいにして。それで、また、忠男君は、頭を洗って。夏の昼日中、そんなことを繰り返していたけれども、国鉄から怒られたということは一度もなかったから。
 今は、この間、行ってみたら、南口も北口も階段を上がると、ちゃんと通路があって連絡していますからね。でも、あれ、国鉄は損をしてるんじゃないかな。あそこをふさいでおいて、入場料とればずいぶん儲かると思うけれど。昔のようにやった方がいいんじゃないかと思うけれども。そういう意味ではなかなか甲府は駅を中心として思い出が多いんで。
 ある年の夏、平和通りを下がって行くと、ちょうど塩山の方から来た国道と20号線とぶつかるところにガソリンスタンドがあるんだけれど、それはわかりますか。今でもありますかね。ありますか。そのガソリンスタンドのところをどう入ったかわからないんだけれど、ともかくどこか入って、昔で、暑いから、かき氷を食おうということになって。昔はちゃんとかき氷と書いてあって、そして、こういうふうに手で回すと、氷にぐさっとささって、氷がくるくるっと回って刃で氷を削るので、その下に受けると、かき氷が雪が降るようにざらざらと出てくるんです。


今はフ
ラッペとか何とか言って、全然違うんですね。昔は、わりとかき氷と言って、こういう器に、ちゃんとこういうふうにフワァフワァッと山盛りに氷が盛られていて。そして、氷いちごとか、氷メロンとか、氷あずきかな、というふうになっていて。また、その、食べ方も今の人知らないんですね。あれは、両手でもってぎゅっと押さえて、氷をつぶして固くして食べるものなんですよ。それを、今の人は器も食べ方も全然知らない。あれは、両手でぎゅっともう押さえつけて、それからおもむろにさじでもって食べる、これがかき氷の食べ方なんですね。ごく常識的なその頃の普通の食べ方なんです。これを知っている人は、ちょっとお年をめされた方じゃないでしょうか。
 それで、梅津先生と私と一緒にしょっちゅう出歩いていたから、氷屋に入って、また、梅津先生がおっしゃるには、これはラムネをかけて食うのがいちばんうまいんだと。そして、その氷屋さんに入って、いちごやそういうものを入れないで、普通のただのかき氷と、それからラムネを持ってこいと注文した。そしたら、ごそごそごそごそ奥で相談しているんですね。僕だったら、そういう時に、必ずもうあんまりそういう意味で旅の恥はかき捨てじゃないからと思うから、店員がウロウロしていると、「じゃあ、いいや。」と言ってしまうんです。ところが梅津先生、頑張っちゃうんですね。それで、断固譲らないわけです。そうすると、とうとうそのかき氷だけのもの二つとラムネ2本を持ってきた。梅津先生は喜んで、それをかけて食べたわけですね。おいしかったかまずかったかは別にして、お金を払おうとしたら、お金いりませんって言うわけです。ただでは困ると言うと、いやまた今度にして下さいとこう言うわけです。もう来ないよと言うと、まあまあまあとこうなってしまうわけです。それで、そう言われるとこっちが困るんで、とうとう奥からご主人が出てきて、それで、お代は結構ですと、そう言うわけです。それで、何とつけ加えたかと言うと、隣で興行をなさっている方ですかと、こうきたわけです。何だかわからないけれども、隣を見たら、隣がストリップの小屋なんです。そこの興行をうちに二人が来たんだと、そういうふうに思われたわけです。それで、梅津先生が言うには、お前が見かけがよくないからこうなってしまうんだと。僕、今ちょっと、そんなやあさんだとか、あっそういう言葉を使ったらいけないのかもしれないけれど、興行師とかに、見えるでしょうか。どちらとは申しませんが、いかに、いくら片一方が上品でも、片一方が悪いとしょうがないことが起こるということだと思いますけれども。
 でも、ともかく、山梨盲学校で盲聾児の教育を初めてしたということは、やはり、ちょっと画期的なことだし、それから本当は山梨の方々が大いに誇りにされていいできごとだとは思うんですけれども、これもまた、なかなか正当なご評価をいただけなくて。いちばん困ってしまうのは、精薄の問題なんですね。まあ、ここも精薄の養護学校だから、言いにくいんですけど。成子さんや忠男さんは精薄ではないんだって。だから、ああいうことができるんだとこうくるわけです。精薄どころか、当時成子さんは、山梨盲学校で、「成子は人間じゃない。動物だ。」と言われていたんです。だから、これは本当に困ってしまうわけですね。
 今、松本盲学校の高等部も卒業して、自宅で勉強してるまあちゃんって言う子なんですけれど。この子も、盲学校の中学部の時に、まあちゃんは精薄だから駄目だって、こう言われてたわけです。ところが、だんだんだんだん点字が読めるようになったし、点字のタイプなんかもものすごく速いんですね。それは、もう普通の人ではなかなかかなわない。すごいスピードで打てるわけです。まあ、あんまり速く打てるのは自慢にもならないけれども、ともかくすごく速く打てるわけです。そしたら、何と言われるかと言うと、今度、精薄じゃないけれど、精薄がかかっているんだとこうくるわけです。まあ確かに、高等部になっても、あるいは卒業しても、職業もないし、何もしていないから、確かに精薄がかかっているのかもしれないけれども、その子が何かできるようになると精薄じゃなかったとか、それから、できないと精薄だとかいうふうに言うということ、その決めつけ方が、もう伝統的な精薄に対する考えのまずさじゃないかと思うんですね。
 だけど、精薄の偉い先生方というのは、その辺、すごく簡単なんですね。すぐ、精薄だとか、自閉症だとか、精薄がかかっているとか、自閉的傾向があるとか、すぐ言い出すわけです。そして、自分たちの教育のまずさ、内容・方法の貧弱さを、いっこうに反省しようとしない。それで、いちばん大事な、その子どもたちが本当に何をしているのか、その子どもたちがどういうような感じ方だとか、考え方だとか、行動の組み立て方なのか、そして、そこにどういう意味があるのかという、そういう大事さというものに気づいてないわけです。だから、今の、障害児の教育というのは、根本が勝手な決めつけで、ごちゃごちゃごちゃごちゃしているんじゃないでしょうか。
 そういうことをまず前提にして、本当は、もう少しこの話を先にした方がいいのかもしれないけれど、ちょっと、せっかく今までの三つの発表があったから、発表を中心に話を進めて、それから、昔の盲聾のビデオがあるんで、その場面をごく一部分をお見せして、それから最後にしめくくるというふうに、話を進めていきたいと思うんですね。
 いちばん最初は、五味先生の訪問学級ですね。恵理子さん。この方の発表があったわけですね。一般的に、訪問学級で、先生が子どもと出会う場合に、この方は、もう長く訪問教育を受けられているんで、ある意味では先輩の先生がいろんなことを教えて下さるから、いいのかもしれないけれど、たいがいの場合、障害の重い子どもに先生が出会うのは突然なんですね。何も知らないで、いろんな過去の略歴みたいなのが書いてあるんだけれど、大体において、その子がどういう病気だったとか、もし仮に発達の経過みたいなものが書いてあったとすれば、何歳頃、何ができるようになったとか、そんなことしか書いてないわけです。その子が、どういう考えで何をしているのか、どういうふうに素晴らしいのかなんてことは、一言も書いてないわけですね。
 そういう意味で出会ってみると、見かけの状態が非常によくないわけです。初めての出会いなので、先生の方も緊張されているでしょうけれども、同じように、必ず子どもの方もものすごく緊張して、それが見かけを実に悪くしているのです。まあ、例えば、ぜいぜいしてるとか、じっとして仰向けで目がうつろだとか、それから管が入っているとか、手足がこういうふうに曲がっているとかいうようなこと、そういうことが、障害つまり病気が非常に重いために、そういうふうに起こってきているということが、よくわかって、医療が非常に濃く関与していて、その子自身が、例えば脳が壊れてしまっているとか。脳が壊れてしまっているというのがどうしてそんなによくわかるのか、よくわからないんだけど。すぐ脳が壊れていると言い出すんだけれど、もう脳が壊れてしまっているんだったら、私たちでも、たいていの人はもう脳が壊れているんだから、そう心配いらないと思うんだけれど。私たちの方は脳が壊れてなくて、子どもの方が脳が壊れていると思うのは、すごい錯覚だと思うのだけど。まあ、そこのところは、そういう錯覚というか思い違いというのは、ごく普通に行われているから何とも言いようがないんだけれども。
 ともかく、そういう意味で、その子自身が、見かけが非常に悪いわけです。見かけが非常に悪いと、先生方がこれは大変だと思ってしまうわけです。この子は、脳が壊れ、息たえだえで、やっと生きているという妄想がますます大きく拡がって、輝ける魂の塊なんだなんてとうてい思わない。魂のぬけがら、生きている屍なんだと思ってしまう。それでも、やっぱり先生だから、何かしなくては気持ちが悪い。これが本当によくないことなんですよね。子どもに何かしないと気持ちが悪いというのは、そこは疑問なんで、子どもに何かさせることになるから。させることになると、みんなやらせになってしまう。
 何か、五味先生が、教材を使って、一生懸命がんばっているのに、ある先生からあっさり冷たいと言われて、神経症になってしまったらしいんだけれど、これは、本当に僕も心配なところは、ただでさえやらせの状況のところに教材を持ってくると、もっとやらせになる恐れも確かにあるんですね。だから、そういう意味で、どうしても相手の状態がわからない。悪く考え過ぎてしまう。せっかく教材を使っても、教材が無言の仲介者としての意味を全く果たさずに、ただできないというような表面的なことばかりがどんどんどんどん目につく。何とかしたいというのが、そういう表面的なことに対しての対症療法。そういうようなことになってくる。それで、子どもを先生が追っかけ回したら、それはわけがわからなくなってくる。ただでさえわけのわからないところへ、ますますわけがわからなくなってしまうのです。
 だから、五味先生の場合にも、目をきょろきょろさせるとか、全身を動かすとか、声を出すとか、あるいは、食事の時のいろんな反応とか、結構いろんなことがその子はおできになるんだと、そういうことはわかっているわけです。だけど、やっぱり、恵理子さんにとってすべて受け身で、刺激というのが与えられているだけだったんじゃないかということですね。だから、五味先生は恵理子さんに、恵理子さんと私の間で、通じるようなきっちりとしたものを作り上げていきたいという考えなわけです。考えは非常によろしいですよ。考えは非常によろしいんだけど、考えだけでは実際は反対にうまくいっていないわけで。つまり、いちばん問題点は恵理子さんがどういう状況なのかということを考えないと駄目ですね。
 そういうふうに考えると、確かに受け身で、仰向けで寝たきり。たぶんうちでご両親も忙しいと思うから、ほとんどの時間仰向けでほおり出されていると思うんですね。そういうふうにして受け身でじっとしてるということになったら、やはり人間だから何かしないではいられない。ここが人間の面白いところなんですね。必ずそこに自発というものがあるわけです。そして、それが非常に個性的なんですね。どこにこの場合に自発があるのかということが、私たちに見えてくるかこないかというのがここが非常に大事なところです。一般的に、そういう時に、人間行動の成り立ちの行動の根本の原則というものを考えなくては駄目です。
 ただやたらに、この先生もくすぐるというんだけれど、わかるけれど、触るのはいいんですが、くすぐるというのは、反応を起こさせようとするわけです。相手に反応を起こさせようとすると、確かに反応は起こるかもしれない。だけど、こっちが起こさせようとしたものなんだから、相手にとってはやらせになって、受け身になる可能性が非常に強いわけです。だから、相手に反応を起こさせないように触らなければ駄目です。これをしたら相手が必ずこれをするというような、そんなことになってしまったら、刺激と反応とが一対一対応となってしまって、確かに反応は起こるが、その子にとって選択の余地のないもの、人間行動の自発を呼ぶということと全く逆のものになってしまう。
 自発というものは、あくまでもその人が外界を区別して、その人が選択をして、その人自身が考えて自分で組み立てて、外界へ働きかけていくということが自発なんです。そんな、こっちがこういうふうに刺激したら、こういうふうに反応するというように、これがまた、心理学の奴が好きなんですよね。まあ、あまり悪口も言えないけれども、どこか外国からちょっと仕入れてきて、すぐぱっぱぱっぱ言うんだから、もうちょっと納まりがつかないけれど、いかにももっともらしくて権威のあるのが好きなんです。まだ、お医者さんの場合は、好きではないけれど、これはもう厳然たる治療の方針だから。医者は病気を見つけて、その病気をどういうふうに治療していくか、人間行動の成り立ちなど、てんで問題にしないで、そればかり考えているから、別に、その子が生きているとか、その子が考えているとか、そんなこと医者にとっては全然問題ではない。
 だけども、もし、心というものがあって、そして、五味先生が言うように、心というものとふれ合うんだったら、こちらも心しかないんですよ。向こう側に心があって、これをお金で何とかしようとか、それから食物で何とかしようとか、それから薬で何とかしようとか、そういう物とか事柄とか、科学的事実とか、そういうものでは何ともできないわけです。それが初めてできるのは、その人の心なんです。だから、やっぱり、よく考えないといけないというのは、そこなんです。人間行動の成り立ちの根本というものを考えて、そこから考えていかないとね。ただ、向こうが状態が悪い、こちょこちょこちょこちょくすぐればいい、まあ、ちょっと五味先生には悪いけれど、ひどく言っているんで、別に本気で思っているわけではないんだけど。もっとひどい人たくさんいるから、めちゃめちゃだから、五味先生なんかは、そんなこと言うと悪いけれど、まだいい方だと僕は思っているのだけど。だって、だんだん、感覚刺激だとか言って、感覚刺激は脳の栄養剤だとか言って、狂ってるんじゃないかと思うんだけれど、心なんて全然問題にしてくれないですよ。言わんや、どんな子どもにも当然のことながら、ちゃんと心がある、その人は自発的な状況なんだと、それで、ちゃんと自発はしているんだと言ったって、絶対に認めてくれないですよね。
 そういう意味で、私たちが気がつかないのは、どうしても体の後ろ側なんですね。仰向けで寝ているということは、非常に体の後ろ側に影響されているわけです。だから、前の刺激というものはほとんどなく、あってもこれを受け止めず、その代わり、後ろの刺激は必ず受け止めているということ、これが一つ非常に大事なところですね。だから、後ろの刺激というものをどこで受け止めているかと言うと、一つは肩だとか首ですね。それから、腰。それから、もう少し言えば手とか足とかいうものもつけ加わるかもしれないけれども、主として体幹ですよね。そして、一般的にのけぞるようにして外界の刺激というものを受け止めているわけです。
 それで、障害の重いお子さんになってくればくるほど、受け身になって、やらせばかりになってしまっているわけです。だから、もう本当にその人自身が食べることとか、それから排泄すること、そういう日常生活から始まって、それこそ生きていることすら受け身にさせられてしまっているわけです。だから、もうどんどんどんどん切りもないほど受け身にさせられてしまっているんです。とてもせつない状況なのです。
 受け身にさせられたら何が必要かと言ったら、その子にちょうど合う適切な刺激が必要なんですよ。だから、その人は、外界にうまく合うのがないし、またあっても、いつでもその子が必要な時にその刺激があるという条件が満たされないので、刺激を自分で作るんです。外界の刺激というのは、確かにいい点もあるんだけれど、いつでもその人が必要な時に、出てこないんですよ、ちょうどいい状況で。ある時は、非常にその子にとっていい状況である場合もあるけれど、ある時には、とても悪い状況でもある。それから、どんどんどんどん変化していって、追いきれないということもある。従って、外界刺激というものを受け止めるよりは、自分の体とか、そういうものを使って、外界刺激なしで、自分で刺激を作っていった方がずっと確実で正確な、いつでも必要な時に、その子の手に入るわけです。だから、外界の刺激を受け止めることをやめて、自分の刺激をどんどんどんどん作るわけです。これが、人間の初期の行動のきわめて大きな特徴なんですよ。だから、障害の重い子どもというのができ上がるわけです。もう、完全に障害の重いお子さんというのは作られたものなんで、そうでなければ、みんな子どもたちが、どうしてああ同じような状況に陥ってくるのかということ。その意味で、作られたものでなければ、いろんな意味で、バラエティーに富んで、いろんなやり方というものがあるのに、もう必ずそういうお子さんというのは、そういう意味で自己刺激なんです。
 だから、ここに書いてある、目をきょろきょろさせるというのは何をやっているのかというと、外界の受け止め方で視覚的な受け止め方を受け身にしているんですよ。だから、さっきの小学部の子どもじゃないけれど、くるっくるっと回っている自転車の輪かな、そのくるくるくるくる回っているのを見ているのと同じようなものですね。だから、なるべく、そういう意味で、因果関係とか空間関係とか、そういうような関係的な見方というものをやめて、そして、むしろもう少し、煙を見るとか、光沢を見るとか、ある意味では明るさを見るとか、動きにしても、私たちが見ると目が回るだけというような刺激を、わざと自分で作って見るように、視覚的な状況を自分で作り出していくわけですね。
 全身を動かしているというのもそうなんですね。動かしようがあって、ちゃんと動かしてこすりつけて、そして、こすりつけることによって触覚刺激を作っているわけです。これが障害の重いお子さんになると、この恵理子さんの場合は大きいけれど、このこすりつけがもっとうんと小さいんですね。ほとんど見えないわけです。かろうじて、仰向けで寝ている方の下に、手をしばらく入れてみてると、この体にどういうふうに力を入れてやっているかというのが少しずつ出てくるわけです。非常に集中して、わからないようにうまくやっているわけです。だけど、それはその人にとって非常に適当な大切な刺激になっているわけです。
 それから、声を出す。声を出すのもそうです。声を出すというのは、息をぜいぜいさせているのもそうですが、呼吸というのは、音と関係しているから、外の音も非常によく聞いているわけです。人の話声なんかあまり聞かないんですね。だけど、自動車が通っている音とか、雨の音とか、それから他の子どもの声とか、大体外から聞こえてくる音なんですね。そういう音というものをなるべく選んで聞くようにしているわけだけども、それで、間に合わなければ、今度自分で声を出して、自分で聞いているわけです。声を出さなければ、もっと息をぜいぜいさせて、それで、自分で聞いているわけです。この子は息がぜいぜいしているから痰がつまっているんだろうと簡単に考えるけれども、そうじゃなくて、わざと喉をつめて、それで自分で音を聞いているという、非常に自分で自己刺激的に刺激を作り出すということですね。
 日常生活そのものすべてが受け身になって、しかも姿勢が一定して、ほとんど動きがないというような状況になってきた時に、外界の刺激を取り入れない、あるいは、取り入れる時もその取り入れ方を一定にして、特に自分で刺激を作り出す方法を考えて、それで、その自己刺激をたくさん使って、自分の受け身の状態とのバランスをとっているわけです。だから、受け身になればなるほど、外界をシャットアウトし、自己刺激が多くなってくる。自己刺激が多くなってくれば、だんだん受け身になって、外界の刺激と関係がなくなっていくというそういう繰り返しのところから、ついに仰向けで寝たきりで、ほとんど動かないで、頭の中が壊れているんじゃないか、何もできないんじゃないか、何もわからないんじゃないか、息もたえだえでやっと生きてるだけじゃないかなんて言われるような状況になってしまうわけです。
 だけども、それは、そこまでにたどり着くには、ちゃんとした段階があって、そしてその子自身のちゃんとした刺激の作り方、そういうものに対する感じ方と、運動の組み立て方というのがきちんとあるわけです。それはすごいですよ。そのすごさというものにまず驚かなければ、障害の重い子どもが、ただぜいぜいして大変だとか、食物を食べさせるのをどうするとか。それは生命の維持は必要だから、確かに医学的な処置とかそういうものは必要は必要なんですよ。必要は必要なんだけど、人間として、一個の人格者として、輝かしい生命体として存在しているんだということの方が根本で、もっと大切なんですよ。そういう洞察があってこそ、初めて、そこに、食事だとか、排泄だとか、呼吸だとか、循環だとか、そういうものが生まれてくるわけです。いちばん根本のところを全く無視して、ただ表面的なところでうろうろしていても、いくらうろうろしていても切りがない。そういうところが非常に大切なんですね。
 そういう時に、今度、それじゃあ、五味先生が何もしないで、ただ見て、その子どもの素晴らしさに、輝いているところに感激していればいいのかと、たぶん言われてしまいますね。そしたら、僕はそれがいいという考えなんです。ただ、見とれて、素晴らしいと思っていれば、もうそれでいいんですね。それで僕なんか一生暮らすという考えだから。それでいいとつくづく思っているんだけれど、世の中の人がなかなかそれでは承知しないわけです。
 そこで、承知しないんだったら、僕が言いたいのは、めちゃめちゃだけはしないでくれということ。まあ、五味先生の例をとって悪いけれども、同じ、その子に働きかけるのでも、まず膝枕にしているし、それからおなかや胸をたたいているわけです。キーボードたたくのならいいけれど、キーボードの演奏が上手だけど、その子のおなかや胸をたたいてもしょうがないんですよ。ところが、そうすると、子どもがにっこりしたとか、反応したとか言うんですね。だけども、もう少し原則というものを考えないと駄目です。
 その原則というのは何かと言うと、前側の刺激の受け止め方というのはどこから始まるのか、体の部分のどこから始まるのかという、そういう考え方ですよ。そうすると、まず出てくるのが足なんですよ。こういう大事な教育に足というものが全然出てこない。五味先生も、子どもの足というものにほとんど触っていない。すぐ手だとか目にいってしまうわけです。だけどこの場合も含めて、そういう状況でいちばん大事なのは足、特に足の裏なんですね。足の裏というのは、子どもがとても大事にしている体の部分なのです。次に出てくる小学部のお子さんが、きちんと正座していますね。あれはお行儀がいいわけではないんです。足の裏を大事にしているんです。だから、足の裏を座っている時に床に着けないわけです。それほど足の裏というものを大事にしているわけです。足の裏というものは、そういう意味で外界の刺激の取り入れ口なんですよ。それと口なんですね。この二つが外界の刺激の取り入れ口。後ろの刺激に対して、前の刺激の初めての取り入れ口。だから、どっちかと言うと、仰向けに対して、うつぶせという感じですけれども。その間にどうしても足と口というものが入らないとうまくつながっていかないわけですね。だから、足をよく触ってあげること、これが何と言ってもいちばん大事なところですね。
 それから、首がすわっていないというけれど、うつぶせで自分でこういうふうに首を持ち上げるんだから、もう首はすわっているんですよ。何でもかんでも猫をつかまえるように首の根っこを押さえるから、向こうは受け身になってしまうんですよ。自発を止められてるんですね。ここが問題点なんで、この場合に、仰向けからうつぶせになると、うつぶせから体を起こすということが起こるわけ。体を起こす時に大事なのは、体を起こすことではないんですね。下半身をどう安定させるかですね。下半身が安定しなければ体が起きない。上半身が起きるというのは、下半身を使って起きているわけです。
 だから、バギーみたいなのに、深々と包みこまれてしまっている、そうじゃなければ、抱っこされてあなたまかせになってしまっているというような時には、これは、その人が、体をその物か人に委ねてしまっているのだから、全然自発ではないんです。だけど、体を起こすということは、これはその子の自発というものを土台としなければどうにも起きないんですよ。でなければ自分でどんどんどんどん倒れ込んでしまう。その子自身が自発的にこう体を起こしてくるというところが大事なんです。それには下半身なんですよ。下半身を安定させて、上半身を前に倒すことなんです。もし向かい合っていたら、下半身をちゃんと安定させて、上半身を前に引くことなんですよ。上半身を前へ引いたら、でででってこう前にきてしまうじゃないかと言うけれど、そうはいかない。前へ引けば引くほど、その人は後ろへ起き上がろうとするわけです。
 ここが人間のすごく面白いところなんですね。これは、本当にここのところをやってみたら、人間がなぜ垂直の主軸を作っていくかという、そのいちばん基本的な大事なところが、非常によくわかる。何か、人間は二足歩行だとか、立って歩くことによって手が解放されて手が使えるようになったとか、勝手なことばかり言っているけども、人間がどうして垂直主軸を作ったかというそのきっかけがわかっていない。だから、みんなめちゃめちゃに体を起こしてしまっている。いきなり体を起こして、いすに座らせようとしたり、脇の下に手を入れて、足をトントンさせて立ち上がらせるような直接的強制的なことを平気で繰り返す。ところが、またこれが、普通の子どもにやると、いくらめちゃめちゃなことをやったって、できるんですよ。だから、ちょっとした思いつきのどこが人間行動の成り立ちの原則だったのかということが見えてこないわけです。そのめちゃめちゃなところで、あんなやり方がある、こんなやり方もあると。だから、ちょっとした思いつきのやり方が無数にあるわけです。切りがないほどやり方があって、どこがいちばん大事なのかということがわからなくなってしまっている。
 特にわからないのは、人間の自発ということがわからない。体を垂直にするということは、人間の自発の中で、非常に重要な位置を占めているわけです。従って、えんこということであってもいいんだけど、下半身を安定させて上半身を前からずっと起こしていく。人間というものは後ろから体を起こしたわけではないんですね。前からこういうふうに体を起こしたんです。この恵理子さんと深くつき合ってみれば、そのことは本当によくわかる。本当、人間ってすごいんだなということが、よくわかります。そして、そういう意味で体というものをその人自身が起こすということが自発なんですね。
 これがどうしてもこちら側のやり方と、例えばここにも書いてあるように、恵理子さんの活動の様子のところで、うつぶせ、横抱き、手指を使うのはいいんだけれど、筆とか毛糸なんてなってくるんですね。これは、くすぐろうという考えなんですね。おなか等をくすぐるようにするということになってしまうわけです。だけど、くすぐるということは、反応を起こさせることはできるかもしれない。しかし、やらせになってしまって、自発というものを促すことにはならない。くすぐるというのが絶対いけないというのではないんです。普通の子どもなんかくすぐったって何だって、みんな反応が起こるし、それからまた自分でどんどん自発しますからね。絶対いけないというわけではないんですね。
 だけど、この恵理子さんの場合、もっとていねいに触ること。それではどこに触るか。顔、首、手、足、脇、おなかと言うんだけど、こういう触り方の順序があって、体の部分のどこから触っていくのか。だから、この場合だったら、足から触って、首にいって顔にいって、それからおなかをさすって、それで手をさする。そういうふうな順序があるわけです。そういう順序というものを子どもがちゃんと教えてくれるわけです。今度は、ここを触れとかあそこを触れとか、ちゃんと子どもが教えてくれるわけです。だから、子どもに教わって、そういう一応こちらが予測した順序を考えて、それで、子どもに教わりながら工夫してやっていけば、そこにだんだんだんだん相手の状態というものがわかるわけです。
 やっぱりどうしても手を使わせることが好きだから、まずすぐスイッチ板になってしまって、うつぶせでやらせているわけですね。そして、手を使わせるわけです。一つ言いたいのは、うつぶせと仰向けとの間で横向きの姿勢が出てきてて、横向きからうつぶせになると言うけれど、うつぶせになってこうかぶっているところは、なぜかぶってしまうかというと、下にある手を使わせないからなんですね。下にある手を使わせれば、そこで下の手が使えるわけです。横向きというのは、わりあい手にとっては、寝たきりの子どもにとって、使いやすい状況なんですね。横向きだから、上の方に上げたこっちの手の方が自由に使えるだろうと思うかもしれないけれど、そうではないんですね。下の方にある手の方が使いやすいわけです。だから、横向きになって下にある手をうまく使わせれば、そこに一つのその子自身のいろいろなやり方というものがわかってくるわけですね。
 ともかく、その意味で、手がだんだん使えるようになるということが、問題点なんだけれども、本当は、手と言っても、手首や手のひらというはいちばん最後なんですね。肩から肘、それから手首、それから手の甲、手の脇っちょ、それから手のひらというふうに、手のどこを使わせるかというのにも順序があるわけです。
 だから、どっちかと言うと、手を使わせるよりは、先生がやっていたようにあごを使う。本当はあごを使うよりは足を使う。足でやらせたら、この子なんかいろんなことができるわけです。足というのは立って歩くためなんだと思うかもしれないけれど、初めは、外界と関係するために実によく使うわけですね。本当に器用に足というのは動くわけです。だんだん立って歩くようになると、立って歩くためにしか使わなくなるんですけれどね。だから、手が独立して、足の本来持っていたすごい巧みさというか、そういうのが消えてしまうんです。
 やっぱり先生が言っているように、教材を出してやらせになってしまうことは、どうも仕方がないんですね。たぶん子どもとしてはつまらない、よくわからないということなんじゃないか。それというのは、できるかできないかということがどうしても教材を出すと気になってしまうわけです。だから、スイッチ板を出せば、スイッチ板をその子が押すか押さないかなんですね。ツリーチャイムを出せばそのツリーチャイムをこうして、音を出すか出さないか。キーボードだったら、そのキーボードを押して音を出すか出さないかということになってしまう。だけど、それはあくまでも私たちの使い方なわけです。一つの教材にもいろんな使い方というものがあるんだから、一つだけこういうふうな物はこういう使い方だけと限定するわけにはいかないですね。やっぱり触った時の触り心地とか、それから、見た時の見方、つまりどこを見て、何をどう感じ、どう考えるか。
 ぶら下がっているということは、初期の段階で、ある意味で見やすさ、持ちやすさがあるんですね。だから、スイッチ板とツリーチャイムというのは全く使い方の意味が違っているんですね。だから、仮に、そういうスイッチ板には手を出さなくても、ぶら下がっている物には手を出すというようなことがあるかもしれない。そうすれば、ぶら下がっているということがいいんじゃないか。そしたら何でもぶら下げたらどうかという気になるわけです。だから、その子に触らせる時に、何でもぶら下げてこういうふうにこうやったらどうかと。
 というのは、そういうところからだんだんだんだん考えていくと、やっぱり、その子の見方、感じ方、考え方があるし、それから、いつも目で見せて手を使わせるという考えに立たないで、足を使わせるとか口を使わせるとかいうことをぜひ入れてほしいわけです。できれば首の左右の振りとか、上下とか、そういう首を使わせるとか。それから今度だんだん肩を使わせるとか、肘を使わせるとかいうことで、体の他の部分から始めて、だんだん手を使わせるとか目を使わせるとかいうことを、いちばん最後で考えるというのが大事なところじゃないでしょうか。
 そういうふうに考えていくと、次の小学部の河西先生の目と手の協応というのが出てくるわけですね。この目と手の協応というのが、これが何と言うか、言うは簡単なんだけど、目と手というのは本当は一緒になかなかならないものなんですよ。だから、目と手というのは、本来ばらばらなもので、なかなか一緒にならないというふうなことを前提にした方が、いいんですね。
 何と言っても、まず第一に目というものは見るものなんですね。手というものは触るものなんです。そうすると、手というものは外界へその人自身が近づいていくものなんです。その人自身が外界へ接近するということを前提にしないと手というものが出てこないわけです。目というのはどういうふうなことかと言うと、外界から少し自分を遠ざけて、一目置いて、距離を置いて対面した時の方がより見えてくる。だから、その人自身がじっとして動かないで、外界の方が浮き上がってくる。これは目というものの非常に大きな意味なんですね。それに対して手というものはどうしてもその人自身が外界の方へ働きかけて、外界へ働きかけることによって外界が浮き上がってくるという、本来ちょうど逆の状況になっているわけです。同一の人や事物を、目で見るのと手で触るのとでは、感じ方がまるっきり違うのです。目で見ると全体がぱっと見える。一目瞭然です。だから、形とか全体の配置の関係などがわかりやすいが、手で触るとあくまでも部分的で、しかもその一部の表面だけが孤立化しやすい。従って、全体はわかりにくいが、実感は断然触ることがまさっているのです。見ると触るとは大違い。だから、このY.W君が、やっぱり目でしていることと手でしていることが全く別々なわけです。目でやる時は、やっぱり回るということが非常に重要になってくるわけです。だから、くるくるくるくる回るということです。
 回るということは何かと言うと、ここにも先生が書いているけれど、この子は回る物が好きだから、教材もそういう物を選んでらっしゃるんだけれど、今後の見通しと課題のところで、「くるくるはいつまでたっても終わりなく」というここなんですね。回るということは、始まりと終わりがないということ。これが、回るということの大事なところなんですね。そして、もう一つ大事なところは、回るということはいつでも元へ戻ってくるというわけなんです。だから、どんなに回っていても必ず元へ戻ってくるわけです。ここが、人間行動の中で、回るというものの役立ち方なんです。だから、ある意味で回るから際限もないんだけれども、いつも元へ戻っているという意味から言うと整理がつくわけです。回ることによって、目で見ていれば目は回るけれども、中心は確立する。つまり、芯がしっかりしてくるのです。主軸が構成され、自己が外界から独立するのです。
 だから、私たちが、例えば時間の単位なんかを、すぐ、1週間だとか、ひと月だとか、春、夏、秋、冬だとか、そんなことをやっているんだけど、1日が日が昇って日が沈んで夜になって、また日が昇るとこうなるわけです。たまには、日が昇って日が沈んで、もう翌日日が昇らないというのがないと本当に困るんですよね。いつもぐるぐる回っているから。
 このことが非常によくわかっているお子さんなんです、このお子さんは。つまり、回るということの意味、そこが非常によくわかっているわけです。だから、そこのところがよくわからないと、回るということの意味がわからなくなって、すぐ自閉的傾向があるとか、ピカピカしてる物が好きだとか、何でもぐるぐる回すとか言うんだけど、人間が、円というものと直線というものを何で考え出したのかということです。円というものを考え出して、その円というものの対極として直線というものを考え出しているわけです。ここが非常に円というものが人間行動の出発点としての意味を持っているわけです。ただふざけて回る物が好きだというのではないんですよ。繰り返しというものの中に無限を見てるわけです。つまり、われわれが何月何日に何をしたとかいうことに対して、この人は、すでに昨年1昨年から始まって、来年、再来年まで……というふうにして、1993年の8月16日からずっともう何千年前と先までずっとやり終わってしまっているわけです。だから大変なんですよ。いかにも無表情に見えてごまかされやすいけれど、その一つ一つ、一刻一刻が、常に新しい、実にういういしい新鮮な感じなのです。
 そういう大変さというものがわからないと、ただそういう物に興味を持っているとか、飽きずにやっているとか、それからああいうのはこだわりだとか。自分がそれじゃ暦を使わないかというわけです。そういう回ることをもとにして自分が整理していないのかということです。自分だってそういうふうにやっているんですよ。そういう、子どもとの新しい出会いなんですよ。ただ、子どもが変なことをしているとか、子どもがそういうことばかりしていると、そういうのではないんです。そこに、新しい出会いというものがあると。ああ、ここに円というものがあるんだと、ここから直線というものが出ているんだという意味なんですね。だから、この子は直線というものに大変実は抵抗があるわけです。それを無理やりに直線を作らせるということ自体は、やっぱりどこかに無理がある。
 今度、直線というものが何かということを考えなければいけない。直線というものは、始めと終わりがあって、その間をつなぐものじゃないか。そうするといちばん困るのは、始めの前はどうするんだ、終わりの後はどうするんだと、ここになってしまうわけです。そこの見当を、どうやってその子自身がつけるかということ、そこを考えていかないと、始め、終わりというものが出てこないわけです。これが、どういうふうにして、このY.W君に出てくるかという、ここが非常に大事なところなんですね。
 そのために一つヒントになることは、いちばん大事なことは、机の上でいろんな操作をしているわけです。非常にその子が姿勢がいいわけです。ところが、そこまでは、いいんですよ。そこまでは、いいんだけど、先生が出している課題と、その子が考えていることとがそれぞれ別々なわけです。この子は、何をやるかと言うと、物を持ってしまうとどうしても音にこだわるわけです。だから、例えば鈴なんかをはずせば、これはそのまま持っていますよ。そして、しかも持ち換えて、ちょうどいいような状態で、少し何か耳に近すぎると思うけれども、こういうふうに振っている。これは、そこのところで両者の気持ちが非常に合うわけです。ところが、箱のふたをはずすというところになってくると、だいぶ合ってこなくなってしまうわけです。箱のふたをはずすまではいいんですよ。だけど、このふたを持ってしまったでしょう。そうするとそのふたは何を意味するかと言うと、Y.W君にとっては、音を出すための物になってしまうわけです。だから、そのふたでもって箱をたたくわけです。ちょっとうるさいほどたたくわけです。だけども、それは、持っている物で音を出しているわけです。ふたを持っている意味が、Y.W君に初めて実感として感じられるのに、先生にとっては、ただうるさいだけ、早くやめさせたい行動となってしまうわけです。
 その時に非常に大事なことは、Y.W君は持っている物を見てないことです。見てたらたたけなくなってしまう。つまり、音を聞こうとしているんだから、見ては駄目。そんな、こういうふうにたたいて、そこから音が飛び出してくるわけではないですから。音が視覚的な映像として箱から飛び出してくるわけではないのです。これが、たたいて音というものが飛び出してきて、目に入るのだったら、それは見ますよ。音というのは耳に入ってくるので、別にその発生源から視覚的に飛び出してくるわけではないから。従って、実にうまく見当をつけて、それで、あっちの方向にたたきつけるようにたたくわけです。ここがすごいんですよ。
 見る時は回転。持ったら音。そういうふうにして、刺激を自分に合わせていくわけです。教材を自分なりにこなしていくわけです。ここがすごいところなんです。別に、ふたがあけられないとか、そういうことは先生方にとっては非常に大きなことかもしれないけれども、今、人間行動の成り立ちから考えていくと、別に大したことではない。その子自身が、どういう時に何をどういうふうにして感じようとして行動を起こしているのか、その時の子どもの様子がはっきり見えることが大切なのです。
 あっ、これ、すみませんけど、テープが切れましたね。どうやるんですか。これ、どこを開けるんですか。やってあげましょう。これ裏返すんですね。あの、今、普通、オート・リバースになっていてね。アーッ。これで、テープレコーダーがちゃんと録音できるかどうか。
 そういうものなんですよ。その子が考えていることと先生方が考えていることと同じではしょうがないんですよ。違うことが大事なんです。同じだったら、もうやらせを通り越して、機械と機械の出会いになってしまうわけです。人間なんてどこかにいってしまって、歯車と歯車との結びつきになってしまう。違っているから意味があるわけです。そして、しょっちゅう食い違って、先生方が予期していることを子どもたちがしないから意味があるわけです。
 それで、向こう側に立って考えてごらんなさいよ。先生方は、向こうの子どもたちが予期していることを全くしないですよ。子どもたちがしないと思うかもしれないけれども、先生の方はもっとしないんで、実はもっとひどいんですよね。そこのところをよく考えていかないと、教材の面白さが出てこない。
 ちょっと時間が足りなくなってきたから、あまり、細かく話せない。もっと本当は細かく話さないとよくご理解いただけないと思うんだけど、この場合にハウトゥー式に、それじゃお前だったらどうするのかと言うわけですね。そんなにたくさん手はないですよ。手はないんだけど、少なくとも、目でもって手の動きの先取りみたいなことをするようなことを、やっぱりだんだんだんだん取り入れていかなくてはいけないという感じなんですね。どうしても、棒から鈴をはずすとか、それから、ふたをはずすとか、そういう取り出すとか、はずすとか、抜くとかいうのが多いんですね。これに対して、今度、入れるとか、はめるとかいうこと。
 これがまた、そんなことやったら、ますます先生の考えていることとお子さんの考えていることが食い違ってしまって、やらせになってしまうと思います。やらせになってしまうから、非常に言いにくいんだけれど、実は、持ったら、ぎゅっとただ引っぱればはずれるわけです。今度、持っている物を入れようと思ったら、入れるところをどうしても見なくては入らないわけです。ちらっとでも。それがその子にとって、課題というか、その子自身の課題として、その子自身が気がつくかどうかということ。
 そこのところが非常にごちゃごちゃごちゃごちゃたくさんのことを考えて工夫していかなければ、簡単にとても解決できないけれども、だけどいずれにしても、そういう意味では、目というものは、そういう手の動きの先取りみたいなものだから、単に回る物とかちらちらする物ではなくて、どこからどこまでというようなところが、その見るところの中に入るかどうか。
 だから、その意味で動きなんですね。ただくるくる回るとかぴかぴかするとかそういう物ではなくて、もっと動きなんですね。それを見るかどうか。よく、お母さんが、自分の子どもが障害者じゃないかと思うのは、自分の姿を目で追わないというのが始まりなんですよ。どうもおかしいというふうに気がつくのは。これは、見るということの根本は何かということ。見るということの根本は、動きなんですよ。この、動きを見るということが非常に大事なわけです。
 動きを見るということは、ものすごくむずかしいことなんです。つまり、動いているから、動いているどこを見るかということなんです。つまり、動きの始まりと、動いている時と、動きの終わりがあったとするわけですね。ずっと見てればいいじゃないかと言うかもしれないけれども、一つ一つ見ているところが、今どこを見ているのかということ。だから、動きというものが何か。つまり、そこに運動の軌跡と、その人自身の予測とが、どういうふうに絡んでいるのか。これが動きと動きをを見るということの非常に重要なところですね。
 それで、人の動きを追わない子どもでも影なら追うかもしれない。その人を見なくても、影は見ているかもしれない。だから、くもりガラスをこう置いておいて、こうちょっと動かしてみると、見るかもしれない。まあこれは一つのヒントですね。ともかく、その子自身が動きを追うということから始まるわけですね。ここで、その子どもとどこの場面でどういうふうに出会うかというところが非常に大事なところです。
 そこが、うまく出会えることになれば、目というものは、わりあいにコントロールしやすい。目というものをコントロールすると、その目というものはひとりでにその人自身の全身、特に手というものの動きをコントロールするようになってくる。だから、そういうふうにある所へ物を入れるとか、それからはめるとか、パチンと止めるとかいうことが、だんだんいやにならなくなる。そこへ、だんだん位置というものが出てくるわけです。そうすると方向が出てきて、順序というものが出てきて、形が出てくるという筋書きのわけですね。だけども、言うはやすく、それではどこでどういうふうにやるのかということは、一つ一つの実際的な具体例となると、非常にむずかしいわけです。ものすごく考えて、よく工夫することが大切なのです。
 それともう一つ大きな問題点は、机の面というものが、この場合、手というものが、どうしても、物を持ったら、自分の方へ引き寄せるか、上へ持ち上げるか、そういう力の入れ方になっているわけです。だから、この面に押しつけるという状態。今度、この面から離れる押しつけるというところから、この面上ですべらせるということが起こる。電池でもころころと転がしているだけです。せいぜいそこを見ているだけ。もう少し押しつけておいてちょっと力を抜いて、ここにこの先生も書いているように、力を抜くということが大事だとどこかに書いてありましたけれども。力をちょっと抜いてすべらせる。特に、机の面上をすべらせるということは、とても大きな意味を持っているのです。さらに、両手を使っていくということから、机の面というものが出て、その面の中に、空間的な方向が出て、ということ。それと、前にあるスクリーン状の視覚的な空間的な方向。それとがうまく重なり合うというところに目と手の協応というものがあるわけです。ここのところは非常にむずかしい問題がいくつか入ってしまうから、とても一言では言いきれません。
 力の調節というのは、この上のところに書いてあります。「今後の見通しと課題」のちょっと上のところに書いてある。力の調節ができてないのは確かなんだけれど、そしたらどうやって力の調節を起こすかというところに非常に大きな問題点があるんですね。持ち上げる、押しつける、すべらせるというところから、水平面を出す。それから、動きを見るというところから垂直面を出す。そして、垂直面と水平面をうまく重ね合わせるというところが、その人自身が操作的な空間を作っていくところのもとなんですね。
 ちょっともう少しいろいろ話したいんだけれど、残念だけれども、話しきれないから、もう一つ高等部の先生の発表があったので、それへ移りますけれども。この高等部の先生の発表も、子どもの自発と先生の考えていることとが、どうも食い違ってしまうわけですね。いちばん違ってしまっていることは何かと言うと、非常に簡単なことなんで、よく鏡文字と言うわけです。小さな子どもが鏡文字を書くわけですね。空間の構成の仕方の違いなんですね。
 こういうふうに、ここにばってんとまるとがあるとするんですね。そうすると、この高等部の先生によると、まるとばってんがこうでなければいかんと。図1Aの関係なんですよね。確かに一つの考えはあるんだけれど、どういう根拠でそんなお考えになっているのかと言うと、こういうふうに基準を置いているのですね。これに対して、逆にこう図1Bのように答えるとなぜいけないか。どうして、こっち(図1A)の答えがよくて、どうしてこっち(図1B)の答えが悪いのか。ここが問題なんですよ。少しそれは勝手すぎるんじゃないかということですね。
 

 つまり、先生が問題にしているように、その子がどこを基準にしているか、そこを考えてみないといけないん
じゃないか。そうすると、先生方は、ここに基準があるわけですよ(図1A)。でも、別にここに点がうってあるわけでもないし、ここが真ん中だということを指し示しているわけでもないし、ここが基準なんだということを、一つも教えてくれてはいないわけです。だとすれば、逆らって悪いけれども、大変申しわけないけれども、ここに基準を置いてもいいんじゃないかということですよ(図1B)。ここに基準を置けば、この基準から近いところにばってんという問いに対して、従って近いところにばってんと答える。この基準から遠いところにまるの問いに、遠いところにまると答えたので、これでいいじゃないか、どこがおかしいかということですね。
 この程度ならいいんだけれど、鏡文字なんですよ。どんな子どもでも、必ずある段階で鏡文字を書いているわけです。それを、鏡文字を書いてはいけないとか、鏡文字は直さなければいけないとか、そんなことばっかり言っているわけです。鏡文字というものの大切さというもの、つまり、その人が見て書くということの大事さなんですよ。見て書くということは、向かい合わせなんで、向かい合わせなんだから、見ている側と書いている側が逆になっているわけです。だから、鏡文字の方があってて、鏡文字じゃない方が間違っているわけです。こんな簡単なことがどうして世の中でわからないのかと思うんだけど、世の中の人はわからないわけです。だから、鏡文字を変な文字だ、変な文字だと言うわけです。
 例えば「し」ですね。仮に「し」とこうあるでしょう。そうすると、これを「し」と、こう書かなければいけないというわけですよ。(図2A参照。)でも、こんな馬鹿な考えはないんじゃないでしょうか。いいですか。ここに「し」と書きますよ。もし、図2Bのように、ここに基準があったらどうしますか。そしたら、こう持っていって向こうに近づくわけですよ。



 これ、どこがおかしいですか。(図2B
参照。)どこに基準をおくかで逆になるのです。これが空間関係のとても大切なところなのです。そして、基準のない空間なんてないのです。いつも基準がしっかりしているのです。ただあまり使い慣れると基準を忘れてしまう。基準を見失ってしまう。自分の使っている基準が自分でわからなくなってしまう。そして、その基準にひたすら固執して、平然としている。それではマンネリで、本質的な意味を見失った、それこそ生ける屍の行動と言うべきです。
 もうちょっと複雑な字にして。あれっ、もう時間がなくなるかな。まだ8分ある。始めたのが10分ばかり遅いんですよね。これ、もうちょっと複雑にして「は」にしますよ。こうですね。

 これが「は」。これはいいんですよね。(図3A参照。)本当はよくないんだけど。そして、これ「は」でしょう。そして、ここに「は」を書けというわけです。だから、ここに基準があるわけです。するとどういうふうに書くかということになります。当然、これは、こっちが外側だから、こっち側からこうはねるわけです。後は、これはこっち側だからこっち側へ近づけて、こっち側へこういうふうにして、それで、これ、どっちへ書いたらいいのかな。私も鏡文字に慣れておりませんので、こうなってしまいました。これでいいんですね。(図3B参照。)つまり、ここに基準があるか(図3A)、ここのところに基準があるか(図3B)、それだけの問題でしょう。どっちが基準として使いやすいかと言ったら、当然、こっちの基準ですよ。それで、この基準、これが二つのものが裏表で合っているところに視覚的な世界というのが実は成立しているわけですよ。この考え方が、こういうふうにしてずっとずれていって合わなかったら、視覚的な世界というのは成立しないわけです。図3Aは「は」が二つ並んで書いてあり、左から右へ流れてしまって、二つが全体としてのまとまりに欠けている。図3Bは「は」が表と裏と並んでいるが、左右対称で全体として釣り合いがとれている。だから、こういうふうに書くということは、当然いいわけです。
 なぞるとか、上に置くとかいうのはこれはまた別ですよ。これをそっくりそのままこの上に重ねろと言うのだったら、これは仮にここにこういうものがあったら、そっくりそのまま重ねますよ。ここにこういうふうに点線でも破線でも書いてあって、そこをなぞれというのだったら、このままにします。しかし、これを見て書けというのだったら、やっぱり基準は外へ出て、図3Bのようになるのが当たり前ではないでしょうか。
 だから、鏡文字というのは、非常に大事な文字なんで、このお子さんが、このS.N君が、ほとほとまいっているんですよね。どうして先生は私の考えがわからないのかなあと思って。だけども、先生だから大切だし、偉いんだから、先生の言う通りにしてあげたいと思うわけですね。だから、どういうふうにしたらいいのかということが、それが、S.N君にわからないから、答えを教えろと言っているわけです。そういうことになってしまっているわけです。
 本当はもう少し話を進めたいのですが、これが左右だけでなく上下を加えて四つになっているわけです。だから、対角線状に置くわけです。これが面白いところですよ。二つの次元の組み合わせの問題は、いずれ平成5年後期の研究所の講義の中で、詳しく話をする予定ですが、一次元においても、この右と左が鏡文字だけじゃなくて、この上と下もいわゆる鏡文字なんです。だいたい、字というのを上から下へ書くものだと思っているわけですよ。
 例えば、「はし」とこう上から下へ。だけど、もし自分ということから考えれば、「し」の方が先なんですね。だから、自分に近い方から、さらに基準を、「は」と「し」との間ではなく、問の「はし」とこれから答えようとする「しは」との間に設定して、「しは」と書くわけです。(図4参照。)


自分から書くわけです。この通りに書けという
ことの問題は、つまり、どこを基準にして、どういうことをしろということなのか。この通りだと言ったって、どの通りだかわからないわけです。つまり、自分にとって近いかどうかを考える。だから、どうして上から下へ字を読んだり書いたりするのか、ここがわからないわけです。下から上へ字を読んだり書いたりしたら、どうしていけないのか。だけど、下から上へ字を書くなんてことは考えつかないと思ってしまっているわけです。それは駄目なんです。そんなわけにはいかないです。それは、下から上へ字を書くということだって、上から下へ字を書くのと同じように常識的であり、空間の組み立てにとって大事なことなんですよ。
 さらに言えば、もっとすごく面白い点なんだけど、後で、先生方、このビデオを何回もよく見直されれば、そして、お子さんが何をしているのかということをとことん考えたらわかりますよ。どういう基準にして、どういうことを正確にやっているのか。だって、この子の字の書き方の正確さ、きちんとしているところを見れば、すごいなあと思いますよ。
 そういう意味で、「すわる」を「するわ」と書いてしまうわけです。字が三つあるから、「すわる」、これをどういうふうに見るかということです。左から真ん中、右へ、こういう方向で見ろということは、誰も言ってないですよ。だから、その子自身の考えでやれば、私は左を見て右を見る。これは両方とも端だからと。そして、真ん中を見るというふうにすれば、これは「するわ」ということになるわけです。ちゃんと理屈はあるんですよ。理屈があるどころではないんですよ。その方が正しいんです。私たちが正しいと思っていることは、実は思い違いで、単なる固執にすぎないのです。まあ、この人が飛ばす字だとかよく見てみると、本当に一生懸命で、真面目で、原則に忠実で、一つ一つ涙なくしては語れないような感じがしますけれども。

 この先生が、「や」とか「か」で、もめてますけれども、だけども、この子にとって問題点は、ここ(図5A)のこの曲がり具合と、大きさなんですよ。これが問題。だから、「か」の場合にはこう(図5B)、「や」の場合にはこう(図5C)だと思うかもしれないけれども、この子にとってはここ(図5A)が問題なんです。



 まあだから、昔の人が筆順、筆順と言って、今の
人もそうかも知れないけれど、筆順をうるさく言う理屈がわかるわけですね。もし、筆順をうるさく言わなければ、みんな「や」と「か」を同じに書くと思いますね。筆順で、「か」というのはこの斜めの棒(図6A@)を先に書いて、こっち(図6AA)を後から入れる。そして、同じように「や」というのはこっち(図6B@)を先に書いて、この斜めの棒(図6BA)を後から入れるという筆順ですね。ここに筆順がある。


 この子は、どちらも、まず、図5Bでも図5Cでもない図5A、つまり、これ(図7A@)を書くわけです。なぜかと言うと、これが気になってしょうがないから。この子にとってこれが非常に大事な問題なんです。「か」でも「や」でも、丸みなので、この子にとってその角の丸みがきわだっているのです。だから、後は、この丸みに左上から右下への斜めの線を斜めにかけるか(図7B@)、右上から左下へ斜めの線をかけるか(図7BA)すればいいんだけど、ほんの少ししているんだけど、私たちには気がつかない。点もここにうつか(図7C@)ここにうつか(図7CA)にすればいいんだけど、それはある程度までは私たちにわかるわけです。何でこの角の丸みが気になるのか。
 次にやっているところの、まるを四分割して円を組み立てる学習にその答えがあるわけです。



この円の四分割の型はめの学習教材も、この子にとっては、ものすごく気になる教材なんですよ。何が気
になるかと言うと、四分割した一つ一つの円弧が、こういうふうになっていて(二辺が直線になっていて)、ここが(弧の辺が)こう(曲線に)なっているから。ここの丸みが気になる。ここ(二辺)がこう(直線に)なっているんだから、ここも(弧の辺も)こう(直線に)なって(直角二等辺三角形になって)いればいいですよ。何で、ここ(弧の辺)だけこう(曲線に)なるのか。これが気になってしまうわけ(図8AB参照)。




 それで何をおやりになっていらっ
しゃるかと言うと、この弧に接する直線の位置を決めているわけです。だから、どういうふうに決めているかと言うと、これ(a線)に平行に、こういうふうに一つ引いてみるわけ(図9A)。それから、こちら側(b線)に平行に、こういうふうに引いてみるわけ(図9B)。それから、ここ(c点)を中心にして、こういうふうに引いてみるわけ(図9C)。つまり、ビデオで繰り返しご覧になれば、このお子さんのしていることがはっきりとおわかりになりますが、この弧の丸みに関して三つの接線というものを考えているわけです。これはすごいことなんです。もう、考えてみれば、われわれが何のために図形とか幾何学とかいうことを一生懸命やっているのかという根本の問題を、この方が一生懸命に考えているわけです。その考えていることのものすごさというものを、私たちがもっと十分に考えないと。まさに、微積分の基礎でもあるわけです。
 また、困るのは、ちょんぎったものを、バラバラにしてここ(弧の部分)が縁なんだから、ここ(弧の辺)を合わせてはめて円を作りなさいと言っている(図10参照)。こっちのちょんぎったの(二つの直線の辺)はどうするんだということになってしまって、相当いいかげんな人じゃないとこんなことできませんよ。



 ちゃんとした人だったら、もう絶対にいやになるわけです。だから、この子は本当に困って、この図形(図11A)
を持ってきて、一生懸命ここ(図11Aの直線の辺)をここ(図11@の弧の辺)へあてるわけですね。だから、こうなって、こうなってしまっているわけ。だから、ここ(図11@の弧の辺)へ一生懸命あてているわけです。だから、円弧と直線というものをどうやって合わせるかということを一生懸命やっているわけですね。つまり、図11の@のc点を中心として、Aのb線を@の円弧にあてて、接線としているわけです。だけども、結局これは、接点のところをずっとその軌跡をたどれば、やがてこれは円弧になるんで、だんだんその子自身が組み立てていけば、だんだん接点を通して円弧と直線とを組み合わせることができるわけです。もっとも、現実にちっとも組み合わさっていないじゃないかと言われれば、それもごもっともと言わざるをえません。見えるのは現時点での静止した状態だけで、その軌跡はこの場合、全く見えません。
 えっと、とうとう時間になってしまって、僕の話を少ししようと思ったんだけれど、先生方の発表があまりに面白くて、あまりにたくさん問題を提起していただいたので、完全に先生方の話のことだけになってしまったけれど、最初にも申し上げたのだけれど、非常に、先生方の姿勢は一生懸命なんですね。内容はともかく。これは、姿勢が一生懸命だということがいちばん大事なんですね。内容なんていうものは後からついてくるんですね。そして、ついてこないでもかまわない。
 ということでありますけれども、願わくば、人間行動の成り立ちの原点というもの、そのもとのものとかかわりを持っている。従って、そういうものの探求なしに、子どもたちとつき合えないということですね。そして、子どもたちは、やらせをやらせれば、いくらでもやらせはやってくれる。だけど、それは、ますます子どもを受け身にして、子ども自身の別の自己刺激を作る材料を提供するだけです。従って、その子の奥に潜んでいる自発を引き出すと言うよりは、どうやって促すか。そして、その子自身が自分で外界を取り入れて、自分自身の外界というか、自分自身の操作的な外界というものを、どうやって組み立てていくか。そういうことに私たちがいくらか関与できるかできないか。お手伝いできないか。
 そういう関与を通して、かかわり合いを通して、おや、この子は普通の子ではないな、これはすごい子だなということが、だんだんだんだん見えてくれば、私たち自身のおざなりなってしまっていると言うかな、いちばん本当は大事にしなければならないものを、無視してしまっている。そういう今日的な私たちのあり方、私たちの勝手な決めつけ、固執を、もっと自分自身に、きつくいましめてちゃんと考えていかなければならないんじゃないかということがだんだんわかるわけです。
 ともかく、子どもは間違ってませんよ。間違ったことはしません。そんなことする何の必要もないんだから。そんな、大人みたいに、どうしてもお金のためにいやな仕事をするとか、それから暇つぶしをするとか、くだらないおしゃれをするとか、あるいは、せっかくその人がちゃんと方針を持っているのに、会社がそうじゃないから、まあ仕方がないから自分の基本的な方針を崩すとか、そういうかかわり合いというものがきわめて少ない。従って、いいかげんなこととか、嘘とか、自分の意に反したことは決してしないです。それは人間としてものすごくすごいことなんですよ。私たちみたいにいっぱい自分の意に反して嘘みたいなことばかり、まあ、ここでこうやってしゃべっているのもそのうちかもしれないけれども、そこまで言ったらもうおしまいになってしまうから、言いたくもないけども、そういう自分を偽りで固めてしまったような人生は過ごしていない。だから、そこにその子のちゃんとした理屈があるんだと、やり方があるんだと。感じ方、考え方、暮らし方、生き方があるのです。それが正しいとか間違っているとか、異常だとか異常じゃないとか、社会的だとか反社会的だとか言う前に、人間行動の成り立ちの原点から見て、どういう大切な意味を持っているのか、私たちにどういうことを教えてくれているのかということを考える。
 そういうことになってくると、いよいよ今日の題の、『存在感と論理性を学ぶ』ということに、これからだんだん入るのだけれども、三日四日かけて、これだけちゃんと今日しゃべろうと思ったことを書いてきたんだけれども、もう時間がなくて話せないから、残念だけど、この辺で私の話を終わりにします。どうも、長い間、ちょっと、言いすぎた点があるとすれば、勘弁して下さい。どこへ言っても言いすぎているんだから、多少勘弁して下さい。もうそのうちにあなた方よりも早くいなくなるから心配ないです。ということを言うのが余計なことなんですね。
 もう終わりにします。どうもありがとうございます。ビデオは、いずれ先生方が暇な時に見て下さい。『人間開発』というTBSが作った物語りと、それの本物とが、ちゃんと入ってますから。
「このビデオは1952年に、ちょうど、今から40年前ですね。昭和27年8月の成子さん忠男さんの行動記録を16ミリで撮ったものを、ビデオに直したものです。それでは映写を始めます。ええ、成子さんは、どういうわけか伝説があって、野生児と言うんですけれども、当時人間じゃない、猿みたいだと言われていたんですけれども……」(ビデオをほんの少し写して止めた。)
 というふうに。暇な時に、ビデオだから、8ミリのデッキ持っている人は、別にここで見なくても、自分のうちに持って帰って見ていただければけっこうです。僕が解説しているから、たぶんわかると思います。『人間開発』というのは故小沢栄太郎が堂々解説しているからこれはもうよくわかる。両方とも8ミリビデオでありますから、どうぞご覧になって下さい。
 まだ本当はもっと言いたいことがあるんだけれど、まあ終わりにします。また来るよ、また。とても、これではおさまりませんから。